五月雨が降りしきる。
五月の半ばを過ぎた葉山市だが、昨日の夜からぐずついた天気が続いていた。梅雨にはまだ早いが、山に囲まれた盆地は天候が崩れやすい。山が霞んで見えない日が続いて、朝の通学路から逆さ山が消えた。田んぼの水面は雨粒で波立って、鏡にならない。用水路の水嵩が増して、いつもは穏やかなせせらぎが、少し荒っぽい音を立てている。商店街のアーケードの下を通ると、精肉店のおじさんが「よう、よく降るなあ」と声をかけてくる。書房のショーウインドウに水滴がついて、中の漫画の表紙がぼやけている。
傘を差して並んで歩く。二人分の傘が重なると、雨音が近くなる。
「勇人、傘もうちょっとこっちに寄せてくんない? 右肩濡れてるんだけど」
「しょうがないだろ、折り畳み傘なんだから」
「うー。朝の予報、曇りって言ってたのに」
「山の天気は変わりやすいからな」
「山めー」
ぶーぶー文句を言いながら、瑞希が俺の傘の下に半歩寄ってくる。いつもの半歩後ろではなく、真横。傘を共有するために距離が近い。肩と肩が触れそうで触れない。制服越しに、瑞希の体温がかすかに伝わってくる。雨の日の瑞希は、普段より少しだけ大人しい。湿気でポニーテールの毛先がくるんと巻いていて、それを指先で気にしている仕草が目に入る。
──雨の日は、距離が近い。
雨のせいだ。傘のせいだ。それ以上の意味はない。ないはずだ。
「ねえ、練習の調子はどう?」
「……正直、あんまり」
嘘はつけなかった。地方大会まであと一ヶ月を切ったのに、タイムが動かない。四分十九秒八八。あの日出したベストから、一度も更新できていない。0.6秒の壁が、分厚い。
ラスト五十メートルの粘りが足りない。わかっている。でも、わかっていることと、できることは違う。頭では理解しているのに、身体がついてこない。練習では何度も試した。ペース配分を変えて、腕の回転数を上げて、キックのリズムを調整して。どれも微差の範囲で、壁を越えるほどの変化は生まれなかった。
「そっか……」
瑞希が少しだけ声のトーンを落とした。心配しているのだろう。こいつはいつもそうだ。俺が調子悪い時は、自分のことのように気にする。
「大丈夫。まだ時間はある」
「うん。……わたし、応援してるね」
瑞希がそう言って、前を向いた。雨に濡れた横顔が、灰色の空の下でも明るく見えた。
傘の中に閉じ込められた二人だけの空間。雨音が外界を遮断して、ここだけが世界の全てみたいだった。
◆◇
放課後。雨は止まなかった。
プール棟に向かう渡り廊下で、翔太とすれ違った。体育館から出てきたところらしいが、なぜか練習着ではなく制服のままだ。渡り廊下の手すりにもたれて、雨を眺めていた。
「翔太。バスケは?」
「今日は休みにした。膝の調子がちょっとな」
「大丈夫か」
「大したことない。──お前は、練習か?」
「ああ」
翔太が雨を見つめたまま、ぽつりと言った。
「雨の日ってさ、なんか考え事しちまわねーか?」
「お前が考え事とか珍しいな」
「失礼な。俺だって色々あるんだよ」
翔太の声が、いつもの軽さとほんの少しだけ違った。冗談交じりの口調の下に、何か沈んだものが透けている。
「何かあったのか?」
「……ないよ。何もない」
少し間を置いて、翔太は続けた。
「何もないから、考えるんだろうな」
その言葉の意味を、俺はうまく掴めなかった。翔太は雨に向かって話しかけているみたいに、こちらを見ていなかった。渡り廊下の屋根を叩く雨音が、二人の間を埋めている。
「……ま、いいや。お前は練習だろ。行けよ」
翔太が手すりから身体を起こして、いつものにやっとした笑顔に戻った。
「──頑張れよ」
その「頑張れ」が、いつもの軽いノリとどこか違う気がした。でも、何が違うのかはわからなかった。俺は「おう」とだけ返して、プール棟に向かった。
背後で、翔太がまた手すりにもたれたのが、足音でわかった。まだ雨を見ているのだろう。あいつが一人でいるのは珍しい。教室でも部活でも、常に誰かに囲まれている男だ。それが今日は、一人で雨を見ている。
──何もないから、考える。
