禪院全「全ては僕の為に」 作:羂索ハードモード
たかが野良の呪詛師に後れを取って萎えたなら、もう禪院家に帰るといい。……足手まといだ。
……あ゙?
廉直女学院の北側、通用口付近の静けさに包まれた裏庭にて。
夏油傑は、生い茂る木々の合間に立つ一人の呪詛師と対峙していた。
その男の出で立ちは、異様の一言に尽きた。
体格の良い長身に、Tシャツにチノパン姿のラフな姿。だが、その頭部には奇妙な「茶色の紙袋」のようなものをすっぽりと被っており、目の部分だけがくり抜かれているという、到底正気の沙汰とは思えない姿だった。
「……おや、六眼じゃない方が来たね」
紙袋の男は特級呪術師である傑を前にしても全く動じる様子がなく、ポケットに両手を突っ込んだまま悠然と構えていた。
その口調は軽薄で、どこか楽しげな響きすら含んでいる。
「――アンタ、Qの残党? それとも盤星教か?」
傑は掌に青い風の呪力を練り上げながら低く鋭い声で尋ねた。
もしどちらかの組織の刺客であれば、情報源として制圧する手心を加える必要があるからだ。
だが、紙袋の男は傑の問いに、くすくすと肩を揺らして笑った。
「そのどちらでもないよ」
男は首を傾げ、まるで世間話でもするかのようにあっけらかんと告げた。
「そうだね……例えば今、星漿体には
「……っ」
三億。
その途方もない金額を聞いた瞬間、傑は思わず目を剥いた。
「――野良の呪詛師か!」
「フフ」
特定の組織に属さず、ただ裏社会の闇サイト等で莫大な懸賞金に釣られて群がってきた、フリーの暗殺者。
つまり、この女学院に迫っている刺客は、こいつや先ほど直哉が向かった相手だけではない可能性が高いということだ。
「たった一人の、罪なき少女を殺すのに三億……? 随分と金が余っている依頼主がいたものだな」
傑の顔が、嫌悪と怒りに険しく歪む。
天元の同化を阻止するために、そこまでの大金をポンと出せる組織など、盤星教くらいしか思い当たらない。だが、彼らが自らの手を汚さず、金で不特定多数の野良の呪詛師を動かす戦術に出たのだとすれば、事態は極めて厄介だ。
「いやあ、どこかの誰かのおかげで、今の呪術界は呪詛師の数が激減しちゃっててね? 仕事控えもあって裏社会での『呪詛師への依頼単価』はうなぎのぼり。かつての十倍はかたいのさ、まいっちゃうよね!」
紙袋の男は、まるで景気の良い話をするように愉快そうに笑った。
「命がけで
男の言う「どこかの誰か」――それは言うまでもなく、呪詛師を資源として狩り尽くしている禪院全のことだ。
全のシステムが結果として裏社会の暗殺の相場を異常に高騰させ、理子の命を狙う刺客たちをより凶悪で貪欲なものへと変質させている。
「……もういい、喋るな」
傑の我慢が限界に達した。
これ以上、人間の命を金で換算し、あまつさえ楽しそうに語るこの外道の言葉を聞く気はなかった。
「
傑が腕を鋭く振り抜いた瞬間。
彼の指先から放たれた極度に圧縮された風の刃が、不可視の斬撃となって紙袋の男へと一直線に飛翔した。
ヒュンッ! という空気を切り裂く音。
だが、男は避ける素振りすら見せなかった。
――スパンッ。
何の手応えもなく、男の被っていた紙袋ごと、その頭の額から上あたりが風の刃によって綺麗に両断された。
鮮血が噴き出す――かに見えた。
「……!?」
しかし、斬り飛ばされたはずの頭部からは血の一滴も流れず、男の身体全体がまるで泥か粘土のようにドロドロと溶け崩れ始めたのだ。
「式神……!? いや、分身体か!」
「正解!」
溶け落ちていく泥の顔から、男の嘲笑するような声が響いた。
本体はここにはいない。初めから、この分身体を囮としてよこして傑を足止めする腹積もりだったのだ。
「さあて、楽しい楽しい鬼ごっこといこうじゃないか」
泥が完全に崩れ落ちる寸前、男の楽しげな声が裏庭にこだました。
「……はたして、鬼はどっちかな?」
ベシャッ、と分身体が完全に形を失い、地面に茶色い染みを作る。
傑はギリッと奥歯を噛み締め、すぐに周囲の風を読み直した。
(しまった……! 時間を稼がれた!)
