禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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「挑戦者に対してハンデを求める王者はいないだろう?」

「せめてフェアにいこうじゃないか」



17.簒奪者の戯れ-底なしの玩具箱

「エキシビションマッチ、ねえ?」

 

 全は悠然と立ち尽くしたまま、目の前で挑発的に笑う五条悟と正面から相対した。

 数千人の術師たちが固唾を飲んで見守る、静寂に包まれたすり鉢状の結界の底。つい先ほどまで最強の式神が蹂躙されていたその特等席に、いけしゃあしゃあと降り立った若き神童は、丸いサングラスをずらした蒼い瞳をギラギラと輝かせている。

 

「そ。俺の()()とアンタのそれ。……どっちが強いか、気にならないか?」

 

 純粋な闘争心と、己の力への絶対的な確信。先日の星漿体護衛任務での死線を経て、明確に次元の違う高みへと至ったことへの万能感が、悟の全身から青白い呪力の揺らぎとなって立ち昇っている。

 あまりにも高揚した様子の悟を見下ろし、全はふっと目を細めた。

 

「さ、悟……ッ!! 何を血迷ったことを……ッ!!」

 

 その張り詰めた空気を切り裂くように、観客席のVIPエリアから悲鳴のような声が上がった。

 声の主は、五条家現当主――悟の実父である。

 先ほど全が見せつけた理解不能な手妻と暴力のパレード、そして最強の式神の完全調伏。それを目の当たりにして顔面を蒼白に引き攣らせていた当主は、自慢の息子がその怪物の懐へ単身飛び込んでいったことに、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を抱いていた。

 

「戻りなさい、悟! それ以上は五条家の……ッ」

 

「おっ、なに?」

 

 青ざめる実父の制止の声を、悟は振り返りもせずに鼻で笑って遮った。

 

「俺が負けると思ってる? 親父、俺がガキの頃からずっと『お前は並ぶ者のいない五条の最強だ』って、耳にタコができるくらい自慢げに言い聞かせてきただろ?」

 

 客席で泡を食い、言葉に詰まる実父に対し、悟はニィッと悪戯っぽく、そして残酷に笑ってみせた。

 

「それにさぁ。もしかして親父、ここで俺が負けたら、『無下限呪術』が禪院家に奪われるかもって思って焦ってるだろ?」

 

 悟は親指で、目の前に立つ全をクイッと指し示した。

 

「心配すんなよ。……このヒト、五条家の相伝()()()()()()()

 

「な、何ッ!?」

 

 五条家当主が、眼球がこぼれ落ちんばかりに目を剥いた。

 彼だけではない。その場にいた五条家の幹部たちが一斉に息を呑み、どよめきが爆発した。

 五条家相伝にして、呪術界における絶対防御と無限の干渉を司る至高の術式。それが既にこの特異点の手の中にあるなど、と。

 

「ああ、確かに持っているよ」

 

 ざわめきを切り裂くように、全が涼やかな声で肯定した。

 

「取引の際の()()があるから、誰から買い取ったか、詳しい出処は言えないけどね。……まあ、大体想像はつくよねえ?」

 

 全が意味ありげに視線を向けると、五条家当主は「ぐっ……」と呻き声を上げ、喉の奥から血を吐くように言葉を詰まらせた。

 

 ――無下限呪術。

 それは間違いなく五条家が誇る相伝の術式であるが、同時に最も扱いが困難な術式でもある。

 無限という概念を現実に持ってくるその術式は、あまりにも複雑かつ繊細な呪力操作を術者に要求する。原子レベルでの呪力コントロールを可能とする神の観測眼――『六眼』がなければ、術式の行使など物理的に不可能なのだ。

 

 そして呪術の因果において、六眼を持つ者は同時代に二人と現れない。

 既に五条悟という六眼の持ち主が誕生している以上、今の五条家に六眼を持って生まれてくる赤子は絶対に存在しないのだ。

 

 つまり、悟以外の五条家の血筋の者に無下限呪術だけが発現したとしても、それは相伝としての「血の誇り」こそあれど、術師としての実用性は皆無に等しい。ただ呪力消費が激しいだけの、宝の持ち腐れである。

 その事実は――あらゆる術式を()()させ、意図的に黒閃すら引き起こすほどの異常な呪力操作センスを持つ全ですら、例外ではなかった。

 六眼というハードウェアが欠けている以上、いかに全の圧倒的な呪力とセンスをもってしても、無下限呪術というソフトウェアを悟のように完璧に起動させることは叶わなかったのだ。

