禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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…………テメェ、正気か



11.懐玉-青の境界線

 そこからは、本格的な観光が始まった。

 

 午後の沖縄の陽射しに照らされた国際通りを抜け、一行はまず地元の食堂へと足を運んだ。

 テーブルの上に所狭しと並べられた沖縄料理の数々。ゴーヤーチャンプルー、ソーキそば、ラフテー、海ぶどう、タコライス。

 南国の太陽が育てた原色のような味付けの料理たちを前に、真っ先に箸をつけた直哉がほんの一口で眉をひそめた。

 

「……家の飯のが美味いわ」

 

 あまりにも率直すぎる感想だった。

 禪院家の本邸で日々腕を振るう女中たちが作る、出汁の利いた繊細な京風の和食に舌が慣れきっている直哉にとっては、この濃い味付けは正直「がさつ」としか感じられなかったのだろう。

 

「えー? 俺はこれはこれで好きだけどな。味がはっきりしてていいじゃん」

 

 対照的に、悟はソーキそばを豪快にすすりながら、まったく気にした様子もなく言い放った。

 五条家の食事もそれなりに上品なものが出るはずだが、この男に繊細な味覚を期待すること自体が間違いなのかもしれない。

 

「こういうのはな、下品言うねん」

 

 直哉は不満そうに唇を尖らせたが、そう言いながらも箸は止まっていなかった。

 ゴーヤーチャンプルーの苦味に顔を顰めつつも、ラフテーの甘辛い煮汁に浸った豚の角煮は着実に減っている。

 文句は口ほどにも、とはこのことか。

 

(呪術の旧家なんだから、やっぱり和食……それも、相当お上品な懐石料理みたいなのが出てくるんだろうなあ)

 

 傍らで二人のやり取りを眺めていた傑は、御三家の食卓事情に思いを馳せながら、自分のタコライスをフォークで崩し始めた。

 呪術高専の食堂の味に慣れきっている自分の舌には、このくらい豪快な味のほうがむしろ馴染みがあってありがたい。

 

「美味しいねえ、黒井! 海ぶどうなんて初めて食べたけど、プチプチして不思議な食感じゃ!」

「ふふ、理子様。口の周りにタレが付いておりますよ」

 

 理子は目を輝かせながら次々と皿に手を伸ばし、その隣で黒井が微笑みながらナプキンで少女の口元を拭ってやっている。

 護衛任務中とは思えないほど穏やかな光景だった。

 

 食事を終えた一行が次に向かったのは、数年前にオープンしたばかりの美ら海(ちゅらうみ)水族館。

 沖縄本島の北部、本部半島に位置するその巨大な水族館は、世界有数の規模を誇る海洋博物館である。

 

 入館してすぐの水槽でも十分に美しかったが、理子は順路を進むごとに何度も足を止め、色とりどりの熱帯魚や珊瑚に顔を近づけてはキャーキャーとはしゃいでいた。

 

「見て見て! お魚さんがこっち見てるのじゃ!」

「んなわけねーだろ。魚に自意識なんかないっつの」

「ある! 絶対あるもん! ほら、あのハリセンボン、今笑いおったぞ!」

 

 理子と悟が水槽の前で言い争う横を、直哉は腕を組んだまま黙々と歩いていた。

 しかし、その視線はちらちらと水槽に向けられている。

 

 禪院家の次期当主候補として育てられた直哉の少年時代は、鍛錬と任務に明け暮れる毎日だった。

 家族で観光旅行に行くなどという発想自体が、一族には存在しない。せいぜい稽古場で汗を流し、縁側で夕涼みをするのが直哉にとっての「休日」だった。

 水族館などという場所に足を踏み入れたのは、当然ながらこれが生まれて初めてのことである。

 

 だからだろうか。

 無数のイワシが渦を巻くように群をつくる巨大水槽の前で、直哉は自分でも気づかぬうちに、ほんの少しだけ足を止めていた。

 光を反射して銀色に輝くイワシの群れが、まるで一つの巨大な生き物のように形を変えながら泳ぐ。その流れるような美しさは、どこか投射呪法の軌跡にも似ていて、ほんの僅かに心を掠めた。

 

「……フン。しょーもな」

 

 誰に聞かれるでもなく呟いたその声は、いつもより角が取れていた。

 

 そして。

 一行が辿り着いた水族館の最深部。『黒潮の海』と名づけられた、世界最大級のアクリルパネルを持つ大水槽。

 その前に立った瞬間、理子は息を呑んで立ち尽くした。

 

「……す、すごい……」

 

