禪院全「全ては僕の為に」 作:羂索ハードモード
現代の呪いの王が、特級の呪いすら後回しにして熱中する
「……呪いはチラホラいるが、襲い掛かって来るやつは少ないな」
理科室を抜けて渡り廊下を進みながら、真希は首を傾げてひとりごちた。
校舎のあちこちから先ほどのガマ口かそれ以下の低級呪霊の気配は確かに感じ取れる。しかしそれらは真希たちを見つけるなり、まるで天敵から逃げる小動物のように壁の隙間や天井裏へとそそくさと姿を隠してしまうのだ。
真希がちらりと後ろを振り返ると、そこには先ほど蒸発した呪霊の血らしきものが付いていた自分の手を、未だに青ざめた顔で震わせながら眺めている憂太の姿があった。
(……ああ、なるほどな)
彼女はすぐにその理由に納得した。
自分という天与呪縛の威圧感もあるだろうが、それ以上に、憂太の背後にへばりついている『特級過呪怨霊・祈本里香』から無意識に漏れ出している、底知れぬ呪力のプレッシャー。
雑魚呪霊のほとんどは、本能的にその圧倒的な
「ねえ、禪院さん……」
憂太が、震える手を下ろし、気まずそうに、そしてすがるような目で真希に声をかけてきた。
「五条先生に『刀に呪力を込めろ』って言われたんだけど……これって具体的に、どうすればいいんでしょうか……?」
呪術の基礎すら教わっていない彼にとって、「呪いを込める」という抽象的な感覚は、雲を掴むような話だった。
しかしその切実な質問を受けた真希は、心底呆れたように「あ?」と顔をしかめた。
「呪力の扱いを私に聞いてもしゃーねーだろ」
「ええ!?」
憂太が、予想外の返答に素っ頓狂な声を上げる。
「でも、なんか……禪院家って呪術界の超名門のお嬢様で……そういうの、家でバッチリ教わってそうな雰囲気なのに……?」
武闘派の英才教育を受けているなら、呪力の扱いなど呼吸をするように当然のスキルだろうと、憂太は勝手に思い込んでいたのだ。
しかし真希は、肩に担いだ薙刀をトントンと叩きながら、あっさりとその期待を打ち砕いた。
「私は呪力を一切持たない代わりに身体が強靭になってんだよ。『
「てんよ、じゅばく……?」
「とにかく、そういう体質みたいなのがあんだよ。私は呪力でどうこうするんじゃなくて、純粋な腕力と身体能力だけで戦ってんだ」
その言葉に、憂太の頭の中はますます混乱の渦に飲み込まれていった。
「え、でも……」
憂太は、先ほど七海や灰原から聞いたばかりの、呪術界の基本ルールを思い出しながら尋ねた。
「七海先生が、『呪力が無い一般の人には、呪霊が見えない』って言ってましたけど……さっきのどう考えても見えてましたよね?」
「いや、見えてねえぞ」
真希が、何でもないことのように言い放った。
「えっ」
憂太は二度、三度と目を瞬かせて驚愕した。見えていないのに、先ほどは正確に呪霊の位置を把握し、憂太に的確な指示を出していたことへの矛盾。
「第六感っつーか、空気の揺らぎとか、気配というか……」
真希は、自分の感覚を言葉にするのがもどかしいのか、少しだけ眉をひそめて考え込んだ。
「ほら、呪いそのものは見えなくても呪いがそこにあることによって生じる
視覚だけに頼らず、五感、あるいはそれを超えた超感覚によって、世界そのものの歪みから逆算して呪霊の輪郭を捉える。
それは『完全なる天与呪縛』へと至った存在だからこそ到達できた、神がかり的な知覚領域であった。
「…………」
しかし憂太の顔は完全に「???」というハテナマークで埋め尽くされていた。
理解の範疇をはるかに超えた達人の境地を語られても、今日の午後に初めて刀を握ったばかりの少年には、宇宙の真理を聞かされているのと同じである。
「……あー、もういい。無理に分かろうとすんな」
憂太のその呆然としたアホ面を見て真希は説明を打ち切り、深くため息をついた。
「とにかく、呪力の込め方なんて私は知らん。五条の馬鹿か、七海さんか誰かに後で聞け。今はとりあえず、刀を振って体を慣らすことだけ考えとけ」