 

 故に五条家のとある傍流の家に偶然現れた、六眼を持たない無下限呪術の落胤は。

 五条家相伝を持つ()()()()()()としての一生よりも、禪院の当主にその術式を売り飛ばし、引き換えに実用的で強力な別の術式へと交換してもらう道を選んだのである。

 

 全は少しばかり目を細め、目の前で爛々と輝く蒼い瞳を静かに見下ろしながら、思案を巡らせた。

 

 ――さて、どうしたものか。

 彼の中の理性が、冷徹に状況を弾き出す。

 六眼。世界を解き明かす神の観測眼。あの美しい眼球を奪い取り、自らの眼窩に収めるという絶対的な算段は、未だについていない。

 故に、今ここで五条悟を降したとしても、全が手に入れられるのは使えもしない無下限呪術のソフトウェアのみだ。

 

 だが、ここでその術式を奪っておくことは、決して無駄ではない。

 無下限呪術さえ先に簒奪しておけば、いつか六眼の()()という難題を解決したその時に、丸腰の彼をねじ伏せることは今よりも遥かに容易になるだろう。

 勝つための手段ならいくらでもある。魔虚羅をけしかけ時間を稼ぐ。その隙に領域展開し、必中効果の強制力で無下限呪術を簒奪する。さらに己が使役する特級呪霊たちを並べて囲み、物理的に圧殺する。

 それこそが禪院全という特異点に相応しい、最も安全で、最も確実な勝利の方程式だった。

 

 ――しかし。

 

「そうだね、いいよ。やろうか、エキシビションマッチ」

 

 全は背後に控えていた魔虚羅を音もなく自身の影の中へと仕舞い込みながら、あっさりとそう答えてみせた。

 

 未来の実利がどうだとか。安全で確実に勝つための神算鬼謀だとか。

 そういった合理的で冷徹な計算以前に。

 禪院全という男は……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったのだ。

 

 五条悟は実際に魔虚羅を単独で破壊し得る規格外の火力を持っている。

 せっかく手に入れた極上の玩具やお気に入りの呪霊コレクションたちを、この小僧に無駄に壊されたくはない。

 

 ――そして何より。こんな大観衆が息を呑んで見つめる最高の舞台で己の領域に引きこもり、視界を遮って多勢に無勢でボコるという絵面の地味な()()()など展開したくはなかった。

 

 もっと派手に。もっと圧倒的に。己という唯一無二の暴力を、世界に刻みつけたい。そんなひどく純粋で子供じみた欲求に、彼は抗うことができなかったのである。

 

「そいつ、仕舞うのか」

 

 悟は、全の背後に控えていた魔虚羅が漆黒の影へと完全に溶け落ちたのを見て、サングラスの奥の六眼を怪訝そうに細めた。

 魔虚羅の召喚には、右拳を左腕の内側へ押し当てるという独特の構えに加え『布瑠部由良由良』という詠唱――明確な()()が存在する。

 領域展開もまた同じだ。掌印を結ぶという動作はどうしてもわずかな隙を生じさせ、特級同士の超速の殴り合いが始まってしまえば、易々とできるものではない。

 

 つまり全は、最初から最強の式神と並び立っているという絶対的なアドバンテージを、あえて自ら捨てたのだ。

 その不可解な行動に、悟は純粋な疑問を投げかけた。

 

挑戦者に対してハンデを求める王者はいないだろう?

 

 全はその疑問に対し、まるで当然のように余裕たっぷりの笑みを浮かべてみせた。

 

「せめてフェアにいこうじゃないか」

 

「……へえ、言ってくれるじゃん」

 

 その上から目線で傲慢極まりない挑発に。

 悟は奥歯を噛み締め、獰猛な肉食獣のように歯を剥き出しにして凶悪な笑みを刻んだ。

 

 ――ビリッ。

 

 空気が、弾けた。

 すり鉢状の演習場の底に、青白く燃え上がる五条悟の呪力と底知れぬ深淵のようにどす黒い禪院全の呪力が同時に立ち込めた。

 二つの濃密すぎる呪力の圧がぶつかり合い、観客席の末端にまで肌を刺すような緊張感となって広がっていく。

 それは呪術界の歴史において最も異端であり、最も理不尽な()()()()の、正真正銘の激突の合図であった。

 

 静寂――その一瞬の息苦しさを破り、先に動いたのはであった。

 

 六眼と無下限呪術で極限まで最適化された呪力操作。

 目にも止まらぬ神速で肉薄した悟は、棒立ちのまま不気味な笑みを浮かべる全の顔面めがけて、容赦なく右拳を叩き込んだ。

 

 挨拶代わりのその一撃が、全の頬骨を粉砕する――まさにその寸前。

 

衝撃反転

 

 全の涼やかな声と共に、全身を薄いガラスのような呪力の膜が瞬時に覆う。

 

 ——ギィンッ!!