あいつの「何もない」が、本当に何もないのか。この体育祭の前後で、翔太の表情にときどき影が差すことに、俺は薄々気づいていた。でも聞けなかった。今の俺には自分のことで手一杯で──翔太のことを気にかける余裕がないのが、少しだけ後ろめたかった。
◇◆
プールの水は、雨の日でも同じ温度だ。屋内プールだから当たり前なのだが、外の空気が湿って冷たい分、水に入った瞬間の温かさが際立つ。水が身体を包む感覚。これだけは、何年泳いでも慣れない。慣れそうもない。
今日のメニューは四百メートルのタイムトライアル。本番を想定した通しの練習だ。
「天堂、今日は本番のつもりで泳げ。タイム計るぞ」
松田先生がストップウォッチを構える。スタート台に立つ。水面が蛍光灯の光を反射して、いつもの金色の網目模様を作っている。窓の外は雨。灰色の光がプールの壁面に柔らかい影を落としていた。
──集中しろ。
ピッ。
飛び込む。バタフライ。腕を回して水面を叩く。いつものリズム。いつもの動き。でも、何かが噛み合わない。力が入りすぎている。水を掴もうとして、水に弾かれている感じがする。
背泳ぎに移って二百メートル通過。平泳ぎ。この二種目については悪くない。問題は次だ。
三百。フリー。ラスト百メートル。ここからペースを上げなければならないのに、腕が重い。肺が叫んでいる。酸素をくれ、と。
ラスト五十。壁。いつもの壁だ。ここで落ちる。わかっている。わかっているのに──手が伸びない────!
「ハァ……ハァ……」
「四分二十一秒九二」
松田先生が読み上げたタイムに、俺は水中でゴーグルを外した。
二十一秒九二……ベストより二秒以上遅い。更新どころか、明らかに後退している。
「……すみません」
「謝んな。原因はわかってるか?」
「バタフライの入りで力みすぎました。あと、フリーに入ってから腕の回転が落ちてます」
「分析はできてるな。──じゃあ、なんで力むんだ?」
「…………」
「頭で考えすぎなんだよ。大会が近いから焦ってる。身体は正直だぞ、天堂。水泳は、水と喧嘩したら負ける。力を抜け。水に身体を預けろ」
力を抜く。水に身体を預ける。
言葉にすると簡単だ。でも、0.6秒を追いかけている頭が、それを許さない。もっと速く、もっと強く、と身体に命令してしまう。それが力みになっている。悪循環だ。
練習が終わった後、プールサイドのベンチに座ってタオルを頭からかぶっていた。チームメイトが次々と部室に引き上げていく。
「お疲れー、天堂」
「おつかれ」
「先上がるな」
「ああ」
一人になったプールサイドで、水面を眺める。波が収まって、水面が鏡のように静かになっていく。蛍光灯の光が水底に揺らめいて、プールの青いタイルを照らしている。
松田先生の言葉が、頭の中で繰り返される。
──水と喧嘩したら負ける。
瑞希が昔、同じことを言っていた気がする。中学の時。俺がタイムに伸び悩んでいた時期に、瑞希が一言だけ言った。
「水は友達だよ。喧嘩しちゃダメ」
あの時の瑞希は、まだ泳いでいた。水と友達でいられた頃の瑞希。
──今のあいつは、水と、どういう関係なんだろう。
忘れ物に気づいたのは、部室で着替え終わった後だった。ゴーグルをプールサイドのベンチに置きっぱなしにしていた。
取りに戻ろうとプール棟に向かう。時刻は午後七時過ぎ。部員はもう全員帰ったはずだ。外は暗い。雨がまだ降っていて、渡り廊下の屋根を叩く音が響いている。
プール棟の入口に近づいた時──中から、水の音が聞こえた。
おかしい。この時間にはもう誰もいないはずだ。施設管理の鍵だって、先生が閉めたはず。
ドアが、わずかに開いていた。
隙間から中を覗く。プールの照明は半分だけついていて、薄暗い。水面が揺れている。誰かが泳いでいる。
バタフライだった。
水面を切り裂くようなストローク。力みのない、流れるようなフォーム。腕が高く上がり、水をキャッチし、身体を前に押し出す。一掻きごとに水飛沫が上がって、薄暗い照明の中で金色に光る。
──教科書のような泳ぎ。
いや、教科書より美しい。自由だ。タイムを追うのではなく、ただ水と対話しているような泳ぎ。水を掴むのではなく、水に身体を預けている。松田先生が言った「力を抜け」の、完璧な体現。
