水面のきみに恋をした   作:H117147

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フォークダンスと決意の夜

 

 GWも終わり五月も三週目に入ると、街の空気が初夏のそれを帯びだしてくる。

 山の白はずいぶんと溶けてなくなり、稜線が緑に覆われ始める。田んぼに水が張られて、朝の通学路に映る空が二倍になる。水面に映った山と空が、本物とどっちが上かわからなくなるような、不思議な朝。空気が甘い。山の新緑と、田んぼの水と、どこかの家の庭に咲いたツツジの匂いが混じっている。四月の肌寒さが嘘みたいに、朝から陽射しに力がある。

 俺はその景色を横目に、いつものように家の前で待っていた。学ランのボタンを一つ多く開けて、セーターはもう着ていない。季節が動いている。

 

「ゆーーーうとっ!」

 

 今日も三分遅刻。早かったのはテスト期間だけか。

 ポニーテールを揺らして走ってくる瑞希を見て、俺は時計を確認する素振りだけしてみせた。

 

「あと十秒遅かったら置いてった」

「うそ! 絶対待ってたでしょ!」

「さあな」

 

 並んで歩き出す。田んぼの水面に朝日が反射して、まぶしい。瑞希が「うわ、きれー」と目を細めている。

 

「ねえ見て、田んぼに山が映ってる。なんか、もう一個世界があるみたい」

 

 唐突に何やら高尚な事を言ってきた。

 美術部に入ったことで、芸術的素養が磨かれてきたのか。

 

「逆さ山ってやつだな。風がない朝は水面が鏡になる」

「へー、詳しいね」

「朝練のランニングで毎朝見てるからな」

 

 実際改めて見渡すと、風情のある良い光景だと思える。

 

「いいなあ。わたしも朝練あったら見れるのに……あ、でも朝起きれないから無理か」

「自己完結すんな」

 

 瑞希はクスッと笑った。

 

「ねえ勇人、聞いた? 体育祭のフォークダンス、ペアの決め方」

「……いや、まだ。なんか決まったのか」

「昨日のHRで発表されたんだよ。勇人、委員会で抜けてたから聞いてないんだ」

 

 そういえば昨日の六限は実行委員会の打ち合わせで教室にいなかった。

 

「で、どうなったんだ」

「えっとね──」

 

 瑞希がちょっと言いにくそうに、前髪をいじった。

 

「逆指名制」

「逆指名?」

「女子が、踊りたい男子を指名するの。男子が少ないから、一人の男子に複数の指名が入る前提で、回数制にして順番に踊るんだって」

 

 ──最悪だ。

 去年のフォークダンスも十分地獄だったが、今年はさらに踏み込んできた。「くじ引きは不公平」という去年の反省を踏まえた結果がこれか。民主主義の暴走だ。

 

「……つまり、俺は女子に指名されるのを待つだけってことか」

「そういうこと。まあ、勇人さんは引く手数多でしょーねぇ」

「勘弁してくれ」

 

 本心だった。フォークダンスなんて、誰と踊っても気まずいだけだ。──いや、一人だけ。一人だけ、気まずくない相手がいるが。

 ちらっと隣を見ると、瑞希は後ろを振り返り、話題にしていた田んぼを遠巻きに見つめていた。水鏡に映る山の緑を眺めているのか、それとも別の何かを考えているのか。横顔からは読み取れない。

 

 

◆◇

 

 

 教室に着くと、案の定、フォークダンスの話題で持ちきりだった。

 

「天堂くんに指名する! もう決めた!」

「えー、わたしも天堂くんがいい!」

「じゃあくじ引きで順番決めない?」

「それ去年と同じじゃん!」

 

 朝のHR前から、教室の女子グループがあちこちで盛り上がっている。俺は席に着いて、聞こえないふりをした。こういう時は無反応が一番だ。下手に反応すると、火に油を注ぐことになる。

 

 翔太が例によって、にやにやしながら近づいてきた。

 

「モテモテだなあ、天堂さんは」

「うるさい。お前だって指名されるだろ」

「俺はウェルカムだからな。何人でも踊るぜ。──で、お前はどうすんの」

「どうもこうもない。指名された相手と踊るだけだ」

「ふーん。じゃあ、笹倉が指名してきたら?」

 

 一瞬、心臓が脈打った。顔には出さなかったと思う。たぶん。

 

「……あいつがそんなことするわけない。運動系イベント興味ないし」

「ほんとにそう思ってるのか?」

「思ってる」

「……お前、本当に鈍感だな」

 