 高さ八・二メートル、幅二二・五メートルの巨大なアクリルパネルの向こうに広がるのは、深い群青色に満たされた果てしない海の世界。

 その中を、全長八メートルを超えるジンベイザメが——三匹もの巨体が、悠然と、ゆったりと、この世の何にも急かされることなく、翼のような巨大な胸鰭を広げて泳いでいた。

 

 理子は、自分の手のひらの何千倍もの大きさで水を切るその灰色の背中を見上げ、ただ呆然と口を開いていた。

 自分がこの海の中にいたら、きっとあのジンベイザメの水玉模様の一つにも満たない、塵のように小さな存在なのだろう。

 ――なのに、こんなにも穏やかで。こんなにも、優しい眼をしている。

 

「…………」

 

 悟もまた、いつもの軽口を一切忘れ、サングラスの奥の六眼を見開いて、ジンベイザメの巨体を見上げていた。

 六眼は、微細な呪力の流れも原子のレベルまで視認できるが、この目の前に広がる圧倒的な自然の営みが発する()()は、呪術とも呪力とも関係のない、もっと根源的な何かだった。

 水族館のガラス越しとはいえ、本物の海にいる本物の命。非術師も、呪術師も、御三家も。そんな人間の営みなど、この巨大な魚にとっては欠片も関係のない話なのだ。

 

 そして、直哉もまた。

 気がつけば悟と理子の隣に並び、同じように口を半開きにして巨大な水槽を見上げていた。

 着流しの男と、制服の少女と、サングラスの青年。三人並んで、ほうけた顔で水槽に釘付けになっている。

 その姿は、なんとも似つかわしくない取り合わせで――だが、どこか微笑ましくて。

 

 傑は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。

 三人が等しく言葉を失い、ただ純粋に自然の美しさに圧倒されている。人を超えた力を持つ者も、闘いに明け暮れる者も、明日の命の保証すらない者も。こんな瞬間だけは、何者でもない、ただの十代の子供に戻れるのだ。

 

(……ふふ)

 

 傑はポケットからそっとガラケーを取り出し、三人に気づかれないように、水槽の前に並ぶその背中を一枚だけ写メに収めた。

 巨大なジンベイザメの青と、三つの小さなシルエット。

 

 それは、嵐の前の、束の間の凪のような——あまりにも美しい一枚だった。

 

 

***

 

 

 翌日、午後三時。

 都立呪術高等専門学校——筵山(むしろやま)の麓。

 

 鬱蒼と茂る森と結界に守られた通学路を抜け、見慣れた校舎の瓦屋根が木々の合間から覗いた瞬間。

 傑は、ふっと肩の力を抜いて、穏やかな声を一行へとかけた。

 

「皆、お疲れ様。――ここはもう、高専の結界の中だ」

 

 その言葉の意味を、全員が即座に理解した。

 呪術高等専門学校を守護する結界は、天元の術式によって構築された鉄壁の防御壁だ。呪詛師も呪霊も、おいそれとは侵入できない。

 三日間に渡って張り詰めていた緊張の糸が、ようやく、ゆっくりと緩んでいく。

 

「これでひと安心じゃな!」

 

 理子が、ぱあっと花が咲くような笑顔を見せた。

 これから同化を迎えるとは思えないほどの、溌溂として屈託のない表情。

 まるで遠足の帰り道のような、無邪気な少女の笑み。

 

「…………」

 

 だが、その眩しすぎる笑顔を前にして。

 黒井は、こらえるように唇を噛んでうつむいた。

 悟はサングラスの奥で視線を逸らし、何も言わずに空を仰いだ。

 傑は穏やかな笑みを浮かべてはいたが、その目の奥に揺れる翳りを隠しきれていなかった。

 

 同化とは、天元と一体化すること。即ち――天内理子という個人は、今夜、この世から消える。

 彼女の人格も、記憶も、沖縄で見たジンベイザメの感動も、ゴーヤーチャンプルーの味も、海で大はしゃぎした笑い声も。

 

 ——すべてが天元の中へと溶けて消えてなくなる。

 

 その残酷な事実を、理子自身がどこまで本当に理解しているのか。あるいは理解した上で、あえてこの笑顔を選んでいるのか。

 

 ――あの直哉ですら、僅かに思うところがあるのか、黙り込んでいた。

 普段ならば開口一番に毒を吐くはずの口が、珍しく閉じられている。彼の視線は、はしゃぐ理子の背中を一瞬だけ捉え、すぐに逸らされた。

 

 重く沈みかけた空気を、最初に断ち切ったのは悟だった。

 

「ハァーーーッ……」

 

