禪院全「全ては僕の為に」 作:羂索ハードモード
――ああ
覚えているとも
「……う、ん」
深い泥の底から浮上するように、五条悟の意識がゆっくりと覚醒した。
ピントの合わない視界で数度の瞬きを繰り返すと、見慣れた天井ではなく、初夏の青空と、それを遮るようにして覗き込んでくるいくつもの顔が映り込んだ。
「悟!! 気づいたか、悟!!」
耳元で悲痛な叫び声を上げていたのは、五条家現当主――悟の実父であった。
彼に上半身を抱き抱えられるようにして倒れていた悟の周囲には、顔面を蒼白に引き攣らせた五条家の重鎮たち。そして、心配そうに眉をひそめる夏油傑、安堵の息を吐く家入硝子、険しい表情の夜蛾正道の姿があった。
鈍くズキズキと痛む側頭部。
領域の押し合いの末に砕け散った結界。術式が焼き切れた一瞬の隙を突かれ、禪院全の放った黒閃をモロに食らった記憶が、鮮明に脳裏へと蘇ってくる。
(……あー、俺、負けたのか)
その絶対的な事実を悟った瞬間。
悟は右手で顔を覆い、喉の奥からクックッと、抑えきれない笑い声を漏らし始めた。
「あっはは……っ、くはははは!」
「さ、悟!? なにを笑っているのだ、禪院家に負けよってからに……!」
実父が、正気を疑うような目で息子を揺さぶる。
彼ら五条家の大人たちにとって、最強の象徴である悟が敗北したことは、一族の根幹を揺るがす大事件だ。だが、それ以上に彼らを恐怖のどん底に叩き落としている懸念があった。
「それより、術式は無事なのか!? あの怪物に無下限を、五条の至宝を奪われてはおらんのだろうな!?」
悲鳴に近い声で問い詰める重鎮たちをよそに、悟は覆っていた手をどけ、口の端に血の滲ませたままニッと笑ってみせた。
そして己の体内で呪力を循環させ、正の呪力――反転術式を脳と肉体へと回す。
ズキズキ痛んでいた側頭部のダメージが瞬時に癒え、術式がフレッシュな状態で再起動される。
「ご心配なく。ほら、この通り」
悟の全身を薄く、しかし絶対的な不可侵の空間が覆った。
無下限呪術の正常な起動。それを見た五条家の面々は「おお……っ」「奪われてはおらんかったか……!」と、その場にへたり込むほどに安堵の息を吐き出した。
実父の腕から抜け出しヒョイと身軽に立ち上がった悟は、着ていた衣服の土埃をパンパンと払いながら、心底愉快そうに空を仰いだ。
「いやー、まあ……ひとまず
その言葉は、彼が物心ついた時から背負わされてきた絶対の看板を、自らあっさりと投げ捨てるものだった。
だが、その声に悲壮感は微塵もない。むしろ、長年の重荷から解放されたかのような、爽やかな響きすらあった。
「
敗北を認めた上で、さらに高みを目指して牙を研ぐ。
天上天下唯我独尊の神童が、初めて「敗北」という味を知り、本物の挑戦者として生まれ変わった瞬間であった。
「お前……本当に大丈夫なのか? 頭、強く打ちすぎたんじゃないか?」
傑が、信じられないものを見るような目で問いかける。
硝子も「念のため、一回脳みそ開いて診てやろうか?」と物騒なジョークを飛ばし、夜蛾も「無理をするな。頭に黒閃を受けたのだから」と気遣うような声をかけた。
高専の面々からの心配に対し、悟はひらひらと手を振って笑い飛ばした。
「だーいじょうぶだって。ピンピンしてるよ。それよりさ!」
悟は、六眼をギラギラと輝かせ、まるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように声を弾ませた。
「見た!? 俺の領域! 見よう見真似でやってみたけど、一発でイケちゃったよ! あそこでアイツの領域を肌で感じなかったら、絶対こんなに早く完成してなかったね。いやー、流石に収穫デカすぎだわ。俺、まだまだ強くなれるぜ」
敗北の悔しさよりも、新たな力を手に入れた喜びと、限界の先を見つけた万能感が彼を突き動かしている。
だが、悟はふと表情を引き締め、口元に手を当てた。
「……それにしても。あんなふうに不可侵をあっさりと何度も抜けられるとは予想外だった」
五条悟にとって絶対の防壁であった不可侵。