 翔太がため息をついて、自分の席に戻っていった。鈍感、鈍感と言われるが、俺はそんなに鈍感だろうか。瑞希が俺を指名する理由がない。幼なじみだからって、わざわざフォークダンスの相手に選ぶか? もっと仲のいい女子同士で固まって、適当に誰かを指名するのが瑞希のスタイルだろう。

 

 ……だよな。うん。

 

 瑞希の席を見ると、園田と何やら話し込んでいた。瑞希の肩を揺さぶっていて、顔を赤くして首を振っている。相変わらず何の話かわからないが、アニメの話だろう。たぶん。

 

 

◇◆

 

 

 昼休み。屋上。

 

「苺ホイップクリームメロンパン、ついにゲットしたよ!」

 

 瑞希が誇らしげにメロンパンを掲げている。ピンク色の包装が五月の青空に映えていた。

 

「三日かかったな」

「三日間の激戦だったの! 今日は四限終わった瞬間にダッシュして、購買のおばちゃんの前で待機して……」

「授業終わる前から態勢作ってただろ。数学のラスト十分、ずっとそわそわしてた」

「えっ、バレてた?」

「教室中にバレてた」

 

 瑞希が「うぅ」と唸って、メロンパンにかぶりつく。苺クリームが唇について、例によってぺろりと舐め取る。

 

 ──何度見ても、反則だと思う。

 

 弁当を広げる。母さんの卵焼きと、昨日の残りの肉じゃが。隣で瑞希がメロンパンを頬張りながら、ちらちら俺の弁当を見ている。

 

「……食うか?」

「いいの? じゃあ肉じゃがのじゃがいも一個もらう!」

「自分の箸で取れよ」

「わかってるって!」

 

 律儀に持参した自分のマイ箸でじゃがいもを一個つまんで口に運ぶ。ほくほくと噛んで、「おいしー」と笑う。五月の風が屋上を吹き抜けて、ポニーテールが揺れる。

 花壇のチューリップが赤と黄色に咲き誇っていた。屋上から見える山並みが、新緑の深い緑に変わっている。春から初夏へ。季節が動いている。

 

「ねえ勇人」

「ん」

「フォークダンスの話なんだけど」

 

 急にトーンが変わった。メロンパンを膝の上に置いて、瑞希が空を見上げている。

 

「勇人はさ、誰に指名されたいの?」

「……誰にもされたくない」

「もう、そういう答えじゃなくて。もし選べるなら、誰がいいかなって」

「選べないだろ。逆指名制なんだから」

「仮の話!」

 

 瑞希が少しむきになっている。頬が膨らんでいる。この顔は、何か言いたいことがある時の顔だ。十年間隣にいれば、さすがにわかる。

 

「……別に、誰でもいいよ。フォークダンスなんて三分くらいだろ」

「三分くらい、かぁ……」

 

 瑞希が呟いて、また空を見上げた。さっきより少しだけ、声が小さかった。

 

 何か言い足りない感じがしたが、追いかける言葉が見つからなかった。

 

 

◆◇

 

 

 放課後。

 実行委員会の作業で視聴覚室に向かう途中、廊下で白石先輩に呼び止められた。

 

「天堂くん、少し時間ある?」

「はい、委員会の前なら」

「すぐ終わるわ。──実は、一つお願いがあるの」

 

 白石先輩が廊下の窓際に寄って、声を落とした。放課後の廊下は部活に向かう生徒がまばらに通り過ぎていくが、俺たちの会話に注意を払う者はいない。

 窓の外に見える山の稜線が、午後の光を受けて青く澄んでいた。

 

「フォークダンスの運営、二年の実行委員から一人、当日の進行係を出してほしいの。音響とか、ペアの交代のタイミングとか。どうかしら?」

「……俺がですか」

「体育祭全体の進行は私たち三年が仕切るけど、来年はあなた達が主体となってやらければならないからね」

「わかりました。やります」

「ありがとう。助かるわ」

 

 白石先輩がにこりと笑った。それから、少し間を置いて──

 

「ところで、天堂くん。笹倉さんとは──今日も一緒にお昼食べてたわね」

「……え、知ってたんですか」

 

 俺の問いに先輩は口角をスッとだけ上げた。

 

「……仲がいいのね。ずっと見てて、微笑ましいなって」

「ずっと見てたんですか」

「ふふ、屋上は生徒会室の窓からよく見えるのよ」

 

 白石先輩の口調は軽いが、目の奥に探るような光がちらりと見えた。──気のせいかもしれないが。

 