そう言って真希は再び廊下の奥へとズンズン歩き出してしまった。
憂太は「は、はい……!」と慌ててその後を追いながら『色々と規格外すぎる』と心の中で一人静かに戦慄していた。
そうして校舎の三階まで進む中、真希は不意に立ち止まり、首を微かに傾げた。
(……おかしいな)
大物の気配がする。
三級のガマ口呪霊のような雑魚ではない、明らかにドロリと重い怨念の塊。児童の失踪事件を引き起こした元凶らしき気配がこの校舎のどこかに潜んでいる。
だが、それが
彼女の探知は呪力という不可視のエネルギーを直接視認するのではなく、空気の流れや建物の軋み、温度変化といった完全な物理的情報から逆算する超感覚である。
もしこれが同じ天与呪縛であり、長年当主の懐刀として死線を潜り抜けてきた禪院甚爾であれば、このわずかな違和感からでも瞬時に敵の潜伏場所へアタリをつけることができただろう。
しかし真希には圧倒的に
確かに、全の庇護下で完全なフィジカルギフテッドとして覚醒してから一族の稽古場で大人たちを相手に実力を磨いてきた。
訓練として向かい合えば、全の使役する特級仮想怨霊『八尺様』の分体はおろか、完全体であっても殴り勝てるくらいの実力は身についている。
(……あのデカ女呪霊をボコボコにした後、恵の奴がやたらと恨みがましい目で睨んできたの、未だに腹立つがな)
あの幼い頃からやけに八尺様に懐いていた生意気な影使いの少年のジトッとした非難の視線を思い出し、真希は内心で軽く毒づいた。
ともかく彼女は「正面からの殴り合い」においては既に一級術師の上澄みと言えるほどの完成度を誇っていた。しかし、隠密行動をとる未知の呪霊の捜索や、足場の悪い場所でのイレギュラーな不意打ちへの対応といった、実戦特有の「泥臭い経験値」が決定的に不足しているという自覚が、彼女自身にもあったのだ。
本来であれば十五歳ほどで『炳』へ正式に配属され、徐々に外の任務へ出されて経験を積むはずだった彼女は、全の新たな試みとして、妹の真依共々この春に各高専へ『一族の外で経験を積ませる実験第一弾』として送り出されたばかり。
(……どこだ? 天井裏か? いや、壁の中……)
真希が五感を極限まで研ぎ澄まし、校舎の僅かな物理的変化を探ろうと集中していた、その時。
「……ねえ、禪院さん」
唐突に、背後を歩いていた憂太が、震える小さな声で声をかけてきた。
「あ? 今考えて——」
真希が、思考を邪魔された苛立ちから振り返りかけた、まさにその刹那。
メキメキッ!
真希が立っていた足元の廊下の床板に、突如として巨大な亀裂が走った。
(下かッ……!!)
真希がハッと気づき、回避行動を取ろうとするよりも早く。
「危ないっ!!」
ドンッ!! と、憂太が渾身の力で真希の背中を突き飛ばしたのだ。
想定外の方向から不意を突かれた真希の身体が前方の廊下へと勢いよく弾き飛ばされる。
「なっ……!?」
床に手をつき、反射的に振り返った真希の目の前で。
先ほどまで彼女が立っていた場所の床を完全に突き破り、二級程度はありそうな巨大な呪霊が、大口を開けて下層からせり上がってきた。
「うわぁっ!!」
真希を突き飛ばした反動でその場に踏みとどまってしまった憂太。
彼の悲鳴が響く間もなく、巨大な口と無数の牙が、刀を握りしめたままの細い少年をバクリと丸呑みにしてしまった。
「乙骨ゥッ!!」
真希の鋭い叫び声が暗い廊下にこだまする。
獲物を飲み込んだ巨大呪霊はそのまま天井を突き破り、屋上へと消えていった。
「くっそ、薙刀が一緒に飲まれた……!」
彼女は自分がメインの武器として携えていたお気に入りの薙刀を先ほど突き飛ばされた瞬間に取り落とし、無防備な憂太とともに呪霊の巨大な口へと吸い込まれていった事に気づいた。
禪院家の名工が全から与えられた強固な術式の助力のもと打ち上げた、強力な一級呪具。それが、あろうことか二級程度の不意打ちごときで奪われるとは。
(実家にいたら、直哉あたりに年単位でネチネチいびられそうな大失態だな……!)
