水面のきみに恋をした   作:H117147

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放課後の定位置

 

 五月も残り二週間を切ると、校舎の空気が変わる。

 

 体育祭の準備が本格化して、放課後の校庭にはテント骨組みの資材が積み上がり、美術部の装飾班が巨大なパネルの下塗りを始めている。廊下には「体育祭まであと12日」のカウントダウンポスターが貼られて、昼休みの教室ではフォークダンスの指名の話題がまだくすぶっていた。──俺にとっては聞きたくない話題だ。

 あの日、「幼なじみだし」と言ってしまった。その四文字が、まだ喉の奥に刺さっている。

 

 でも、日常は進む。

 

 月曜日の朝。瑞希はいつも通り三分遅刻して走ってきた。ポニーテールが左右に大きく揺れている。田んぼの水面に朝日が反射して、逆さ山がぼんやりと映っている。

 

「ごめんごめん、目覚まし二回止めちゃった」

「二回止めたら意味ないだろ」

「だって二度寝って気持ちいいんだもん」

「二回止めたなら三度寝やないか」

「うっ……ナイスツッコミ」

 

 がっくり項垂れ、瑞希は親指を立てる。コイツの遅刻は様式美と化している。というか、厳密に時間を指定している訳でもないので正直俺の家を出る時間が早いだけという考えもあるが、このやり取りはこれはこれで嫌いではなかった。

 

 並んで歩く。いつもの半歩後ろ。いつもの距離。──この距離に安心している自分と、もどかしく思っている自分がいる。

 

「ねえ勇人、わたし数学やばいかもしれない」

「今更だな」

「今更じゃないよ! 中間は何とかなったけど、そこから先が全然わかんなくて。数Cに入ってからずっと置いてかれてる」

「ベクトルのあたりか」

「そう! 矢印がいっぱい出てきて、意味不明すぎて。ノート見返しても暗号にしか見えない」

「前回の小テスト、何点だった」

「…………」

「瑞希」

「……にじゅってん」

 

 小声で答えた。百点満点で二十点。それはまずい。

 

「……勇人、数学教えてくれない?」

「また俺か」

「だって勇人の説明わかりやすいし。学校の先生より上手いよ」

 

 学校の先生も涙目だな。と、思いつつ悪い気もしないあたりが俺もつくづくコイツに甘い。

 両手を合わせて拝むポーズを取る。朝日が瑞希の横顔を照らしていて、合わせた指先がオレンジに光っている。

 

「猿もおだてりゃ……か」

「え?」

「何でもない。……放課後、図書室でいいか」

「やった! ありがとう!」

 

 瑞希が嬉しそうに跳ねた。ポニーテールが一段と大きく揺れる。──教えるのは構わない。中学の時からやってることだ。ただ、最近は教えている間の距離感が、前とは違う意味を持っている。瑞希は分かっているのだろうか。

 

「部活が終わってからになるぞ」

「うんうん、わたしもだし。図書室で待ってるね」

 

 

◆◇

 

 

 放課後。18時。図書室。

 この学校は偏差値的には進学校の部類に入るからか、放課後学習には熱心で、図書室は20時まで解放されている。

 個室になった自習室で受験勉強に打ち込む3年の人。勉強ではなく図書室をたまり場にしてたむろしている1年たち。PCで貸し出しのビデオを視聴しているやつ。それぞれがそれぞれにやることをやって一つになっている空間。

 

 俺たちは窓際の四人掛けテーブルに、二人で向かい合って座る。──いや、向かい合うと教えにくいので、最終的にL字型に、隣り合わせに座る形になった。瑞希のノートを覗き込むためだ。理由としては合理的なもの。

 

「ここ。ベクトルの成分表示。aベクトル=(3,4)、bベクトル=(1,2)の時、a+bはどうなる」

「えっと……足すの? 矢印を?」

「矢印じゃなくて成分を足す。xはx、yはy」

「じゃあ……(4,6)?」

「そう。そんなに難しくないだろ」

「えっ、それだけ?」

 

 瑞希がノートに書き写しながら、眉間の皺がゆるんでいく。

 

「じゃあ次。内積。a⋅b=3×1+4×2で?」

「えっと、3たす8で11?」

「正解」

 

 瑞希の目がぱっと輝いた。鉛筆を走らせて、ノートに式を書き込んでいく。──こいつ、理解した瞬間の反応がいちいちデカいんだよな。教える側としてはわかりやすくて助かるが。

 