その泳ぎを、俺は知っている。
十年間、追いかけ続けた泳ぎだ。
──瑞希。
声は出さなかった。身体が動かなかった。
気づいたら、ギャラリー席への階段を上っていた。暗がりの中、手すりを頼りに二階に上がる。窓際の席──瑞希が座っていた場所に、俺が座った。
ギャラリーから見下ろすプール。薄暗い照明。水面を滑っていく一つの影。
瑞希だった。間違いない。ポニーテールを解いた長い髪が、水に広がっている。競泳用の水着を着て、一人で泳いでいる。
何本か泳いで、ターンして、また泳いで。バタフライ、背泳ぎ、フリー。種目を変えながら、ゆっくりと、でも確かなストロークで水を進んでいく。
──きれいだ。
言葉にならなかった。ただ、目が離せなかった。
瑞希の泳ぎには、中学時代のような鋭さはなかった。タイムを削るための力強さもなかった。それはそうだ。二年以上のブランクがあるのだから。ただ、代わりに、柔らかさがあった。水と喧嘩していない。水に溶け込んでいる。まるで水の一部になったみたいに、自然に、穏やかに泳いでいる。
これが──瑞希の「泳ぎたい」の形なのか。
競技ではない。記録でもない。ただ、水の中にいたい。水と一緒にいたい。それだけの、純粋な泳ぎ。
瑞希が最後の一本を泳ぎ終えて、壁にタッチした。しばらく壁に手をついたまま、肩で息をしている。それからゆっくりとプールサイドに上がった。水が身体を伝って床に滴り落ちる。解いた長い髪が背中に張りついている。
タオルを手に取って──動きが止まった。
瑞希の肩が、小さく震えていた。
泣いている。
声を殺して。水に濡れた顔だから、涙なのか水滴なのか、ここからは見分けがつかない。でも、嗚咽がかすかに聞こえる。プールの天井に反響して、小さく、小さく。肩の震え方でわかる。十年間隣にいたんだ。あいつが泣く時の震え方を、俺は知っている。
小学校の時、スイミングスクールの対抗戦で負けた時に泣いていた。あれは声を上げて泣くタイプだった。中学一年の県大会で自己ベストを出して優勝した時も泣いていた。あれはたぶん、嬉し泣きだった。
今の泣き方は、そのどちらとも違う。声を出さない。誰にも気づかれたくない泣き方に見えた。自分だけの場所で、自分だけの痛みを抱えて。
声をかけるべきだったのかもしれない。降りていって、「どうした」と聞くべきだったのかもしれない。でも、できなかった。この泳ぎは、俺に見せるためのものじゃない。瑞希が一人で、誰にも見られずに泳ぎたかったから、こんな時間にここにいるんだ。
俺が声をかけたら、この場所を奪ってしまう。瑞希が一人で水と向き合うための、この静かな時間を。
だから、静かに立ち上がった。音を立てないように、ギャラリー席を出た。階段を降りて、プール棟のドアをそっと閉めて。振り返らなかった。振り返ったら、戻ってしまいそうだったから。
渡り廊下に出ると、雨がまだ降っていた。さっきより強くなっている。傘を持っていなかった。ああ、そんなことも忘れていた。……部室に取りに戻る気には、なれなかった。
雨に濡れながら、校門に向かって歩いた。五月の雨は冷たくもなく、温かくもない。春と夏の境目の、どっちつかずの雨だ。学ランの肩がすぐに重くなる。靴の中に水が入って、歩くたびにぐちゃぐちゃ音がする。
でも、それすら気にならなかった。
頭の中が、さっきの泳ぎでいっぱいだった。瑞希のバタフライ。力みのないストローク。水に身体を預ける泳ぎ。薄暗いプールの中で、水飛沫が金色に光っていた。あの光景が、瞼の裏に焼きついて離れない。
──あれが、俺に足りないものだ。
力を入れることばかり考えていた。もっと速く、もっと強く、と。0.6秒を削るために、筋力を上げて、回転数を上げて、キックを強くして。水を掴む力を鍛えて。
でも瑞希の泳ぎは違った。速さを求めていないのに、美しかった。美しいから、結果として効率がいい。水の抵抗を受けない。水と一体になっているから、余計な力が要らない。