「笹倉さんのこと、少し聞いてもいいかしら」

「瑞希の……何をですか」

「天堂くんが大事にしてるもの。──笹倉さんは、それを知ってる人でしょう?」

 

 質問の意図が、すぐにはわからなかった。大事にしてるもの。水泳のことか。それとも──

 

「……白石先輩、それは」

「ごめんなさい、変な聞き方だったわね。前に天堂くんが、何のために泳いでるかわからないって言ってたでしょう。あの答え、笹倉さんなら知ってるのかなって思っただけ」

 

 白石先輩は微笑んで、廊下の向こうへ歩き出した。

 

「委員会、遅れないようにね」

「……はい」

 

 先輩の背中を見送りながら、俺は考えていた。

 

 瑞希なら、俺が何のために泳いでるか知っているのか。

 ──知らないだろう。俺自身がまだ言葉にできていないのに。でも、瑞希だけは、言葉にならない部分まで理解している気がする。根拠はない。ただ、そういう気がする。十年間の蓄積が、言語化を超えたところで通じ合っている──なんて、そんな都合のいいことがあるわけないか。

 

 廊下の窓から、プール棟の屋根が見えた。午後の西日を受けて、ガラス張りの壁面がきらきら光っている。

 今日は練習がない。委員会が終わったら、瑞希はまだ残っているだろうか。

 

 

◇◆

 

 

 同じ頃。

 

 瑞希は美術室で、夏のコンクールに向けた自由制作に取り掛かっていた。テーマは自由。何を描いてもいい。それが逆に難しい。キャンバスに向かって一時間、まだ下描きすら定まっていない。

 去年は美月と二人で夜遅くまで残って仕上げた。あの時は"水辺の風景"というテーマが決まっていたからまだ良かった。今年は自由。自由すぎて、手が止まる。

 悪くない構図はいくつか浮かんでいる。でも、"もう一つ"のスケッチブックに描く時の手応えとは、やっぱり違う。線に迷いがある。描きたいものがぼやけている。

 

 ──描きたいもの、はっきり見えてるのは、勇人を描く時だけだ。

 

 ため息をつこうとした時、美術室のドアが開いた。

 

「失礼します」

 

 聞き覚えのある、落ち着いた声。振り返ると、白石凛先輩が立っていた。

 

「……白石先輩?」

 

 美術室に三年生が来るのは珍しい。しかも生徒会副会長。瑞希の周りにいた部員たちも、ちらちらとこちらを窺っている。

 

「笹倉さん、少しだけいいかしら」

「あ、はい」

 

 窓際に移動する。美術室の奥の、イーゼルが並んでいないスペース。夕日が窓から差し込んで、白石先輩の長い黒髪を琥珀色に染めていた。

 

「突然ごめんなさいね。実行委員会の関係で、二年生に確認したいことがあって」

「はあ」

「体育祭の部活紹介パネル、美術部が装飾を担当するじゃない、進捗はどう?」

 

 ああ、その話か。確かに美術部は毎年、体育祭の看板やパネルの装飾を引き受けている。

 実際自分自身も一部分で手伝っている。メインの装飾班ではないけれど、状況は知っている。

 

「順調だと思います。装飾班の子たちが毎日放課後やってるので」

「そう、良かった。──あと、もう一つ」

 

 先輩の表情が、実行委員の顔から、少しだけ柔らかいものに変わった。

 

「笹倉さんは、天堂くんとは長いのよね」

「……はい。小学校の頃からなので、十年くらい」

 

 勇人に聞いたのかな……

 胸のあたりがチクリと痛む。

 

「十年。すごいわね」

 

 先輩が窓の外を見てそう呟く。つられて外に目を向けると、山の稜線の向こうに夕日が傾き始めている。横顔がきれいだった。肌が白くて、睫毛が長くて、黒髪がさらりと肩に流れている。先輩は学校の美人コンテストで優勝するような人で、有名人だ。勇人と先輩が体育祭の実行委員で一緒にやっているのは知っている。何となく、勇人のことを快く見ているんだろうなと言うことも。

 ああ、この人と勇人が並んで歩いたら、さぞ絵になるだろうな、と思ってしまった。そんなことを想像する自分が嫌だった。

 

「天堂くんって、水泳以外に夢中になるものってあるの?」

「……勇人が?」

 

 不意を突かれた質問だった。水泳以外に。

 

「うーん……勉強は真面目にやってますけど、夢中ってほどじゃないかな。趣味とかも特にないし。基本的に、水泳のことしか考えてないと思います」

 

 言ってから、少し違うなと思った。水泳のことしか──いや、違う。勇人は水泳をしている時が一番輝いているけど、それは単に競技が好きだからじゃない。もっと深いところに理由がある。