三億の懸賞金。そして、この狡猾な分身体の術式。
もしこいつの本体が、自分が足止めされている間に、悟たちの向かった礼拝堂――理子の方へと向かっているのだとすれば。
あるいは、他の野良の呪詛師たちが、すでに学園のあちこちに潜り込んでいるのだとすれば。
「悟……! 急いで理子ちゃんを連れて、ここから離脱しろ!」
傑は通信機に向かって叫びながら、再び青嵐の呪力を纏い、学園内へと翔ぶような疾走を開始した。
呪詛師が理子を追うのか、傑たちが呪詛師を追うのか。そんなことはどちらでもいい、彼女の命を守り抜く。ただそれだけのために、特級呪術師の風が猛然と吹き荒れた。
***
「なんや、まだ獲物おるやんけ」
廉直女学院の校舎内、理子たちが先ほどまでいた礼拝堂へと続く渡り廊下。
正門での「狩り」を早々に終え、騒ぎの気配を察知してやってきた禪院直哉は、だるそうに首をポキリと鳴らしながら、その場に立ちはだかる異様な男をねめ回した。
茶色い紙袋のようなものを被った怪しげな男。
先ほど傑が対峙した分身体とは別の、また新たな分身体――あるいは本体か。
「星漿体はどこかな?」
男は現れたのが傑でも悟でもない禪院の術師であることには大して驚いた様子も見せず、ポケットに両手を突っ込んだまま、のんびりとした口調で尋ねてきた。
「……答えるとお思いですか」
直哉の横に並び立った黒井が、鋭い声で言い放つ。
彼女の手には、近くの掃除用具入れから拝借してきたであろうモップが、槍のようにしっかりと構えられていた。
理子を悟に預けて先に行かせた彼女は、
「おお、怖い怖い。でも、おとなしく通してもらえるかな、三億はでけえからなぁ……なんてね」
紙袋の男がクスクスと笑いながら一歩踏み出した瞬間。
黒井が、まるで訓練された武闘家のような無駄のない動きで肉薄した。
「はぁっ!」
気合とともに、モップの柄が男の顔面を正確に狙って突き出される。
しかし、男はそれを首をわずかに傾げるだけで軽々といなした。
黒井は怯むことなく、二度、三度とモップを振り回し、胴や足を狙って鋭い連撃を打ち込む。並の呪詛師であれば対応に遅れるほどの、鍛え抜かれた体術の冴えだ。
――だが。
男はなんの問題もなく、黒井の攻撃を流れるように躱していく。
「筋はいいけど、少し素直すぎるね」
男は三撃目のモップの柄を右手で払い除けると同時に、黒井の腹部を的確に捉え、鋭い前蹴りを叩き込んだ。
「がっ……!」
黒井はくぐもった呻き声を上げ、たまらず後方へと転がった。
そのまま床を滑り、直哉のすぐ隣でうずくまりながら荒い息を吐く。
「……アンタ、思ったより動けるやん」
直哉は腹を押さえて顔を歪める黒井を一瞥し、ほんの僅かに感心したように口の端を吊り上げた。ただの使用人かと思いきや、これほどの身のこなしと度胸を持っているとは思わなかった。
「うちの『灯』の女どもに負けとらんわ、中々の根性しとる。……ま、根性だけあってもしゃーないけどな」
直哉は黒井の横を通り、一歩前へと進み出た。
「気を付けてください……! 先ほど、夏油様から通信が入りました……そいつは、分身を生み出す呪詛師です!」
黒井が咳き込みながら警告を発する。
だが、その言葉を聞いた直哉の顔に浮かんだのは警戒ではなく――狂喜の笑みであった。
「ほーん、分身の術式か。中々のレア物やんけ」
直哉の瞳が、獲物を見つけた猛禽のようにギラリと光る。
「こりゃあ、当主サマへの手土産には最高やな。ご褒美はたんまりと弾んでもらえるやろ――なぁ!!」
直哉の姿が、またしても掻き消えた。
禪院家相伝、投射呪法。一秒間に二十四回の動きをあらかじめ設定し、それを神速でトレースする絶対的な『速さ』と『正確さ』の暴力。
黒井の目には、直哉が消えた瞬間に、すでに紙袋の男の懐へともぐり込んでいたようにしか見えなかった。
(――もろたで)
直哉は男の顔面――被っているふざけた紙袋ごと、完璧なタイミングで拳を叩き込もうとした。先ほどの正門の老いぼれと同じように意識を刈り取り、手足を砕いて生け捕りにする。
その確信に満ちた一撃が男に直撃する、まさにその刹那。
「投射呪法か。いいね」
紙袋の男の全く焦りのない声が直哉の耳に届いた。
「比較的新しい術式だけど、面白い性能してると思うよ」
――ズガッ!!
直哉の拳が男の顔面を捉えるよりも速く。
その鳩尾に、信じられないほどの重い「蹴り」が叩き込まれていた。
「……は」
直哉の目が限界まで見開かれ、肺の中の空気が一瞬にして空っぽになった。
男の蹴りは直哉の投射呪法の軌道を完全に
「――がはっ!!」
ペナルティによってフリーズした直哉の身体がくの字に折れ曲がり、後方の壁へと凄まじい勢いで吹き飛ばされた。
激しい衝突音が響き、壁にヒビが入る。
「ゲホッ……!! な、なんやと……!?」
直哉は床に崩れ落ち、血の混じった唾を吐き捨てながら、信じられないものを見るような目で男を睨みつけた。
(なんでや……。俺の動きに、カウンターを合わせよった……!?)