中学の時、瑞希のタイムに一度も追いつけなかった理由が、今わかった気がした。俺が追いかけていたのは瑞希のタイムじゃなかった。瑞希の"泳ぎ方"だ。水との向き合い方だ。あいつは水と友達だった。俺は水と戦っていた。同じプールで泳いでいても、見えている世界が違ったんだ。
用水路沿いの道を歩く。増水した水が、いつもより速く流れている。雨粒が水面を叩いて、無数の波紋が重なり合っている。その波紋の一つ一つに、プールの水面の記憶が重なった。
家に着く頃には、ずぶ濡れだった。玄関で靴を脱いで、タイルの上に水たまりを作りながら立ち尽くした。母さんが「何やってるの、傘は!?」と飛んできたが、適当にごまかした。
──そして、泣いていた理由。
あの涙の意味を、俺は正確には知らない。でも、想像はできる。泳ぐのが楽しくて、でもそれを自分で手放したことが悔しくて。或いは──泳いでいる間だけは、何も考えなくてよかったのに、水から上がったら全部戻ってきて。
瑞希のことが、堂々巡りのように頭から消えない。あんなに泳ぐのが好きだったのに、なんで辞めたんだ。あんなに綺麗に泳げるのに。
ふと、渡り廊下で翔太が見せた横顔が浮かんだ。雨を見つめていた目。何もないから考える、と言ったあの声。あいつもあいつで、誰にも言えないものを抱えていたのかもしれない。──今の俺みたいに。
──俺にできることは、何だろう。
"幼なじみだし"しか言えなかった俺に、何ができる?
着替えもせずにベッドに座って、天井を見つめた。雨が窓を叩いている。三日月は見えない。曇り空。
──言葉は出てこない。でも、行動ならできるかもしれない。
◆◇
翌日。
練習前に、俺は松田先生を訪ねた。
「先生、一つ相談があります」
「おう、何だ」
「……昔、水泳をやっていた人間が、放課後にプールを個人的に使うことってできますか」
松田先生が眉を上げた。
「部外者の施設使用は原則NGだ。だが──元部員や経験者向けの自主練習枠なら、顧問の許可があれば使える。週に二回、月曜と木曜の午後七時から八時。届出を出せばいい。継続的に使える正式な枠だ」
「……そうですか」
「誰のことだ?」
松田先生は鋭い。ごまかしても無駄だ。
「笹倉瑞希です」
先生の目が少し見開いた。それから、腕を組んで椅子の背にもたれた。
「笹倉……ああ、ジュニアオリンピックの。知ってるよ。中学の時にうちの学区から出た中で一番速かった女子だな」
「はい」
「知り合いなのか?」
「幼馴染なんです」
ほう、と先生は頬杖をつく。
「なんだ、お前が水泳をしてることと関係があるのか」
「……まあ、やるきっかけになった奴なんです」
「成る程な。で、あの子がまた泳ぎたいと? 確か美術部だったろう」
そこについては考えた。
だけど、水泳を再開したいとかではないような気はしている。
「……わかりません。でも」
言葉を選ぶ。嘘はつけない。でも、昨日見たことは言えない。瑞希が一人で泳いでいたことは、俺だけの秘密にしなければいけない。
「泳げる場所があれば、いいなと思ったんです。あいつにとって」
松田先生がしばらく俺を見つめていた。何かを見定めるような、穏やかだが真剣な目。
「……いい顔するようになったな、天堂」
「え?」
「なんでもない。申請書を出しておけ。俺のほうで許可は通す。あの子がまた泳ぐなら──歓迎するよ」
松田先生が机の引き出しから申請書の用紙を一枚取り出して、俺に渡した。
「ただし、本人が出す書類だからな。お前が勝手に出すなよ。渡すだけだぞ」
「……はい」
申請書を受け取って、部室に戻った。B5サイズの紙一枚。「屋内プール自主練習枠利用申請書」。名前欄。所属欄。利用目的欄。すべて空白。
これを瑞希に渡す。──直接渡す勇気は、ない。
あの涙を見てしまった後で、面と向かって「泳げよ」とは言えない。瑞希が泳ぐかどうかは、瑞希が決めることだ。俺にできるのは、場所を用意することだけ。
放課後、美術室に向かった。放課後の美術室は部員が作業している時間だが、今日は全体ミーティングがあるとかで、部員たちは別の教室に移動していた。美術室は無人だった。