物理的な距離を無限に引き伸ばすその術式も、全の手にかかれば影を縫われ、五感に訴える呪詛を通され、最後には空間そのものから空気を抜かれるという環境干渉によって破られかけた。
その手の術式持ちならば、不可侵を破り得る。しかし、それらは単体で五条悟を打ち破れるようなものではないのだ。
「そうだな。俺もちょっとばかり驕ってた部分があったし、傑の真空パックみたいな搦め手もある。無限が無敵って驕りは、もうキッパリと捨てたほうがよさそうだわ」
悟がそう一人で反省会を開き、新たな高みへ向けて思考を巡らせていた時だった。
『――当家の顧客であられる術師の皆様、並びに総監部の皆様。恐れ入りますが、速やかに指定の広間へとお集まりください』
演習場に張り巡らされた結界のスピーカー越しに、禪院家の下働きである女中たちの、よく通る声が響き渡った。
魔虚羅調伏という歴史的ショーに加え禪院全と五条悟のエキシビジョンマッチも終わり、余韻に浸る暇もなく唐突に発せられた顧客と総監部という特定層に向けた呼び出し。
その限定的なアナウンスに、広場に残っていた術師たちの間にざわめきが広がる。
「一体今度は何を始めるつもりなんだい?」
傑が、いぶかしげに眉をひそめた。
術式と寿命を買いにきた顧客たちと、呪術界のトップである総監部だけを集める。
どう考えても裏で何かキナ臭い――あるいは、呪術界のシステムをまた一つ大きく歪めるような宣言が行われる気配しかしない。
「面白そうじゃん。行ってみよーぜ」
悟は先ほどまでの反省モードから一転し、いつもの好奇心旺盛なクソガキめいた顔に戻って歩き出した。
五条家の重鎮たちや夜蛾も、禪院家の動向を見過ごすわけにはいかず、その流れに続くようにして演習場の一角に急ごしらえで準備された特設会場へと向かっていった。
***
演習場の一角、魔虚羅の惨禍を免れた安全なエリア。
そこには既に、禪院全から術式という禁断の果実を買い与えられた全国の顧客たちと、特等席に案内された総監部の老人たちがひしめき合うように集まっていた。
「――集まってくれたね」
上座に座る全が、扇子を軽く打ち鳴らして静寂を促した。
その後ろには甚爾が壁にもたれて欠伸をし、直毘人や扇たち炳の重鎮が脇を固めている。
「さて。先日、星漿体護衛任務という大きな出来事があった。結果として天元様は星漿体との同化を終わりにし、自らの意思で進化することを選ばれたわけだ」
全の言葉に、会場に集まった術師たちがごくりと息を呑む。
天元の進化。その歴史的転換点となった事件の裏で、何が起きていたのか。
「しかし、その任務の過程において、狂信的な呪詛師が星漿体の命を執拗に狙ってきたのは事実」
全の眼差しが、スッと細められた。
「……そして、その襲撃者の中に『
ピリッ、と。演習場の空気に、刃物のような緊張感が走った。
二重術者。それは、禪院全という特異点が始めた術式取引によって初めてこの世に誕生した、二つの生得術式をその身に宿す者たちを指す、全く新しい言葉であった。
今この会場に集められている顧客たちの多くもまた、全から術式を買い取り、本来の術式にもう一つの術式を上乗せした二重術者である。
さらに言えば、禪院家の内部には三つの術式を持つ三重術者もちらほらと存在しており、中でも炎系術式を五つも宿した五重術者たる禪院扇は、最多保持者として一族内でも色んな意味で印象深い存在として認知されていた。
別に数が多ければ強いというわけではないが、複数の術式を持つというアドバンテージは、呪術戦において優位性をもたらすのは間違いない。
「……安心してくれ」
不安げにざわめく顧客たちを、全は宥めるように優雅に微笑んだ。
「僕の顧客リストの中に、『重力』と『分身』の術式を併せ持つ者は存在しない。それは、改めて当家の取引リストを提出し、精査していただいた総監部の爺様がたも保証してくれるね?」
全が視線を向けると、特等席に座る総監部の老人たちが、一斉に深く、そして従順に頷いた。
彼らは全から
「うむ、確かに確認した。襲撃者の呪詛師は、禪院家の取引とは一切無関係であると、我々総監部が正式に認定する」
