禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

12 / 55

簡単には手が届かずとも、理想そのものと言えるそれがあるんだ。今回は六眼にこの土壇場で魔虚羅を当てられた。これを逃したら多分、次はない気すらする。だからさ――

諦めてくれ


12.懐玉-極限の死線

 都立呪術高専、筵山(むしろやま)山頂。

 かつて結界の守護者たる天元が鎮座する薨星宮を戴くその頂に今、二つの規格外がぶつかり合っていた。

 

 五条悟の蒼い呪力と、魔虚羅の白い巨躯。

 それは戦闘というにはあまりにも暴力的で、あまりにも美しい、二つの「最強」による力学の衝突だった。

 

 ――ドゴォォォンッ!!

 

 魔虚羅の剛腕が大地を叩き割り、衝撃波が放射状に広がる。

 悟はそれを無下限の障壁で受け流しながら、鋭く後方に跳躍した。

 着地と同時に、両手で印を結ぶ。

 

 呪術において、呪詞の詠唱は術式の出力を飛躍的に引き上げる。

 通常であれば省略する詠唱を、五条悟は一字一句の省略もなく紡ぎ始めた。

 

「――『位相(いそう)』」

 

 空間が歪む。

 

「『黄昏(たそがれ)』」

 

 光が曲がる。

 

「『智慧の瞳(ちえのひとみ)』」

 

 六眼が蒼白く燃え上がり、収束した情報の奔流が術式を限界まで研ぎ澄ませる。

 

「――術式順転・『蒼(あお)』」

 

 完全詠唱。

 五条悟が、今この瞬間に出せる最大出力の引力。

 

 蒼の球体が、暴力的な引力を纏って魔虚羅の顔面へと撃ち込まれた。

 空間そのものが折り畳まれるような轟音。白い巨躯が大きくのけぞり、頭部の装甲が陥没する。

 ――確実に、致命的な一撃。

 

 だが。

 

 ガコンッ!

 

 頭上の法陣が、あの不吉な金属音を奏でて一回転した。

 瞬きの間に、魔虚羅の陥没した頭部が完全に修復される。ひび割れた装甲も、えぐれた白い肉も、何事もなかったかのように元通りに。

 

 ――いや、それだけではない。

 

 悟の六眼が、冷徹に事実を読み取った。

 先ほど詠唱なしで放った最初の『蒼』。あの時は、魔虚羅の装甲を大きく抉り、明確なダメージを与えていた。

 しかし今――呪詞を完全詠唱し、出力を極限まで引き上げたはずの蒼が与えたダメージは。

 最初の一撃よりも、明らかに浅かった。

 

「…………マジかよ」

 

 今出せる最大火力だというのに、この有り様。

 法陣が一回転するたびに、魔虚羅はあらゆる事象に適応し、強化されていく。

 無下限呪術の引力。呪力そのもの。五条悟の攻撃パターン。そのすべてに対する耐性が、リアルタイムで、容赦なく積み上がっていく。

 

 いくら殴っても、蹴っても、術式を叩き込んでも。

 こちらの攻撃が通らなくなる速度のほうが、ダメージを与える速度を上回っている。

 

 ――詰みすぎだろ。

 

 いっそ、笑えてきた。

 

「あっはは……!」

 

 悟は声を上げて笑った。それは自嘲でも、絶望でもなかった。

 生まれてこの方、誰も与えてくれなかった「壁」が、ようやく目の前に聳え立っている。その事実が、どうしようもなく愉快だった。

 

 ギュオッ!! と風を斬り裂く音。

 退魔の剣が、悟の首筋めがけて横薙ぎに振り抜かれる。

 悟は上体を半身にして紙一重でそれを躱し、懐に潜り込んだ。

 

 順転はもう効かない。

 ならば――拳で語るしかない。

 

「ォラァッ!!」

 

 極限まで呪力を凝縮した右拳が、魔虚羅の腹部に炸裂する。

 鋼鉄を殴りつけたような衝撃が拳から腕を伝って全身を痺れさせるが、悟は止まらなかった。

 間髪入れず左の回し蹴りを脇腹に叩き込み、着地と同時に跳び上がって踵落とし。

 

 ガコンッ!