瑞希の席は、窓際の一番奥。何度か聞いたことがあったから覚えていた。イーゼルの隣に、使い込んだ木の椅子と、画材が並んだ棚がある。机の上にはコピックマーカーのケースと、提出用のスケッチブック。その横に、くたびれた表紙のスケッチブックが──ない。鞄に入れて持ち歩いているんだろうか。
机の上を見ると、小さな瓶に挿したドライフラワーが置いてあった。瑞希らしい。自分の作業スペースを居心地良くするのが好きなやつだ。コピックの色見本が壁に貼ってあって、暖色系が多い。オレンジ、赤、金色。──夕焼けの色だ。
申請書を、机の上にそっと置いた。ドライフラワーの瓶の横。目に入る位置に。
それだけでは素っ気ない気がして、少し迷ってから、申請書の端に鉛筆で小さく書き添えた。
「泳ぎたい時に、泳げるように」
書いてから、恥ずかしくなった。こんなの、ほとんど手紙じゃないか。しかも鉛筆って。もっとマシな筆記用具はなかったのか。──いや、瑞希の机にあったのが鉛筆だったんだから仕方ない。ボールペンを探す余裕はなかった。
消すのも違う気がして、そのまま美術室を出た。
廊下に出た瞬間、心臓が鳴っていることに気づいた。水の中では0.01秒を争うために冷静でいられるのに、紙一枚を机に置くだけでこれだ。手のひらに汗をかいている。
──俺は、何がしたいんだ。
告白でもない。約束でもない。ただ、瑞希が泳げる場所を作りたかった。あいつが一人で水と向き合える場所を。あの涙を、一人で流さなくていい場所を──いや、違う。瑞希が泣いていたことを俺が知っていると、瑞希は知らない。知らないほうがいい。
ただ、泳げる場所があればいい。それだけだ。それだけなのに、この行為が、言葉にできなかった全部を含んでいる気がする。「幼なじみだし」しか言えなかった俺が、紙一枚と一行のメモで、何を伝えようとしているのか。自分でもよくわからない。でも、何もしないよりはいい。何も言えないなら、せめて行動で。
雨はまだ降っていた。窓の外の山は、霞んで見えない。
◇◆
練習に戻った。
スタート台に立って、水面を見つめる。昨日と同じプール。同じ水。同じ蛍光灯の光。
でも、今日は違うことを意識した。
力を抜く。水に身体を預ける。水と喧嘩しない。
昨日、瑞希が泳いでいた映像が、瞼の裏に浮かぶ。あのバタフライ。力みのないストローク。水面を叩くのではなく、水面を撫でるような入水。
ピッ。
飛び込んだ。バタフライ。いつもより腕の力を落とす。その分、肩甲骨の可動域を意識する。水を掴むのではなく、水に手を差し入れて、水の流れに乗る。
──軽い。
身体が軽い。いつもより水の抵抗が少ない。力を入れていないのに、進む。水が味方になっている。昨日と同じ身体、同じプール、同じ水のはずなのに、感触がまるで違う。水が柔らかい。身体を包み込んで、前に押し出してくれている感じ。
百メートル。ターン。背泳ぎ。天井の蛍光灯が流れていく。いつもは数えているストロークの回数を、今日は数えていない。身体に任せている。
二百。三百。ラスト百。ここからがいつもの地獄だ。腕が重くなって、肺が酸素を求めて叫び始める。
でも今日は、叫び声が小さい。身体の使い方が効率的になっている分、酸素の消費が抑えられている。余力がある。
ラスト五十。いつもの壁。でも今日は、壁の手前で身体が沈まない。腕が回る。肺が苦しいのは同じだが、苦しさの質が違う。我慢できる苦しさだ。もう少し、もう少しだけ──
瑞希の泳ぎが浮かんだ。昨日のバタフライ。水面を撫でるような入水。力みのない、流れるようなストローク。あの泳ぎの残像を、俺の身体に重ねる。
──伸びろ。
最後の一掻き。腕を限界まで前に伸ばす。指先が水を切って、壁に──
タッチ。
顔を上げる。ゴーグル越しに電光掲示板の数字を探す。まだ点滅している。数字が確定するまでの一秒が、やけに長い。水の中で肩が上下している。心臓がうるさい。息が足りない。でも目だけは掲示板から離さない。
数字が、止まった。
「四分十九秒五〇!」
松田先生の声が、プールに響いた。
「自己ベスト更新! 〇・三八秒縮めたぞ!」
──〇・三八秒。