「できた! 内積って成分同士掛けて足すだけじゃん!」

「基本はな。ただ、ここからが問題だ」

「勇人すごいね! 天才!」

「俺がすごいんじゃなくて教科書に書いてある」

「教科書は読んでもわかんないけど、勇人が説明するとわかるの!」

 

 瑞希が嬉しそうに笑って、ノートを俺のほうに見せてくる。その拍子に身体が傾いて、瑞希の髪が俺の腕に触れた。

 

 ──シャンプーの匂いがした。花みたいな、甘い匂い。朝の通学路では気づかなかった。隣の席で、この距離でないと届かない匂い。

 

 平然を装って、次の問題を指さす。

 

「内積がゼロになる時、二つのベクトルはどういう関係だ」

「……仲が悪い?」

「あー……そうだな。内積がゼロになるくらい距離感がいい。要するに垂直だ」

「あー! そうだ垂直!……直交! ちょっと待って、ノートに書く」

 

 朗らかに笑って瑞希が鉛筆を走らせ始める。何というか解釈の仕方が情緒的なんだよな。何だかんだ定期テストで赤点回避程度には仕上げてくるあたり、最後の追い込みができるヤツではある。──いや、そうか。水泳でそんなシーンはいつも見てきたじゃないか。それを別のものに応用している訳か。

 

「……でも勇人、なんで掛けて足してゼロだと垂直なの? 魔法?」

 

 円らな瞳で俺を覗く。魔法て。素で聞いてるのかボケてるのか……、多分前者だろう。

 

「魔法じゃない。内積の定義を思い出せ。『aの大きさと、bの大きさと、なす角のコサイン』を全部掛けたやつだろ」

「うっ、出た、コサイン……」

「垂直ってことは、なす角が九十度だ。コサイン九十度はいくらだ?」

「……ゼロ!」

「そう。一箇所でもゼロなら、全部掛けてもゼロになる。だから『内積がゼロなら垂直』っていう公式が成り立つんだ」

「なるほど……! つまり内積って、ベクトルの『仲の良さ判定機』ってこと?」

「……まあ、言い得て妙だが。九十度で完全に無関心。それを過ぎて、角度が開いて鈍角になるとマイナス。つまり仲が悪い」

「おっけー」

 

 生返事だったが、それゆえに真剣に考えている横顔が視界の端に映る。唇を少しだけ尖らせて、時々鉛筆のお尻を噛む癖。小学校の頃からやっている。注意しても直らなかった癖だ。

 

 消しゴムを使おうとして、瑞希の手が俺の手に触れた。テーブルの真ん中に置いてあった消しゴムに、同時に手を伸ばした形だった。

 

「あ」

「……」

 

 指先が重なった。一秒にも満たない接触。瑞希がさっと手を引いた。

 

「ご、ごめん」

「いや……、ほら」

 

 消しゴムを瑞希に渡す。指先がまだ少し熱い。──中学の頃は、こんなことで動揺しなかった。同じ机で勉強して、手がぶつかることなんて日常茶飯事だった。なのに今は、触れた場所の温度をいちいち記憶している。

 

 以前、瑞希が独り泳いでいたあの夜から、俺は自分の変化に少し動揺していた。瑞希の泳ぎを見て、あの涙を──独りで泣いていた姿を見てしまってから、瑞希の一挙一動に意味を見出そうとしてしまう。

 

 それは多分──良いことじゃない。瑞希のパーソナルスペースを侵害してしまっているような気がした。

 そう言えば、申請用紙は、どうしたんだろうか。受け取ってはくれていると思うが……。

 

「勇人、ここ合ってる?」

「ん……あ、ああ。合ってる。点(2,−3)。正解だ」

「よし! わたし天才かも!」

「三十分前に内積を知らなかった人間の台詞か?」

「成長速度が天才なの!」

 

 こいつのポジティブさは、時々眩しい。

 

 問題を進めていくうちに、窓の外の夕焼けはすっかり落ちていた。図書室の蛍光灯が、テーブルの上のノートを白く照らしている。瑞希はだんだん集中力が切れてきて、鉛筆の動きが遅くなっている。

 

「……ねむい」

「まだ三問残ってるぞ」

「あと一問にして。ご褒美に明日メロンパンおごる」

「交渉すんな」

 

 瑞希が机に突っ伏した。腕の間からポニーテールがはみ出している。

 

「五分だけ休憩……」

「はぁ、五分だぞ」

 