 

 悟の拳が膜に激突した瞬間、発動した術式がその絶大な威力を完璧に受け止め、ベクトルを百八十度反転させて()()()()()()()で悟自身へと返却した。

 

 しかし、その反転した衝撃波は悟の体に届くことなく、彼を覆う不可侵の空間に吸い込まれるようにして無力化され、虚空へと散っていく。

 

「ずっと取引リストに入れてるのに、これが一向に売れないんだよねえ」

 

 術式発動の成功により、衝撃を受けるという前提の硬直が消え失せた全は、続く悟の鋭い左の追撃を、まるでダンスのステップを踏むように滑らかに躱してみせた。

 

「見るからに産廃だろ。衝撃限定で等倍反射でマニュアル起動、おまけに使ったら発動成功するか一秒経つまで動けない。一度使って性質読まれたら終わりじゃん」

 

 悟は連続して拳を繰り出しながら、鼻で笑い捨てる。

 『衝撃反転』。発動して一秒以内に受けた衝撃を反対のベクトルへ反射するという、タイミングがシビアすぎる上にバレれば回避やフェイントで容易く無効化される、確かに使い勝手の悪い術式だ。

 しかし、それをこの超常の殴り合いの中で完璧な初見殺しとして運用してみせる全のセンスは、やはり異常であった。

 

 そんな軽口のやり取りの中、回避に徹していた全が、ついに攻めへと転じた。

 

「さて、無限の破り方、検証してみようか」

 

 全が床を滑るように後退しながら、片手で印を結ぶ。

 

「――影縛り

 

 ズプッ、と。

 悟の足元から伸びる影に、漆黒の呪力の杭が何本も突き刺さった。

 

「ちっ……!」

 

 物理的な距離を隔てる無下限の防壁を無視し、概念として繋がっている「影」を直接縫い付けられたことで、悟の超高速の動きが一瞬だけ完全に停止する。

 しかし、すぐさまその規格外の呪力出力によって、影に刺さった杭を力任せに引き千切り、再び機動力を取り戻した。

 

「なるほど、物理的な距離を問題視しないものは通る、か」

 

 全は、影縛りが破られるのも計算の内とばかりに、目を細めて分析を口にする。

 

「とはいえ、物理現象の全ての距離を()()にしているわけじゃあないだろう?」

 

 次の瞬間。

 全の背後の結界の端――悟から最も遠い位置に、大蛇の尾と美しい巫女の上半身を持つ特級呪霊が影からズルリと顕現した。

 姦姦蛇螺(かんかんだら)。かつて全が調伏し、手駒に加えた強力な土地神の呪霊。

 

カン……カン……

 

 金属を固い岩に打ち付けるような、歪で不吉な音が演習場に響き渡った。

 姦姦蛇螺の生得術式、『鳴音呪縛』。

 

「……!」

 

 その音が鼓膜を震わせた瞬間、悟の動きが僅かに、だが確実に鈍った。

 肉体的な疲労と呪力の減衰を強制する段階式デバフの必中術式。それが、無下限の防壁をすり抜けて悟の聴覚を直接侵したのだ。

 悟は即座に耳を強固な呪力防御で覆い、音を介した呪いを遮断する。

 

「目で視て、耳で聴く以上、そういった情報を媒介とする術式は通る訳だ。でなきゃ、不可侵を張っている間は見ざる聞かざるになっちゃうだろうからね」

 

 全は、動きの鈍った悟を見つめながら、楽しげに笑みを深めた。

 

「意外と穴が多いじゃないか、無限ってのは」

 

 直後、苛立った悟の指先から術式反転による斥力の光球『』が、全と背後の呪霊をまとめて吹き飛ばさんと放たれる。

 

 ズドォォォォンッ!!