総監部の代表が重々しく肯定したのを受け、全は薄ら笑いを浮かべたまま、会場の末席――事の顛末を見届けに来た夜蛾正道や、五条家当主たちの顔を順番に舐めるように視線を走らせた。
それは、先日「お宅の顧客管理はどうなっているんだ」と先走って抗議文を送りつけてきた面々に対する、あからさまな意趣返しであった。
「……此度は、早合点による不当な抗議文をお送りし、申し訳なかった」
夜蛾が生徒の負傷と命の危機に直面した焦りから先走ったことを素直に認め、深く頭を下げた。
一方で、五条家の当主は忌々しげに顔をしかめつつも、無言を貫いた。
迂闊にも墓を荒らされ降霊術に利用されたのは紛れもない事実であり、管理責任を問う大義名分はまだ残っているという五条家の矜持である。
しかし全は彼らの謝罪や沈黙に対して、怒るどころか気にした様子すら見せなかった。
「いいよいいよ、誤解が解けて何よりだ。誰だって自分の可愛い生徒や息子が傷つけられれば、冷静さを欠くこともあるからね」
どこまでも上から目線で鷹揚に頷いてみせる全。そして、パチンと扇子を閉じた。
「さて。今回の件が当家の顧客の仕業だというのが誤解だったとはいえ……間接的にではあるが、一つ重大な問題が浮き彫りになったわけだ」
全の声が、演習場の隅々にまで冷徹に響き渡る。
「術式取引によって生まれた多重術者が、もし万が一、呪詛師へと堕ちた際の
その言葉に、集められた顧客たちの背筋に冷たいものが走った。
確かに、ただでさえ強力な術式を持つ者が二つ、三つと術式を重ね持ち、それが悪意を持って人間に牙を剥けば、かつての呪詛師の比ではない大惨事になる。
「……そこで、僕は考えた。この素晴らしい事業を今後も安全に、そして健全に運営していくためには、明確な
全がそう言って視線を向けると、総監部の代表である老人が、あらかじめ打ち合わせていた台本を読むように、重々しく立ち上がった。
「そこで、総監部より通達する」
老人のしゃがれた声が、会場に宣言する。
「これより、呪術規定第10条として新たに、
新たな呪術規定。それは呪術界の法律そのものを禪院家の事業に合わせて書き換えるという、総監部の完全な屈服と癒着の証明であった。
「一つ、術式の取引記録はすべて総監部に提出し、厳重に管理すること。……そして二つ」
ゴクリ、と。会場の誰かが生唾を呑み込む音が響く。
「多重術者は、禪院全と以下の縛りを結ぶこととする」
老人が、会場にいるすべての多重術者――全の顧客たちを見回して、最も恐ろしい縛りを宣告した。
「『呪術規定に著しく反し、総監部より呪詛師として認定された者は――その
――静寂。
そして、一拍遅れて、会場に激震が走った。
「なっ……!?」
「呪詛師認定されたら、術式を……全部没収されるだと!?」
呼び出された顧客たちが、顔面を蒼白にしてざわめき出した。
末席で聞いていた五条家当主や夜蛾、そして悟と傑もまた、そのあまりにも一方的で絶対的な支配のシステムの完成に、言葉を失い衝撃を受けていた。
「……狼狽える理由など、どこかにありましょうか?」
会場を包み込むざわめきと動揺を、全はゆったりと微笑みながら、どこまでも穏やかで涼しい声で撫で斬った。
「正しき呪術師たる皆様方があまつさえ僕から力を得ておいて、よもや総監部から討伐対象にされるような呪詛師に堕ちるなどということは……天地がひっくり返っても無いことでしょう?」
全の言葉は、まるで子供を諭すように優しく、しかしその奥には絶対に逃れられない氷のような冷徹さが孕んでいた。
「ただ、そう。万が一の
その言葉を聞いて、会場の末席で事の成り行きを見守っていた夏油傑は思わず息を呑み、そして奥歯を噛み締めた。
(……上手い)
傑は、内心で舌を巻くしかなかった。
先日、星漿体護衛の任務で襲撃してきたあの正体不明の二重術者の存在。
それによって禪院家は「呪詛師に強力な術式を横流ししているのではないか」という強烈な疑念と抗議を高専や五条家からぶつけられた。
通常であれば事業の信用を落とし、最悪の場合は取引の停止や監査の介入を招きかねない大失態の疑惑だ。
だが、禪院全という特異点は、その自分に向けられた疑惑と不信感すらも逆手に取り、見事に利用してみせたのだ。