真希はギリッと奥歯を噛み締め、苛立ちと悔しさで顔を歪めた。
あのいけ好かない金髪の従兄が、これ見よがしに「甚爾クンと同じ天与呪縛のくせに武器手放すとか、真希ちゃんは才能の持ち腐れやなぁ」と嘲笑してくる光景が容易に想像でき、余計に腹が立った。
だが、それ以前に――致命的な問題があった。
呪具がなければ、真希は「呪霊を祓う」ことができない。
彼女の圧倒的な身体能力をもってすれば、今すぐ開いた天井の穴から飛び出して、あの程度の呪いなど素手で殴り倒すなど造作もない。
しかし呪力を持たない彼女の拳では呪霊を怯ませることは出来ても
(それどころか、下手にぶん殴って衝撃が貫通したら……腹の中の乙骨にだけダイレクトにダメージが伝わっちまうかもしれねえ……!)
真希の脳裏に最悪のシナリオがよぎる。
呪術の素人とはいえ、憂太は特級被呪者だ。もし彼が怪我をしたり命の危機を感じたりすれば、背後にいる『祈本里香』が暴走し、この小学校ごと――あるいは外の住宅街まで巻き込んで、大惨事を引き起こすかもしれない。
どうする?
真希の思考が高速で回転する。
自分が無力なこの状況で、最も確実な「正解」は何か。
(ここは……外にいる、五条のバカに声をかけて助けを呼ぶのが正解か?)
真希はそう思いつつ、激しく葛藤した。
悟ならば呪霊の腹の中から憂太だけを無傷で抉り出すことなど造作もないだろう。
だが、それは同時に自身が「武器を落として素人一人守れない役立たずだった」とあの軽薄な担任に自ら証明することに他ならない。
何より、素人の憂太が自分を庇って飲み込まれたという事実が真希の矜持をズタズタに傷つけていた。
(クソがッ……!!)
真希は、拳を血が滲むほど固く握りしめた。
五条に助けを呼ぶべきか。それとも、リスクを承知で呪霊をぶん殴り、腹の中身を吐き出させるか。
一秒が永遠のように長く感じられる。
だが真希がその決断を下すよりも、ほんの少しだけ早く。
天井——空を揺るがすような、聞いたことのないおぞましい
***
「——お兄ちゃん、大丈夫?」
呪霊の湿った腹の中で、乙骨憂太は目を覚ました。
どうやら丸呑みされた瞬間の衝撃でしばらく意識が飛んでいたらしい。
胃酸の臭いと生臭い腐臭が入り混じる暗闇。
憂太がズキズキと痛む頭を振ってゆっくりと身体を起こすと、目の前に二人の小さな影がうずくまっていた。
小学校の男の子が二人。
一人は片目が赤黒く呪いによって充血し、肩で荒い呼吸を繰り返している。その震える小さな膝には、もう一人の下級生らしき男の子が意識を失って抱えられていた。
(……情報にあった二人だ。生きていた……!)