 

 だが、その閃光が着弾するよりも速く。

 全は足元の影に溶け込む影渡りによってその場から音もなく消失し、同時に姦姦蛇螺もまた一瞬にして全の影の中へと仕舞い込まれていた。

 強力な斥力の爆発は誰もいない結界の端の地面を虚しくえぐり取っただけで、一切の被害を齎さなかった。

 

 振り返った悟の正面。

 そこには白く膨張しうねる無数の水死体の腕が、まるで太い柱のように複雑に絡まり合った、おぞましい一級呪霊――『遠白(とおしろ)』が音もなく出現していた。

 

 この呪霊が持つ生得術式、『操捻躯捻(くねくね)』。

 それはその異様な姿を視界に収めた対象の精神を汚染し、自らの意思に反して肉体を奇怪にねじり曲げてしまうという極めて凶悪な精神異常効果を発揮する力である。

 

 ――しかし。

 

 ドバァァァァンッ!!!!

 

 そのおぞましい呪霊の全貌が完全に顕現するよりも、全がそれを再び影へ引っ込める間すら与えるよりも速く。

 振り返る動作の途中からすでに両目を固く瞑っていた悟は、六眼による呪力の探知のみで正確にその位置と質量を捉え、無下限の呪力を乗せた強烈な回し蹴りを叩き込んでいた。

 

 呪霊の肉体が爆散し、無数の白い腕が塵となって四方八方へと消し飛んでいく。

 

「ああ、もったいない」

 

 自慢のコレクションを、その能力を発揮する間もなくあっさりと消し飛ばされた全が、不満げに声を上げた。

 だが、その声が響き終わるより早く。

 

「次」

 

 目をカッと見開いた悟は、残心など一切見せず、残像すら置き去りにするような圧倒的な速度で、全の目の前へと一瞬にして肉薄していた。

 

「『超反応』『身体自在』『身体強化』『硬化』――」

 

 全の口から、四つの術式が同時に呪詞のように詠み上げられた。

 肉迫した悟の猛攻に対し、全の身体がまるで流体の水のようにしなやかに、それでいて鋼鉄のように硬く、異常な速度で反応し始める。

 

 ズダダッ!!

 

 悟の拳が空を切り、蹴りが全の腕の防御をわずかに削り、鋭い膝蹴りが流れるようにいなされる。

 有り余る才覚を存分に鍛え上げた極限の身体操作を以てしても、全は紙一重の距離感でそのすべてを捌き切ってみせた。

 

「君の方が素のスペックは高いね。でも、こんなふうに複数を重ねてしまえば、問題なく渡り合えてしまう」

 

 全は悟の圧倒的なプレッシャーを前にしてもなお、楽しげに笑いながら分析を口にする。

 

「多分、一つだけじゃだめだろうね。流石、最強を名乗るだけのことはあるよ」

 

 悟の指先から空間を抉り取る強烈な引力の球体――術式順転『』が展開された。

 だが、全はその引力に抗うのではなく、むしろ吸い寄せられる力を巧みに利用して自らの身体を後方へと弾き飛ばすように跳躍し、瞬時に距離を離してみせた。

 

「加えて、その不可侵。……さっきみたいな五感を利用して通せる術式はいくらかあれど、その類は対処法も分かりやすいものが多い」

 

 全は着地と同時に、両手を広げて再び新たな印を組み上げた。

 

「――なら、こういうのはどうかな?」

 

 全の指先から、不可視の暴風が巻き起こる。

 

天飆操術(てんぴょうそうじゅつ)空抜葛籠(からぬきつづら)

 

 瞬間、悟の周囲数メートルを、目に見えない強固な風の結界がドーム状に覆い尽くした。

 そして次の刹那、その結界の内側から、空気が凄まじい勢いで一気に()()()()()()()

 

「……!」

 

 ——真空。

 物理的な攻撃をいくら無限で遅延させようとも、存在している空間そのものから()()を抜かれてしまえば呼吸ができず、気圧差で体内の臓器が破裂する。

 距離の概念を無視した、空間そのものへの環境干渉。

 

 だが、悟の顔には焦りはなかった。

 むしろ、呆れたように小さく舌打ちをした。

 

「……生憎、そういうので一回殺されかけてんだ。二度はごめんだね」

 

 悟は瞬時に自身の身体の内側――肺や臓器を強力な呪力で保護し、急激な気圧変化に耐える。そして同時に、自身の周囲に『』を複数展開した。

 結界の外へ逃げ出そうとする空気を、強力な引力で内側へと強引に引き留める。

 真空化を相殺するそのコンマ数秒の間に、悟は結界の壁へと肉迫し、呪力を込めた拳で風のドームを内側から粉砕した。

 

 バァァンッ!!