 

 法陣が回転する。傷が癒える。体が硬くなる。

 

 だが悟は構わず殴り続けた。

 退魔の剣の斜め切り上げをスウェーバックで避け、返す刃の突きをサイドステップで捌き、その隙を突いて渾身のアッパーを顎の下に撃ち込む。

 

 ガコンッ!

 

 回転、適応。硬化。

 しかし――悟の徒手格闘もまた、一撃ごとに洗練されていく。

 反射的に組み立てていた動きがより無駄なく、より鋭く、より深く魔虚羅の防御を抉るようになっていく。

 六眼が捉えた膨大な情報を、五条悟の天才的な戦闘センスがリアルタイムで最適解へと変換していた。

 

 互いに適応し続ける二つの化け物。

 一方は法陣の回転によって。もう一方は、六眼と天賦の才によって。

 終わりのない軍拡競争のような凄絶な殴り合いが、山頂の大地を砕きながら続いていく。

 

 悟の鼻から、鮮血が一筋流れ落ちた。

 三日間、術式を展開し続けた脳への負荷。沖縄からの強行軍で削られた体力。それらが確実に、彼の肉体を蝕んでいる。

 口の端が切れ、じわりと血の味が広がる。視界の端がチカチカと明滅し始める。

 

 ――それでも。

 

 五条悟の顔から、笑みが消えることはなかった。

 

 なぜなら。

 この瞬間、彼の中である感覚が急速に膨れ上がっていたのだ。

 呪力の流れが研ぎ澄まされていく。細胞の一つ一つが目覚めるように脈動していく。

 意識と呪力が極限まで一致したその瞬間――。

 

 バチィッ!!

 

 黒(・)い(・)火(・)花(・)が、咲いた。

 

 魔虚羅の胸に突き刺さった悟の右拳を起点に、漆黒の稲妻が放射状に炸裂する。

 通常の打撃とは次元の異なる、呪力の核心に触れた一撃。

 

 ――黒閃。

 

 衝撃で魔虚羅の白い胸板が大きく陥没し、巨体が後方へよろめいた。

 

「――まだだ」

 

 悟は止まらなかった。

 研ぎ澄まされた意識が、呪力を完璧に制御し続ける。

 その手応えを逃さず、即座に左拳を振り抜く。

 

 バヂィッ!!

 

 二発目の黒閃が、魔虚羅の腹部を爆砕した。

 

 さらに。

 

 バキィッ!!

 

 三発目。回し蹴りから放たれた踵が、魔虚羅の側頭部を捉える。

 黒い閃光が弾け、白い装甲に亀裂が走った。

 

 バヂッ!!

 

 四発目。跳び上がりながらの膝蹴りが、顎を打ち上げる。

 

 バゴォッ!!!

 

 五発目。着地と同時に全体重を乗せた右ストレートが魔虚羅の胸の中心を貫く。

 

 五(・)連(・)続(・)の(・)黒(・)閃(・)。

 繰り返し咲く黒い火花が、魔虚羅の白い巨体を彩っていく。

 

 全能感が、五条悟の全身を支配した。

 頭の中が、かつてないほどに冴え渡っている。

 呪力の流れが手に取るように把握でき、術式の構造が透き通るように理解できる。

 呪力の核心――その深淵へと、確実に、飛躍的に近づいていく感覚。

 

(見える。もっと深く、もっと先に――呪力の本質が、ここにある)

 

 五条悟は今まさに、戦闘の極限の中で新たな境地へと手を伸ばそうとしていた。

 

 ――しかし。

 

 ガコンッ!!!

 

 法陣が、ひと際重く、禍々しい音を立てて回転した。

 

 五発の黒閃が刻んだ深い傷跡が、一瞬で消し去られる。

 えぐれた胸板が盛り上がり、砕けた装甲が再生し、亀裂が走っていた頭部が元通りに修復される。

 

 ――それだけではなかった。

 

 悟の六眼が、凄絶な事実を読み取った。

 魔虚羅の肉体の密度が、先ほどまでとは比較にならないほど跳ね上がっていた。

 白い肌の下に潜む筋繊維が、骨格が、すべてが異常な硬度にまで強化されている。

 黒閃という呪力の究極表現すらも、この怪物にとっては「適応すべき新たな刺激」に過ぎなかったのだ。

 

 全能感が潮が引くように消えていく。

 代わりに押し寄せてきたのは、三日間の蓄積が一気に噴出したかのような、凄まじい疲弊だった。

 