憂太は彼らがまだ無事であることに安堵したが、その安堵はすぐに絶望へと変わった。充血した目と荒い息。呪霊の体内に長時間閉じ込められ、瘴気にあてられ続けているのだ。
このままでは、二人とも長くは持ちそうにない。
「大丈夫、今助けに来たんだ」
彼は自分が巨大な化け物に飲み込まれた恐怖でガタガタと震えながらも、必死に二人を宥めるように、精一杯の優しい声で話しかけた。
「今、ここから出して……」
そう言いながら憂太は自分の腰を探り——血の気が引いた。
五条から渡されたばかりの、あの黒い鞘の刀がない。
ハッとして周囲を見回すと、頭上のドロドロとした肉壁の遥か高い位置に——真希が落とした薙刀とともに、憂太の刀が呪霊の腸のような触手にきつく絡め取られてぶら下がっていたのだ。
「あっ……」
憂太は自分の無力さに絶望した。
武器がなければ、呪霊の腹を破ることはできない。
(もしここに、禪院さんがいれば……)
あの圧倒的な身体能力を持つ真希なら、こんな触手などひとっ飛びで武器を取り返し、あっという間に腹を掻っ捌いて自分たちを外へ出してくれたかもしれない。
(——何をやってるんだ、僕は)
憂太は自分の軽率な行動を激しく後悔した。
とっさに真希を庇って突き飛ばしたことで結果的に自分だけが飲み込まれ、武器まで奪われて状況を余計に悪くしているじゃないか。
よくよく考えてみれば、真希は「天与呪縛」の超人なのだ。自分が咄嗟に庇わずとも彼女ならあの不意打ちをなんとかするどころか、憂太ごと見事に切り抜け、そのまま呪霊を一刀両断していたに違いない。
(……でもそれだと、腹の中にいたこの子達も巻き添えになってたかもしれないし……)
憂太は極限状態の中で少しだけポジティブに考えることにした。
自分が飲み込まれたからこそ、この子たちがまだ生きているのを発見できたのだ、と。
そうでなければ、二人ごとバッサリといった可能性すらある。
「……お兄、ちゃん……」
ハッと顔を上げた憂太の目の前で。
今まで憂太の心配をしてくれていた上級生の男の子も限界を迎えたように下級生を庇うようにして倒れ込み、完全に意識を失ってしまった。
「ああっ……! 君、しっかりして……!」
憂太は慌てて二人の体を抱き起こしたが、彼らの体温は異常に低く、呼吸はどんどん浅くなっていく。
(——時間がない。早くしないと)
憂太の脳裏に、焦燥感が渦巻く。
でも、武器がない。外にいる真希の助けを待つ? もし、彼女が五条先生を呼んでくるまでに、この子たちが間に合わなかったら?
自分が無力なせいで、目の前で誰かが死んでしまうのか。
(——僕は一体、なんのためにこの学校に来たんだ?)
憂太は暗闇の中で自問自答した。
自分を隔離し、死を望んでいた地下室。そこから引っ張り出してくれた七海や灰原、五条先生の言葉。
そして、彼らに約束したはずだ。
里香ちゃんを制御して、誰も傷つけないようにする。
暴れ狂うだけの『呪い』であることから、彼女を解放するためじゃないのか。
「……っ」
憂太は震える左手で、右手薬指にはめられた銀色の指輪に触れた。
幼い頃、最愛の幼馴染が自分に遺した、呪いの証。
彼はその指輪をゆっくりと外し、両手でギュッと握り締めた。
そして己の影の底深くに潜む、巨大で、恐ろしくて、それでも誰より愛しい存在へ向けて祈るように呼びかけた。
「……里香ちゃん」
——なぁに?
暗闇の腹の中で、少年は決意を込めて呟く。
「お願いだ。——力を、貸して」
――ボォォォォンッ!!
突如として、巨大な呪霊の腹の内側から凄まじい爆発音が響いた。
分厚い肉の壁が内圧に耐えきれず、不気味にドクン、ドクンと波打つ。
「あァ……ぉォ……?」
呪霊が自身の体内で起きている異変に困惑したような低く歪んだ呻き声を上げる。
次の瞬間、その土手っ腹の真ん中からまるで紙を破るようにして、白く巨大で、悍ましい呪力に塗れた「腕」が突き破って現れた。
「だだ、あ、れ……?」
ぱっくりと割れた自らの腹から飛び出してきた規格外の存在に、二級呪霊が怯えきった声で問い掛ける。
だが、その問いに対する答えは、言葉ではなく純粋な『暴威』だった。
『……ゔゔ、ゔるさい!!』
少女のような、それでいて世界中すべての怨念を煮詰めたような鼓膜を劈く絶叫。
腹をこじ開けて顕現した特級過呪怨霊・祈本里香は、自分を閉じ込めていた呪霊の頭部を巨大な掌で鷲掴みにし、文字通りスイカのようにグシャリと潰した。
さらに残った胴体を両手で掴むと、メリメリと音を立てて真っ二つに引き裂き始めたのだ。
「うっわ……」
その直後二階の廊下から天井の穴を蹴って屋上へと飛び出してきた真希は、目の前で繰り広げられている圧倒的な惨劇に息を呑んだ。
初めて直接目の当たりにした、特級過呪怨霊の完全顕現。
その底なしの呪力の塊は真希がこれまで見てきたどんな呪霊よりも禍々しく、そして「呪いの女王」と呼ぶにふさわしい理不尽なまでの存在感を放っていた。
(これが、乙骨の抱えてるバクダン……! なんだこの威圧感は……!)
