禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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……祓いに行くわけじゃない。中にまだ人がいるから、それを外に出す。()()()()()()()をやるって言ってるんだ



30.呪胎戴天-善意独走

 二〇一八年、七月。

 西東京市、英集少年院。

 

 灰色の雨雲が重く垂れ込める空の下、少年院の建物を覆い隠すように、どんよりとした不気味な気配がとぐろを巻いていた。

 

「急いでください! 走って! 立ち止まらない!」

 

 伊地知潔高をはじめとする高専の補助監督たちと、施設職員たちの緊迫した怒号が飛び交う中、急遽現場へ招集された高専一年生の三名――虎杖悠仁禪院恵釘崎野薔薇の姿があった。

 即座に動かせる残存人員として駆けつけた彼らの任務は「呪胎への警戒と事前の避難誘導」、並びに最悪の事態に備えた「周辺待機と現況報告」である。

 

「うおっ……なんか、さっきより空気が重くなってねーか!?」

「呪胎が成長してる証拠だ。マズいな、気配が急速に強まってる……!」

 

 まだ完全な形を成していない状態ですら、この圧倒的なプレッシャー。悠仁が肌を刺すような悪寒に肩を震わせると、恵もまた険しい顔を作った。

 

「おいコラ! ダラダラ歩いてんじゃねえ、さっさと外に出ろ!!」

 

 野薔薇の怒声が薄暗い廊下に響き渡る。その顔には、隠しきれない苛立ちと明確な青筋が浮かんでいた。

 

「んだよ、うるせぇ女だな……」

「ってかマジでなんなんだよ、急に」

 

 最後尾でダラダラと歩く受刑者たちに向け、手にした金槌をガンッ! と壁に叩きつけながら「あ゙?」と凄む彼女のただならぬ殺気と、恵が無言で滲ませた呪力の威圧感に、反抗的だった彼らも顔を青ざめさせ、施設の門の外へと転がり出ていった。

 

「あー、マジでムカつくわね……っ!! なんなのアイツら!!」

 

 最後の一人を敷地の外へと押し出し、バリケードの規制線まで退避したところで、野薔薇は苛立たしげに地団駄を踏んだ。

 

女だと思ってナメ腐った態度取りやがってぇ……ッ! こっちが急いで誘導してんのに、『はぁ? 何ビビってんの姉ちゃん』だぁ!? ネンショ入るような奴らはこれだから腹立つ!」

 

 怒り心頭で喚き散らす野薔薇。

 実際、彼女の誘導に従わずニヤニヤとからかってきた数名の受刑者のせいで、避難のペースが想定よりも大きく滞ってしまったのだ。

 

「……ああいう連中は、本格的に痛い目を見るまで事の重大さが分からねぇんだよ」

 

 恵が心底疲れたようにため息をつきながら野薔薇の怒りに同意した。

 

「任務で廃墟なんかに行くと、ああいう手合の『肝試し目的のバカ』が入り込んで余計な要救助者になるケースがよくある。状況も理解せずに救助時にトラブルを起こしがちだから、現場の術師からは心底嫌われてる」

「でしょうね! あんなの、呪いにちょっと囓られて泣きっ面見るまで放っておいてやりたいくらいだわ!」

「同感だ。……が、そういうわけにもいかねえのが、この仕事の厄介なところだな」

 

 恵の言葉に深く頷き、彼女は鼻息を荒く金槌を素振りする。

 実家で幼い頃から呪術の世界のシビアさを叩き込まれてきた恵と、地方で呪いと向き合ってきた野薔薇にとって、非術師の危機感の欠如は共通のストレスの種であるようだった。

 

「まあまあ、二人とも。無事に外に出せたんだからいいじゃん」

 

 悠仁が苦笑いしながら二人を宥め、それから少し離れた場所でバインダーを抱えている伊地知たちの方へと向き直った。

 

「伊地知さーん! とりあえず、これで避難は全部?」

 

 悠仁が軽く声を張り上げて尋ねた、その時だった。

 

「……い、いえ……待ってください」

 

 施設の職員と共に避難者のリストと名簿を照合していた伊地知の顔から、スゥッと血の気が引いていくのが見えた。

 

「足りない。第二宿舎の受刑者が、()()……()()()()()……ッ!」

 

 その言葉が響いた瞬間、悠仁の身体が弾かれたように動き出そうとした。

 

「……探さないと!!」

 

 まだ施設の中に人が取り残されている。その事実だけで、彼の身体は思考よりも先に救助へと向かおうとしていたのだ。

 

 ――しかし。

 

うおっ!?