投射呪法の動きは、あらかじめ作られた軌道をトレースするため、途中で変更が効かないという弱点はある。
だが圧倒的な速さの前に、並の術師であれば反応すらできずに粉砕されるはずだ。
それをこの男は――まるで直哉がどう動くか、コンマ一秒の狂いもなく完璧なタイミングで蹴りを置いていたのだ。
「ふふっ」
紙袋の男は、吹き飛ばされた直哉を見下ろしながら、楽しげに笑った。
「スピードは申し分ない。でも、動きが直線的すぎるね。これじゃあ、三億の賞金首の護衛としては、少し頼りないかな?」
男のその言葉は、彼の肥大化した自尊心をこれ以上ないほどに逆撫でするものだった。
「……ナメとんか、ワレ」
直哉は、ゆっくりと立ち上がりながら、顔を怒りで真っ赤に染め上げた。
幼き日に全と甚爾という絶対の暴力を見せつけられ。そして真希と恵という次世代の才能を見せつけられ。それらを努力で超えようと磨き続けている、己の投射呪法。
それを、どこの馬の骨とも知れぬ野良の呪詛師に「面白い性能」と上から目線で評価され、あまつさえカウンターを合わせられたのだ。
直哉のプライドが、許すはずがなかった。
「もう一遍や。……今度は、死なん程度の手加減なんてせんぞ」
直哉の全身から凄まじい殺意と呪力が立ち昇るが、紙袋の男はそれでも余裕の態度を崩さない。
「おいでよ。鬼ごっこでもはじめようじゃないか」
紙袋の男の姿が二体へと分裂し、それぞれが手招きをするようにクイッと指を動かした。
***
「で、天内の首に3億の賞金がかかってるって?」
廉直女学院の校舎の屋根から屋根へと、五条悟は天内理子を小脇に抱えながら、軽快に、それでいて常人には不可能な速度と跳躍力で飛び移っていた。
彼の片手には、通話状態のガラケーが握られている。スピーカーからは、傑の険しい声が聞こえてきた。
『……ああ。呪詛師御用達の闇サイトで、堂々と掲載されているそうだ。明後日の十一時までの期限付きでな』
傑の声には、焦燥と怒りが入り混じっていた。
『禪院全が術式売買のビジネスを始めた影響で、呪詛師たちは総監部や御三家から血眼になって狩られるリスクが跳ね上がっている。……活動を控えて干上がっていた連中にとって、単発短時間で三億も稼げる仕事となれば、簡単に飛びつくはずだ』
「なるほどねぇ」
悟は、足元の瓦屋根を蹴ってさらに隣の校舎へと飛び移りながら、ニヤリと笑った。
「禪院全のせいで日陰モンになった連中が、一攫千金狙って一斉に群がってくるってワケか。こりゃあ、マジでボーナスステージかもな」
『笑い事じゃない、悟! 野良の呪詛師がどれだけ湧いてくるか分からないぞ。……私もそちらへ向かう』
その言葉に「おー、頼むわ」と軽く返事をし、悟はガラケーをポケットに放り込んだ。
そして見晴らしのいい屋上へと降り立つと「ひゃああああっ!」と情けない悲鳴を上げていた理子をポンと下ろし、地に足つけてやる。
「ほら、着いたぞガキンチョ。ここなら見晴らしも良いし、下からコソコソ登ってくる奴らも丸見えだ」
「な、なんちゅう乱暴な運び方じゃ……!
理子が涙目で抗議するが、悟は全く意に介さずに屋上のフェンスの上へひらりと飛び乗った。
彼の視界――
茶色い紙袋のようなものを被った体格の良い男たち。
先ほど傑が裏庭で両断した分身と、直哉が校舎内で相対している男と全く同じ姿をした呪詛師が、横一列に並んで悟たちを包囲するように立ちはだかっていた。
「なぁ、オッサン」
悟はフェンスの上にしゃがみ込み、彼らを見下ろしながら、心底馬鹿にしたような、それでいてどこか楽しげな口調で問いかけた。
「今時、呪詛師なんて流行らないぜ? 血眼になった呪術師に狩られて禪院の当主サマの
「そうだね。私も呪詛師たちにとっては未だかつてないくらい大変な時代になったと思うよ」
悟の挑発に対し、三人の紙袋の男は不気味にくすくすと肩を揺らして笑う。
「み、皆同じ背格好じゃ……! 式神か?」
悟の背後に隠れるように立った理子が、冷や汗を流しながら三人の人影を凝視した。
一つの術式で複数の式神を使役する術師は珍しくない。だが、これほど完全に人間と同じ姿、同じ気配を持った式神は、そうそうお目にかかれるものではない。
「いいや。分身の術式ってところだな」
悟は、六眼から得られる情報を元に、あっさりとその正体を見破ってみせた。
「本体含めて、MAX五体の分身。……で、どれが本体か、常に自由に選択できるってわけだ。例えば、俺が右端のやつをぶっ殺した瞬間に、左端のやつを
五つの命を持ち、しかもそれを自在に入れ替えられる。
暗殺や生存において、これほど厄介で強力な能力もないだろう。禪院全が喉から手が出るほど欲しがるであろう「レア物」だ。