 六眼が微かにぶれる。

 呪力の総量はまだ残っている。六眼の効率運用のおかげで、呪力切れで倒れるということは五条悟には起こり得ない。

 だが――呪力を操る器(・)としての肉体は、確実に限界を迎えつつあった。

 

 三日間の無下限展開。沖縄への往復。呪詛師との戦闘。そして今この、人類史上誰も経験したことのない最凶の式神との死闘。

 それらすべてが、十七歳の少年の体に容赦なく圧し掛かっていた。

 

 拳の速度が落ちる。足捌きが鈍る。

 避けられていたはずの一撃が、掠り始める。

 

 魔虚羅の剛腕が、悟の左肩を捉えた。

 鈍い衝撃と共に体が吹き飛ばされ、地面を転がる。即座に起き上がろうとするが、膝が一瞬だけ震えた。

 

 ――ジリ貧だ。

 

 こちらの攻撃は通らなくなり、体は動かなくなっていく。

 一方で魔虚羅は一切の疲弊もなく、一切の衰えもなく、ただひたすらに最適化され続けている。

 

 時間が経てば経つほど、差は開く一方。

 この戦いに、逆転の糸口は――。

 

 そう思考した、その刹那。

 

 退魔の剣が、風を切り裂くような鋭い音と共に突き出された。

 六眼はその軌道を完璧に捉えていた。無下限の障壁も、かろうじてだがまだ機能している。

 だが――体が、追いつかなかった。

 

 ヅンッ!!

 

 退魔の剣が、五条悟の胸を貫いた。

 

 無下限を突き破り、肌を裂き、肋骨を砕き、肺を貫通して背中から切っ先が突き出る。

 呪いそのものを断ち切る退魔の聖剣が、五条悟の体内で脈動するように呪力を焼いた。

 

「――ぐ、ぁ……ッ」

 

 悟の口から、赤い飛沫が散った。

 貫かれた胸から、熱く、底冷えするほどに血が溢れ出す。

 

 意識が遠のきかける。

 視界が白く染まりかけて――しかし、五条悟は倒れなかった。

 

 退魔の剣を胸に突き立てたまま、自分を見下ろす魔虚羅の巨体を、血に濡れた蒼い瞳が真っ直ぐに見上げる。

 

 

***

 

 

 同時刻。薨星宮へと続く地下通路。

 

 残像。

 コンクリートの壁を蹴り、天井を蹴り、床を蹴り——禪院直哉の体が、弾丸のように通路を駆け抜けていく。

 投射呪法による予測軌道をなぞる加速。一秒間に二十四コマの動きを先取りし、それを超高速でトレースする絶対の速(・)さ(・)。

 その残像が三つ、四つと通路に残されるたびに、正面の紙袋の呪詛師が涼しい声で笑いながら身を翻す。

 

「おっと、速い速い」

 

 直哉の右拳が紙袋の男の顔面を捉えかけた、その瞬間。

 背後からもう一体の分身が音もなく迫り、直哉の死角に刃を滑り込ませた。

 舌打ちとともに軌道を変更し、壁を蹴って回避する直哉。だが、着地した先にはさらにもう一体。

 

 四体の分身が、入れ替わり立ち替わりに直哉を翻弄する。

 一体を捉えたかと思えば他の三体が死角を狙い、追い詰めたと思った瞬間に位置を入れ替える。

 まるで万華鏡のように変幻自在な連携が、この狭い通路を最大限に活かして直哉の速度を殺しにかかっていた。

 

「青嵐操術——空裂」

 

 その直哉の背後から、援護射撃が飛ぶ。

 

 傑が放った風の刃が通路を薙ぎ、分身の一体を牽制する。圧縮された空気が矢のように射出され、別の分身の足元を抉った。

 

 だが——傑の顔には、隠しきれない焦りが滲んでいた。

 

(……最悪だ)

 

 状況が、致命的なまでに相性が悪かった。

 

 まず、この狭い地下通路。

 夏油傑が青嵐操術の使い手として最大の強みを発揮するのは、広大な空間で破壊の暴風を展開する大規模殲滅戦だ。

 だがここは天井の低い、幅三メートルほどの閉鎖空間。迂闊なことをすれば、自分たちの頭上に瓦礫が降り注ぐことになりかねない。

 