 

 バツンッ、と。駆け出そうとした悠仁の足元から、突如として真っ黒な影が蛇のように這い上がり、彼の両足をガッチリと絡め取ってその場に縫い付けた。

 

「おい、待て。早まるな」

 

 低い声で制止したのは、恵だった。

 彼の足元から伸びた影が悠仁を物理的に引き留めている。恵の表情はこれまでにないほど険しく、額には嫌な汗が滲んでいた。

 

「もう施設内の呪力がかなり濃くなってる気配を感じる。……下手すると、呪胎はもう変態を終えてるかもしれない」

「なら尚更急がないとだろ!?」

 

 影に拘束されながらも、悠仁は焦燥をあらわにして叫んだ。

 時間が経てば経つほど、中にいる五人の生存率は絶望的になっていくのだ。

 

「いけません、虎杖くん!」

 

 そこにバインダーを抱えた伊地知が慌てて割って入り、血相を変えて諫めた。

 

「あなた方一年生に与えられた任務はあくまで事前の避難誘導と現況報告といった()()()()のみ! 祓除そのものは、後刻派遣されてくる禪院家の仕事だと言った筈です!」

「でも、人が残って――」

 

それに!

 

 伊地知は悠仁の言葉を遮るように声を張り上げる。その顔には大人の補助監督としての責任感と明確な恐怖が張り付いていた。

 

「今回、施設上空に確認された呪胎の、変態後の推定等級は()()です。あなた方が手を出していい相手ではありません!」

 

 特級。改めて突きつけられたその単語の響きに、その場に一瞬、重苦しい沈黙が落ちた。

 

「特級……」

 

 悠仁は、少しだけ眉をひそめ、首を傾げた。

 

「等級がどうとか、ナナミン先生から聞いてはいるけど……そんなにヤバイのか、特級って」

「…………ハァ?」

 

 そのあまりにも間抜けな質問に、野薔薇が「信じられない」とばかりに目をひん剥き、恵は深々と、今日一番の深いため息をついた。

 

「お前、本当に授業聞いてたのか……?」

「いや、聞いてたけど! なんかピンとこねーっつーか……!」

「はぁ……。オマエの高校にいたあのデカいやつ、アレで二級だ。あれより段違いでヤバいって言えば、少しは分かるか?」

 

 恵が呆れ果てたように言うと、悠仁は「あの時の!」とポンと手を打った。杉沢第三高校で天井を突き破り襲い掛かってきた巨大な呪霊。

 あれが()()

 

「通常兵器が通ると仮定して、分かりやすく例えましょう」

 

 伊地知が眼鏡を押し上げながら補足に入った。

 

「二級なら散弾銃があればギリギリ倒せるレベル。一級は戦車を持ち出しても心細い。……そして『特級』は、クラスター爆弾で絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)を行ってようやくトントン、といったところですね」

 

絨毯爆撃!?

 

 あまりにも物騒でスケールの大きすぎる例えに悠仁の顔が引き攣り、青ざめた。

 

「マジでやべえじゃん……!!」

「だから言ってるだろうが」

 

 恵は拘束していた影をスゥッと解き、腕を組んで冷ややかな目線を向けた。

 

「教えられてるだろうが、本来は、対象の呪霊と()()()()の術師が対処に当たるのがセオリーだ。今回の場合で言えば、五条先生や、二年の乙骨先輩……あとはうちの当主とかな」

 

「その五条先生も先輩とやらも出張中でいねぇじゃんか!」

「うちの当主は任務が無くても常に忙しいし、京都からじゃすぐには来られねえ。……他の特級術師も最近海外にいるらしいし、そもそも特級なんて五人しかいねえからな」

 