だが、悟の顔には余裕があった。どんなに便利な分身だろうと、自分の無下限呪術と六眼の圧倒的な出力の前にはまとめて消し飛ばせば済む話なのだから。
――しかし。
「……だが」
悟は、丸いサングラスを少しだけ下にずらし、蒼天の瞳を細めて三人の紙袋をじっと睨みつけた。
「お前を見る時、妙に六眼にノイズがかかってる。……なんか小細工してんな?」
世界を原子レベルで観測し、術式を暴き呪力の流れを完璧に読み取るはずの六眼。
それが、目の前にいる三人の呪詛師はなぜかモヤがかかったようにぼやけて認識しているのだ。
「分身の術式だけじゃないだろ。他にもなんか持ってんな……禪院家で楽しくお買い物でもしたのか?」
「さあ、どうだろうね?」
視えないわけではない。だが、まるで古いテレビの砂嵐のように、微細なノイズが視界の端でチラチラと邪魔をしている。
分身の術式以外に、何か別の要因――六眼の観測をピンポイントで阻害するような
「フフッ」
真ん中に立つ紙袋の男が口を開き、楽しげに笑った。
「五条悟。『六眼』というチート能力を前にして、何の対策もなくノコノコと姿を現すほど私も愚かじゃない」
男の言葉には特級呪術師に対する恐怖も、最強の神童に対する畏怖も微塵も感じられなかった。
あるのはただ、綿密に計算された「ゲーム」を楽しむような響きだけ。
「さあ、しばらく遊んでもらおうかな?」
男がそう告げた瞬間、三人の分身体がそれぞれ全く異なる動きで屋上に展開した。
一人は理子の方へ、一人は悟の背後へ、そして最後の一人は悟の正面へと一糸乱れぬ連携と、六眼のノイズ。
「ふむ、まだ術式反転は使えないみたいだね」
悟の展開する『無下限呪術』の絶対不可侵の空間に阻まれながらも、まるでダンスを踊るかのように軽快なステップで彼を包囲し、次々と打撃を打ち込んでは弾かれていた。
その内の一人が、悟の放った『術式順転・蒼』の引力によって凄まじい勢いで壁に叩きつけられ、泥のようにドロドロと溶け落ちる。
「うるせー。練習中なんだよ。……蒼だけで十分だしな」
悟は苛立たしげに舌打ちをし、すぐさま別の分身体へと指先を向けた。
圧倒的な呪力出力と、青の引力による物理破壊。分身体たちは触れることすらできず、一撃もらうたびに泥となって消滅していく。
だが、すぐにその体のどこかから生えてくるように新たな紙袋の男が補充されては、常に三体の数を維持し続けていた。
破壊から一定時間は補充が効かないようだが、巧みに悟の攻撃を躱し、いなして時間を稼いでいく。
「まあ、そうかもしれないけど」
正面から悟の蒼を躱し、空中で身を翻した紙袋の男が、空中で器用に口を開く。
「少し退屈だね。せっかく、無下限呪術とノーリスクでやり合える機会なんてそうそうないのに、反転の『赫』が使えないんじゃあ、片手落ちだ」
その言葉は、まるで格闘ゲームのCPUがプレイヤーの腕前を評価しているかのような、ひどく無機質で余裕に満ちたものだった。
彼らは悟にダメージを与える気など毛頭ないかのように、ただひたすらに巧みな呪力操作と洗練された体術だけで、悟の攻撃をギリギリで躱し、時には青を被弾して泥となり、悟の意識を屋上のこの場に釘付けにすることだけを目的に動いていた。
そして。
悟が累計七体目の分身体を蒼の引力で捻り潰し、次いで背後に回り込んできた最後の一人を蹴り飛ばそうとした、その瞬間だった。
「――おや、終わったみたいだね」
最後の一人となった紙袋の男がふいに動きを止め、満足げにそう呟いた。
その声には先ほどまでの「遊び」の気配が抜け落ち、仕事をやり遂げた暗殺者のような冷徹な響きが宿っていた。
「……は?」
悟は蹴りの軌道を止め、訝しげに眉をひそめた。
終わった? 何がだ。まだ理子もここにいるし、お前をぶっ殺してもいない。
「それじゃあ、そろそろお暇するよ。……またね?」
男は、最後に被っていた紙袋をポンと叩くような仕草を見せると。
悟の攻撃を受けるまでもなく、自ら進んで全身をドロドロの泥の塊へと変え、屋上の床に茶色い染みを作って完全に消滅してしまったのである。
六眼のノイズも、気配も、呪力の残滓も。すべてが綺麗さっぱりとこの学園から消え失せた。
「……は?」
悟は、完全に虚を突かれたように、ポツンと残された泥の染みを見下ろした。
「天内はまだここにいるのに……。あいつら、俺を殺す気も、天内を攫う気もなかったってのか……?」
暗殺でも、誘拐でもない。
ただ、特級呪術師である悟と傑、そして一族最速の直哉の三人を、それぞれ「時間稼ぎ」として学園の各所に釘付けにしていただけ。
その事実に悟が思い至り、ゾッとするような嫌な予感が背筋を駆け抜けた、まさにその時。
――ヴーッ、ヴーッ!