 次に、禪院直哉。

 出会って数日。連携の練度など皆無に等しい。

 しかも直哉の投射呪法はあまりにも速すぎる。友軍の援護を考慮しない独断的な高速機動は、下手な射撃が味方を巻き込みかねないという新たなリスクを生む。

 更に彼の動きを乱すような強風を使うわけにもいかない。

 傑ほどの実力者でも、残像を残して瞬間移動のように位置を変え続ける直哉の動きに合わせて精密な射撃を行うのは、至難の業だった。

 

 そして——何よりも致命的なのが。

 背後に、守るべき二人がいるという事実だった。

 

 傑のすぐ後ろでは、天内理子が恐怖で青ざめた顔をしながら黒井美里にしがみついている。

 黒井は理子を庇うように前に立ち、身構えてはいるが——彼女たちには、この場の呪詛師たちに対抗する術はない。

 

 彼女たちの命綱は、傑が展開する圧縮大気の結界のみ。

 強力な防壁ではあるが、それゆえに傑を中心に数メートル程度の範囲にしか展開できない。

 傑が前に出れば、理子たちを守る盾がなくなる。理子たちから離れれば、分身の一体が隙をついて星漿体たる彼女を殺しにくる。

 

 近接戦闘にも自負があり、本来ならば直哉と共に前線で殴り合いたい傑が、ちまちまと後方から援護射撃をするしかできない最大の理由がそれだった。

 

 ――分かっている。この呪詛師は、それを狙ってこの場所を選んだのだ。

 

「なぜ援軍が来ないのか、って顔をしているね?」

 

 分身の一体が直哉の拳を軽やかにいなしながら、まるで世間話でもするかのように傑へと語りかけた。

 

「作戦の直前にね、ちょっと数千ばかりの蠅頭を高専内に散布してきたんだよ」

 

「っ……!」

 

 傑の表情が、さらに険しくなった。

 蠅頭――四級相当の小型呪霊。全くもって脅威と言える存在ではないが、数千という物量で高専内にばら撒かれれば補助監督や術師たちはその対処に追われ、この地下通路まで駆けつける余裕などなくなる。

 

「それに」

 

 男は肩をすくめるような仕草をした。

 

「上で大怪獣バトルが繰り広げられているからね。来たくても、来られないだろうさ」

 

 ズウゥゥゥン……と、まさにそのタイミングで、天井を越えて地上から凄まじい振動が伝わってきた。

 五条悟と魔虚羅の激突。その余波が、地下深くのこの通路にまで届いている。

 

 あの化け物じみた衝撃の発生源の近くを通って増援を送ることなど、誰にもできるはずがなかった。

 完璧な封鎖。完璧な孤立。

 この呪詛師は、最初からこの状況を作り上げるためにすべてを仕組んでいたのだ。

 

 そして——

 

 ヒュッ!

 

 会話の最中にも、分身の一体が傑の死角から理子めがけて飛び出した。

 

「理子ちゃんッ!」

 

 傑が咄嗟に圧縮大気の壁を厚くし、分身の突進を弾き返す。

 だがその一瞬、前方への援護射撃が途切れた。

 

 直哉が三体の分身に囲まれ、足に掠り傷を負う。

 

「チッ……!」

 

 体勢を立て直しながら、直哉の額に青筋が浮かぶ。

 理子を狙うことで傑の援護を断ち、傑の援護が途切れた隙に直哉を削る。

 この呪詛師は、二人の弱点を完璧に噛み合わせた戦術で、じわじわと追い詰めてきていた。

 

「今度こそさ」

 

 紙袋の奥から、穏やかだが冷たい声が響く。

 

「今度こそ、星漿体を消してやりたいんだよ」

 

 ――今度こそ。

 その言葉に傑は引っかかったが、今はそれを問い返す余裕などない。

 

「とんでもない特異点が出てきてしまった最悪の状況でもあるけど——同時にこれは最高のチャンスでもあるんだ」

 

 男は、直哉の猛攻を巧みにいなしながら、まるで独白のように呟き続ける。

 

「簡単には手が届かずとも、理想そのものと言えるそれがあるんだ。今回は六眼にこの土壇場で魔虚羅を当てられた。これを逃したら多分、次はない気すらする。だからさ――」

 

 紙袋の奥でニィ、と口元が歪むのが伝わった。

 

「諦めてくれ」

 