 そしてわたしは、その理由を知りたくて、ずっとギャラリーから見つめていた。

 

「あの人は……何ていうのかな。水泳そのものが好きっていうより、水泳を通じて"何か"に向かってる感じなんです。それが何なのかは、本人もまだわかってないと思うんですけど──でも、その"何か"に向かって一直線で、ひたむきなところが」

 

 ──好きなんです。

 

 喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。危なかった。

 

「……すごいなって、思います」

 

 白石先輩が、こちらを見た。目が、少しだけ細まっている。微笑みのようにも、何かを見定めるようにも見える表情。その視線に、背筋が少しだけ冷たくなった。

 

「笹倉さん、天堂くんのことをよく見ているのね」

「あ、いや、そんな……幼なじみなんで、長く一緒にいるだけで」

「そう。──ありがとう。参考になったわ」

 

 白石先輩は会釈して、美術室を出ていった。ドアが閉まる直前、先輩が振り返って──微笑んだ。穏やかで、でもどこか寂しそうな笑み。

 

「笹倉さん」

「……はい」

「天堂くんに、言えるといいわね」

 

 何を、とは言わなかった。ドアが閉まった。

 

 残された瑞希は、窓際で固まっていた。

 

 ──わたし、今、何を喋った?

 

 勇人のことをペラペラと。水泳への向き合い方を。ひたむきなところ──危うく「好き」まで言いかけた。白石先輩の前で。しかも最後の「言えるといいわね」は──あの人、全部わかっていたのか。わたしの気持ちに。

 

 そしてもう一つ、気づいてしまったことがある。

 

 白石先輩が聞きたかったのは、体育祭のパネルの進捗なんかじゃない。敢えてわたしに振ったのは、勇人のことを知りたかったからだ。勇人の内面を、幼なじみのわたしから引き出そうとしたんだ。──そしてわたしは、見事にそれに応えてしまった。

 

 勇人が何に夢中になるか。何にひたむきになるか。その情報を、白石先輩は手に入れた。

 でも同時に、白石先輩はわたしの気持ちにも気づいた。「言えるといいわね」という言葉は、励ましだったのか、それとも──宣戦布告だったのか。

 

「……わたし、なんてバカなんだろ」

 

 小さく呟いて、額を窓ガラスに押しつけた。ひんやりした感触が、少しだけ頭を冷やしてくれる。窓の外の山が夕焼けに染まっている。きれいだな、と思う余裕はなかった。

 

 

◆◇

 

 

 次の日。体育祭の準備が本格化してきた。

 

 放課後、校庭で大道具の搬入作業がある日だった。実行委員の仕事で、各クラスのテントや得点板を倉庫から校庭に運び出す。人手が足りないので、有志のボランティアも駆り出されている。

 瑞希がなぜかそのボランティアに参加していた。

 

「お前、美術部の活動は」

「今日は装飾班が作業してるから、わたしは手が空いてるの。どうせなら手伝おうかなって」

 

 嘘だろ。こいつが自発的に体力仕事に参加するなんて、何かある。──とは思ったが、追及しなかった。瑞希がここにいてくれることが、単純に嬉しかったから。

 

 テントの支柱を二人で運ぶ。鉄パイプの束は重くて、一人では持てない。

 

「せーの」

「っ、重……」

「大丈夫か?」

「大丈夫! 元水泳部なめんな!」

 

 瑞希が歯を食いしばって鉄パイプを持ち上げる。腕の筋肉が薄い制服の袖の下で張っている。しかし、一たび持ち上がってしまえば安定しており、危なげない所作で歩き始める。──こいつ、やっぱり運動の素養があるんだよな。中学でジュニアオリンピックに出た身体は、伊達じゃない。

 二人で校庭の端まで運んで、パイプを下ろす。瑞希がはぁはぁと息を切らして、膝に手をついた。五月の陽射しはもう夏の予感を帯びていて、額にうっすら汗が光っている。

 

「お疲れ。何か飲もうぜ。何がいい?」

 

 手伝ってもらった礼も兼ねて、向かいの体育館の傍にある自販機を指さす。

 

「え、いいの? じ、じゃあ緑茶かな。勇人は何にするの?」

「コーヒーかな」

「えー、ブラック?」

「ああ」

「すごいね、あんな苦いのわたし飲めないや」

 

 まあ別に俺もそれほど好きな訳ではないし、それは清涼飲料水の方が好みではあるが、糖分の接種には注意している。

 頷き程度に応答し、来た道を戻る。 

 