 聞くや否や、瑞希が目を閉じる。すぐに寝息が聞こえてきた。──嘘だろ、五秒で寝やがった。

 起こすべきだ。ここで寝かせたら、五分じゃ済まない。こいつの寝坊助具合からして明日まで寝るんじゃないかとすら思える。

 

 でも、起こせなかった。

 

 瑞希の寝顔が、蛍光灯の柔らかい光に照らされていた。力が抜けた横顔。まつ毛が頬に影を落としている。口が少しだけ開いていて、規則的に小さく呼吸している。ポニーテールの結び目がゆるんで、後れ毛が首筋に散っている。

 

 ──こいつ、こんなに穏やかな顔して寝るんだな。

 

 知ってた。小学校の遠足のバスで、中学の修学旅行の移動中に、何度も見た寝顔だ。でも、十六歳の瑞希の寝顔は、あの頃とは少しだけ違う。子供の丸さが抜けて、輪郭が細くなって、でも柔らかさは残っていて。

 

 目を逸らした。自分の数学のプリントに視線を落とす。問題の数字が、全然頭に入ってこない。隣の寝息が近い。

 

 結局、二十分程度で瑞希は自分で起きた。

 

「……はっ。わたし寝てた?」

「二十分な」

「えへへ、ごめんね。 あれ、でも、なんで起こしてくれなかったの?」

「……起こそうとしたけど、熟睡してたから」

 

 嘘だ。起こせなかったんだ。でも、そんなこと言えるわけがない。

 

「勇人はやさしーね」

「……っ」

 

 たどたどしく言うその言葉は、いつか何かの通信販売のTVで見た珪藻土マットの吸水具合みたいに俺の中に速やかに染み込んで、俺は不随意的に鼓動を早めだす心臓に対して文句の一つでも言ってやりたい気分になった。

 ……本当に卑怯なんだよな、コイツの、こういうところが。

 

「……残り三問急いでやるぞ」

「えー」

 

 

◇◆

 

 

 急いで残りを済ませ、図書室を出たのは丁度20時前だった。

 

 廊下に出ると、夜の雰囲気が漂っていて人の気配がなく、少し不気味だった。図書室を最後まで利用していたのは俺たちだったから、実際に殆ど校舎に人は残っていないはずだ。

 

「ありがとね、勇人。おかげでちょっとわかるようになった」

「ちょっとじゃ足りないけどな。明日もやるか?」

「え、いいの?」

「どうせ授業はどんどん進むし。わからないとこ放置するともっとやばくなるぞ」

「やった! じゃあ明日も部活後、図書室ね!」

 

 瑞希が嬉しそうに──その時、廊下の角から誰かが歩いてきた。

 

「あら」

 

 白石先輩だった。鞄とクリップボードを両手に抱えて、歩いてくる。

 俺たちの姿を認めると──一瞬だけ、目が光った。光った、としか言いようがない。口元は微笑んでいるのに、目の奥にちらりと何か別の感情が覗いた気がした。

 

「天堂くん、笹倉さん。二人でお勉強?」

「はい、こいつの数学が壊滅してるので」

「ちょっ」

「偉いわね。仲良しさんね」

 

 先輩の声は穏やかだ。でも、「仲良しさん」の語尾が微妙に弾んでいた。

 

「白石先輩は生徒会ですか」

「ええ。体育祭の備品リストの最終確認。あとは会計内容の確認。やっと終わったところよ」

 

 先輩がクリップボードを軽く掲げてみせる。それから、瑞希のほうを見た。

 

「笹倉さん、数学は天堂くんに教わってるの?」

「あ、はい。勇人──教えるの上手くて」

「へえ。二人で勉強会なんて、青春ね」

 

 なんだろう、この会話。先輩のトーンが、いつもの副会長モードと微妙にずれている。表面上は完璧に自然なのに、何か楽しんでいるように聞こえる。

 

「じゃあ、お邪魔しちゃ悪いわね。──さようなら、二人とも」

 

 先輩が微笑んで去っていく。その後ろ姿が廊下の角を曲がる直前──スマホを取り出して、何かを打ち込んでいるのが見えた。

 

「……白石先輩、なんか楽しそうだったね」

「体育祭の準備が順調なんだろ」

「そうかなあ……」

 

 瑞希が首を傾げている。俺も少し引っかかる。常にマルチタスクを抱えていて忙しい人だからか、ある種、近寄りがたい雰囲気が常にあるのだが、今日のそれは先輩らしくない気がした。いや、悪い意味ではないのだが。

 

 

◆◇

 

 

 火曜日。

 

 朝、松田先生の部屋を訪ねた。鞄の中に、昨日の帰りに記入した申請書が入っている。

 