天与呪縛の研ぎ澄まされた感覚が、全身の毛穴から危険信号を鳴らしている。
しかし真希は戦慄を押し殺し、引き裂かれた呪霊の残骸から這い出してきた一つの影を見つけて、弾かれたように駆け寄った。
「ハァッ……ハァッ……禪院さん……!」
そこには、全身を胃液と呪霊の血でドロドロにしながらも気を失った二人の子供を両脇に抱え、必死に這いずって逃れようとしている乙骨憂太の姿があった。
彼が自らの意志で里香を呼び出して子供たちを助け出したのだと、真希は瞬時に理解した。
「馬鹿野郎」
真希は憂太の元に辿り着くや否や、安心から力が抜けて座り込みそうになった彼の頭を撫でるように軽く小突いた。
「弱いくせに、出しゃばって庇ってんじゃねえよ」
「す、すいません……!」
憂太が涙目で謝るのと同時に、真希は憂太の襟首と、彼が抱えていた二人の子供の服をまとめてガシッと引っ掴んだ。
そして己の天与呪縛の膂力に任せ、三人まとめて軽々と小脇に抱え上げた。
「うわっ!?」
「舌噛むなよ。しっかり掴まっとけ」
真希は背後で呪霊の残骸を八つ裂きにして暴れ回っている里香の呪力暴風を一瞥し、それ以上は関わらず風のように屋上から飛び降りた。
地面に着地し、そのままの凄まじい速度で校門の帳の出口へと向かって校庭を駆け抜ける。
その道中、真希は前を見据えたまま、ボソリと、誰に言うでもなく呟いた。
「……まあ、あの状況で咄嗟に動けた事は評価するし」
「え?」
憂太が目をパチクリとさせて真希の横顔を見上げる。
「私を助けようとしたクソ度胸は、評価してやる。あと、禪院はいっぱい居てややこしいからな、真希でいい」
「……!」
それは口の悪く不器用な彼女なりの、最大限の称賛と労いの言葉だった。
憂太は呪霊の腹の中で這いずり回っていた時の絶望が嘘のように、心がスッと暖かく軽くなるのを感じていた。
「……ありがとうございます……真希さん」
憂太のぎこちない感謝の言葉に、真希は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、黙々と校門へ向かって走り続けたのであった。
***
数時間後、都内の病院の待合室。
消毒液の匂いが漂う静かな空間で憂太と真希はパイプ椅子に並んで座り、無言で待っていた。
二人とも呪霊の体液や土埃で制服は酷く汚れており、憂太に至っては頭から胃酸のような臭気の残穢がまだ微かに残っている。
それでも自分たちが助け出した子供たちの容態が気になり、帰る気にはなれなかったのだ。
「よっ」
そこへ缶コーヒーを片手に持った五条悟が、ひらひらと手を振りながら自動ドアの向こうから歩いてきた。
その顔にはいつもの飄々とした笑みが浮かんでいる。
「あの二人、命に別状無いってさ。今はぐっすり寝てるよ」
悟が医師から聞いた言葉を伝えると、憂太と真希は同時に「はぁーっ……」と、心の底から安堵の息を吐き出した。
「よかった……本当によかった……」
憂太は両手で顔を覆い、膝の上でポロポロと涙をこぼした。
呪いに巻き込まれても誰も死なせずに済んだ。自分が里香を呼び出しても、誰も傷つけずに人を助けることができたのだ。
その事実が、彼の心に重くのしかかる罪悪感をほんの少しだけ軽くしてくれた。
真希も「チッ、世話焼かせやがって」と口では悪態をつきながらも、その表情は明らかにホッとして緩んでいた。
「任務を通じて仲深まったようでなにより。……ただね」
悟は泣いている憂太の頭をポンポンと撫でながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて真希の方を見た。
「祈本里香が消えたあとで、伊地知が屋上から落とした呪具を回収しに行ったんだけどさ」