 

 結界をぶち破り、その勢いのまま飛び出した悟の蹴りが、全の腹部を捉えた。

 

「ぐっ……!」

 

 咄嗟に両腕でガードを固めた全だったが、無下限の呪力を乗せたその圧倒的な質量に耐えきれず、演習場の地面を深く削りながら十数メートルも吹き飛ばされた。

 ここに来て悟が一矢報いた事に、観衆はどよめきと感嘆の声を上げる。

 

「……あれ、ちょっと懐かしい技じゃなかった?」

 

 観客席の端で、その攻防をハラハラと見守っていた家入硝子が隣に立つ夏油傑をジト目で見た。傑は気まずそうにスッと目を逸らす。

 

 ――高専に入学して割とすぐの頃。

 「無限の攻略法を見つけたから試させてくれ」という傑の提案に、「やれるもんならやってみろよ」と気軽に付き合った悟が、油断もあって本気で死にかけたのは、彼らの間では記憶に新しい笑えない事件であったのだ。

 

「……さっきからさぁ」

 

 吹き飛ばされた全が、無傷で体勢を立て直し、ニヤリと笑う。

 その顔を見て、悟は丸いサングラスをクイッと押し上げながら、あからさまに退屈そうな、それでいて凶暴なまでの挑発の言葉を投げた。

 

「無限の破り方を探って楽しむのはいいけどさ。油断して遊んでる間に負けちゃ、意味ないでしょ? ……()()、王者さん」

 

 演習場に、悟の声が響き渡った。

 

「調伏の儀は終わったんだし、使えるでしょ。……()()

 

 その一言が落ちた瞬間。

 数千人の術師たちが固唾を飲んで見守っていたすり鉢の底は、水を打ったような――否、凍りつくような静寂に支配された。

 

「……なっ!?」

 

 特等席で固まっていた五条家の幹部たちが、顔面を蒼白に引き攣らせて立ち上がった。

 

「悟! 何を馬鹿なことを!!」

 

 現当主である実父の悲痛な叫び声が、広大すぎる結界の壁に虚しく反響する。

 だが、悟はそんな悲鳴など全く聞こえていないかのように、ただ真っ直ぐに全を見据えている。

 

「やめろ、悟!!」

 

 客席の端から夏油傑も思わず身を乗り出し、声を張り上げた。

 普段決して取り乱すことのない彼の顔にすら、明確に焦燥と戦慄が浮かんでいた。

 

 領域展開。

 それは呪術戦の極致であり、必中必殺の絶対空間である。

 そして何より恐ろしいのは、どれほど強固な防御術式であろうとその領域内に引きずり込まれてしまえば領域に付与された術式によって()()され、意味を成さなくなってしまうという呪術の絶対的なルールだ。

 

 いかに五条悟が「無下限呪術」という絶対不可侵の防壁を持っていようとも。

 領域の必中効果に呑まれれば、その無限の距離は中和され、全が放つ無数の術式が回避不能の必殺の雨となって悟の体を直接引き裂くことになる。

 それは、神童・五条悟が最も避けるべき、そして唯一と言っていいほどの()()()()()()()なのだ。

 

「……ほう」

 

 全は驚きと呆れが入り混じったような、しかしどこか期待に満ちた瞳で目を細めた。

 

「領域の必中効果を受ければ、君の不可侵はただの飾りになる。……何か、それを凌ぐアテでもあるのかな?」

 

 全の問いかけに、悟はサングラスの奥の六眼を細め、悪戯っぽく、しかし心底楽しそうに笑ってみせた。

 

()()?」

 

 あっさりと、そして軽快に悟は全の推測を否定した。

 周囲の術師たちが「狂っている」と絶望の声を漏らす中、悟は己の胸をドンと叩く。

 

「だけど……()()はある」

 

 悟の言葉には、一片の迷いもなかった。

 ただ、確信だけがあった。

 

 呪力の核心に触れ、反転術式と虚式『』を手に入れた今の自分なら。

 あの理不尽な「領域展開」という呪術の到達点すらも、一度この『六眼』の奥底に焼き付け、肌で経験することさえできれば。

 必ず、自分の中で新たな()が拓ける。

 

 それは天才であるが故のあまりにも傲慢で、しかし純粋すぎる渇望だった。

 だが、見ている者たちからすればそれはあまりにも無謀でリスキーすぎる――命を投げ捨てるような最悪の賭けに他ならなかった。

 