「先生、これ──屋内プール自主練習枠の、俺の分の申請書です」

 

 松田先生が書類を受け取って、目を通す。

 

「お前の分か。……目的欄、"自主トレーニング"、か」

「はい」

 

 松田先生がペンを回しながら、俺を見る。

 

「この間、笹倉の分の申請書は渡したよな。そっちはどうなった?」

「……まだ、わかりません」

「ふん。──まあ、お前の分は問題ない。今週から使っていいぞ。月・木の七時から八時、鍵は事務室で受け取れ」

「ありがとうございます」

 

 これで、放課後の屋内プールに週二回の自主練習枠が確保できた。部活の練習とは別に、一人で泳げる時間。4:19.50を出した時の感覚を、一人で反復するための時間。

 

 瑞希の申請書が──提出されるかどうかは、わからない。あの紙を美術室の机に置いてから、もう数日が経つ。瑞希は何も言ってこない。見つけたのか、まだなのかもわからない。聞けない。聞いたら、あの夜のことに踏み込んでしまうから。

 

 

 昼休み。屋上。

 

 瑞希がいつものようにメロンパンを食べている。今日は普通のメロンパン。苺ホイップは売り切れだったらしい。

 

「ねえ勇人、今日も放課後勉強できる?」

「ああ。図書室で」

「ありがと。──あのさ」

「ん?」

「……ううん、なんでもない」

 

 瑞希が言いかけて、やめた。メロンパンをかじって、空を見上げる。

 

 何を言おうとしたのか。──申請書のこと、だろうか。聞きたかった。でも、瑞希が自分から言わなかったということは、まだ言葉にできていないということだ。待つしかない。

 

「……メロンパン、美味いか」

「うん。でも苺ホイップのがおいしいね」

「明日は早起きして購買にダッシュすれば」

「それができたら苦労しないんだよー」

 

 いつもの会話。いつもの屋上。でも、お互いに後ろ手を組んで手の内を見せていないような、奇妙な時間に感じた。

 

 

◇◆

 

 

 放課後。今日も図書室。

 

 昨日と同じ窓際の席。L字型に座って、数学の問題を解いていく。今日はベクトルの応用──位置ベクトルと内分点。

 

「点Aが(2,1)、点Bが(6,5)の時、線分ABを1:3に内分する点Pの座標は?」

「……ないぶん?」

「マジで授業聞いてないなお前は」

「えへへ、すみません」

「はあ……線分を内側で分ける点だ。公式あるだろ。逆比で掛けるやつ」

 

 ノートに線分を描いて、点の位置を書き込む。

 瑞希が俺のペン先を目で追っている。

 距離が近い。昨日と同じ距離のはずなのに、今日はもっと近く感じる。

 

 瑞希が自分でも図を描こうとして、定規がないことに気づいた。

 

「あ、定規忘れた……勇人、貸して」

「ほら」

 

 定規を渡す時、指が触れた。昨日の消しゴムの時と同じだ。でも今日は、瑞希が手を引かなかった。一瞬だけ、指が重なったまま止まった。

 

「……ありがと」

 

 瑞希が小さく声を漏らして、定規を受け取った。

 とは言え、何事もなかったように問題に戻る。でも、指先の温度が消えない。

 

 ……体感温度が上がるのを感じる。落ち着けと、内心で溜息を吐く。

 

 

 一時間ほど勉強して、瑞希の集中力が限界に達した頃。

 

「ねえ、ちょっと休憩しない?」

 

 瑞希が鉛筆を置いて、背もたれに身体を預けた。窓の外は既に夜のとばりがなんとやら、だ。図書室には俺たちの他に数人しか残っていない。

 

「そうだな」

「うん」

 

 数拍ほどの静寂。余りに静かで、まるで絵の中にでもいるような錯覚を覚える。

 おもむろに瑞希が切り出した。

 

「勇人はさ、練習のほう、どう?」

「……悪くない。タイム、少し縮まったよ」

 

 実測値のことは、詳しくは言わなかった。あの記録は瑞希の泳ぎを見た翌日に出たもので、それを説明するには、あの夜、お前が泳いでいるのを見たのを参考にした。と、言ってしまいそうになるから。

 

「そうなんだ。……よかった」

 

 そう言って微笑む。少しだけ寂しそうな笑顔。瑞希は、俺の水泳の話になると時々こういう顔をする。嬉しそうで、でもどこか遠い目をする。自分が手放したものを、俺がまだ持っているから──なんて、考えすぎだろうか。