理子のポケットで、ガラケーが振動する。
「うん? 黒井からじゃ……ッ!?」
悟の背後に隠れていた理子が、慌てて携帯電話を取り出し、画面を確認して悲鳴のような声を上げた。
理子の顔から、スゥッと血の気が引いていく。
「ど、どうしよう……黒井が、黒井が……っ!」
理子はガラケーを取り落とし、両手で顔を覆って泣き崩れた。
その携帯電話の画面には、薄暗い部屋で猿轡を噛まされ、気を失って椅子に縛り付けられている黒井美里の姿を映した写真が、無慈悲に表示されていた。
五条悟。夏油傑。禪院直哉。
この学園に配置された、若き呪術界の最高戦力とも言える三人の術師が、紙袋の分身体と「遊ばれている」間に。
黒井美里は、星漿体の暗殺を目論むもう一つの勢力――天元を崇拝し、星漿体の同化を「不純」として許さないカルト宗教集団『盤星教・時の器の会』の信者たちによって、音もなく攫われていたのであった。
***
廉直女学院の屋上は痛いほどの静寂と、息の詰まるような重い空気に支配されていた。
傑の携帯電話に送られてきた、薄暗い部屋で猿轡を噛まされ、椅子に縛り付けられている黒井の画像。
それを見た理子は携帯電話を取り落とし、両手で顔を覆ってその場に泣き崩れていた。
分身体を操る「紙袋の男」――賞金稼ぎの呪詛師による、完璧な足止め。
特級術師である五条悟と夏油傑、そして特別一級術師にして禪院家最速級の禪院直哉。この学園に配置された若き最高戦力たる三人が、それぞれ見事なまでに敵の
武術の心得があるとはいえ、非術師に毛の生えた程度の黒井一人を盤星教「時の器の会」の狂信者たちが拉致するのは赤子の手をひねるよりも容易かったはずだ。
「ヒッ……うぅ……っ、黒井……」
理子の嗚咽が、コンクリートの屋上に虚しく響く。
そしてその涙で濡れた理子の視線が、ふと、不機嫌そうに舌打ちをしている一人の男――直哉へと向けられた。
理子の瞳に宿っていたのは、明確な
直哉が黒井の護衛に残っていれば。あるいは、さっさと自分の相手を片付けて黒井のカバーに回っていれば、こんなことにはならなかったのではないか。
誰の影響が一番大きかったかといえば、結果論とはいえ、黒井と分断される形を作ってしまった直哉であることは明白だった。
「……」
その責めるような視線が真っ直ぐに突き刺さり、直哉のこめかみにピキリと青筋が浮かび上がった。
「……なんやその目。俺が悪いんか?」
直哉の声は這うように低く、剣呑な響きを帯びていた。
ただでさえ、得体の知れない野良の呪詛師に自分の『投射呪法』の軌道を読まれ、カウンターを合わせられた挙句に逃げられたことで、直哉の腹の中は煮えくり返っていたのだ。
それに加えて、足手まといのガキから怨み言のような視線を向けられれば、彼の肥大したプライドが黙っているはずもない。
「そもそも、お前の使用人がヘボかっただけの話やろ。俺に手ェ引いてお守りしとけとでも言うんか? 勘違いすんなや、俺の任務はお前を天元サマの所へ生かして届けることだけや」
直哉が一歩踏み出し、苛立ちに任せて理子を見下ろした、その時。
「――よせ、直哉」
静かに、だが明確な圧を込めた声で直哉を制止したのは傑だった。
「なんや、傑クンも俺のせいや言うんか」
「……いや、直哉のせいじゃないよ。私も、黒井さんの『人質としての価値』を見誤っていた」
傑はそう言いながら、ガシガシと苛立たしげに自身の黒髪を掻き乱した。
盤星教の目的は星漿体の暗殺。ならば世話係など放っておいて、理子本人に全戦力を向けてくるはずだと思い込んでいた。だが、敵は理子に護衛が集中している隙を突き、あえて弱い黒井を拉致するという盤外戦術に出てきたのだ。
ヒーローでありたいと願いながら、守るべき弱者を攫われた。その事実が、傑の心を重く苛んでいた。
しかし、そんな傑の苦悩など、禪院家の純粋な実力至上主義の中で育った直哉には一ミリも理解できない――否、理解する価値すらないものだった。
「別に無視したらええんやない?」
直哉は、心底どうでもよさそうに肩をすくめ、鼻で笑った。
「女中一人攫われたところで、痛くも痒くもないやろ。お嬢サマをさっさと
直哉にとっての最適解。
それは人質など見捨てて最短ルートで任務を完遂すること。人間を資源として消費する全のシステムの中で生きる彼にとって、とりたてて価値のない使用人ごときの命など、路傍の石ころと同義であった。
だが、その冷酷すぎる言葉は理子の張り詰めていた心の糸を無惨に断ち切った。
「……絶対に、駄目ぇ!!」
理子は、声を振り絞って叫んだ。
大粒の涙をポロポロとこぼし、震える両手で自身の制服のスカートを強く握りしめる。
「黒井は……黒井は、私のたった一人の家族なのっ……! 黒井を助けてからじゃないと、同化なんて絶対に出来ないっ!!」
それは、天元との同化を「名誉」だと強がっていた少女の、あまりにも子供らしく、悲痛な本音だった。
理子はそのまま膝から崩れ落ち、屋上のコンクリートに顔を伏せて声を上げて泣きじゃくり始めた。
「……はぁ」
その光景を見下ろしながら、直哉は深く、わざとらしいほどに大きなため息を吐いた。