 全は薄く開いた瞳で悟を見据えたまま、その奥に渦巻く途方もない自信の正体を探っていた。

 

 いかに五条家の神童といえど、十中八九、領域展開が刺されば片が付く。

 必中効果によって『無下限呪術』を簒奪し、適当な攻撃で意識を刈り取ってしまえばそれで終わりだ。

 しかし、目の前で不敵に笑う青年の表情が単なる若さゆえの慢心や傲慢だけで形作られているわけではないことは、全の肌を刺すような直感が敏感に感じ取っていた。

 

(……この挑発に乗れば、五条悟をさらに()()させてしまうかもしれない)

 

 そんな嫌な予感が、ヒシヒシと全の背筋を撫でた。

 死の淵で反転術式に目覚め、魔虚羅を打ち倒したという男。

 領域という呪術の深淵を一度でも経験させれば、それを糧に未知の領域へと踏み出しかねない。

 いずれ彼から六眼を奪うという究極の目的を考えれば、これ以上彼を強化する可能性は避けるのが賢明だった。

 

 ――しかし。

 

 このエキシビションマッチにおいて、全自身が負けるつもりなど毛頭なくとも、悟の『無下限呪術』を確実に突破する決定打に欠けているのもまた事実であった。

 『領域展延』。術式を付与しないがらんどうの生得領域を自身に纏うことで相手の術式効果を流し込ませて中和し、あらゆる防御術式を貫き相手を殴れるようにする高度な技術。全はそれも習得してはいたが、展延を使用している間は自身の全ての術式が封じられてしまう。

 領域展開後の焼き切れを半ば克服している全とてそれは変わらない。

 無数の術式を使い分けることで圧倒的な優位に立つ全にとって、それは己の最大の強みを自ら放り投げる選択に他ならない。

 

 魔虚羅を再び呼び出すか、あるいは領域展開をするか。それが、最も手っ取り早くて確実な勝ち筋であった。

 

(それに……こんな数千の観衆の目の前で、小僧の挑発に怯んで見せるなんて、僕の矜持が許さないしね)

 

 全の口元が、ゆっくりと三日月のように歪んだ。

 五条悟が何も出来ずに必中効果に飲み込まれ、無下限呪術を簒奪されて呆気なく終わる。その可能性が最も高く、最も合理的だ。

 

「……いいよ。そこまで言うなら、試してあげよう」

 

 全は優雅に手を動かし、右手で施無畏印、左手で与願印を結ぶ。

 

 演習場の空気が重く、どす黒く変質した。

 数千人の術師たちが悲鳴を上げる間もなくその圧倒的なプレッシャーに息を呑む。

 全の足元から広がる暗黒が、悟の立つ空間ごとすべてを飲み込み、そして新たな世界へと塗り替えていく。

 

領域展開・玲瓏簒宝閣(れいろうさんほうかく)

 

 呪力がほとばしり、全を中心に領域が広がっていく。

 演習場の土埃に塗れたすり鉢の底が、一瞬にして黄金と大理石で彩られた神聖にして禍々しい空間へと変質した。

 

 全がこれまでに簒奪し、ストックしてきた無数の生得術式。それらが色とりどりの()()として収められた、高くそびえ立つ絢爛豪華な宝閣――『玲瓏簒宝閣』。

 

 この場に集う数千人の術師たちの中には、既にこの領域を直接目の当たりにした者も少なくなかった。

 禪院家の再編に際して術式を授けられた元躯倶留隊の男衆や女中たち、あるいは総監部の老人たちのように寿命と引き換えに術式を取引した者たち。

 彼らにとって、この領域は圧倒的な恩恵をもたらす術式取引の現場であり、神の奇跡そのものであった。

 

 しかし、それが今――本来の形である、呪術戦における絶対の『殺意』と『剥奪』の場として、初めてその牙を五条家の神童へと剥いたのだ。

 

「おおおぉぉぉ……ッ!!」

 

 観客席から、絶望とも歓喜ともつかない、震えるようなどよめきが沸き起こった。

 無数の宝石たちが宙を舞い、全の意思に従って一斉に悟へと狙いを定める。

 領域に引きずり込まれた瞬間、対象は簒奪の必中効果により、己の生得術式を強制的に抜き取られる運命にある。

 

 五条悟はその圧倒的な死の空間を前にただ一人、笑っていた。

 