 

「瑞希は、美術のコンクールの準備は」

「うーん、テーマが決まらなくて。自由制作って逆に難しいんだよね」

「お前の絵、上手いんだから何描いても大丈夫だろ」

「そういう問題じゃないの。描きたいものと、描けるものは違うから」

 

 瑞希の言葉に、少しだけ重みがあった。描きたいもの。──まだ見せてもらってはいないが、例のスケッチブックに描いているものの中に、俺の泳ぐ姿がある。あとはGWの時か。それは知っている。でも、コンクールにはきっと出さないのだろう。

 

「……見つかるといいな。描きたいもの」

「うん。──ありがと」

 

 図書室の窓から山並みの稜線を覗く。はるか遠い南には都市部があり、その光害がフィルターの様にうっすらと見える。

 テーブルの上のノートと教科書は、瑞希の丸っこい文字で彩られている。瑞希の横顔は、いつも通り、朗らかで。

 

 ──こういう時間が、ずっと続けばいいのに。

 

 そう思った自分に、少しだけ溜息が出た。続けばいいと思うのは──今のこの関係が変わることを恐れているからだ。変わりたいのに、変わるのが怖い。矛盾している。ジレンマだった。

 

「じゃ、今日はここまでにするか」

「うん。──ねえ勇人」

「ん?」

「明日もここで勉強しよ。明後日も。わたしがベクトルわかるようになるまで毎日」

 

 瑞希が笑った。いつもの笑顔で。

 

「……いいけど、毎日メロンパンおごれよ」

「えー! 毎日は無理! 三日に一回!」

「交渉すんな」

「勇人のケチ!」

 

 帰り支度をしながら、軽口を言い合う。いつもの俺たち。でも、図書室を出る時に瑞希が俺の制服の袖を──ほんの一瞬だけ、指先で摘んだ。

 

「……今日もありがと」

 

 小さな声。俺は「おう」とだけ返した。それ以上の言葉は、まだ出てこない。

 

 

◆◇

 

 

 水曜日の放課後。

 

 今日は体育祭の実行委員会が入っており、部活はキャンセルだ。

 

 「では次の確認だけれど」 

 

 視聴覚室で、当日のタイムスケジュールの最終調整。

 白石先輩が司会進行をしている。ホワイトボードに時間割を書き出して、各セクションの担当者を確認していく。てきぱきとした仕切り。さすが副会長だ。

 

「天堂くん、フォークダンスの進行係、準備は大丈夫?」

「はい。音響の段取りとペア交代のタイミング表、作ってあります」

「頼もしいわね。──ちなみに、タイミング表はどんな形式で?」

「ガントチャートにして作成してます。後で確認してください」

「ええ、承知しました。ありがとう」

 

 

 委員会が終わった後、先輩に呼び止められた。

 

「天堂くん、少しだけいい?」

 

 視聴覚室に二人。他の委員はもう出ていった。窓の外は夕暮れで、教室の蛍光灯がちかちかと点滅してから安定した。

 

「体育祭の件で、もう一つ確認したいことがあったの。──と言いつつ、半分は雑談なんだけど」

 

 先輩がパイプ椅子に座り直して、髪を耳にかけた。

 

「天堂くん、最近毎日放課後に図書室にいるわよね」

「……見てたんですか」

「生徒会室の窓からね。図書室の窓際の席、ちょうど見えるのよ」

 

 またか。屋上も図書室も、先輩の視界に入っているのか。生徒会室はどれだけ見晴らしがいいんだろうか。

 

「笹倉さんに勉強を?」

「はい。数学を教えてます」

「毎日?」

「しばらくは毎日やる予定です」

 

 先輩が「ふうん」と頬杖をつく。何か楽しそうだ。表情は穏やかな先輩の微笑みなのに、目の奥がきらきらしている。

 

「天堂くん、教えるの上手そうよね。面倒見がいいし」

「普通だと思いますけど」

「普通の男子は、毎日放課後に幼なじみの女の子に勉強教えたりしないわよ。それも一人だけになんてね」

 

 ──言われてみれば、そうかもしれない。

 

 何というかこんな世の中だから、男は女性に対して選り取り見取りみたいな風潮がある。

 俺はそういうのは苦手なのだが、正直俺みたいな考えの持ち主はマイノリティであるという自覚はある。翔太を悪く言うわけではないが、実際一夫多妻制が認められるようになって半世紀以上にもなるし、個人の貞操観念とか、身持ちを固くとか、そんな事を守っていたら世界は急速に人口減少していく。それゆえにそうならない為の体制はある。男の優遇と引き換えに"色々と提供"しなければならないものなども。