 深く、深く、肺の底から搾り出すような盛大なため息。

 そして、パチンと指を鳴らす。

 悟の全身を覆っていた不可視の膜——無下限呪術の結界が、音を立てて解除された。

 

「ガキのお守りは二度とごめんだわ。マジで」

 

 三日間、一秒たりとも途切れさせなかった絶対の防壁。

 それを解いた瞬間、悟の身体から堰を切ったように疲労の色が滲み出た。足取りがほんの僅かにふらつき、頬にうっすらと隈が浮いて見えるが、それでも倒れることはない。

 

「ほんまやで。こんな疲れる任務、金積まれても二度と引き受けんわ」

 

 直哉が、腕を組みながら深く同意した。

 着流しは砂埃まみれ、肌は焼け、髪は塩風に荒れ、こめかみには潰れた蚊の跡。沖縄へ至る三日間が彼なりに消耗をさせられていた事は明らかだった。

 

「お? 喧嘩売っとるんか、お主ら!」

 

 理子がくるりと振り返り、頬をぷくっと膨らませて二人を睨みつけた。

 

「妾、今夜には天元様ぞ!? 天元様となった妾に向かってガキだのなんだの言うてみぃ、粛清してやるわ!」

 

 腰に手を当て、ふんぞり返って見せる理子。

 その大仰な戯け方に、傑が思わず「ぷっ」と吹き出し、悟が「お前にそんな権限ねーよ」と笑い、直哉が「生意気なガキやな、ほんま――」と口角を歪めた。

 

 その瞬間だった。

 

 ――パァンッ!!

 

 乾いた銃声が、高専の緑の中に轟いた。

 

「ッ!!」

 

 全員の表情が、一瞬にして凍りついた。

 弾丸は、呪力を纏ってすらいない純然たる実弾だった。

 だが、その軌道はあまりにも精密で、恐ろしく合理的だった。

 

 悟と理子。

 二人が隣り合って立つ、そのちょうど頭部の高さを貫くように——二枚抜きの直線上を、一発の弾丸が空気を裂いて飛来していたのだ。

 

 しかし、その凶弾が二人の頭蓋を貫く前に。

 

 ギィン!!

 

 悟たちの前方に瞬時に割って入った傑の掌から、極限まで凝縮された大気の壁が展開された。

 青嵐操術による風の結界。圧縮された空気が壁のように固まり実弾を受け止め、弾丸はその場でビタリと静止し、クルクルと回転しながら地面にカランと転がった。

 

「……っ!」

 

 傑の額に、冷たい汗が一筋流れる。

 青嵐操術の風読みが超音速の飛来物を察知できなければ、二人は間違いなく死んでいた。

 結界の中に入った安堵で、悟が術式を解いた直後。この一瞬の隙を、まるで見計らっていたかのように狙撃されたのだ。

 

「——おや? 防がれちゃったね」

 

 森の木々の合間からのんびりとした、どこか聞き覚えのある声が響いた。

 

「今なら無下限が解けたところだし、ワンチャンあると思ったんだけどねえ」

 

 木の枝の上に、あぐらをかくようにして腰掛けている一つの影。

 茶色い紙袋を頭からすっぽりと被った、ダークスーツの体格の良い男。

 ――あの紙袋の呪詛師が、そこにいた。

 

「お前……っ!」

 

 傑の声に、怒りと驚愕が入り混じった。

 高専の結界の中。天元の術式によって守護されたこの聖域に、なぜ呪詛師が侵入できている?

 

 男はひらりと枝から飛び降り、手にしていたボルトアクション式の狙撃銃をクルクルと弄んでみせた。

 

「術師相手にするにはね、こういうのも案外よく通るんだよ。呪力ゼロの実弾だから、呪力探知には引っかからないし、無下限呪術が解けた瞬間なら物理的に止める手段がない。……まあ、風使いの君に見事に弾かれちゃったけどね」

 

 男はそう言いながら、持っていた狙撃銃を無造作に地面へと放り捨てた。

 その動作と同時に。

 

 ズルリ、ズルリ、ズルリ。

 

 男の身体から、泥のような物質が分離し、瞬く間に四つの同一の人影へと分裂した。

 いずれも紙袋を被った、見分けのつかない四体の分身。

 彼らは扇状に広がり、一行を緩やかに包囲するような陣形を取った。

 

「助かった――」

 

 悟は低く呟きながら、パチン、と再び指を鳴らした。

 解除されたばかりの無下限呪術の結界が、ほんの僅かな遅延を伴って――だが確実に再起動する。

 不可視の膜が悟の全身を覆い直した瞬間、彼の六眼がギラリと鋭い光を放った。

 

「天内を優先だ。傑、禪院。お前らはアイツを連れて先に天元様のところへ行ってくれ」

 