 サングラスの奥、蒼く燃え上がる六眼が一切の瞬きを忘れたかのように限界まで見開かれている。全の呪力の波長。結界を構築する術式の編み方。生得領域が具現化するそのプロセスの()()()を。

 五条悟は呪術最大の奥義である領域展開の一挙手一投足を、その神の眼に一秒たりとも見逃すまいと食い入るように焼き付けていた。

 

 そして――全の領域が完全に完成し、必中の簒奪効果が悟の魂へと牙を剥こうとした、まさにその刹那。

 

「……()()()()()

 

 悟の口元が、ニィッと三日月のように吊り上がった。

 

 死の淵で反転術式を掴み取り、虚式『』を完成させたあの時の全能感。

 呪力の核心へと至る道筋が、全の領域展開という最高の()()を見たことで一気に、そして完全に開けた。

 

「――こうかな」

 

 悟は全くの無意識下から導き出されたように、滑らかに右手を動かした。

 右手の人差し指に、中指を交差させるように巻きつける。それは帝釈天印にも似た、彼自身の魂の形を世界に押し付けるための掌印。

 

 全の玲瓏簒宝閣の黄金の輝きが、悟に届くほんの一ミリ手前で。

 悟の足元から、全のそれを凌駕するほどの果てしなく透き通った蒼い呪力の奔流が爆発的に膨れ上がった。

 

領域展開・無量空処(むりょうくうしょ)

 

 その言葉が紡がれた瞬間。

 黄金の宝閣の風景が、まるで薄皮を剥がされるように、あるいは宇宙の果てへと吸い込まれるように、一瞬にして()へと塗り替えられていった。

 

 二つの領域が衝突した瞬間、世界は静寂に包まれた。

 

 玲瓏簒宝閣は比較的にではあるが領域の()()()()において強いとされる結界だ。

 術式を強制的に「簒奪」する必中効果を持ちながらも、領域のルールそのものに「相手を直接殺傷する力」が一切含まれていないからである。

 呪術における束縛はそのリスクが少なくなるほどに理不尽な強制力を増す。

 だからこそ全の領域は特級呪霊の必殺領域すらも一方的に押し潰すほどの異常な結界強度を誇っていた。

 

 ――しかし。

 

 対する五条悟が展開した『無量空処』は、全のそれとは全く()のベクトルを持っていた。

 奪うのではない。対象の脳内に無限の情報を()()()という領域効果。

 一見すれば殺傷力がないように思えるその効果は結果として対象を完全な思考停止へと追い込み、緩やかな死をもたらすというあまりにも凶悪で絶対的な精神攻撃。

 故にその押し合いにおける性能は、五条悟という神童の底知れぬ潜在能力と相まって、全の強固な玲瓏簒宝閣の結界強度を凌駕するほどのポテンシャルを秘めていたのだ。

 

なっ……!?

 

 全がここに来て初めて驚愕に目を見開いた。

 黄金の宝閣の風景が、悟の足元から広がる透明な宇宙のようなの空間にジワジワと、しかし確実に浸食され始めていたのだ。

 

(馬鹿な。今、領域展開を……この場で完成させただと!?)

 

 あり得ない。いくら六眼で術式の構造を読み取ったからといって一発で、しかも実戦のこの極限状態で領域を構築するなど人間業ではない。

 だが、現実に五条悟の領域は全のそれを喰い破ろうと迫っている。

 

 全は咄嗟に、領域の押し合いに全神経と呪力を注ぎ込んだ。

 領域展開の経験値において、全は悟を圧倒的に凌駕している。

 術式取引というビジネスのためだけに、一日に()()()も領域を展開することすらある彼にとって、結界の構築と維持は呼吸をするのと同じくらい馴染んだ行為だった。

 

 経験の全と、才能の悟。その二つの理不尽が真っ向からぶつかり合った結果――領域の押し合いは、完全に拮抗した。

 

 黄金の宝閣と無限の宇宙が互いの空間を半々に分け合い、激しいノイズを上げながらギシギシと悲鳴を上げる。

 必中効果が互いに相殺され、どちらの領域も相手に牙を剥くことができない膠着状態。

 

 だが、その拮抗も長くは続かなかった。

 二つの規格外の呪力が結界という極限の器の中で膨張し続け、ついにそのキャパシティを超え――。

 

 パァンッ!!!!!