「ほんま、ガキのお守りは疲れるわ。自分の立場も分かっとらんワガママ娘に振り回されるんは、ご免被りたいもんや」
忌々しげに吐き捨てた直哉の言葉。
それに対して、傑の眼差しが、スッと氷のように冷たく細められた。
「『天内理子の要望にはすべて応えよ』。……それが、天元様のご命令だよ」
傑の声には、先ほどまでの穏やかさは微塵もなく、特級術師としての圧をはらんだ静かな怒りが静電気のように帯びていた。
彼は冷ややかな視線で直哉を横目に見据え、突き放すように言い放つ。
「たかが野良の呪詛師に後れを取って萎えたなら、もう禪院家に帰るといい。……足手まといだ」
ピタ、と。
屋上の風の音が消えたかのように、空間の温度が急激に下がった。
「……あ゙?」
直哉の目が、血走ったように吊り上がる。
彼にとって最も触れられたくない屈辱。それを、特級とはいえよりにもよって一般出の同年代から「負けて萎えた」と評価され、あまつさえ「足手まといだから帰れ」と一蹴されたのだ。
殺意に近い呪力が、直哉の全身からゆらりと立ち昇る。
だが、傑はそんな直哉の安い殺気など完全に無視し、泣き崩れる理子の前へと静かにしゃがみ込んだ。
そして震える彼女の細い肩を、両手でしっかりと力強く掴む。
「……大丈夫。私が……私達がいる」
傑のその言葉は、理子を安心させるためだけの空虚な慰めではなかった。
それは、彼自身が信じる「呪術師としての在り方」――弱きを助けるヒーローとしての誓いそのものだった。
その低く、穏やかで、絶対的な安心感を伴った声に。
理子はしゃくり上げながらも、涙を溜めた瞳でゆっくりと顔を上げた。
目の前にあるのは、自分を見捨てないと言ってくれる、揺るぎない青年の眼差し。
「そうだな。まあ……次の相手の出方は確定してるしな」
理子の背後から、ガシガシと銀髪の頭を掻きつつ悟がのんびりとした口調で会話に加わった。
彼の顔には、焦りも悲壮感もない。ただ、盤面を俯瞰するプレイヤーとしての冷徹な余裕だけが浮かんでいた。
「人質の交換だね」
傑が立ち上がりながら、悟の言葉を引き継ぐようにして状況を整理し始めた。
「理子ちゃんと、黒井さんの交換。――そして、交渉上、優位にあるのは間違いなく
その言葉の意味を理子はすぐには理解できなかったようだが、この場にいる三人の呪術師は皆、即座に同じ結論を共有していた。
口に出しては言わないが、この誘拐劇において人質である『黒井美里』と要求されるであろう『天内理子』とでは天秤にかけるのも馬鹿らしいほど、天と地よりも価値に差があるのだ。
盤星教の目的が「星漿体の抹殺」である以上、彼らが喉から手が出るほど欲しいのは理子の命だけ。対して、黒井の命など彼らにとっては理子を釣り出すための餌でしかない。
故に、トレードが成立し得ないほどの価値の差があるからこそ、盤星教は「交渉のカード」としての価値を無くさないために、黒井を容易に殺すことはできない。
理子という絶対的なジョーカーを握っているこちら側が、主導権を握ることは容易いのだ。
「拉致犯からの連絡を待つぞ」
悟は短く言い捨てると理子に背を向け、眼下に広がる街の景色へ視線を移した。
その背中は、「泣いている暇があるなら覚悟を決めろ」と暗に告げているようだった。
「……うんっ。絶対、絶対に、助ける!」
理子はぐしぐしと制服の袖で乱暴に涙を拭い、強く鼻をすすった。
まだ足元はおぼつかないが、それでも彼女は自らの意志で屋上のコンクリートを踏みしめて立ち上がる。
恐怖と不安で震えていた少女の瞳に、黒井を絶対に取り戻すという確かな決意の光が宿っていた。
その立ち直る姿を傑は優しげに見つめ、ぽん、と励ますように彼女の背中を叩いた。
「チッ……」
その一連の美しい絆の確認作業を忌々しげに眺めながら、直哉は深く、わざとらしいほどに大きなため息を吐き捨てた。
「ほんま、胸糞悪いお遊戯会やな。……
文句を垂れながらも、直哉は背を向けた三人の後を追うように歩き出す。
「足手まとい」という傑の言葉が腹の底で煮えくり返っていたが、ここで帰ればそれこそ全の評価を下げることになりかねない。
それに何より、投射呪法をいなして挑発しながら逃げ回り、逃げ切ったあの『紙袋の男』に、絶対にお礼参りをしてやらねば気が済まなかったからだ。
それぞれの思惑と矜持、そして歪みを抱えたまま。
護衛部隊の三人は、攫われた黒井を奪還すべく、次なる交渉の舞台へと足を踏み出していくのであった。
***
「「めんそーれーッ!!」」
翌日の昼過ぎ。
碧く透き通った沖縄の海。眩いばかりの白砂のビーチ。そして、南国の太陽を全身に受けながら、理子と悟が大はしゃぎで波打ち際を駆け回っていた。
「うわっ! 海あっったけー! てか綺麗すぎね!?」
「ふはは! 東京の海とは大違いじゃな! 妾の方が先に向こうの岩まで泳いで見せるわ!」
「あっ、テメッ! 待てガキンチョ! 俺が一番に決まってんだろ!!」
昨日、あんなにも泣き崩れていた理子の面影はどこにもない。
無事に救出された黒井と、初めて訪れた沖縄の砂浜と、何よりもこの眩しすぎる太陽の下で弾ける南国の空気が、少女の心をすっかり上向きにしていた。