「ああ、私の薙刀か。刃こぼれくらいなら直せるけど、折れてたらうちのクソ親父どもに文句言われそうだな……」
真希が嫌そうに眉をひそめると、悟は「あー、それがさ」と半笑いで首を横に振った。
「薙刀の方、すごく念入りに木っ端微塵に壊されてたよ、なんか」
「……は?」
「柄はボキボキに折られてたし、刃の方はわざわざ粉々に砕かれてたって。伊地知が泣きそうな顔で破片かき集めてたわ」
真希の顔から、スゥッと血の気が引いた。
「おい……それって……」
「たぶん、憂太に近付く女の子だから、里香ちゃんに嫉妬されてんじゃない?」
悟は、まるで他人事のようにケラケラと笑い飛ばした。
「ほら、憂太を飲み込んだ呪霊を倒した後、真希が憂太を抱えて逃げてきただろ? 里香ちゃん、それ見て『私の憂太に気安く触るな!』ってブチ切れて、その八つ当たりで薙刀を念入りに壊したのかもね。……いやぁ、女の情念って怖いわー」
悟の推測に真希は「冗談じゃない!」と、自分の両腕で身体を抱きしめるようにして身震いした。
「怨霊からそんな理不尽な嫉妬なんて買ってたまるか! 私は憂太を運んだだけで、そんな気は微塵もねえよ!」
「こっわー。まあ、気をつけてねー? 次は呪具じゃなくて、真希自身が木っ端微塵にされちゃかなわないし」
悟がぞっとしないことを言い出すのを聞いて、憂太は「り、里香ちゃん……」と、顔を真っ青にして震え上がった。
自分が無意識のうちに、同級生を特級過呪怨霊のターゲットに仕立て上げてしまったかもしれない恐怖。
「ほら、これ」
悟は、抗議する真希をよそに、もう片方の手に持っていた黒いケースを憂太に差し出した。
「伊地知が回収してきた憂太の刀ね。こっちの方は傷一つなく、大事そうに床に置かれてたらしいよ」
「えっ……」
「里香ちゃんは、憂太の持ってたそれをすごく気に入ってるみたいだからさ」
悟は、憂太の目線に合わせてしゃがみ込み、サングラスの奥で六眼を冷たく光らせた。
「次からは、ちゃんとそれで頑張りな? 今日みたいに丸腰で飲み込まれて、里香ちゃんを呼び出す羽目にならないように」
それは、教師としての厳しい忠告であった。
「もし次、彼女が素直に消えてくれなかったら……そのまま俺が、里香ちゃん相手に大怪獣バトルして、この辺の地図を書き換える事になるから。気をつけてね」
「ヒッ……!!」
憂太は悟の放ったあまりにも恐ろしい、そしてそれが冗談ではないという絶対的な武力のスケールに悲鳴を上げてケースを抱きしめた。
特級過呪怨霊と準最強の呪術師の激突。それが起これば、今回のような被害では済まない。
「わかりました……! 絶っっ対に、制御できるようになりますから!! 地図は書き換えないでください!!」
「うんうん、その意気だ。じゃ、俺は用事出来たから伊地知の車使うし、二人とも帰りは適当に電車で帰ってきてねー」
悟は、真っ青になった憂太の肩をポンと叩くと、そのままひらひらと手を振りながら待合室を後にした。
「あのバカ教師……生徒を置いて帰る気かよ」
真希が忌々しげに舌打ちをし、憂太は「あっ、五条先生……!?」と情けない声でその後ろ姿を見送った。
だが、二人の顔には、先ほどまでの絶望感や恐怖はもうなかった。初めての任務を生き延び、誰も死なせなかったという確かな事実。
乙骨憂太の、呪術師としての本当の第一歩は、こうして騒がしく、そして希望とともに踏み出されたのであった。
***
「——特級過呪怨霊、祈本里香。474秒の完全顕現」
重厚な襖に囲まれた薄暗い和室。その上座に腰を下ろす肌艶の良い老人が、手元の報告書を忌々しげに畳へ叩きつけた。