「勇人、汗すごいよ」

 

 瑞希がポケットからハンカチを取り出して、俺に差し出した。水色の、小さなハンカチ。端っこにイルカの刺繍がしてある。GWのときの記憶が呼び起される。

 

「……これ、あの店で買ったやつだな」

「そうそう、懐かしいでしょ」

「ああ。…イルカの刺繍が少しくたびれてるな」

「だね。まぁ、十年も使ってたらね」

「でも大事にしてあるのがよく分かるよ」

 

 瑞希は少し驚いた顔をして、それからふっと笑った。嬉しそうな笑顔だった。

 ハンカチを受け取って、額の汗を拭く。柔軟剤の匂いがした。瑞希の家の匂いだ。何度か遊びに行った時に嗅いだことがある、ラベンダーみたいな。

 

 ──いや、やめろ。ハンカチの匂いを分析してどうする。

 

「……ありがとう。洗って返す」

「ううん、いいよ。……あ、でもやっぱ洗って」

「どっちだよ」

「洗って! 汗ついてるし!」

「だから最初から洗うって言ってるだろ」

 

 瑞希が自販機の方に走っていった。その背中を見送りながら、ハンカチを学ランのポケットにしまう。

 ポケットの中で、ハンカチの布地が俺の指先に触れた。まだほんのり温かい。イルカの刺繍の凹凸が、指の腹に感じられる。

 

 小学校の時、二人で買いに行ったんだよな。スイミングスクールの帰りに、瑞希が「お揃いにしよう」と言って、イルカのハンカチを二枚選んだ。俺のは青で、瑞希のは水色。俺のほうはとっくにボロボロになって捨ててしまったが、瑞希はまだ持っていた。

 

「おーい!はーやーくー!」

 

 早々に辿り着いた瑞希が手を振って催促してくる。

 俺はその無邪気な様に少しだけ笑い、小走りで向かった。

 

 

「ねえ、勇人」

「ん?」

 

 水分補給を終え一呼吸つける。取り立てて話す事もなく、それが気まずいという訳でもない。

 ひとしきり飲み終え次の搬入物を取りに倉庫へ戻ろうとした時、瑞希がおもむろにこちらを向く。口元を手の甲で拭い、少しだけ真剣な顔をしている。

 

「フォークダンスの指名の話なんだけど」

 

 また、その話か。昼休みにも聞かれた気がする。

 

「……もしわたしが勇人を指名したら、変かな」

 

 歩きながら聞こうとして、足が止まった。

 

 五月の風が校庭を吹き抜けた。砂埃がかすかに舞い上がって、夕日がそれを金色に照らしている。体育館の中からバレー部の掛け声が聞こえる。グラウンドの向こうに、山の稜線が夕焼けのオレンジに染まり始めていた。

 

 瑞希がこっちを見ている。少しだけ上目遣いで、不安そうに。後ろ髪が風で揺れている。

 

 変か、と聞かれた。変じゃない。全然変じゃない。むしろ──

 

 

「別に変じゃないだろ。幼なじみだし」

 

 

 ──そして、言ってから、気付く。

 

 "幼なじみ"だし。

 その四文字が、今、何を意味したのか。

 

 瑞希の表情が、一瞬だけ変わった。ほんの一瞬。笑顔の形は保ったまま、でも目の奥の光が、すっと引いた。まるで水面に映っていた景色が、風で崩れるみたいに。

 

「……そっか。幼なじみ、だもんね」

 

 瑞希の声が、いつもより半音低かった。

 

「うん。じゃあ、指名するかも。──まだ決めてないけど」

「あ、ああ」

「次の運ぶよ。行こう」

 

 瑞希は踵を返して、倉庫に向かって歩き出した。早足で。いつもの半歩後ろじゃなく、俺の前を。

 

 

 ──何か、間違えた。

 

 何を間違えたのか、すぐにはわからなかった。変じゃないと答えた。それは本心だ。瑞希にフォークダンスで指名されたら嬉しい。それも本心だ。なのに、なぜ──

 

 幼なじみだし。

 

 あの言葉を、瑞希がどう受け取ったのか。

 「変じゃないだろ、だって幼なじみだから」──つまり、幼なじみ以上の意味はない、という宣言。

 そうか。俺は、そう言ったのか。

 言いたかったのは、そんなことじゃないのに。

 「変じゃない、むしろ嬉しい」──そう言えばよかった。"幼なじみだから"じゃなくて"お前だから"嬉しいと。たった数文字の違いだ。なのに、俺は安全な方を選んだ。或いは、変わり映えのしないほうを。