 恵の言葉に悠仁は「少なくね!?」と思わず声を荒げた。

 

「この業界は、常に慢性的な人手不足なんです」

 

 伊地知が胃の痛むような顔で嘆息した。

 

「殉職者が減って以前よりはマシになったとはいえ……今の時期は特に呪霊が自然発生しやすく、二年生も三年生も、教員の多くも全国各地でてんてこ舞いです」

「……そういや、先輩たちに未だ会えてねえな」

 

 彼の言葉で、悠仁は呪術高専にやってきてから同級生である二人以外とろくに会えていないことに気がつく。

 

「現状、この場に禪院準一級術師と釘崎二級術師という一年生にしてはかなり上澄みの戦力が揃っているとはいえ、特級相手に無茶をするべきではありません」

 

 伊地知がそう言って窘めようとした、その時だった。

 

あの! 正がどこにも居ないんです! 何が起きているんですか!? 正は……息子は大丈夫なんでしょうか!」

 

 伊地知の言葉を遮るように、バリケードの向こう側から悲痛な叫び声が響いた。

 他の補助監督の制止を半狂乱になって振り切りこちらへと駆け寄ってきたのは、一人の女性だった。

 

「……っ」

 

 その姿を見た瞬間、悠仁の胸の奥がギュッと締め付けられるように痛んだ。

 祖父の死の記憶。大切な家族を失うかもしれない恐怖。それがどれほどのものか、悠仁には痛いほどに分かっていた。

 

「あのさ、俺たちが——」

 

 悠仁が思わず前に出て口を開きかけた、その時。

 

「——何者かによって、施設内に有毒ガスのようなものが撒かれた可能性があります」

 

 伊地知が、悠仁と母親の間にサッと割って入り、冷徹な——しかし、どこか痛みを押し殺したような事務的な声で告げた。

 

「現時点では、これ以上の事はお伝えできません。危険ですので、速やかに規制線の外へ避難を」

「そ、そんな……! お願いです、正を……!」

 

 すがりつこうとする母親を、駆けつけた別の補助監督がなだめすかしながら、再び安全な場所へと誘導して連れて行く。

 泣き叫ぶ母親の姿が遠ざかった後、伊地知は一つ深いため息をつき、三人を振り返った。

 

「……面会に来ていた、受刑者の保護者です」

 

 呪いの存在を一般人に明かすことはできない。だからこその「有毒ガス」という嘘。

 伊地知の言葉には、非術師を蚊帳の外に置かなければならない補助監督としての辛い職務の重圧が滲んでいた。

 

「…………」

 

 重い沈黙が落ちる中、悠仁は静かに、しかし先ほどまでの焦りとは違う、冷たく硬い決意の籠った声で口を開いた。

 

「……()()()()()()()()

「あ?」

 

 恵が怪訝な声を上げる。

 

「オマエ、伊地知さんの話聞いてなかったのか。特級相手に祓除は禪院家のヤツらが——」

「違う」

 

 悠仁は、恵の目を真っ直ぐに見据えて言い切った。

 

「祓いに行くわけじゃない。中にまだ人がいるから、それを外に出す。()()()()()()()をやるって言ってるんだ」

 

 それは詭弁かもしれない。

 特級が顕現している施設に入れば、戦闘になる可能性は高い。

 

 ……だが、あの母親の悲痛な叫びを聞いて目の前で助けられるかもしれない命を見捨てることなど、悠仁にできるはずもなかった。

 

「……ッ、この馬鹿が……!」

 

 恵が苛立ちに顔を歪め、反論しようとしたその時だった。

 

「あんた、たまにはいいこと言うじゃない!」

 

 横から金槌を肩にポンポンと叩きつけながら、野薔薇が一歩前へと進み出た。

 彼女の顔には先ほどまでの面倒くさそうな表情はなく、不敵で好戦的な笑みが浮かんでいる。

 

「釘崎……!?」

「あんな母親の泣き顔見せられて、ここでしっぽ巻いて待機なんて、アタシの美学に反するわ」

 