 悟の声は、沖縄でのふざけた調子とはまるで別人の、冷徹で低い戦闘者のそれだった。

 そして。

 四体の分身を六眼で舐め回すように観察しながら、悟はさらに低く、警告するように付け加えた。

 

「……分身がひとり足りない。——気を抜くな」

 

 五体がMAXのはずの分身体が、今ここにいるのは四体。

 残る一体が、別の場所で何かを仕掛けている。おそらくはそれこそが――本命。

 

 傑の表情が、瞬時に引き締まった。

 その瞳にはもう、沖縄のビーチで見せた穏やかな微笑みのかけらもない。特級呪術師としての冷徹な覚悟だけが灯っている。

 

「分かった。理子ちゃん、黒井さん、こっちだ!」

 

 傑が理子の手を掴み、校舎の奥——薨星宮(こうせいぐう)へと続く地下通路の方角へと走り出す。

 黒井が即座にその後に続き、理子を挟み込むようにして駆け出した。

 

 そして。

 

「…………ヒヒッ」

 

 その背後で。

 直哉が、今度は盛大な溜め息ではなく——凶悪なまでに歪んだ笑みを、顔中に貼り付けていた。

 

「おい。チョット待ちや」

 

 直哉は、傑たちの後を追うでもなく、悟の横に並ぶでもなく。

 森の木々の間に視線を巡らせながら、ゆっくりと首を鳴らした。

 

「お前の本命……本体は今度こそ、俺がしばいたる」

 

 紙袋の男への、二度渡せなかった借りの清算。

 あの日、投射呪法にカウンターを合わせられた屈辱を。次こそは必ず、自分の速さで叩き潰す。

 直哉のこめかみに青筋が浮き、全身から殺意に近い呪力が立ち昇り、投射呪法にて傑の後を追う。

 

 傑の表情が引き締まり、直哉が凶悪に笑う。

 高専の聖域を舞台に、最後の戦いの幕が切って落とされようとしていた。

 

 

***

 

 

 傑たちが理子と黒井を連れて駆け去り、薨星宮へ続く道へ消えていく。

 残されたのは悟と、四体の紙袋の分身体。

 

 静寂が、森を支配した。

 

「……で、聞いてもいいか?」

 

 悟は、サングラスの位置を直しながら、まるで世間話でもするような軽い口調で問いかけた。

 

「お前、どうやってここに入った? ここは高専の結界の中なんだが」

 

 四体の分身が、同時にくすくすと肩を揺らして笑った。

 

「結界術にはちょっと自信があってね」

 

 そのうちの一体が、軽く両手を広げて芝居がかった仕草で答えた。

 

「天元の結界は確かに強固だけど……結界というのはつまるところ、呪力で編まれた()にすぎない。壁の構造が分かれば、その隙間を見つけることだってできる。……まあ、並大抵の術師には無理な芸当だろうけどね」

 

 悟は六眼を細め、改めて四体の分身を睨みつけた。

 相変わらず、この男を見ると六眼にノイズが走る。まるで古いテレビの砂嵐のように、術式の輪郭がぼやけて正確に読み取れない。

 

「……それも結界術か? 俺の六眼にノイズをかけてんの」

 

「まあね」

 

 男はあっさりと認めた。

 

「六眼は世界を原子レベルまで観測する超高性能のセンサーだ。でもセンサーというのは、高性能であればあるほど繊細でもある。ほんの微弱な『ジャミング結界』を自分の身に纏うだけで、観測精度を数パーセント落とすことができるんだよ。……もっとも、それだけで六眼を完全に欺けるとは思っていないけどね」

 

 その解説は、あまりにも分析的で冷静だった。

 六眼という規格外の能力に対して、力で対抗するのではなく、原理を逆手に取って精度を下げるという発想。

 こいつは、紛れもなく「頭がいい」。ただ強いだけの呪詛師とは、根本的に違う。

 

「……で、お前じゃ俺を倒せないことは、一昨日のあれでよく分かっただろ?」

 

 悟は、不敵な笑みを浮かべた。

 沖縄の前、廉直女学院の屋上。あの時、この男の分身体は何体束になっても悟の無下限呪術を突破することは叶わず、ただ時間を稼ぐことしかできなかった。

 その事実は、この男自身が最もよく理解しているはずだ。

 

「どうするつもりだ? また鬼ごっこか?」

 

 六眼が蒼く光る。悟の口調は軽いが、身体はすでに臨戦態勢だ。

 四体の分身のうち、どれが陽動で、どれが時間稼ぎで、どれが逃走経路を確保する役割か。六眼はノイズ越しにでもその判別をつけようとしている。

 