「私の客から呪詛師が出たら危険だというなら、呪詛師になった瞬間に私が直接、自動的にすべての術式を没収するシステムを作れば安全ですよね?」と。
そのあまりにも強引で、それでいて正論すぎる大義名分を盾にして。
(これで、彼から術式を買った者は、文字通り一生、彼に
傑の額に、冷たい汗が滲んだ。
もし今この場で、全の提案した縛りに異を唱える者がいればどうなるか。
それは、「自分は将来呪詛師になって悪事を働くかもしれないから、術式を没収される縛りなど結びたくない」と、大勢の呪術師や総監部の前で声高に宣言しているのと同じことなのだ。
そんなことを言える者など、この会場にいるはずがない。誰もが沈黙し、受け入れるしかない。
「……なるほどな」
隣で腕を組んでいた五条悟も丸いサングラスの奥で六眼を細め、感心したように、そして心底忌々しげに鼻で笑った。
「呪詛師認定の権限はあくまで総監部が持ってる。……けど、与えられる若さにヨダレ垂らして尻尾振ってるジジイどもはとっくに禪院全のビジネスの完全な傀儡だ。つまり」
悟の言葉に、夜蛾正道もまた深く険しい顔で頷いた。
「実質的に、禪院全があいつは呪詛師だと判断すれば、総監部は即座にその者を呪詛師に認定する。そしてその瞬間に縛りが発動し、全は合法的に、かつ自動的にそいつの術式を根こそぎ巻き上げることができる……というわけか」
この瞬間から禪院全から力を得るということはすなわち、自分の生得術式はおろか人生の生殺与奪の権すら、いつでも彼の一存で取り上げられるという完全なる隷属を意味することとなったのだ。
しかしそれでも、力を欲する者は彼と取引をせざるを得ない。
なぜならそれは、他のどんな過酷な修行を積もうともどんな禁呪に手を出そうとも得られない。
『生得術式を後天的に身に宿すことができる』という、この呪術界においてただ彼一人が独占している唯一無二の奇跡の手段なのだから。
圧倒的な需要が、理不尽な供給条件を完全に飲み込んだ。
「さあ、皆さん」
全は静まり返った会場を見渡し、極上の微笑みを浮かべて両手を広げた。
「これからも、安心と安全の保証された素晴らしい『術式取引』を、当禪院家にて存分にお楽しみください」
その言葉は、呪術界の歴史において、誰も逆らうことのできない絶対的な『支配のシステム』が、いよいよ完璧な形で完成したことを告げる、最悪にして最高のファンファーレであった。
***
「……それでは皆様、本日はこれまでといたしましょう」
全の涼やかな宣言と共に、総監部と多重術者の顧客たちによる縛りの儀式が次々と執り行われ、そして終わった。
会場に集まっていた術師たちは皆、強力な生得術式を手放さずに済んだ安堵と、いつ「呪詛師」の烙印を押されてすべてを没収されるか分からないという生殺与奪の恐怖に、生きた心地のしない足取りでそそくさと演習場を後にし始めていた。
やがてお開きの空気が漂い始め、一族の者たちが会場の片付けや次の予定へと動き出す中。
「さて、今日はこのくらいにして、そろそろ僕たちも撤収に入ろうか。直毘人のおじちゃん、後の手配は任せるよ」
「ああ、承知した。お前さんも大層な芝居を打って疲れたろう」
上座から降り、直毘人や扇、甚壱といった炳の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながら全が一仕事終えたというように背伸びをした、その時だった。
「――ちょっと、よろしいでしょうか」
静かな、だが確かな緊張と覚悟を孕んだ声が全の背後からかけられた。
「うん?」
全が振り返ると、そこには黒い制服に身を包んだ長身の青年――夏油傑が、真っ直ぐな、それでいてどこか硬く引き結んだ表情で立っていた。
「ああ、これはこれは。最も新しき特級術師の夏油傑くんだね?」
全の口元に、ふわりと人当たりの良い、柔らかな微笑みが浮かんだ。
それは先ほどまで大観衆の前で魔虚羅を蹂躙し、総監部を通して呪術界のシステムを歪めてみせた支配者の顔ではなく。
まるで才能ある後輩を温かく迎える、よき先輩呪術師のような表情だった。