 その瞬間だった。

 

 ――ズンッ。

 

 突然、直哉の体が地面に叩きつけられた。

 

 足が止まったのではない。

 身体が地面に吸(・)い(・)寄(・)せ(・)ら(・)れ(・)た(・)のだ。

 

「なっ……ぐ、ぅ……ッ!!」

 

 凄まじい重力が、直哉の全身を上から押し潰すように圧し掛かる。

 投射呪法で予めセットしていた動作が、突然の重力変化により軌道を歪められ、無理やり中断させられていた。

 膝が折れ、掌がコンクリートの床に叩きつけられる。全身の骨が軋むような重圧。

 

「っ……二つ目の、術式……ッ!?」

 

 傑が目を見開いた。

 分身の術式、そしてさらに――重力を操る術式。

 一人の術師が、二つもの術式を同時に行使している。

 

 その事実が意味するところは一つ。

 

(禪(・)院(・)全(・)が(・)……こ(・)の(・)呪(・)詛(・)師(・)に(・)術(・)式(・)を(・)売(・)っ(・)た(・)の(・)か(・)……!?)

 

 全の始めた術式取引。その顧客リストに、この呪詛師が含まれている可能性。

 かの当主にとって、呪詛師とは資源であって客ではないはずだ。

 だがしかし、あの「おもちゃ箱」から引き出されたであろう術式が、今まさに自分たちを殺そうとしている。

 

 騙されて売った? それとも、裏で繋がりが――。

 その可能性に思い至り、傑の背筋を冷たいものが走る。

 

 しかし――今はそんな推測をしている場合ではない。

 直哉が、潰れかけていた。

 

 重力に押し潰され、床に這いつくばる直哉。

 その上に、トドメを刺しに来た分身が悠然と立ち、見下ろしていた。

 

「フフ。速い子は、止めてしまえば楽なものだ」

 

 紙袋の呪詛師は楽しげに短刀を構え、直哉の首筋に刃を向けた。

 

 見下ろされている。

 生まれてから今日に至るまで、誰よりも速く、誰よりも強くあろうとしてきた禪院直哉が。

 名も知らぬ呪詛師に、虫けらのように地面に押し付けられ、見下ろされている。

 

 その屈辱が。

 全身を押し潰す重力よりも遥かに耐え難い苦痛となって、直哉の中で爆発した。

 

「――見下ろすなや!!」

 

 重力に押し潰された体を、怒りだけで強引にバネのように跳ね起こす。

 その声には、禪院の血に流れる意地と誇りの、すべてが込められていた。

 

 ギチギチと軋む筋肉を無理やり動かし、直哉は重力に逆らって顔を上げた。

 床に押し付けられた右腕を、歯を食いしばりながら持ち上げていく。骨が折れるかと思うほどの重圧。視界が白く霞む。それでも、直哉は右拳を握り締めた。

 

 そして――頭上で短刀を振り上げていた分身の顎に向かって、下から上へ、ロケットのような右アッパーを叩き込んだ。

 

 その瞬間。

 直哉の拳に込められた呪力が、極限の怒りと意地によって研ぎ澄まされ――0.000001秒の誤差の中で、完璧に打撃と一致した。

 

 バヂィィィッ!!!

 

 黒い火花が、闇の通路を昼間のように照らし出した。

 当主の実験に付き合わされ、三つの術式を組み合わせても出せなかった物。

 

 ――黒(・)閃(・)。

 

 重力を跳ね返し、火事場のクソ力で放たれた渾身の一撃は、黒い稲妻を纏って分身の顎を完璧に打ち抜いた。

 衝撃で分身の紙袋が弾け飛び、その体がくの字に折れ曲がって天井に叩きつけられる。

 

 ドサリ、と。

 崩れ落ちてきた分身の体が、通路の床に無様に転がった。

 

 あまりの衝撃で、紙袋が完全に外れていた。

 露わになったのは、つるりとした形の良い綺麗な禿げ頭。

 驚いたように見開かれた目が、這いつくばっていたはずの直哉を呆然と見上げている。

 

「……ハッ」

 

 直哉は、血に濡れた口元を拭いながら、その顔を一瞥した。

 

「けったいなもん被っとるから、術式の縛りかと思たら」

 

 鼻で笑う。

 

「――ただのハゲ隠しやんけ。ダッサ」

 