 彼女もまた、口は悪いが根底にあるのは筋の通った正義感の持ち主だ。

 親が子を理不尽に喪う悲劇を黙って見過ごせるような性格はしていない。

 

「なっ……君たちまで何を言っているんですか! 特級相手に無茶だと——」

 

 伊地知が慌てふためき、必死に止めに入ろうとする。

 恵はそんな暴走する同級生二人と、慌てる伊地知の姿を交互に見比べ——深く、深く、今日一番の重いため息をついて、頭をガシガシと掻き乱した。

 

「……クソッ、どいつもこいつも」

 

 恵は忌々しげに舌打ちをした後、スッと視線を鋭く細め、呪力を練り上げ始めた。

 

「俺の術式は、索敵にも逃げ隠れにも適している」

 

 その言葉に、悠仁と野薔薇の顔がパッと明るくなる。

 

「特級の気配を感じた時点で、即座に尻尾巻けるか?」

 

「おう!」

「当たり前でしょ」

 

 即答する二人を見て恵は「本当かよ」と思いつつも、観念したように前を向いた。

 

「伊地知さん、俺たちで避難誘導を継続します。仮に特級と遭遇した場合、なりふり構わず離脱を最優先とする条件で」

「ぜ、禪院くん……! しかし……!」

 

「禪院家の連中が来るまで待ってたら、中にいる奴らは完全に手遅れになる。……行くぞ」

 

 恵の決断に悠仁と野薔薇は力強く頷いた。

 そんな彼らに伊地知は小さくため息をつくと、眼鏡を押し上げて三人の決意の宿った瞳を見つめ返した。

 

「あなた達が行おうとしている事は、拡大解釈ではあっても、命令違反ではありません」

 

 彼とてあの母親の悲痛さに思うところがないわけではなく、命を救いたいという彼らの思いに同調できる部分があるのは確かだった。

 

「それでも、多大な危険を冒そうとしている事に違いはない。……だから、少しでも危険を感じたら、即座に離脱してください。間違っても、戦闘しようなどとは考えないように!」

 

「おう! 任せとけ!」

「わかってるって。死に急ぐ趣味はないわ」

 

 伊地知の念押しに悠仁は力強く拳を胸に当て、野薔薇はヒラリと手を振って頷く。その二人の返事に少しだけ安堵した伊地知へ、恵は深く頭を下げた。

 

「いざとなれば、俺が『操影呪法』で影伝いに二人を連れて強引に離脱します……我儘を言って、本当にすみません」

「……ご武運を」

 

 伊地知の悲痛な祈りを背に受け、三人は封鎖された少年院の第二宿舎へと歩みを進めた。

 雨雲がますます厚みを増し、不気味な気配が施設の周囲を完全に包み込んでいる。

 

「よし、行くぞ」

 

 恵を先頭に、重々しい鉄の扉をギィィ……と軋ませながら押し開け、三人は建物の中へと足を踏み入れた。

 

 

 ——その瞬間。

 

 

「…………えっ?

 

 先頭を歩いていた悠仁がぽかんと口を開け、その場に立ち尽くした。

 彼らが足を踏み入れた先は、数分前に避難誘導で駆け回っていた、あの無機質で殺風景なコンクリートの廊下ではなかった。

 

 どこまでも続く、暗く淀んだ空間。

 いびつに拡張され、ぐにゃぐにゃとねじれ曲がった建物の構造。天井が見えないほどの高さに、無数の太く錆びた配管が血の血管のように張り巡らされている。

 

「おいおい……さっき入った時はここ、普通に2階建ての寮だったよな……!?」

 

 悠仁が、信じられないものを見るように目を剥いて叫んだ。物理的な建物の構造が、完全に無視されている。

 

「……呪力による()()()()の展開……!!」

 

 恵の額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちた。

 空間そのものを自らの心象風景で塗り替える、呪術戦の極致とも言える技術。

 

「こんな広大なのは……俺も初めて見た」

 

 恵の声は微かに震えていた。

 領域の展開。その言葉を聞いて、恵と野薔薇の脳裏に同時にフラッシュバックしたのはあの一人の男の姿だった。

 

 禪院全。

 恵は領域展開という技術を後学のために見学させられた際に、野薔薇は二つ目の術式を買い取る取引の際にその領域の内に招かれたことがある。

 

(当主様の領域よりも、遥かにデカい……!)