かつてであれば死の恐怖に怯え、枯れ木のように痩せ細っていたはずの総監部の重鎮たち。だが、禪院全の『寿命取引』という蜜をたっぷり啜っている今の彼らは、異様なほどの生気と威圧感を放っている。
「君に乙骨を預けたのは、他でもない。こういった事態を避けるためでもあったはずだぞ、五条悟」
老人の鋭い叱責が飛ぶ。
しかし、非難の的となっている当の五条悟はといえば、畳の上に胡座をかき、頬杖をつきながら欠伸を噛み殺していた。
室内にも関わらず胡散臭いラウンドサングラスをかけたその顔には、反省の色など微塵も浮かんでいない。
「まーまー、結果的に死人はゼロ、誰も傷ついてないんだから御の字でしょ。それに、もし本当に里香ちゃんが暴走して手がつけられなくなったら、俺がなんとかするつもりなんで。ご心配なく」
「それが一番の問題だろうが……!!」
悟のあまりにも軽い返答に、老人はこめかみに青筋を浮かべて怒鳴りつけた。
特級過呪怨霊と五条悟。その二つの『規格外』がもし市街地で本気の大怪獣バトルなどおっ始めようものなら、地図が一つや二つ書き換わるだけでは済まないかもしれない。
被害の規模で言えば、下手したら祈本里香の気が済むまで暴れさせて放置しておいた方がまだマシかもしれないのだ。
それほどまでに、現在の彼のスケールは呪術界上層部にとってコントロール不能な災害と化していた。
「……というかさ」
悟は、老人の怒声など右の耳から左の耳へと受け流し、面倒くさそうに首を傾げた。
「禪院の当主サマは、まだ手が空かないの? 憂太みたいなイレギュラーの塊、何するにしてもあのヒトに直接診てもらうのが一番確実なんじゃないの?」
その言葉に先ほどまで声を荒らげていた老人が、ピタリとむっつり口を閉ざした。
五条悟の言う通りだった。
無数の生得術式をその身に宿し、自在に組み合わせる特異点、禪院全。
彼の内包する膨大な術式群の中には、対象の呪力構造を丸裸にするような探知・解析系の術式も数多く含まれている。それらを『嵌合』させることで、今や彼の解析能力は、事象によっては五条家の至宝である『六眼』すらも部分的に凌駕する領域に達していた。
祈本里香という、呪術の歴史においても類を見ない未知のバグ。
こういった未知の事象の構造を解き明かして利用価値を見出すことは、全が最も得意とし、かつ最も
だが——。
「『面白そうな人材だから後で見に行く。でも、今はちょっと見に行く暇がない』……との事だ」
悟が呆れたように肩をすくめる。
呪術界のトップである総監部ですら、現在の全の動向を完全に把握することはできていない。彼らもまた、全が本邸の奥深くに引きこもり、何かに没頭しているという現状に、困惑と焦りを隠せずにいるらしかった。
彼特有の取引すら、月数回機会を設けるにとどまっているという。
「まったく」
悟は、サングラスの奥で六眼を細め、ニヤリと口角を吊り上げた。
「現代の呪いの王が特級の呪いすら後回しにして熱中する
■禪院家あれこれ
真希や真依も特に家を恨んでないし、ぶっ潰そうとも、自分が当主になって見返してやろうとも思っていない。直哉はうざい。
真希は殴り合いはプレーンな完全体八尺様を一人で制圧出来るくらいには一族屈指の強さだが、実戦経験の不足が足を引っ張っている。
粉々にされた呪具は武具としての切れ味と、呪霊への特効を重視した無骨な逸品。
禪院全は新しく手に入れたコレクションを使いこなす為に集中しているのだとかで取引の機会を月数回に絞ってまで篭っている。重要インフラを司る人が一人しかいない弊害が出ている。
■五条悟
原作で『里香ちゃん出ちゃったら私も命懸けで戦いますよ』的な事を言っていたものの、本人はなんともないだろうし心配すべきは周辺被害では? と思った。
総監部の前でも態度を取り繕わない男。そこはもうみんな諦めてる。