「いやいや。今度はちゃんと、君を『倒す』つもりで来たよ」

 

 男の声の調子が、ほんの僅かに変わった。

 軽薄な遊びの空気が消え、代わりに、仕事人としての冷徹な気配が四体の分身体から滲み出す。

 

「……ちょっとした、準備をしてきたんだ」

 

 男がそう言った瞬間。

 四体の分身体のうちの一体が、すっと後方へ下がった。

 そして、その分身体の背後――悟から見て木立の影になっていた位置に。

 

 最初から、そこに()()者の姿が、不可視の結界を解くようにしてゆらりと浮かび上がった。

 

「……!?」

 

 悟の六眼が、驚愕に見開かれた。

 

 小柄な老婆だった。

 薄汚れた着物に身を包み、地面に正座をして、両手に古びた数珠を握りしめている。

 その口からは、低く呻くような祈祷の言葉がとめどなく溢れ出していた。

 呪力の流れが異様だ。老婆を媒介(なかだち)にして、何か巨大な「情報」が彼岸の向こう側から引っ張り出されようとしている。

 

(結界で姿を隠していたのか……! こいつ、いつからここに……!)

 

 紙袋の男の「結界術に自信がある」という言葉は、ハッタリではなかった。

 この老婆を天元の結界の内側に潜入させ、さらに不可視の結界で六眼からも完全に隠蔽していたのだ。

 

 その老婆の前に膝をつくようにして、分身体の一人が懐から何かを取り出した。

 小さな——古びた、干からびた何かの欠片。それを口に含み、噛み砕く。

 

 老婆が、祈祷の言葉を止めた。

 そして、数珠を鳴らしながら、一つの『名』を告げた。

 

禪院甚十郎(ぜんいんじんじゅうろう)

 

 呟くように告げられたその名は、大きく波打つように耳を打った。

 しかし、その瞬間に領域めいて広がった呪力の波紋を六眼で読み取った悟は、背筋が凍るのを感じた。

 

 ――降霊術。

 

 死者の情報を現世に降ろし、対象の肉体に宿す禁忌の術式。

 老婆の術式は、呼び出した死者の「肉体情報」を宿主に上書きする。

 つまり、紙袋の男の分身体の一つに、死者の身体能力と——その術式を、一時的に再現させるのだ。

 

 分身体の身体が、ミシミシと音を立てて変容し始めた。

 骨格が軋み、筋肉が膨らみ、体格そのものが一回り大きくなっていく。

 そして男は、ゆっくりと頭の紙袋に手をかけ——それを、するりと脱ぎ捨てた。

 

 紙袋の下から現れた顔は、無貌の泥人形などではなかった。

 切れ長の鋭い目。硬く引き締まった顎。そして何より、その骨格と面差しには、見間違えようのない特徴があった。

 

 禪院の血筋。

 かつて第二十五代当主として禪院家に君臨し、特級呪霊との相討ちで命を落とした男の――その顔と肉体が、分身の身体を乗っ取るようにして再現されていた。

 

「…………マジかよ」

 

 悟は、思わず呻いた。

 六眼がノイズ越しにではあるが、変容した分身体の奥に刻まれた術式の残響を拾い上げる。

 

 十種影法術(とくさのかげぼうじゅつ)

 

 禪院家最強の相伝術式。かつて、六眼と無下限呪術を持った五条家の当主と相討ちになったという、あの伝説の術式が——目の前で蘇ろうとしている。

 

「――さあ」

 

 二十五代目の顔を被った分身体が、にやりと不敵に笑った。

 その笑みには、紙袋の男の軽薄さと、降ろされた死者の矜持が、奇妙に入り混じっている。

 

「御前試合の続きをしようか」

 

 御前試合――。

 六眼と無下限呪術。十種影法術。

 かつて呪術界の歴史上、たった一度だけ激突し、双方が命を落としたという伝説の一戦。

 その()()が、今まさに仕掛けられようとしているのだ。

 

「くっ……!」

 

 悟が反射的に構えを取った瞬間、残りの分身体のうち二体が素早く動き、座り込んでいた老婆を抱えるようにして一気に後方へと離脱した。

 

「彼女はまだ使えそうだからね。大事にしないと」

 

 紙袋の声が、遠ざかっていく分身体のひとつから聞こえた。

 オガミ婆を確保し、安全圏へと撤退させる判断。

 降霊の媒介を失えば、二十五代目の再現は止まるかもしれない。だが、逆に言えば——老婆さえ無事である限り、この降霊は継続されるということだ。

 

(追うか? ……いや、ダメだ)