 

 恵は周囲の異常な空間を見渡しながら戦慄した。

 空間の広さ、サイズという一点のみで比較するならば、今自分たちが放り込まれたこの呪胎の領域は、全のそれを優に超える規模を誇っている。

 

 しかし恵の呪力探知は、同時にこの領域の『本質』を冷静に見抜いていた。

 

(……いや、ただデカいだけだ。この空間には、領域展開の()()()()()が付与されていない)

 

 全の領域が恐ろしいのは、その中にいるだけで無条件に術式を簒奪されるという精密で絶対的なルールが敷かれているからだ。

 それに比べてこの領域は、ただ有り余る莫大な呪力を垂れ流して無秩序に空間を拡張しただけの未完成な代物である。

 

(それでも……結界をこれだけの規模で物理的に具現化させる呪力総量。自分たちより圧倒的に格上なのは間違いない)

 

 恵はゴクリと唾を飲み込み、即座に「離脱」の判断を下した。

 これ以上奥に進めば確実に特級本体と鉢合わせる。要救助者の捜索よりも、まずはこの異常空間から一旦引き返すのが先決だ。

 

「……マズい、一旦外に出――」

 

 恵が入ってきたばかりの背後へと振り返った、その瞬間。

 

「…………ッ!!

 

 恵の言葉が、喉の奥で完全に凍りついた。

 そこにあるはずのものが、無かったのだ。

 

 先ほど自分たちが押し開けて入ってきた、無機質な鉄の扉。

 外へと続く出口が——そこには存在しなかった。

 

 ただいびつに捻じ曲がった太い配管の壁が、不気味な静けさとともに彼らの退路を完全に塞いでいたのであった。

 

「め、恵……俺のせいで……」

 

 退路を断たれた事実に気づき、悠仁の顔がサッと土気色に変わった。

 自分の「助けたい」という我儘のせいで、仲間たちをこの異常な空間――特級呪霊の巣窟に閉じ込めてしまった。

 

 その強烈な罪悪感が、少年の胸をギリギリと締め付ける。

 

「ウソでしょ……出口がないって、どういう事よ……っ」

 

 普段は強気な野薔薇も流石にこの事態には顔を引き攣らせ、金槌を握る手を微かに震わせていた。

 

「……落ち着け」

 

 パニックになりかける二人の前に立ち、恵はあえて低く、努めて冷静な声で告げた。罪悪感に押しつぶされそうになっている悠仁の目を真っ直ぐに見据える。

 

「最終的にここへ入るのを選択して、お前を止めるのをやめたのは俺だ。……今ごちゃごちゃ言ってても仕方ねぇ」

 

 恵の言葉は、今の状況で最も必要な「現実的な切り替え」だった。

 誰のせいだとか、後悔している暇など一秒もない。生き残るための道を探すしかないのだ。

 

「結界としての密度が薄い()()の部分を探す必要があるが……この領域はただデカいだけで、構築自体は雑だ」

 

 恵は周囲のいびつな配管や壁を鋭い視線で見回しながら分析を口にする。

 

「外殻となる壁を叩けば、破壊して出られる可能性はある」

「……壁を、ぶち破るってことか」

 

 悠仁が少しだけ顔を上げ、希望の光を見出したように呟く。

 野薔薇も金槌を構え直して強ばっていた肩の力を少し抜いた。

 

「それに」

 

 恵は自らの内に流れる呪力を確かめるように、第二術式を起動して頭上にフワリと光球を浮かび上がらせた。

 その光が足元の影を濃く、深く落とし込む。

 

「当主様の使役する個体とはいえ……俺には、特級呪霊との戦闘経験がある」

 