 

 瑞希の背中が、倉庫の影に消えていく。追いかけたいのに、足が動かない。何と言って追いかければいいのかがわからない。さっきの言葉を撤回して何と言い直せばいい? 幼なじみじゃなくて──その先を言う勇気が、俺にはまだない。

 

 五月の夕焼けが、校庭を赤く染めていた。さっきまで一緒に運んだテントの支柱が、長い影を落としている。二人で持っていた鉄パイプ。あの重さを、さっきまで半分ずつ分け合っていた。一人じゃ持てない重さを、二人でなら運べた。

 

 ──気持ちも、そうだったらいいのに。

 

 0.6秒。まだ、届いていない。

 

 

◇◆

 

 

 体育祭の準備は、次の日も着々と続いた。

 俺と瑞希の間の空気は、表面上は元に戻っていた。朝は一緒に登校して、昼は屋上で食べて、昨日は一緒にはならなかったが。いつもの日常。いつもの距離。

 

 でも、何かが違った。

 

 瑞希がフォークダンスの話をしなくなった。昨日以来、一度も。体育祭の話題自体は出るが、ダンスの指名については触れない。避けている、というのとも少し違う。ただ、その話題が存在しないかのように振る舞っている。

 

 俺のほうも、聞けなかった。あの日の失言が、まだ喉の奥に刺さっている。

 

 そんなある日の昼休み。屋上で弁当を食べていると、翔太がやってきた。珍しい。こいつは普段、教室で女子グループに囲まれて昼を食べている。

 

「よう。邪魔するぞ」

「……珍しいな」

「たまには野郎同士で飯食いたい時もあるだろ」

 

 翔太が屋上の柵にもたれて、コンビニのおにぎりをかじり始めた。今日は瑞希が美術部の打ち合わせで屋上に来られなかったので、俺は一人だった。

 

「あれ、相方は?」

 

 相方ってなんだよ。と突っ込みたくなったが、俺と瑞希が昼飯を一緒に食べてるのは周知の事実らしいので、止めておく。

 

「美術部。パネルの打ち合わせだとよ」

「ふーん」

 

 しばらく無言で食べていた。翔太が不意に、おにぎりの包装を畳みながら言った。

 

「フォークダンスの指名、締め切り明後日だぞ」

「……知ってる」

「笹倉から何か言われたか?」

「……別に」

 

 嘘だ。ただ、昨日のやり取りを翔太に話す気にはなれない。

 

「お前さ、もし笹倉に指名されたら──」

「だからされないって」

「仮の話だよ。されたら、どう思う?」

 

 翔太がこちらを見た。いつものにやけ面ではない。珍しく真面目な目をしている。風が屋上を吹き抜けて、翔太のくせっ毛を揺らした。

 

「……嬉しい、と思う」

「だろ」

「でも、あいつはたぶん──」

「お前がどう思うかだけ答えろ。笹倉がどうするかは笹倉の問題だ」

 

 翔太の声が、静かだが鋭い。こいつがこのトーンで話す時は、冗談じゃない。バスケの試合で、残り一分でビハインドの時に出すような。

 

「……嬉しい。正直に言えば」

「じゃあ、それを伝えろよ。笹倉に」

「なんで俺が──」

「なんでじゃねえよ」

 

 翔太がため息をついた。おにぎりの包装をくしゃくしゃに丸めて、ポケットに突っ込む。

 

「お前さあ、とっくに自分の気持ちに気づいてるんだろ。笹倉のこと、アイツの事が好きなんだろ。なのに、いっつも"幼なじみ"とか言って蓋をする。それ、笹倉にとっては呪いだぞ」

 

 呪い。

 重い言葉だった。屋上の風が止まった気がした。

 

「笹倉だってお前と同じで、"幼なじみ"の枠に入れられたら身動きが取れないんだよ。お前がその枠を壊さない限り、あいつは一生そこから出られない。なんでそう思うか分かるか? それはこの世の中、男女比がバグってるからだよ」

 

 続けて言う。

 

「女子にとって自分が男子に選ばれるかってのはすげえシビアな問題だ。明らかに偏りがあるから、何つーの、男の方が色んな意味で優遇されてるだろ」

「それは──」

「つまり、男からの評価は女子にとっては考えてる以上に重いってことだよ」

「……」

 

 幼なじみという枠。その評価。その関係性。或いは男の俺が思う"それ"は、その実、瑞希を縛る呪縛のようなものであるのかもしれない。

 

 ──そこから出られない。

 

 不意に瑞希の顔が浮かぶ。あの日の夕方、「幼なじみ、だもんね」と言った時の目。笑顔の形を保ったまま、光が引いていった目。あれは──出口を塞がれた人間の目だったのか。

 

 俺がそうしたのか?