「シンプルな風の術式を、特級に至るほどに使いこなしているとは素晴らしい。まさに恵まれた才能を腐らせず、極限まで磨き上げた努力の賜物だね。……同じ特級同士、仲良くしようじゃないか」
全はそう言って、友好的に右手を差し出した。
「……恐縮です。当主様」
傑は小さく会釈をし、差し出された手を握り返すことなく、ただ真っ直ぐに全の瞳の奥を見つめ返した。
その漆黒の瞳。
底知れない深淵のような闇の奥に、かつての記憶の欠片を探るように。
「あの……」
傑の喉が、微かに上下に動く。
彼の中で幼き日に自分を救ってくれた「ヒーロー」の姿と、目の前にいる呪術界を冷徹に支配し、仮にも人である呪詛師を資源として消費する「魔王」の姿がどうしても重ならず、激しく軋轢を生んでいた。
「以前……どこかで、お会いしたことがありませんか?」
その言葉が傑の口から紡がれた瞬間、広間の空気がほんの僅かに止まった。
「……ハッ」
すぐ近くで壁に寄りかかり、退屈そうに欠伸を噛み殺していた直哉が、鼻で笑って口を挟んだ。
「なんや傑クン、ナンパか? 御当主サマ相手に? 流石に趣味悪すぎるんとちゃうか?」
ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、茶化すように言う直哉。
だが、その軽口はすぐに、隣に立っていた屈強な巨漢――甚壱の太い腕によって物理的に遮られた。
「直哉。当主様と他所の特級術師との会話に、軽々しく茶々を入れるな。控えろ」
「痛っ……! な、なんやねん甚壱クン、冗談やがな!」
甚壱に首根っこを掴まれ、不満げに文句を垂れる直哉をよそに。
全は傑のその問いかけを聞いて、ほんの一瞬だけ――本当に微かに目を細めた。
そして、先ほどまでの人当たりの良い仮面のような笑みではなく、どこか懐かしむような、慈しむような——ひどく穏やかな微笑みを浮かべた。
「――ああ」
全は、ゆっくりと頷いた。
「覚えているとも」
その言葉は傑の胸の奥底に、ドンッと重く響いた。
間違いなかった。やはり、この男が。
「大きくなったねえ。……よく、ここまで来たものだ」
全のその声音は、幼い子供の成長を心から喜ぶような、かつてのあの日の優しいお兄さんそのものだった。
夕暮れの空に銀色の糸の閃光を描き「もう大丈夫」と幼い自分を恐怖から救い出してくれた、あの日の声と全く同じトーンで。
「…………」
傑は、言葉を失った。
嬉しいのか悲しいのか、それとも絶望しているのか。自分でも分からない感情が、心の奥底でぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
目の前にいるのは、紛れもなく自分の「ヒーロー」だ。
しかし同時に、この男は悪人とはいえ人間の命や尊厳を「術式」「寿命」というパーツとしてしか見ていない。
あまりにも冷徹で、呪術界の根本をより人の道を逸れた方向へと狂わせた「最大の呪い」でもあるのだ。
全は黙り込んだ傑の肩を、ぽんと軽く叩いた。
「君のその風、とてもいいものになったね。これからも、その調子で頑張ってくれたまえ。応援しているよ」
そう言って全は再び微笑み、傑の横をすり抜けるようにして会場の出口へと歩き出した。
炳を引き連れて去っていくその後ろ姿を、傑はただ立ち尽くしたまま見送ることしかできなかった。
「……傑」
少し離れた場所から、悟がポケットに手を突っ込んだまま呆れたような、しかしどこか心配そうな声で歩み寄ってきた。
「なんだよ、お前。知り合いだったのか? あのバケモノ当主と」
「……」
傑は、悟の問いにすぐには答えられなかった。
ただ全が消えていった会場の奥を、複雑な――本当に複雑な思いで見つめ続けた。
「……ああ。私が、呪術師になろうと決めた……理由の人だ」
ぽつりとこぼれたその一言に、悟は「へぇ」と驚いたように眉を上げたが、それ以上は深く追及してこなかった。
彼もまた、全という特異点に対して強烈なライバル心と、決して相容れない決定的な
幼き日の憧れは、最悪の支配者として目の前に現れた。
夏油傑という青年の心に、この日、決して消えることのない深く重い問いが、冷たく突き立てられたのであった。