 内臓のどこかに傷がついたのだろう。ゲホッ、と赤黒い血の塊を吐き出しながらも、直哉は膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。

 重力はまだ体にかかっている。足元がふらつき、視界が明滅する。

 

 だが――その眼は死んでいなかった。

 

 むしろ、先ほどの黒閃の残滓が全身を駆け巡っているかのように、炯々と、獣のような光を宿して輝いている。

 

「…………驚いたね」

 

 崩れ落ちた分身の代わりに、別の一体が音もなく前に出た。

 紙袋の奥の声は、初めてわずかな動揺を滲ませていた。

 

「長持ちする術式じゃないとはいえ、まさかそんな力業で返してくるとは」

 

 男は首を小さく傾げ、感心するように呟いた。

 

「しかも、このタイミングで黒閃を出してくるなんて。――持ってるじゃないか、禪院の坊や」

 

「うっさいわ、ハゲ」

 

 直哉は血の滲む拳を握り直し、重力の中で前傾姿勢を取った。

 体はもう限界に近い。だが、あの一撃で掴んだ「何か」が、まだ拳の中に残っている気がした。

 

 そのとき。

 

 前に出た分身の男が、ふと直哉から視線を外した。

 紙袋の奥の目が、直哉の背後――傑のさらに後方を見て、大きく見開かれた。

 

 

***

 

 

 退魔の剣が、五条悟の胸を貫いていた。

 

 呪力の属性そのものを断ち切る退魔の聖剣。

 その刃が体内で脈動し、無下限を焼き、呪力回路を蝕んでいく。

 口から溢れる血。崩れ落ちそうになる膝。視界が白く染まっていく。

 

 ――死ぬのか、俺。

 

 その問いが、五条悟の脳裏をよぎった瞬間。

 奇妙な感覚が、胸の中心から広がった。

 

 退魔の剣の刃。

 あらゆる呪いを祓い、あらゆる呪力の属性を断ち切る、正の力の結晶。

 それが今、五条悟の体の中心に突き立てられている。

 

 正の呪力。

 呪術師が通常扱う呪力は負の力だ。恐怖、憎悪、殺意――人間の負の感情から生じるエネルギー。

 だが、退魔の剣が放つのはその真逆。浄化と治癒の力を秘めた、正の呪力。呪霊の大敵。

 

 悟の六眼が、胸を貫く退魔の剣を通じて流れ込んでくるその「正の力」の構造を、死の淵にあってなお、克明に読み取り始めていた。

 

 (――なるほど。これが、正の呪力の形(・)か)

 

 黒閃を五発叩き込んだあの瞬間。呪力の核心に触れかけた、あの感覚。

 あと一歩、あと半歩で届きそうだった、あの深淵。

 

 退魔の剣が、その最後の半歩を埋めてくれたのだ。

 

 負の呪力を反転し、正の呪力に変換する。

 理屈としては知っていた。同期のよく分からない解説も聞いた。だが実践できる術師はほんの僅かしかいない。

 しかし今、最高の「参考書」が胸にぶっ刺さっているのだ。

 六眼という最強の解析装置が、退魔の剣から流れ込む正の呪力の構造を余すところなく模倣し、再構築し――。

 

 ドクン、と。

 

 五条悟の心臓が、大きく脈打った。

 

 胸の中心から、温かな光が広がっていく。

 それは退魔の剣の力ではない。五条悟自身が生み出した、純粋な正の呪力の奔流だった。

 

 退魔の剣に貫かれた傷口から、逆再生のように肉が再生していく。断ち切られた血管が繋がり、砕けた肋骨が接合し、裂けた肺が元通りに修復されていく。

 

 ――反(・)転(・)術(・)式(・)。

 

 死の淵で、五条悟はそれを掴み取った。

 悟は退魔の剣を掴み、悟は血まみれの顔で笑った。

 

「……はは」

 

 乾いた、しかし心の底からの笑い声が漏れた。

 

「死ぬ気でやれば、案外できるもんだな」

 

 反転術式。正の呪力の生成と行使。

 呪術師として到達しうる最高峰の技術の一つを、この十七歳の少年は、胸を貫かれた瀕死の状態から独力で会得してみせたのだ。

 

 悟は血に濡れた右手を見下ろし、そこに灯る温かな光を確かめた。

 