 ――特級仮想怨霊である『化身・玉藻前』や『八尺様』。

 全が使役するそれらの理不尽な化け物たちと、日常的に訓練という名のシゴキで相手をさせられてきたのだ。あの圧倒的な呪力量と恐怖を知っているからこそ、恵はこの場においても冷静さを失わずにいられる。

 

(それに……感覚でいえば)

 

 彼は施設内に充満する呪力のプレッシャーを肌で感じ取りながら、内心で確信していた。確かにこの呪力総量は特級に相応しいものだと。

 

 だが、全が使役する中では最強の特級呪霊である『姦姦蛇螺』のような、研ぎ澄まされた呪いの練度といったものは感じられない。

 生まれたての赤子がただ莫大な力を持て余しているような未熟な気配。

 

(少なくともあのバケモノよりは、間違いなく()だ)

 

 恵のこれまでの実戦とシゴキで培われた勘が、そう告げていた。

 

 ——だからこそ、活路はある。

 

「とにかく、今はその結界の綻びを探す。……受刑者探しも兼ねてな」

 

 彼がそう宣言すると、悠仁はギュッと拳を握りしめて「ああ!」と力強く頷いた。

 野薔薇も「さっさと終わらせて、帰るわよ!」と気を引き締め直す中で、恵は光球を操り自身の後ろへと動かしていき。

 

拡張術式・影法師――」

 

 光がスポットライトのように強烈な光で背中を照らし、彼の足元の影が濃く、長く引き伸ばされていく。

 

「――巨影

 

 ドロリと立体的に隆起した影が、瞬く間に天井スレスレの高さまで膨れ上がる。

 

 麦わら帽子を被り、ワンピースを着た異様に背の高い()のシルエット。

 特級呪霊『八尺様』の威容を模した巨影が、無機質な沈黙とともに彼らの前に立ち上がった。

 

「こいつはある程度自立行動ができるし、何かあればすぐにカバーに入る」

 

 恵は巨影を自分たちの前方に配置し、盾のようにして指示を出した。

 

「索敵の足しと……万が一、特級と遭遇した際の()()()だ」

「おー! あの時の影のねーちゃんか! やっぱでけぇな!」

 

 悠仁が杉沢第三高校での死闘を思い出して目を輝かせた。

 しかし、初めてその姿を見た野薔薇は、ジト目で巨影の――特にその豊満な胸のシルエットあたりを指差して、怪訝な顔をした。

 

「……いや、ちょっと色々デカすぎない? 何、アンタの趣味?」

「断じて違う」

 

 即座に、一切の淀みなく、恵は真顔で否定する。

 真希にネチネチといじられ、父親からわざわざ手紙でやんわりと説教されたあの忌まわしいトラウマを、ここで蒸し返されてたまるか。

 

「俺が知る中で一番()のある姿を模倣しただけだ。行くぞ」

「ふーん……まあ、そういうことにしておいてあげるわ」

 

 野薔薇のニヤニヤとした生暖かい視線を背に受けながら、恵はこれ以上の追及を避けるように巨影を先導させて歩き出した。

 

 

***

 

 

 いびつに歪んだ迷宮のような配管の廊下を、巨影を先頭にして進むこと数分、彼らは開けた空間——かつて談話室か何かだったであろう場所へと辿り着いた。

 

「…………ッ」

 

 そこに広がっていた光景に、悠仁の足がピタリと止まり、言葉を失う。野薔薇も息を呑み、恵は険しい顔で周囲を警戒した。

 

 そこにあったのは、凄惨な「死」の跡だった。

 

 探していた五人の受刑者たちのうちの、三人。彼らはすでに人間としての形を保っていなかった。

 

 一人は雑巾を絞るように肉と骨をねじり潰され、肉団子のように丸められて転がっている。

 一人は強力な力で無理やり引き千切られたかのように上下二分割にされて血の海に沈んでいる。

 もう一人は壁に何度も叩きつけられたのか、原形をとどめないほどの肉片と化してこびりついていた。

 

 圧倒的な暴力。遊ぶように人間を破壊する、特級呪霊の純粋な悪意の痕跡。

 