そうなった経緯はこうだ。
昨夜二十一時頃、拉致犯――盤星教「時の器の会」の信者たちから取引場所の指定が送られてきた。
だがその場所が、よりによって沖縄だったのである。
通常であれば移動に時間がかかるため悪手とも思える距離の指定だが、彼らには事情など知ったことではなかった。
飛行機でぶっ飛ばし、朝九時に沖縄の地を踏んだ一行は――十一時には、もう拉致犯の全員をふん捕まえていた。
護衛対象が無事で、拉致犯も制圧済み。そして同化は明日。
ならば多少の息抜きは許されるだろう、と。こうして、残された時間を使ってビーチで遊んでいるのである。
「まさか非術師にやられるなんて、自分が情けない……本当に、申し訳ございません……」
砂浜のパラソルの下。
濡れた髪を肩にかけたまま、黒井はバスタオルに包まって深く頭を下げていた。
プロの世話係として理子を生涯守ると誓っていながら、あっさりと「時の器の会」の非術師たちに不意を打たれ、拉致されてしまった。その不甲斐なさが、何より黒井自身を苛んでいた。
「不意打ちは仕方がないよ」
傑はパラソルの影に座り、穏やかに、だがどこか苦い笑みを浮かべて首を振った。
「それに、責任は私達にもある。黒井さんを一人で殿に残したのは私達の判断ミスだ。……あの紙袋の呪詛師が分身体で全員を足止めしている最中に、非術師の信者がこっそり裏から黒井さんだけを狙うなんて、あまりにも手際が良すぎた」
傑の言葉に、黒井はなおも「いえ、それでも……」と食い下がったが、傑は「もう済んだことだよ」と優しく制した。
一方。
一行の最後尾、パラソルからも海からも最も離れた位置で。
唯一、着流しのままビーチに立ち――砂浜に全くもって似つかわしくない格好で、直哉がイライラと足元の砂を蹴散らしていた。
「チッ……」
直哉の不機嫌の理由は明白だった。
拉致犯のアジトに突入した際、あの呪詛師の姿がどこにもなかったのである。
「時の器の会」の信者たちと雇われらしき木っ端呪詛師だけが待ち構えており、簡単に制圧できてしまった。
どうやら、完全に一杯食わされたらしい。
(あのドブカスが……俺の投射呪法振り切った癖に、ケツまくって逃げおったんか)
直哉のこめかみに青筋が浮く。
あの男を生け捕りにして献上すれば、どれだけの評価を得られたか分からない。
分身の術式に加えて六眼にすらノイズをかけるという何かしらの能力。まさに「レア物」中のレア物だった。
それが、まんまと逃げられた。リベンジの機会すら与えられず。
「……次おうたら、絶対に仕留めたる」
直哉は低く唸り、着流しの袖で苛立たしげに額の汗を拭った。
「というか飛行機で来たんですね」
黒井が不意に話題を変えるように声をかけた。
「大丈夫だったんですか? 空港を占拠されたり……機内を呪詛師に待ち伏せされたりとか」
黒井が心配そうに尋ねると、傑は自信に満ちた表情で頷いた。
「大丈夫ですよ。私の青嵐操術で風の流れを広範囲に探知し、悟の六眼でダブルチェックをかけています。旅客機内に伏兵がいないか、飛行中に外部から呪力が干渉していないかまで、二重の網で確認しましたから」
傑は指を一本立て、ウインクしてみせた。
「正直なところ、下手に車で陸路を移動するよりも、はるかに安全でしたよ」
「なるほど……さすがですね」
黒井が安堵の表情を見せるのを横目に、傑は視線を沖縄の空へと泳がせた。
「ただ、気がかりなのは……」
「拉致犯がなぜわざわざ沖縄を指定してきたのか、ですね」
傑が呟くのとほぼ同時に、黒井も同じ疑問を口にした。
「確かに距離は離れていますが、飛行機を使えば間に合わないほどではない。まさか空港を占拠でもして交通を止める気だったとか……?」
黒井の危惧に、傑は僅かに目を細めた。
「その可能性も考慮して、念のため高専東京校の後輩を二人ほど連れてきています」
「後輩……?」
「灰原雄と七海建人。地元の一年生コンビですよ」
傑は穏やかに笑い、首を傾げた。
「まだ高専に入ったばかりの一年生ながら灰原は度胸があるし、七海は冷静で頭が切れる。万が一、沖縄空港で何かがあった場合に備えて、空港の警戒と連絡係を任せてある。……夜蛾先生に直談判して、半ば強引に連れ出してきました」
傑はそう言いながらバツが悪そうに後頭部を掻いた。
「用心深いんですね、夏油さん」
黒井が感心したように呟くと、傑は苦笑して首を横に振った。
「用心深いというよりは――昨日の紙袋の件で思い知ったんですよ。あの男は私達三人を別々に足止めして、その隙にあなたを攫った。……同じ手は二度食いたくないですからね」
その言葉をパラソルの外でぼんやりと聞いていた直哉が、チッと小さく舌打ちした。昨日の屈辱を思い出し、またしてもこめかみが引きつる。
だが、直哉の苛立ちをよそに。
「ブハハハハ、見ろよナマコ!! ナマコキッショ!!」
「キモッ!! イヒヒキモイのじゃあ!!」
沖縄の海で水しぶきを上げながらキャッキャとはしゃぐ理子と悟の声が、南国の青い空に高く高く響き渡っていた。
「……しかし、いいんでしょうか。こうして観光なんて」