 

 悟の六眼が、目の前の『二十五代目』を凝視する。

 追えば背中を晒すことになる。そして今、この男が纏っている術式は——放っておけるようなレベルのものでは、断じてない。

 

 咄嗟に妨害に動こうとした悟を、残る一体の紙袋が身を挺して遮ることで一瞬の時間を作り出した。邪魔だと蹴散らされる紙袋の肉体。

 その隙に、変容した分身体——二十五代目の姿を持つ男が、ゆっくりと右の拳を持ち上げた。そして、その拳を、左腕の内側へと静かに押し当てる。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 森の木々が、風もないのにざわめき始め——。

 

 ——鳥の声が消え、虫の音が途絶え、世界そのものが息を殺したかのような異様な静寂が広がっていく。

 

「――布瑠部(ふるべ)由良由良(ゆらゆら)

 

 その言葉が紡がれた刹那。

 二十五代目の足元の影が、まるで生き物のように膨れ上がり、黒い奔流となって四方八方へと広がった。

 影の中から、おぞましいほどの呪力の奔流が噴き上がる。

 

 悟の六眼が、ノイズ越しにでも読み取れないほどの巨大な『何か』の存在を感知し、警鐘を打ち鳴らした。

 それは術式でも呪霊でもない。もっと根源的な、もっと理不尽な、この世の理の外側に在る存在の気配だった。

 

 ——八握剣(やつかのつるぎ)

      ——異戒神将(いかいしんしょう)

            ——魔虚羅(まこら)

 

 十種影法術・最強にして最後の式神。

 歴史上、いかなる十種影法術の使い手でさえ調伏に成功したことのない、文字通りの「最終兵器」。

 かつて六眼と無下限呪術を抱合せで持った五条家の当主が、この式神と巻き添えに命を散らした。

 

 その禁忌が今、呼ばれようとしていた。

 

「…………テメェ、正気か」

 

 悟の声から、初めて——軽薄さがすべて剥がれ落ちた。

 サングラスの奥で蒼天の六眼が全開に見開かれ、その視界の端で、影の底から這い出ようとする巨大な輪郭が、ゆっくりと、ゆっくりと、形を成し始めていた。

 

 ――それは、まるで巨大な繭だった。

 

 二十五代目の足元から溢れ出した影の奔流が、森の一角を飲み込むようにして膨れ上がり、その中心に白く巨大な異形の輪郭が浮かび上がる。

 虚空から伸びる無数の糸と、包帯にも似た白い布が幾重にも巻き付き、その異形を繭のように拘束していた。

 封じられた獣が、長い眠りから覚めようとしている。

 

 ミシッ……ミシミシミシッ……!

 

 布が裂けた。

 繭の表面に亀裂が走り、その隙間から、ぎっしりと並んだ鋭い牙を覗かせる巨大な口がゆっくりと開いていく。

 

 バチィィィンッ!!

 

 破裂音。

 拘束していた糸が、一本、また一本と弾け飛んだ。

 白い布がボロ雑巾のように解れ落ち、その下から折り畳まれていた巨大な翼が、ゆるりと、そして圧倒的な威圧を伴って広がっていく。

 

 悟は、六眼のすべてを注ぎ込んで、その光景を凝視していた。

 

 翼の下から現れたのは、筋骨隆々たる白い肌。

 人間とも呪霊とも異なる、神話に描かれし異界の戦神のような巨躯が、最後の封を解かれるようにして、ゆっくりとその全貌をあらわにしていく。

 

 頭部に浮かぶ、法輪めいた巨大な輪。

 腕に括り付けられている、正の呪力を帯びた退魔の剣。

 そして、あらゆる術式に()()し、二度と同じ手が通じなくなるという、理不尽を極限まで煮詰めたような能力。

 

 八握剣異戒神将魔虚羅。

 

 その全容が、高専の森の中に完全に顕現した。

 木々がへし折れ、大地が軋み、空気そのものが怯えるように震える。

 天元の結界すら歪むほどの存在感が、世界を塗り潰していく。

 

「――それじゃあ、頑張ってね?」

 

 二十五代目の姿を被った分身体が、にやりと笑みを浮かべてそう告げた。

 軽薄で、残忍で、どこまでも他人事な声。

 役目を果たした分身体は、もうここにいる理由がない。

 

 バシャリ。

 

 その言葉を最後に、二十五代目の輪郭がドロドロと溶け崩れ、茶色い泥の水たまりとなって地面に染みを作り、消滅した。

 降霊された二十五代目の肉体は消えても、すでに喚び出された式神は消えない。

 調伏の儀に入ってしまった以上、魔虚羅は術者が死のうが泥になろうが関係なく、目の前の敵を殲滅するまで止まらないのだ。

 