「……遅かったか」

 

 恵が低く呟く。

 悠仁は俯いたままゆっくりと歩み寄り、上下二分割にされた遺体の上半身の前でしゃがみ込んだ。その遺体が着ている作業着の胸元には、血で汚れてはいるものの、名札が縫い付けられていた。

 

 ——『岡崎正』。

 

 入り口で、半狂乱になって泣き叫んでいたあの母親の息子。

 

「…………」

 

 悠仁の拳がギリッと強く握りしめられ、膝の上で小刻みに震えている。

 救えなかった。間に合わなかった。

 

「……この遺体、持って帰ろう」

 

 沈黙を破り、悠仁が静かに、しかし頑なな声で口を開いた。

 

「……あの人の息子だ。顔はそんなにやられてない。……遺体もなしに『死にました』じゃ、納得できねぇだろ」

 

 その言葉は呪術師としての合理性からは程遠いものだ。

 退路を断たれ、いつ敵が襲ってくるかもわからない極限状況下で重荷を抱えて移動するなど自殺行為に等しい。

 通常であれば、「置いていけ」と切り捨てるのが正解だ。

 

(……だが)

 

 恵は悠仁の震える背中を見下ろした。

 自分が原因で仲間を危険に晒したという罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、それでも遺体だけでも家族の元へ帰そうとする不器用で真っ直ぐな善意。

 ここで正論を振りかざして彼をやり込めれば、メンタルにヒビを入れてパフォーマンスを落とすだけだ。

 それに何より、恵には「それを可能とする術式」がある。

 

「……チッ」

 

 恵は短く舌打ちをすると、頭上の光球の光を強めた。

 彼の足元の影がドロリと広がり、岡崎正の遺体の下へと滑り込んでいく。

 

「影に入れる。……退避する時、死体と相乗りになるが文句言うなよ」

「……恵」

 

 悠仁が、驚いたように顔を上げた。

 

「お前がそこまで言うなら、持っていく。……俺の『操影呪法』なら、影の中に格納できるからな。移動への支障はない」

「……ああ。ありがとう」

 

 悠仁は痛みを堪えるような顔で小さく頷き、立ち上がった。

 ズブズブと遺体が恵の影の中へと音もなく沈み込み、格納されていく。

 

「これで受刑者探しは打ち切りだ。いいな」

 

 恵は周囲の血の海を見渡し、冷徹な声で宣言した。これだけの惨殺が行われたという事実。それは、ただ一つ最悪の可能性を示唆している。

 

「こいつらが殺されている以上……呪霊はもうすでに、動き出してる」

 

 その言葉が、残る二人の背筋に冷たい緊張を走らせた。

 

「領域内は濃い呪力が満ちているが、結界の綻びの周辺は呪力が薄くなっているはずだ。外殻を目指してそれを探す」

 

 特級がすでに動き出している以上、悠長に探し回っている時間はない。全神経を研ぎ澄まし、僅かな呪力の薄らぎを見逃さずに進まなければならない。

 

「……こっちに向けて、少し呪力が流れてる気がするわね」

 

 野薔薇が金槌を構え、呪力を探りながら慎重に歩き出そうとした、その時だった。

 

「え?」

 

 野薔薇の足元の床が、まるで最初から存在しなかったかのようにぽっかりと暗黒の()へと変貌したのだ。

 重力に引かれ、彼女の身体がヒュッと音を立てて底なしの闇へと落下していく。

 

「釘﨑ッ!!」

 

 悠仁が叫んで手を伸ばすよりも早く。

 落下していく野薔薇の手首を、間一髪で巨大な黒い手が掴み取った。

 巨影が人間離れした反射速度で反応したのだ。

 

「っっっっぶなあぁぁ……ッ!! 寿命縮むかと思ったわ……!」

 

 冷や汗をダラダラと流しながら巨影の腕にしがみつく野薔薇。

 彼女が無事に引き上げられたことに安堵する余裕など、悠仁と恵にはなかった。

 

(――いる)

 

 二人の背筋を、氷の刃で撫で上げられたような猛烈な悪寒が駆け抜けた。

 

 気配を探るまでもない。ゾッとするような、圧倒的で濃密な「死」そのものが、彼らのすぐ側に――すぐ真横に、いつの間にか音もなく立っていたのだ。

 

「…………」

 

 剥き出しの歯茎から、ヒヒッ、と不気味な笑い声が漏れる。

 つるりとした白い頭部。額から後頭部へと向けて四本の黒いラインが走り、その中央の二列には、それぞれ二つずつ、計四つの目玉がギョロリと並んでいる。

 

(動けねぇ……!!)