黒井がバスタオルを握りしめ、不安そうに傑へと問いかけた。
明日には天元との同化が控えている。拉致犯を制圧したとはいえ、三億の懸賞金は未だ生きているのだ。こんな悠長に海で遊んでいていいものだろうか、と。
「言い出したのは悟ですよ」
傑は微かに目を細め、波打ち際で理子にナマコを投げつけてゲラゲラ笑っている悟の背中を見やった。
「アイツなりに……理子ちゃんのことを考えているのでしょう」
その言葉には、わずかな嬉しさが滲んでいた。
普段は他人の感情など歯牙にも掛けない傲岸不遜な男が、口には出さずとも、明日すべてを失う少女のために「楽しい時間」を提供しようとしている。
傑にはそれが、よく分かっていた。
「悟。理子ちゃん。そろそろ時間だよ」
傑が浜辺に向かって声を張ると、波間で格闘していた二人がバシャバシャと顔を上げた。
「あー、もうそんな時間か」
悟はまだ手に握っていたナマコをヒョイッと海に放り投げ、濡れた銀髪をぐしゃぐしゃと掻き上げながら砂浜へと歩き出す。
その後ろでは、理子が楽しい時間の終わりを悟り、途端にしゅんと肩を落としていた。さっきまでのはしゃぎようが嘘のように、その小さな背中には、明日の同化という巨大な影が再びのしかかっているのが見て取れた。
「……」
悟はちらりと理子を一瞥し、何かを考えるように数秒だけ視線を宙に泳がせた。
そして。
「……戻るの、明日の朝にしようぜ」
あまりにも軽い口調で、悟はそう言い放った。
「悟?」
傑が、僅かに目を丸くする。
「天気も安定してるし、今から飛行機で東京戻って深夜着とか疲れんだろ。それよか、朝発で機内の中で懸賞金の時間切れを狙った方が合理的じゃね? 懸賞金のタイムリミットは明日の十一時だ。空の上で時間を潰せば、その間に刺客も諦めるだろ」
悟は両手を頭の後ろで組み、欠伸交じりにそう言ってのけた。
合理的な理由を並べてはいるが、本当の理由が何であるかは、傑にはお見通しだった。
「……悟」
傑は真剣な表情を作り、親友の顔をまっすぐに見据えた。
「一つ聞かせてくれ。昨日から術式、解いていないだろう」
その一言に、悟の笑みがほんの一瞬だけ固まった。
「無下限呪術の展開中は、いかなる不意打ちも物理的に遮断できる。最高の防御壁だ。だけど……六眼を持ってしても、これだけ長時間の連続展開は脳への負担が大きいはずだ」
傑は、指を折りながら冷静に計算する。
「昨日の理子ちゃんとの合流から、紙袋の呪詛師との戦闘、黒井さんの救出作戦、そして今日の沖縄への移動……。悟。お前、もう丸一日以上、一秒も睡眠を取っていないんじゃないのか?」
傑の鋭い指摘に、波打ち際で理子が心配そうにこちらを振り返った。
だが、悟は鼻で笑い飛ばすだけだった。
「問題ないっしょ。桃鉄九十九年を徹夜でぶっ通した時のほうがよっぽどしんどかったわ」
うそぶく悟。桃鉄九十九年と無下限呪術の連続展開を同列に並べる男は、後にも先にもこいつくらいのものだろう。
「それになぁ傑。……俺一人じゃねーだろ?」
悟は、キラリと六眼を光らせ、不敵にニヤリと笑った。
「お前がいるし。ついでに、禪院のアレもいるんだ。多少、休んだって大丈夫だっつの」
「ついでに」「アレ」呼ばわりされた直哉のこめかみがビキビキと引きつったが、口を挟む気力も残っていないほど、この暑さと苛立ちで消耗していた。
「……仕方ないな」
傑は深い溜め息をつき、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「灰原と七海に連絡を入れるよ。帰り時間の変更をね」
傑がガラケーを取り出し、後輩たちへの連絡を始める。
その横で、悟の「明日の朝でいい」という一言を聞いた理子が、パッと顔を輝かせて「ほんと!?」と飛び上がり、再び海へと猛ダッシュしていった。
「はぁぁぁぁ……」
直哉は、深く、大きく、それはもう盛大すぎるため息を吐き出した。
着流しの裾は砂まみれ。紙袋のリベンジは果たせず。ガキのお守りは延長戦。そしてこの無駄に眩しい沖縄の太陽。
なにもかもがうまくいかないこの任務に、直哉は心の底からうんざりしていたのであった。
■紙袋の呪詛師
本名不明、みんなから熱望されたSSR術式の保有者。
穴のあいた紙袋を仮面のように被っている。
術式「分身」:最大五人まで分裂し、その全てが本体同様の性能を有している上、常にどれが本体となるか選択できる。
その性質上、分身体の内一人を安全地帯に潜ませておけばまず負けようがない。
分身体はその場で補充されるためゾンビアタックもできる。
ただし、その場にいる分身体を全て消し飛ばしてしまえば一旦の撃退はできる。
……いやー、SSR術式保有者だけあって厄介でしたね!
あまりに感想欄で解釈が別れてるのでちょっと試しにアンケート設置
紙袋マンの正体とは?
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禪院 全
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