 

 ガラスが砕け散るような甲高い破裂音とともに、二つの領域は同時に崩壊した。

 

 全の簒奪呪法と、悟の無下限呪術。

 互いの生得術式が、領域展開という奥義の過負荷により同時に焼き切れた瞬間だった。

 

 術式が使えない。

 だが、それは全にとって()()()()()()()わけではない。

 

 領域が砕け散る土煙の中、二つの影が同時に地を蹴って駆け出した。

 術式を失い、呪力による純粋な徒手格闘へと移行した悟。

 それに対し、全の口からは焼き切れていないストックされた術式の名が詠み上げられた。

 

「『瞬発』『身体自在』『メトロノーム』」

 

 無下限という絶対防壁を失い、さらに領域展開という未知の力を使った反動で悟の動きはほんの僅かに――コンマ一秒だけ鈍っていた。

 その一瞬の隙を、全が見逃すはずがなかった。

 

「――嵌合術・黒点調律

 

 全の右拳が神速で悟の顔面へと突き出される。回避も防御も間に合わない。

 

 バチィィィィィィッ!!!!

 

 黒い火花が、五条悟の側頭部を完璧に捉えた。

 脳を揺らす凄まじい衝撃。黒閃の威力をまともに受けた悟の意識はその瞬間、プツリと完全に刈り取られた。

 悟の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ち、演習場の土に激しく転がる。

 

 静寂が再びすり鉢状の広場を支配した。

 誰もが、息をすることすら忘れていた。

 

「……勝者、禪院全!!」

 

 立会人を務めていた禪院甚壱の、震えるような大音声が響き渡る。

 その声によって、観客席からは一斉に割れんばかりの歓声と安堵のどよめき、そして絶望の呻きが混じり合った異様な叫びが巻き起こった。

 

 最強の式神を単独で打ち破り、さらにあの五条悟を正面からねじ伏せた。

 禪院全は、名実ともに呪術界の頂点としてその絶対的な君臨を世界に知らしめたのだ。

 

「……ふう」

 

 全は倒れ伏した悟を見下ろしたまま、静かに残心の体勢を解いた。

 その口元にはいつもの余裕の笑みが戻っている。

 だが内心では、小さく舌打ちをこぼしていた。

 

(……無下限呪術、取り上げ損ねたな)

 

 領域の押し合いになったせいで、必中効果による簒奪ができなかった。

 今ここで意識を失っている悟に触れれば、簒奪呪法で奪うことは可能だろうか?

 いや、ダメだ。今の全は領域展開の直後であり、簒奪呪法そのものが完全に焼き切れてしまっている。回復するまでには少し時間がかかる。

 

 それに、これだけの大観衆――特に五条家の重鎮たちが目を剥いて見守っている前で、決着がついたあとに気絶した次期当主から術式を引っこ抜くなど、いくら全でも政治的にやりすぎである。

 今回はあくまで「五条家の神童を叩きのめした」という事実だけで十分すぎるほどの釣果だ。

 

「「悟!!」」

 

 

「……まあ、いいか」

 

 悟に駆け寄る五条家の人間や高専の生徒や教師を見ながら、全は悠然と立っていた。




■無下限呪術を持つ全
使えはしない、現状はコレクターズアイテム。
使えるのは六眼を手に入れたら、となる。
そのほうが映えるから。

■禪院全
目立ちたがり屋だし、負けず嫌い。
故に確実に勝てる手より、気持ちの良い勝利を目指す。
なのである程度強い相手にはちゃんとプロレスしてくれる。
こいつやっぱり主人公じゃなくてラスボスでは?

■遠白
遠くでうねうねくねくねする気色悪い一級呪霊。
見て、分かってはいけない。ぶっちゃけくねくね。
生得術式は操捻躯捻(くねくね)、視界を通じて精神汚染し、体を自らの筋肉でねじ切れさせる。
拡張術式で精神特化の憂濘鬱濘(うねうね)で自殺衝動を引き起こす事もできる。優秀なのにどれ一つ使う暇もなかった。

■空抜葛籠
空気の結界を作り、その中を真空パックする技。
傑がかつて悟をうっかり殺しかけた技とほぼ同質。
ただし、傑のそれはもう一段階派生する。

■五条悟の成長
全に引っ張られ、一気に成長。
まこーらといい全といい、こいつの先生は大体禪院家のなにか。


※式神は人間とも呪霊とも違い、簒奪呪法で調整はできません。
簒奪呪法でいじるための生得領域を持っていないのです。


魔虚羅調伏編のバトルパートはここまで。
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