 

 翔太は立ち上がって、おにぎりのゴミをポケットに突っ込んだ。

 

「まあ、お節介はここまでにしとく。──あ、一つだけ」

「……なんだ」

「体育祭のフォークダンス、俺は今のところ七人に指名された。自慢な」

「……帰れ」

 

 翔太が笑って、屋上を出ていった。

 

 残された俺は、空になった弁当箱を見つめていた。卵焼きの味が、まだ口の中に残っている。しょっぱい。いつもの味。

 

 ──呪い、か。

 

 幼なじみ。その四文字は、俺にとっても恐らく瑞希にとっても、安全な言葉だった。それを言っている限り、傷つかないまま、今の関係性を保てる。でも、それは同時に──進めない、ということでもある。

 瑞希が俺に対して少なからずの好意を持ってくれているのは分かる。ただ、男の俺が曖昧なままでいる限り、この男女比が偏り過ぎている世界で瑞希は自信を持てないままでいる──?

 

 

 屋上から見える山並みが、五月の青空の下で深い緑に輝いていた。この景色は好きだ。でも、ずっと同じ場所から見ていても、景色は変わらない。

 

 近づかなければ。

 

 まだ怖い。俺の考えは酷く打算的だ。

 あれこれ考え、取り繕い、袋小路に入っている。優柔不断なのだ。こんな自分は瑞希にとって何の魅力があるのか分からない。うわべだけの関係は嫌だ。なのに怖くていつまで経っても進めないでいる。

  

 

 翔太の言葉が、いつまでも楔の様に食い込んで取れない。

 

 

 あいつは一生そこから出られない──

 

 

◆◇

 

 

 フォークダンスの指名締め切り前日。

 

 放課後、廊下で瑞希とすれ違った。瑞希は美術室に、俺は実行委員会の教室に向かうところだった。

 

「あ、勇人」

「……おう」

「今日、練習ある?」

「いや、今日は委員会だ」

「そっか。──じゃあ、また明日」

 

 瑞希が笑って、手を振って、去ろうとした。

 

「瑞希」

 

 呼び止めた。なぜ呼び止めたのか、自分でもわからなかった。いや、わかっている。翔太の言葉がまだ頭の中にある。

 

「……うん?」

 

 瑞希が振り返る。廊下の窓から差す五月の午後の光が、ポニーテールを金色に縁取っていた。他の生徒が何人か通り過ぎていく。二人の間を、開いた窓から初夏の風が吹き抜けた。校庭のどこかで誰かが笑っている声が聞こえる。

 

 言いたいことがあった。「フォークダンス、お前に指名されたら嬉しい」。たったそれだけのことが、喉の奥から出てこない。

 「幼なじみだし」じゃない言葉を。もっと正直な言葉を。でも、それを口にした瞬間に、十年間の"幼なじみ"という土台が揺れる。俺はまだ、その揺れに耐えられる自信がない。──自信が。

 

「……明日の朝、遅刻すんなよ」

 

 結局、出てきたのはそんな言葉だった。自分でも情けなくなる。

 

「……えー、なにそれ。いつも遅刻してるくせに偉そう」

「……ん? っておい、いつも遅刻してるのはお前だろ!」

「あはは、そうだった」

 

 瑞希が笑って、今度こそ美術室のほうへ歩いていった。ポニーテールが左右に揺れて、階段の向こうに消えていく。

 

 

 ──また、言えなかった。

 

 廊下に一人残されて、窓の外を見た。校庭の向こうに、プール棟のガラス壁面が夕日を反射してきらきら光っている。あの水の中では、俺はコンマ一秒を削るために全力を出せる。壁にタッチする瞬間まで、一切の妥協なく。

 

 なのに、この廊下では一歩も動けない。

 

 0.6秒。水の中の0.6秒は、全力で泳いで縮めるものだ。

 でも、瑞希との0.6秒──あの半歩の距離を詰めるための一言は、全力を出す方法すらわからない。

 

 水泳なら、練習すればいい。反復すれば、身体が覚える。

 気持ちを伝えるのは、練習できない。一回きりだ。失敗したら、やり直せない。

 

 ──だから怖いのか、俺は。

 

 窓の外で、夕日が山の稜線に沈み始めていた。空がオレンジから薄紫に変わっていく。いつもの夕焼け。いつもの山。でも今日の夕焼けは、いつもより少しだけ赤い気がした。

 