水の中で、しばらく動けなかった。壁に手をついたまま、掲示板の数字を見つめていた。四分十九秒五〇。あの、びくともしなかった壁が動いた。〇・六秒あった差が、〇・二二秒まで縮まった。
力を抜いたら、速くなった。
水と喧嘩するのをやめたら、水が味方になった。
じわじわと実感が追いついてくる。肺の奥から、叫び出したいような衝動がせり上がってきた。でも声にはならなかった。代わりに、目頭が熱くなった。こらえた。ここで泣いたら、チームメイトに何を言われるかわからない。
プールサイドに上がって、タオルで顔を拭く。タオルの下で、一回だけ目を擦った。
「天堂、今日のバタフライどうした。別人みたいだったぞ」
「……ちょっと、思い出したことがあって」
「思い出した?」
「はい。……水と、友達になるってことを」
松田先生が一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。
「いい表現だな。──その調子だ。大会までに間に合うぞ、お前」
ふと、ギャラリー席を見上げた。
──今日は、誰もいない。
でも、昨日あの席に座って見た景色を、俺は忘れない。薄暗い照明の中で泳ぐ瑞希の姿。水に溶けていくような、あの美しい泳ぎ。
瑞希のおかげで、俺はまた速くなった。十年前と同じだ。あいつの背中を追いかけて、俺は前に進む。
あいつがいなかったら、俺はここにいない。
それが、白石先輩に聞かれた「何のために泳いでるの?」の、答えだ。
──瑞希のために。
まだ声には出せない。でも、もう言葉にはなっている。
◆幕間──笹倉瑞希の場合
あの日、なぜ泳いだのか。
美術室で提出用のスケッチを仕上げた後だった。ソフトボール部の練習風景。ペン入れを終えて、まあまあの出来だと自分では思った。川島先生にも「良くなったわね」と言われた。
でも、描き終わった瞬間に、指先が疼いた。筆の感触じゃない。水の感触。手のひらで水を掴んで、押し出す、あの感覚。
"本物"のスケッチブックを広げて勇人を描けば描くほど、水の記憶が蘇ってくる。勇人の腕が水を掴む角度を描く時、自分の腕が同じ動きを思い出す。勇人のキックの軌跡を線にする時、自分の脚が蹴りの感覚を取り戻す。
わたしの絵は、身体の記憶で描いている。川島先生が言った「泳いだことがある人間にしか描けない線」──それは、わたしの身体がまだ泳ぎを忘れていないから描ける線だ。
その夜、寝つけなかった。目を閉じると水面が見える。蛍光灯の光を反射して揺らめく、あの金色の網目模様。
翌日、川島先生に相談した。一度だけ、放課後にプールを使わせてもらえないか、と。先生は眼鏡の奥の目を細めて、「たまには身体を動かしなさい」とだけ言って、その日だけの特別な許可をくれた。鍵の手配もしてくれた。理由は聞かなかった。先生は、聞かないでくれる人だ。
午後七時。部員が全員帰った後のプール棟。鍵を開けて、照明を半分だけつけて、プールサイドに立った。
水面が、静かだった。蛍光灯の光が半分だけ灯っていて、水面に映る光の網目が普段より淡い。プールの底の青いタイルが、うっすらと見えている。塩素の匂い。この匂いを嗅いだ瞬間、身体の奥から何かがせり上がってきた。
競泳用の水着に着替えて、スタート台には立たなかった。プールの縁に座って、足先を水に浸した。冷たい。でも、知っている冷たさだ。身体が覚えている温度。辞めるまでの何百──何千時間と、この温度の中にいた。
そのままゆっくり水に入った。水が腰まで来て、胸まで来て、肩まで来た瞬間、涙が出そうになった。
──ただいま。
そう思った。水に「ただいま」と言いたかった。ずっと離れていてごめん、と。
泳ぎ始めた。バタフライ。身体が勝手に動いた。腕の回し方、キックのタイミング、呼吸のリズム。全部、覚えていた。二年間以上も泳いでいなかったのに。筋力は落ちているから、中学の時のようなスピードは出ない。でも、身体の使い方は忘れていなかった。水の掴み方。水面への入り方。ストロークのリズム。全部、骨の髄まで染み込んでいた。
怖くなかった。