「それともアレか? 胸にぶっ刺さった正の呪力の塊が、良い参考書になったのか?」

 

 独り言のように呟きながら、口元が三日月に歪む。

 体はまだボロボロだ。三日間の疲弊は消えていない。反転術式で傷は塞げても、蓄積された疲労までは取り除けない。

 

 だが――高揚感が、すべてを塗り潰していた。

 

 呪力の核心に触れた感覚が、全身を支配している。

 見える。今までぼんやりとしか見えていなかった呪力の深層が、手に取るように見える。

 六眼に映るすべての情報が、かつてないほど鮮明に、透き通って――。

 

「ゴォォォォォッ!!!」

 

 スローモーションのように流れる景色の中、魔虚羅の咆哮が山頂を震わせた。

 胸から剣を生やしたまま、両手で印を結ぶ。血に濡れた指が、確かな手応えをもって組み合わさる。

 

 今度は、負の呪力ではない。

 反転術式によって生み出された、正の呪力を術式に乗せる。

 

「――『位相(いそう)』」

 

 空間が軋む。

 

「『波羅蜜(はらみつ)』」

 

 光が集束する。

 

「『光の柱』」

 

 正の呪力が、その呪詞に導かれるようにして、悟の掌の前に凝縮されていく。

 文字通り、血を吐くように紡がれた完全詠唱。

 喉が焼けるような痛みを堪え、最後の一節を絞り出す。

 

「――術式反転・『赫(あか)』」

 

 赫い光が、爆発した。

 

 闇夜を真昼に塗り替えるような、圧倒的な赫の斥力。

 正の呪力を乗せた術式反転は、先ほどまでの術式順転とは根本的に異なる力の性質を持つ。

 引力の『蒼』に対する、斥力の『赫』。

 

 赫い閃光が、魔虚羅の巨体を正面から捉えた。

 

 ドゴォォォォォンッ!!!

 

 凄まじい衝撃。

 魔虚羅の白い巨体が、大砲の直撃を受けたかのように大きく弾き飛ばされた。悟の胸を貫いていた退魔の剣が抜ける。

 山頂の大地が抉れ、木々が薙ぎ倒され、白い巨躯が転がりながら数十メートルを吹き飛んでいく。

 

 ――効(・)い(・)た(・)。

 

 悟は確信した。

 魔虚羅は蒼には適応した。黒閃にも適応した。

 だが、赫には適応していない。今初めて浴びた、正の呪力による斥力。

 法陣がいくら適応を重ねようとも、まったく新しい方向性の攻撃に対しては、一から積む必要があるのだ。

 

 ガコンッ!

 

 法陣が回転する。傷が修復されていく。

 そして――赫に対する適応も、確実に始まろうとしている。

 

 だが、悟は焦らなかった。

 胸の傷を最低限治しながら——。

 

(赫が通った。ならば――次の一手がある)

 

 蒼は、引力。負の呪力による術式順転。

 赫は、斥力。正の呪力による術式反転。

 その二つを同時に衝突させたとき、何が起こるか。

 

 無下限呪術の到達点。

 蒼と赫を融合させた、仮想の質量を生み出す究極の一撃。

 

 ――それは、五条家の秘中の秘。歴代の六眼保持者のみが到達し得る、禁断の奥義。

 

 ガコンッ!!

 

 赫に適応しつつある魔虚羅が、法陣を回転させながら体勢を立て直す。

 白い巨体が大地を蹴り、悟に向かって再び突進を開始した。

 

 悟は両手を広げた。

 

 右手に蒼。左手に赫。

 二つの相反する力が、それぞれの掌の上で渦を巻く。

 

 引(・)力(・)と斥(・)力(・)。負(・)と正(・)。

 それらが混ざり合い、干渉し合い、互いを高め合いながら一つの、名状しがたい紫色の光へと収束していく。

 

「術式順転――蒼(・)」

 

 右手の蒼い光球。

 

「術式反転――赫(・)」

 

 左手の赫い光球。

 

 悟は両手をゆっくりと前方に突き出し、二つの光球を正面でぶつけ合わせた。

 

 その刹那。

 世界が、一瞬だけ沈黙した。

 音も、光も、空気の振動すらも消え失せ、完全な虚無が一瞬だけ山頂を支配する。

 

 そして――。

 

「――虚式・『茈(むらさき)』」

 

 