 後には。

 最強の術師と、最強の式神だけが残された。

 

 五条悟と、八握剣異戒神将魔虚羅。

 六眼と無下限呪術を持つ呪術界の最高傑作と、いかなる術式をも適応し打ち破る神話の怪物。

 かつて歴史上ただ一度、両者が激突した時、その結末は――。

 

「…………インチキすぎるだろ」

 

 悟の口から、乾ききった声が漏れた。

 

 降霊術で蘇らせた死者の術式で、調伏の儀を発動する。

 喚び出した本人は泥に戻り、後始末の必要すらない。

 残されるのは、止める術を持たない最凶の式神と、それに対処するしかない五条悟だけ。

 

 分身の術式。結界術。六眼のジャミング。呪力無関係の実弾狙撃。降霊術を持つ老婆の確保と運用。そしてこの、最強の式神の解き放ち。

 あの紙袋の男は、これらすべてを組み合わせた一つの「詰み盤」を、最初から用意していたのだ。

 

 ――だが。

 

 悟の顔は、笑っていた。

 

 恐怖ではない。焦燥でもない。

 サングラスの奥で燃え上がる蒼天の瞳には、かつて感じたことのないほど純粋で凶暴な――歓喜が灯っていた。

 

「はっ……最高じゃねぇか」

 

 悟は、ゆっくりとサングラスを外した。

 蒼く輝く六眼が、魔虚羅の巨体を正面から捉える。

 

 退屈だった。

 生まれた時から、最強だった。

 誰と戦っても、何一つ脅かされることがなかった。

 

 だが今、目の前にいるのは——歴史上唯一、六眼と無下限呪術の持ち主を殺した記録が残っている存在。

 自分がこれまでの人生で、ただの一度も感じたことのなかった、本物の「敗北の可能性」。

 

「来いよ」

 

 五条悟は外したサングラスを放り投げ、両手を広げた。

 

「最強VS最強だ。——存分にやろうぜ」

 

 魔虚羅の法輪が、ギィィン、と不吉な金属音を奏でて回転し始める。

 八握剣が天を衝くように掲げられ、世界を断ち割るような一撃が振りかぶられた、その瞬間——。

 

 五条悟の足元から、蒼い呪力が爆発的に噴き上がった。

 

 

***

 

 

 ――ズンッ!!

 

 薨星宮へ続く薄暗い地下通路に、腹の底を揺さぶるような重低音が響き渡った。

 それは遠い雷鳴のようでもあり、巨大な鉄塊が大地を叩き潰した衝撃音のようでもあった。

 

「……っ!?」

 

 理子を連れて先を急いでいた傑が、思わず足を止めた。

 天井のコンクリートからパラパラと塵が落ち、通路の蛍光灯がチカチカと不吉に明滅する。

 上だ。高専の校舎がある、地上の方角から響いてきている。

 

「な、なんじゃ!? 今のは……!」

 

 理子が傑の腕にしがみつき、不安そうに天井を見上げた。

 黒井もまた、自身の得物であるモップを握りしめ、顔を強張らせている。

 

「……悟か」

 

 傑の声には、驚きと――わずかな戦慄が混じっていた。

 あの五条悟が「遊んでいる」音ではない。地上で、何かが本気でぶつかり合っている。それも、高専の広大な敷地を震わせるほどのエネルギーを伴って。

 

 だが。

 立ち止まっている暇はない。一刻も早く理子を天元様のもとへ送り届け、任務を完了させなければならない。

 傑が再び足を踏み出そうとした、その時だった。

 

「や、さっきぶり」

 

 誰もいないはずの通路の曲がり角。

 暗がりの奥から、ひょっこりと。まるで散歩の途中で友人に会ったかのような、あまりにもおどけた声が響いた。

 

 そこに立っていたのは――茶色の紙袋を被った、あの呪詛師だった。

 

「ッ!!」

 

 一も二もなく、直哉が弾かれたように駆け出した。

 傑が制止の声をかけるよりも早く、投射呪法によって加速された直哉の身体が、一瞬でコンクリートの壁を蹴り、呪詛師の顔面へと肉薄する。

 

「舐め腐りよってからに……! 今度こそ、その袋ごとぶち抜いたる!!」

 

 怒声とともに放たれた、渾身の右拳。

 だが。

 

 ズルリ。

 

 男の背後。影の中から、まるで泥が這い出すようにして、新たに三体の『紙袋』が姿を現した。

 

「四体……は?」

 

 傑の思考が、一瞬だけ停止した。

 先ほど地上で。地上で悟と対峙していた時、紙袋の男は確かに四体の分身を展開していたはずだ。

 もしこいつが上で戦いを放棄して合流してきたのだとしたら、悟はすぐにそれを追ってここに来るはずだ。

 だが、悟が来る気配はない。

 

 ――ならば。

 ならば、今この瞬間も地上で、ドカンドカンと高専の大地を震わせながら、あのアホみたいに強い五条悟と互角に暴れ回っている『何か』は、一体何なんだ?