***
「……さてと、長居は無用だ。帰るぞ、お前たち」
特設会場に満ちていた重苦しい熱狂と狂気の余韻から逃れるように、夜蛾正道が大きなため息をつきながら生徒たちに声をかけた。
魔虚羅調伏という前代未聞のショーを見せつけられ、さらに全の支配が呪術界の末端まで行き渡ったことをまざまざと見せつけられた。
この血生臭い禪院家の演習場という空間そのものが、もはや高専の面々――とりわけ、現状の呪術界のシステムに異を唱えうる立場の者たちにとっては、居心地が悪いことこの上ない場所になり果てていた。
「はいはーい」
「あー、疲れた。帰ってタバコ吸いたい」
悟は両腕を頭の後ろで組みながら気怠げに返事をし、硝子はすでに帰り支度を済ませてポケットに手を突っ込んでいる。
傑もまた、先ほどの全との会話で心に落ちた深い影を振り払うように、黙って歩き出そうとした。
――その時だった。
「あー、いたいた。やっぱりこっちの出口から帰ると思ってたよ」
演習場の出口へと続く土埃の舞う道の向こうから、一人の長身の女性が、パタパタと軽快な足音を立ててやってきた。
無造作に伸ばされた長い金髪を初夏の風に靡かせ、ライダースジャケットを羽織ったその姿は、この物々しい演習場の空気の中ではひどく浮いて見える。
だが、その全身から放たれる
「お、九十九さんじゃん。日本にいたんだ」
悟がサングラスをずらし、少し驚いたように声を上げた。
「……君も来ていたのか、由基」
夜蛾が額にシワを寄せながら険しい顔でその女性――特級呪術師・九十九由基の名を呼んだ。
「やあやあ、久しぶりだね夜蛾先生。そっちの生意気そうな坊っちゃんも元気そうで何よりだ。でもまあ、挨拶はいいとして……」
九十九は、夜蛾と悟の言葉を適当に受け流すと、真っ直ぐに夏油傑と、その隣にいた家入硝子の方へと歩み寄り、ニカッと屈託のない、しかしどこか相手の腹の底を探るような笑みを浮かべた。
「初めましてだね、特級の夏油傑くん。と、そちらの反転術式を使える特別なお嬢さん。私は特級呪術師の九十九由基。さて……」
九十九は傑の顔を覗き込むようにして、唐突に――そしてあまりにも脈絡のない質問を投げかけた。
「どんな女がタイプかな? ……もちろん、男でもいいよ」
「……は?」
傑は面食らい、硝子は「うわ、何この人」とあからさまにドン引きした顔で一歩後ずさった。初対面の特級術師からいきなり性癖を問われるという、呪術界でも類を見ない奇行。
だが、九十九の瞳の奥にはふざけた態度とは裏腹に、相手の「人間としての本質」を鋭く見極めようとする強い意志が宿っていた。
「いや、初対面の人になんで好みのタイプなんて答えなきゃいけないんですか……。常識的に考えて、おかしいでしょう」
傑が、いかにも優等生らしい、ド正論のツッコミを冷ややかに返す。
「そーだそーだ、いきなり何言ってんだこの人」
その後ろで家入硝子が傑の背中に隠れるようにしながら便乗し、ジト目で九十九を睨みつけた。
呪術高専において比較的「まとも」な感性を持つ二人の、極めて当然の反応である。
しかし九十九は彼らの冷たい反応にも一切ひるむことなく、むしろ楽しげに金髪をファサッと払った。
「そうかい? 意外と素直に答えてくれる人はいるけどねえ。自己紹介みたいなもんさ、人間の本質ってのは、そういう趣味嗜好に一番よく表れるからね」
九十九は、傑たちの反応を面白がるようにクスクスと笑い、そして、ふと意味深な笑みを浮かべた。
「ちなみに今日、そっちの五条くんが広場のど真ん中で戦った
「……えっ?」
その言葉に帰り支度をしていた悟、そして夜蛾までもが、ピタリと動きを止めた。
あの禪院全が? あの他者の術式や寿命を売り買いし、魔虚羅を公開処刑し五条悟を打ち破ってみせた呪術界の最凶の特異点が。
このふざけた特級術師のナンパのような質問に、真面目に答えたというのか。
「……ちなみになんて答えたの、アイツ」
硝子がどうしても抑えきれない好奇心から、恐る恐る尋ねた。
あの得体の知れない化け物が、一体どんな「女の趣味」を持っているのか。想像するだけでもおぞましいような、逆に一周回って興味が湧くような、何とも言えない空気がその場に漂う。