 紫色の閃光が、解き放たれた。

 

 

 それは光でも、衝撃波でも、呪力の奔流でもなかった。

 仮想の質量。存在と非存在の狭間から生み出された、概念そのものの暴力。

 

 放たれた茈の光が進む軌道上にあった、すべてのものが消えた。

 

 大地が消えた。

 木々が消えた。

 岩盤が消えた。

 空気すらも消えた。

 

 そしてその進行方向の先にいた、八握剣異戒神将魔虚羅もまた――。

 

 

 法陣が回転する暇もなく。

 適応する余地すらなく。

 

 仮想の質量に呑み込まれ、白い巨体は一瞬で消滅した。

 

 後に残されたのは、山頂から真っ直ぐ伸びる、えぐり取られたような巨大な溝だけだった。

 まるで巨人が指で地面をなぞったかのような、不自然なまでに滑らかな断面。

 そこにあったはずのすべてが、跡形もなく消え去っている。

 

 

 

 ——静寂(シーン)。

 

 

 

 五条悟は、その荒廃した光景の中に一人立ち尽くしていた。

 両腕がだらりと垂れ下がる。全身から力が抜けていく。

 反転術式で塞いだはずの傷口から、じわりと血が滲み出してきた。

 

「…………勝った、のか」

 

 呟いた声は、自分でも驚くほどに掠れていた。

 

 勝った。六眼と無下限の持ち主を殺したとされる最凶の式神を、十七歳の五条悟は打ち倒した。

 退魔の剣に胸を貫かれ、瀕死の淵から反転術式を覚醒させ、赫と茈という新たな武器を一つの戦闘の中で同時に獲得し。

 

 膝が笑い始める。

 さすがにもう、限界だった。

 

「……さて」

 

 悟は膝を叩いて気合を入れ直し、ふらつく足で歩き出した。

 

 まだ仕事は終わっていない。

 傑と直哉が、下で戦っている。天内を守っている。

 あの紙袋の野郎にも、まだ色々と聞きたいことがある。

 

 薨星宮から地下通路へと続く階段を、一段一段、ゆっくりと降りていく。

 血の跡が、その後に赤い点線を描いた。

 

 

***

 

 

 前に出た分身の男が、ふと直哉から視線を外した。

 紙袋の奥の目が、直哉の背後――傑のさらに後方を見て、大きく見開かれた。

 

「――っ!」

 

 傑も、背後の気配に気づいて振り返った。

 

 薨星宮から地下通路へと続く階段の奥。

 暗闇の中から、ゆっくりと、一つの影が降りてきていた。

 

 血に塗れた高専の制服は、もはや原型を留めていない。

 胸には退魔の剣に貫かれた穴が生々しく口を開け、べったりと血濡れの肌があらわになっている。

 美しい銀髪は赤黒く張り付き、顔の半分は乾きかけた血糊に覆われていた。

 

 だが――その足取りに、迷いはなかった。

 

 蒼く輝く六眼が、通路の奥にいる紙袋の呪詛師を正面から捉える。

 

「よー、傑。ついでに禪院」

 

 五条悟は、血まみれの顔で、いつものように軽く片手を上げた。

 

「遅くなってゴメンな。上の奴、ちょっと手こずった」




■紙袋の呪詛師
本来の分身術式に加え、なんと第二の術式として重力を扱える事が判明した。
果たして彼は一体何者か。全の顧客か、それとも……。
その頭は傷(・)一(・)つ(・)毛(・)一(・)つ(・)な(・)い(・)ツルッパゲ。綺麗な卵型の頭部をしている。
紙袋を被るのは原作だとおそらく縛りだと思われるが、ここではただのファッション(ハゲかくし)とする。

■五条悟
甚爾の代わりに死の淵へ追いやるのにこれ以上説得力あるやつはいないと魔虚羅をぶつけられた。ご満悦。
起きた覚醒自体は原作と変わらないので割愛。

■禪院直哉
見 下 ろ す な や ! !
根性見せて黒閃ぶちかました。

■禪院家墓荒し見落とし問題
五条家、あと高専あたりに非難される。ついでに五条悟に煽られる。
疲労困憊でも魔虚羅余裕でした!(余裕ではない)

紙袋マンの正体とは?

  • 禪院 全
  • 羂索
  • アルティメット紙袋マン
  • その他
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。