 

「危ないからね。あまり動かない方がいいよ」

 

 傑の視線の先。直哉が殴りかかった本体と思わしき男が、ひらりと身を翻して直哉の攻撃をいなしながら言った。

 

「理子ちゃん、黒井さん! 私の側へ!」

 

 傑は即座に掌から凝縮された大気の結界――青嵐操術のシールドを展開し、二人を背後に隠した。

 目の前では、直哉が三体の分身を相手に、目にも止まらぬ速さで拳と蹴りの応酬を繰り広げている。投射呪法の「一秒間二十四枚」のフレームを正確に刻む動きを持ってしても、四体の連携を崩すには、この狭い通路は分が悪い。

 

 そんな傑の視線に気づいたのか。

 直哉をあしらっていた一体の分身が、ふふっ、と肩を揺らして笑った。

 

「気になるかい? 上で暴れているのが何なのか」

 

「…………」

 

「私じゃあ、彼とはちょっと分が悪くてね。だから、適任を喚ばせてもらったんだよ」

 

 男の言葉は、まるでどこかのコンサルタントが最適な人材を提案するかのような、冷徹な響きを帯びていた。

 

「術式の開示……というわけじゃないけども。私には、優秀な降霊術使いの協力者がいてね」

 

 直哉の回し蹴りを最小限の動きでかわし、男は淡々と語り続ける。

 

「ちょいと拝借したんだよ。……禪院家先代当主――第二十五代当主の遺骨をね。それを使って、少々()()()()()()()させてもらった」

 

 その言葉に。猛烈な勢いで攻撃を畳み掛けていた直哉の動きが、嘘のようにピタリと止まった。

 

「……ちょい待ちや。今、なんつったん」

 

 直哉の顔から、血の気が引いていく。

 禪院家の人間である彼にとって、その言葉の意味するところは――あまりにも重く、あまりにも絶望的だった。

 

魔虚羅、お借りしているよ。今の五条悟はもう一つの最強に遊んでもらっているところなのさ」

 

 ズドォォォォンッ!!

 

 再び、頭上から校舎が半壊でもしたのかという巨大な衝撃音が響いた。

 魔虚羅がその巨大な剣を振るい、適応し、破壊している音。

 地響きのたびに、傑の手の中にある大気のシールドが、共鳴するように震えを増していく。

 

 直哉は、呆然とした顔で天井を見上げた。

 その瞳には、先ほどまでの凶暴な殺意はもう欠片もなく。代わりに、底知れない畏怖の色が浮かんでいた。

 

「アカン……」

 

 直哉の唇が、小刻みに震える。

 

「アカン。……死ぬで、悟クン」

 

 最強を知る男。最強に憧れ続けた男が口にした、最強の敗北。

 その絞り出すような一言が、地下通路の冷たい空気の中に、重く深く沈んでいった。

 





——魔虚羅、お借りします。

■紙袋マン
一世一代(?)の大決戦のためにお色直しをしてきた。
凶悪コンボをサラット放って来た。

■凶悪コンボ
紙袋の呪詛師の分裂体の一つに十種影法術の使い手を降ろし、ゆらゆらして退散。
降霊が解けた召喚者が消滅するので魔虚羅は巻き込まれた相手に集中。
降霊触媒の数だけまこーらのおかわりもできるぞ!!

■禪院甚十郎
ついに名前が明かされた禪院家二十五代目当主。
甚壱と甚爾の父らしいので「甚」をつけたいかつい名前に。
伏せていた意味は特にないしおそらく出番はこれが最初で最後。
任務にて特級呪霊相手に敗北を悟りゆらゆらして相打ちに持ち込んだ。

■結界に関するあれこれ
高専の結界にバレずに侵入するのも、六眼を欺く不可視の結界も、六眼による看破を防ぐ結界も、この世界では結界術の達人ならできるんです。
そういうものなんです。

ちょこちょこ「こういう展開をやりたい!!」を優先して多少(?)設定を捻じ曲げてでも押し通すスタイルをしています。

紙袋マンの正体とは?

  • 禪院 全
  • 羂索
  • アルティメット紙袋マン
  • その他
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