 南風の吹く方の空の向こうは、淀んでいた。

 

 

 






◆幕間──笹倉瑞希の場合

 フォークダンスの指名用紙を前に、瑞希は三十分以上固まっていた。

 自分の部屋。机の上に広げた、B5サイズの紙一枚。「フォークダンス逆指名票」と書かれた欄に、名前を書くだけ。たったそれだけのことに、なぜこんなに時間がかかるのか。

 ペンを持つ。「天堂勇人」と書こうとする。手が止まる。消す。また書こうとする。止まる。

 ──別に変じゃないだろ。幼なじみだし。

 あの言葉が、まだ胸の中で反響している。

 変じゃないと言ってくれた。それは嬉しかった。でも──幼なじみだし。その理由が、ナイフみたいに刺さった。変じゃないのは、幼なじみだから。幼なじみとしてなら、何も問題ない。つまり、それ以上の意味は、ない。

 わかってた。わかってたはずなのに。どこかで期待していた自分が、情けない。

 勇人が女の子だったらなんて思ったのは、本気じゃなかった。勇人が男の子で、わたしが女の子で、だから好きになった。それだけのこと。でも、幼なじみという枠がある限り、わたしはそこから出られない。勇人がその枠を外してくれない限り。だって、わたしは女で、わたしより魅力的な子なんていくらでもいる。勇人にとってわたしは幼なじみではあるけれど、それが特別なことだとは思えない。

 ──いや、違う。わたしが、外さないんだ。自分から。
 勇人のせいじゃない。わたしが臆病なだけだ。

 美月の声が聞こえる。
「いつまで隠すの?」
「"いつか"なんて来ないよ」。

 そういえば、桐谷くんにも言われた。今日の昼休み、廊下で偶然すれ違った時に。

「笹倉、フォークダンスの指名、出した?」
「……まだ」
「出しなよ。天堂のやつ、お前に指名されたら喜ぶと思うぜ」
「そんなの……幼なじみだから、でしょ」
「幼なじみだから、じゃねえよ。笹倉だから、だよ」

 桐谷くんはそう言って、にやっと笑って去っていった。あの人はいつもああだ。核心を突いてくるくせに、言い逃げする。

 でも。
 「笹倉だから」。

 その言葉が、胸の中でぐるぐる回っている。

 わたしだから。幼なじみだからじゃなく。笹倉瑞希だから。
 桐谷くんは男子だから、勇人の気持ちがわかるのかもしれない。それとも、ただのお節介か。どっちにしても、あの人の言葉には不思議な説得力がある。軽そうに見えて、見ているところは見ている人だ。

 ……そうだったら、いいな。

 白石先輩のことを思い出す。「言えるといいわね」と微笑んだ、あの横顔。
 あの人は、たぶんわたしの気持ちに気づいている。そのうえで、自分も勇人に向き合おうとしている。正々堂々と。逃げも隠れもしない。三年生で、残された時間が少ないことも、あの人はわかっているはずだ。
 それに比べて、わたしは──スケッチブックの中に想いを閉じ込めて、「いつか」を待っているだけ。

 美月に「いつまで隠すの」と言われた。白石先輩に「言えるといいわね」と言われた。桐谷くんに「笹倉だから」と言われた。三者三様に、みんなが、色んな形で背中を押してくれている。なのにわたしだけが、まだ立ち止まっている。

 ペンを握り直す。指名用紙に目を落とす。

 書いたら、もう戻れない。幼なじみの安全地帯から、一歩踏み出すことになる。三分間のダンスだ。たった三分。でも、勇人の手を取って、目を合わせて、一緒に動く三分間。その三分間で、わたしの十年が全部ばれてしまいそうで怖い。


 窓の外で蛙が鳴いている。田んぼに水が張られたから、もう夏が近い。夜風が少し生ぬるくなってきた。

 スケッチブックを手に取る。"本物"のほう。パラパラとめくって、三十二枚目を開く。四分十九秒八八のベストを出した日の勇人。水飛沫の中の、あの瞬間。

 ページの隅に書かれた、わたしの文字。

 「がんばれ、勇人」


 ──わたしも、がんばらなきゃ。

 ペンを取って、指名用紙に名前を書いた。

 「天堂勇人」

 書き終えた瞬間、心臓がうるさいくらいに鳴っていた。でも、手は震えていなかった。

 明日、この紙を提出箱に入れる。それだけのことだ。たった一枚の紙。たった一人の名前。

 でも、わたしにとっては──十年分の"好き"を、初めて形にした紙だった。


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