中学の時に感じた、あの息苦しさがなかった。プレッシャーがない。タイムも順位も関係ない。電光掲示板を気にする必要もない。コーチの圧も、チームメイトの期待も、周りからの視線も、親の応援も──何もない。水面を叩く音と、自分の呼吸だけが世界の全て。
──ああ、水泳って、こういうものだったんだ。
楽しい。楽しかった。水が気持ちいい。身体が覚えていてくれた。わたしの身体は、まだ泳げる。水はまだ、わたしの友達でいてくれる。
何本か泳いで、プールサイドに上がった。
そこで、涙が出た。
楽しかったから。楽しかったのに、これを自分で捨てたから。周りの期待が怖くて、軽薄な自分が発した安易な言葉の重さに気づいて、逃げたから。彼の想いに便乗して、勝手に蔑ろにしたから。勇人はまだ泳いでいるのに。あの人はまだ水の中にいるのに。わたしだけプールサイドに上がり、そのままそこから出て行ってしまった。
声を殺して泣いた。プールに響くと思ったから。
泣きながら──気配を感じた気がした。ギャラリーの暗がりに、誰かがいるような。確証はなかった。ドアが開いて閉まる時の、かすかな空気の動き。それだけだった。思い過ごしかもしれない。
振り返らなかった。振り返ったら、確認してしまう。確認したら、知ってしまう。
でも──もし、あの気配が本当だったなら。
十年間隣にいた人の気配を、わたしの身体が間違えるだろうか。
……わからない。わからないけど、勇人であってほしいと、少しだけ思った。こんな姿を見られたくないのに、勇人にだけは、知っていてほしい気もする。矛盾している。でも、気持ちなんて、いつだって矛盾だらけだ。
翌日。美術室の自分の机に、見慣れない紙が置いてあった。
【屋内プール自主練習枠利用申請書】
名前欄は空白。所属欄も空白。ただ、紙の端に鉛筆で小さく──
「泳ぎたい時に、泳げるように」
勇人の字だった。角ばっていて、少しだけ右に傾いている。十年間見てきた字だから、間違えない。宿題のノート、テストの答案、年賀状のコメント。全部、この字だった。
申請書を持つ手が震えた。涙がぽたりと紙に落ちて、慌てて拭いた。染みにはならなかった。よかった。この紙に染みをつけるわけにはいかない。
言葉じゃなく、行動で渡してくれた。
勇人らしい。昔からそうだ。口下手で、不器用で、でも大事なことは行動で示す。小学校の時もそうだった。わたしが転んで膝を擦りむいた時、何も言わずに絆創膏を貼ってくれた。中学でジュニアオリンピックに出る前、緊張で眠れなかった夜に、チャットで「大丈夫」とだけ送ってきた。たった二文字。でも、あの二文字に救われた。
「幼なじみだし」としか言わなかった勇人が、これを置いていった。「泳ぎたい時に、泳げるように」。この一行に、どれだけの気持ちが込められているのか。勇人はたぶん、自分でもわかっていない。この人はいつもそうだ。自分の気持ちに鈍感で、でも行動だけは的確に、こちらの一番痛いところに、一番やさしいものを届けてくる。
ありがとう、と言いたかった。でも、言ったら泣いてしまう。最近泣いてばかりだ。情けない。
申請書を出すかどうかは、まだ決められなかった。泳ぐことは楽しかった。でも、あの場所に戻るということは──逃げた自分と向き合うということだ。水泳を辞めた理由。周りの期待から逃げたこと。勇人との約束を破ったこと。全部、水の中に沈めてきたものが浮かび上がってくる。
でも、この申請書は──浮かび上がってきてもいいよ、と言ってくれている気がした。
机の引き出しの、一番奥にしまった。大事に、丁寧に。ドライフラワーの横に置こうかと思ったけど、誰かに見られたら困る。一番奥。わたしだけが知っている場所に。
窓の外は、まだ雨だった。でも、山の向こうに薄く光が差している。雲の切れ間から、夕日のオレンジが一筋だけ。
田んぼの水面に、その光が反射した。雨粒が波紋を作っていても、光は届く。
雨は、いつか止む。
その時、わたしはどうしているだろう。
引き出しの奥の申請書が、そこにあることを、指先で確かめた。紙の角に触れる。勇人の鉛筆の文字がある場所を、そっとなぞった。
「泳ぎたい時に、泳げるように」
──うん。泳ぎたい。
まだ怖い。でも、泳ぎたい。
もう少しだけ、考えさせて。