 

「笹倉さん、楽しそうだったわよ。窓から見えた限りだけど」

「そうですか」

「天堂くんも楽しそうだった」

「…………」

 

 否定できなかった。先輩が少しだけ口元を緩めた。

 

「いい距離感よね。近すぎず、でもちゃんと近くて」

 

 先輩の言葉が、やけに的確で落ち着かない。

 

「天堂くんは苦手な科目とかはないの?」

「苦手というか……得意ではないのは国語ですかね」

 

 言って、瑞希の顔が思い浮かぶ。

 アイツみたいに物事を情緒的に捉えることができれば、また何か変わるのだろうか。理屈や道理の物差しばかりで考える俺でも。

 

「国語ね、確かにある意味一番正解がない領域よね」

「はあ」

「読解問題とかだと、作者の意図した表現を答えなさい。だけど、受け取り手の視点や見方、人となりによって解釈の定義は千差万別だものね」

 

 先輩が熱を込めて語る。こんなに饒舌なのを見たのは初めてで、結構意外だった。

 

「──あ、ごめんなさい。雑談が過ぎたわ。本題は、フォークダンスの音源データの受け渡しについてなんだけど」

「は、はい」

 

 先輩がさっと話題を切り替えた。

 俺は少し面喰らいながらも、実務の話を手早く済ませる。

 

「じゃあ、お疲れ様」と、先輩は視聴覚室を出ていこうとする。

 扉を閉めようとして、直前に振り返り──

 

「今日も、図書室?」

「そうですね」

「そう。──頑張ってね。勉強会」

 

 笑顔。穏やかな、でもどこか含みのある笑顔。手を二度三度振って翻り、ドアを閉める。

 

 廊下の向こうで、先輩の足音が遠ざかっていく。

 

 先輩との会話は、どうにも引っかかる時がある。

 やたら俺と瑞希の関係性を聞いてくるような、でも本当に興味ありげにはしている感じで。いまいち言語化できないが、俺たちの何に先輩の興味を駆り立てるものがあるのか、逆にそこに興味を抱きつつ、瑞希の待つ図書室に向かった。

 

 

 

◇◆

 

 

 木曜日。

 

 今日は自主練習枠の初日だ。図書室での勉強会は瑞希に断って、部活後もプールに残る。

 

「今日は自主練あるから、勉強は明日な」

「えー、一人で勉強できないよ」

「やれ」

「鬼ー!」

 

 瑞希がぶーぶー言っていたが、「じゃあ美月に教えてもらう」と園田を巻き込む方向に切り替えていた。あいつの状況適応力は大したものだ。

 

 部活が終わってから部室で適当に自習をして、改めて事務室で鍵を受け取り、プール棟に入る。照明をつける。水面が蛍光灯の光を反射して、見慣れた金色の網目模様を作る。

 

 一人のプール。静かだ。自分の足音と、水のかすかな揺れだけが聞こえる。

 

 あの夜、瑞希がここで泳いでいた。同じ場所。同じ時間帯。でも今日、ここにいるのは俺だ。

 

 スタート台には立たない。プールの縁に座って、足先を水に入れる。──瑞希がそうしていたように。

 水が冷たい。でも、知っている冷たさだ。

 

 ゆっくりと水に入った。身体を沈めて、水面に浮かぶ。天井の蛍光灯が視界いっぱいに広がる。

 力を抜く。水に身体を預ける。

 あの日掴んだ感覚を、もう一度。瑞希が見せてくれた泳ぎ方を、自分の身体に刻む。

 

 泳ぎ始めた。バタフライ。肩甲骨の可動域を意識して、水を撫でるように入水する。力まない。水と友達でいる。

 

 一本泳いで、ターンして、また一本。タイムは計らない。今日は身体に感覚を覚えさせる日だ。

 三百メートルを過ぎた頃、身体が水に馴染む感覚が来た。水の抵抗が減る。身体が前に進む。ラスト百メートルでも、腕が落ちない。

 

 ──いい。この感覚だ。

 

 壁にタッチして、息を整える。プールサイドに上がって、タオルで顔を拭く。

 

 ギャラリー席を見上げた。暗い。誰もいない。

 

 ──あの席に、瑞希が座っていた日々が、あったんだろうな。

 