九十九は、待ってましたとばかりにニヤリと笑い、芝居がかった手振りで全の真似をし始めた。
「んー、そうだねぇ。彼、あの涼しい顔で、こう言ったんだよ」
九十九はあの人を食ったような悠然とした口調を器用に真似てみせる。
「『ふむ、そういえば真面目に考えたことも無かったね。強いて言うなら……』って言って。さあ、彼がどうしたと思う?」
「……どうしたんですか?」
傑が、ゴクリと唾を飲み込んで先を促す。
「『一番印象的なのは、この子だね』って言って。……呪霊操術でね、あの麦わら帽子に白いワンピース着た呪霊いるでしょ? あれをポンッ、て私の目の前に見せてきたのさ」
その瞬間、高専の面々の脳裏に、先ほどの魔虚羅調伏の儀式の光景がフラッシュバックした。
巨大な魔虚羅を四方から取り囲み、一斉に『呪言』を浴びせてその動きを完全に封じ込めた、あの四体の――。
「……うへぇ」
硝子が、心底ドン引きしたように顔をしかめ、あからさまに嫌悪感を示した。
「流石に、小さすぎない? あの当主、ロリコンとかそういう趣味なの? 気持ち悪っ……」
「そうそう、あの幼児みたいなサイズのやつだろ? マジで変態だなアイツ」
悟もケラケラと笑いながら同意する。
呪霊に欲情するだけでも大概だが、その対象があの幼女の姿をした分体だったとすれば、それはもう倫理的にアウトの領域をはるかにぶっちぎっている。
だが、九十九は呆れる彼らを見て「チッチッチッ」と人差し指を振り、大げさに首を横に振った。
「逆逆。違うんだよ、彼が出してきたのは、アレの
九十九は己の手のひらを地面と平行にして頭の遥か上、二メートル半はあろうかという異常な高さへと突き上げた。
そして、そのまま手を下ろし、自分の胸の前で、スイカ二つ分はありそうな巨大な『胸元のシルエット』を、バサッと強調するように手で描いてみせた。
「こーんくらいある、超巨大な女の呪霊さ。いやあ、さすがの私もアレにはツッコんだね」
「「「…………」」」
沈黙。
先ほどのロリコン疑惑とは全く逆の、想像を絶するスケールに高専の三人は完全に言葉を失った。
「……そりゃあ、確かに
数秒の後、硝子が遠い目をしながら絞り出すように呟いた。
「デッッカ過ぎでしょ!! どんな性癖してんだよアイツ!!」
悟が、今度は腹を抱えてゲラゲラと爆笑し始めた。
魔虚羅を倒すことには関心を持ったが、まさか全の「性癖」のスケールまでが物理的に特級呪霊サイズだとは、さすがの悟も予想外だったらしい。
「いや、そんなデカい女性、呪霊以外にどこに居るんですか……」
傑は額に手を当てて深くため息をついた。
幼き日のヒーローの、あまりにも斜め上すぎる女性の好み(?)を突きつけられ、先ほどまでのシリアスな葛藤が、別の意味でガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
八尺様「ぽぽっ……♡」イヤンイヤン
■禪院全
デカパイ巨女好き。
実はこいつ自分磨きを怠らない才能マンが大好きである。
才能足りないなりに向上心のある努力家も結構好きである。
才能があってもなくても向上心のないやつは嫌い。
こう書くとすげえ真っ当なはずなのに描写を見るとどこまでも胡散臭い。
基本的に呪術師は全員手駒だと思ってるフシがあるため、他家の人間であっても強化も怠らない。多分こういうところも胡散臭さを強調している。
■チャレンジャー悟
最強の看板を降ろすことになり、気分爽快。いつか取り返してやると意気込む。
禪院家のあれこれがこいつを激烈に成長させている……。
■複雑な心境の傑
幼少期のヒーロー=魔王が確定してしまった。
とはいえ、全が結果的に治安維持への多大な貢献をしていることはわかっている。
だからこそ余計複雑なんだけども。
■呪術規定第10条
コレの構想があったから……と言う訳でもなく、全は手紙に関しては割と素で気にしていなかった。それはそれとして都合がいいなぁとは思っていた。
呪術規定新しく作らせるオリ主は流石に珍しそうな気がする。
次でこの章は区切りとなります