 瑞希はギャラリーから、俺の泳ぎを見ていた。多分何回と。そしてそれをスケッチブックに描いていた。俺は知らなかった。いや、知っていた──でなきゃ、あんなに頭ごなしに見せるのを拒まない気がする。

 知っていて、知らないふりをしている。俺も瑞希も。お互いの秘密を抱えたまま、毎日図書室でL字型に座って、指先が触れるたびに動揺して、でも何も言わない。

 

 滑稽だ。でも、この滑稽さがどこか心地いいのも事実だ。

 プールの水面が静かに揺れている。蛍光灯の光が水底に落ちて、タイルの青を照らしている。

 

 ──来週は体育祭だ。フォークダンスがある。

 

 実は──瑞希が俺を指名したことは知っている。委員会の時にリストで見てしまった。八人目の名前。笹倉瑞希。あの用紙に天堂勇人と書く瑞希の手を想像して、胸が痛んだ。

 

 三分間のダンス。たった三分。でも、その三分間で──何かが変わるかもしれない。変わらないかもしれない。

 

 どちらにしても、あと十日で体育祭は来る。時間は止まらない。0.6秒の壁と同じだ。待っていても縮まらない。

 

 プールから上がって、シャワーを浴びて、着替える。鍵を事務室に返して、校門を出た。

 

 夜の通学路。街灯が等間隔に並んでいて、田んぼの水面にその光が映っている。昼間は逆さ山が見える水面が、夜は街灯の列を反射して、地上の星のように見える。

 

 スマホを開いた。チャットの通知が来ている。瑞希から。

 

『美月に教えてもらったけどよくわかんなかったー(泣)やっぱ勇人先生じゃないとダメ』

 

 ──こいつは。

 

『明日やるから。位置ベクトルの復習しとけ』

『はーい! おやすみ!』

『おやすみ』

 

 スマホをしまう。夜風が心地いい。五月の終わり。もうすぐ六月。

 

 家までの道を歩きながら、思った。

 

 この"いつもの日常"が、俺にとってはもう──いつものじゃなくなっている。

 






◆幕間──笹倉瑞希の場合


 机の引き出しの奥に、あの申請書がある。

 毎日、帰る前に一度だけ引き出しを開けて、紙の角に触れる。勇人の鉛筆の文字を、指先でなぞる。「泳ぎたい時に、泳げるように」。もう何十回なぞっただろう。鉛筆の線が少しだけ薄くなった気がして、慌てて指を離した。

 ──出さなきゃ。

 出さなきゃいけないのはわかっている。勇人がわたしのために用意してくれた場所。あの人がどんな気持ちでこの紙を置いたか、想像するだけで胸が苦しくなる。

 でも、まだ怖い。

 あの夜、泳いだ時の感覚は忘れていない。水が身体を包む温度。腕が水を掴む感触。全部、覚えている。楽しかった。泣くくらい、楽しかった。

 でも、あの場所に正式に戻るということは──逃げた自分を認めるということだ。わたしは水泳から逃げました、でもまた泳ぎたいです、と。それを紙に書いて、先生に提出する。

 図々しくないだろうか。一度捨てたものを、また拾い上げるなんて。

 勇人は「泳ぎたい時に、泳げるように」と書いてくれた。泳ぎたい時に。それは「泳がなくてもいい」という意味でもある。強制じゃない。ただ、道を開けてくれた。扉の前まで連れてきて、「ここにドアがあるよ」と教えてくれた。開けるかどうかは、わたし次第。

 図書室で勇人の隣に座っている時間が好きだ。勇人が数学を教えてくれる声が好きだ。少しだけ低くて、丁寧に言葉を選んでいるのがわかる声。わたしがわからない顔をすると、もう一度別の角度から説明してくれる。その時だけ勇人の声がほんの少し柔らかくなって、「ここがわからないんだろ」と的確に突いてくる。

 消しゴムを取ろうとして手が触れた。指先が重なった一秒。勇人が、手を引かなかった。わたしも、引けなかった。

 あの一秒を、何度も思い出してしまう。

 帰り際、勇人の制服の袖を摘んだ。ほんの一瞬。指先だけで。勇人は「おう」とだけ言った。──それだけでよかった。「ありがとう」が言えただけで、今日は十分だった。

 でも。

 「ありがとう」の先にある言葉を、わたしはいつ言えるんだろう。

 申請書の角を、もう一度だけ触って、引き出しを閉じた。



















◆幕間──白石凛の場合


 生徒会室の鍵を閉めて、廊下に出る。部活帰りの後輩とすれ違って「お疲れ様です」と会釈される。「お疲れ様」と返しながら、ポケットの中のスマホが手に馴染む。

 校門を出て、通学路を五十メートルほど歩いたところで──周囲に誰もいないことを確認してから、スマホを開いた。

 メモアプリ。「ゆうみず進捗ノート」。

 今日の日付をタップして、新規エントリを作成する。指が躍っている。平常心。わたしは冷静。冷静だから。

『5/21(水)

【観測報告】
・図書室勉強会、三日連続を確認。窓際のL字席が定位置化。(※定位置の発生は関係性の進展において重要な指標)
・天堂くん、笹倉さんの寝顔をずっと見守っていた模様。(※窓から確認。起こす素振りなし。これは見守りの発現。重要度:★★★★★)
・廊下で遭遇した際の二人の距離感、約40cm。先週より近い。目測だけど。
・笹倉さんの耳、赤かった。天堂くんは耳ではなく首の後ろが赤くなるタイプ。今日確認済み。

【本日ハイライト】
・天堂くんに「笹倉さん、楽しそうだったわよ」と伝えた時の反応。→ 否定せず。沈黙3秒。これは肯定の沈黙。天堂くんは否定する時は即座に「違います」と言うタイプなので、沈黙=図星。
・「いい距離感よね」に対するリアクション、やや狼狽。うん。よい。

【考察】
・図書室の勉強会は、二人にとって"幼なじみの延長"として正当化できる接触機会になっていると思料する。
・あのヤキモキする二人が"幼なじみだから勉強を教えるのは普通"という名目で距離を詰めている。本人たちは自覚しているけど当然それを言及せず。尊い。
 ※ただし、笹倉さんの数学が上達してしまうと勉強会の口実が消失し、距離が戻るリスクあり。…とはいえ壊滅的という話から、しばらくはこの体制が続くと予測。体育祭(5/31)までに何らかの進展があることが望ましい。

【次回アクション】
・体育祭当日、フォークダンスの進行は天堂くんが担当。つまり自分の順番が来るまで裏方。笹倉さんは観客席で待機。この「待つ時間」が二人の感情を煮詰める装置として機能するはず。完璧な配置。(※わたしが進行係に天堂くんを指名したのは純粋に実務能力の評価であり、他意はない。他意はないが、結果的に最高のシチュエーションになったことは認めざるを得ない)
・フォークダンス中、本部テントからの観察ポジションを確保済み。双眼鏡は……さすがにやりすぎか。肉眼で頑張る。
・障害物競走のカード、「好きな人と手を繋いでゴール」を数枚混入済み。(※生徒会の余興として実行委員会で承認済みの企画。わたし個人の趣味ではないけど、
……天堂くんが引いたらどうしよう。いや、引かなくてもいい。引いた人の反応を見るだけで十分な観測データが──)』



「ふふふふ……」


 思わず笑いが零れる。
 あああああ楽しみすぎる!
 体育祭まであと10日。長い。10日が長い。

 待って落ち着け白石凛。副会長の顔を保て。わたしは生徒会副会長。学校運営の要。公正で冷静な判断力の持ち主。推しカプの進捗に一喜一憂する人間ではない。ない。ないったらない。

 ……でも天堂くんが寝顔を見守ってたのは本当に尊かった。あれは小説に使える。というか使う。次の章で。主人公が図書室でヒロインの寝顔を見つめるシーン、今夜書く。絶対書く。今の感情が新鮮なうちに。

 OK。深呼吸。副会長モードに切り替え。

 ……切り替え。

  …………切り替え。

  ……………………だめだ今日は無理。


 スマホを仕舞って、通学路を歩く。背筋を伸ばして、副会長の顔に戻る。すれ違う後輩に「お疲れ様」と微笑む。完璧な笑顔。誰も気づかない。わたしの中で渦巻いているものには。

 帰り道、田んぼの水面に夕焼けが映っていた。きれいだな、と思う。オレンジの空が二つ。本物と鏡像。

 ──天堂くんと笹倉さんも、そうだ。互いが互いの鏡になっている。でも二人とも、水面に映った自分の気持ちをまだ覗き込めていない。

 早く気づいてほしい。でも、急がなくていい。この「もどかしい距離感」が、一番おいしいのだから。

 ……副会長として言っているのか、小説書きとして言っているのか、カプ推しとして言っているのか、もう自分でもわからない。まあいい。全部わたしだ。


 ああ、ありがとう。二人とも。
 こんな世の中で貴重な青春純愛モノをリアルに目の当たりにできて、副会長はとっても眼福よ。

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