 

 恵は内心で激しく歯噛みした。

 特級呪霊の放つ圧倒的なプレッシャーと殺意が、呪術師としての本能を麻痺させ、彼の身体を金縛りのようにその場に縫い付けていた。

 

 全の特級呪霊たちと訓練で対峙したことはある。だが、やつらはあくまで「訓練相手」であり、そこに絶対的な()()()()は存在しなかった。

 しかし今目の前にいるのは、明確に彼らを嬲り殺そうとしている本物の殺意の塊だ。

 

(動け……! 動け、動け動け……!!)

 

 悠仁もまた、震える足に必死に命令を下していた。

 目の前の化け物は、杉沢第三高校で遭遇した二級呪霊などとは次元が違う。格が違う。

 だが、恐怖に押し潰されそうになる思考の中で、彼を突き動かしたのは、たった一つの絶対的な呪いだった。

 

 ――『オマエは強いから、人を助けろ』。

 

 祖父の最期の言葉が、脳裏で弾けた。

 

うおおおおおおおおっ!!!!

 

 恐怖を怒声で塗りつぶし、悠仁は屠坐魔(とざま)を頭上高く振りかぶった。

 理不尽な死から仲間を守るために。特級呪霊の白い顔面めがけて、全身全霊を込めた一撃を振り下ろす。

 

 ――その瞬間。

 

 ボトッ。

 

 鈍い音を立てて、何かが床に落ちた。

 それは、砕けた屠坐魔の柄を固く握りしめたままの――虎杖悠仁の左手首だった。

 

「……え?」

 

 悠仁がぽかんと間抜けな声を漏らし、自分の左腕の先から血が噴き出しているのを認識するよりも早く。

 音もなく特級呪霊の一撃が悠仁の手首を綺麗に切断したのだと、恵は察知した。

 

「――巨影ッ!!!!」

 

 恵の血を吐くような咆哮に、巨影が動く。

 引き上げていた野薔薇を後方へと強引に放り投げ、さらに長い両腕で悠仁と恵をひっつかむと、野薔薇と同じ後方の通路めがけて力任せに投げ飛ばした。

 

「ぐはっ!」

「痛っ……!」

 

 三人が壁や床に激突して転がる中、巨影は彼らを庇うように特級呪霊の前に立ち塞がった。

 

キャハハッ!

 

 特級呪霊が不気味に嗤う。

 その直後、鋭い爪が巨影の身体を容赦なく襲った。

 

 ズバァッ! シュパンッ!!

 

 特級目掛けて振るわれた巨影の腕が飛び、胴体が両断され、頭部が縦に割られる。

 

 もしこれが全が使役する()()()()()()であったなら、その圧倒的な膂力とタフネスで真っ向から渡り合えたかもしれない。

 しかし、これはあくまで恵の『操影呪法』によって作り出された形だけの虚影に過ぎない。その動きの練度も、強度も、本物には遠く及ばない。

 

 ——だが、恵の生み出した影には本物にはない強みがあった。

 

 切り刻まれ、バラバラになったはずの巨影の残骸が、即座に黒い影の泥となって融け合い、一瞬にして元の巨大な女の形へと復元したのだ。

 

 影故に、その身はいくら刻まれようとも斃れはしない!!

 

 恵が額に冷や汗を流しながら、巨影に限界まで呪力を注ぎ込む。彼からの呪力が届く限り、影は消えない。

 どれだけ切り裂かれようともその質量とプレッシャーで特級呪霊の前に立ち塞がり続ける、不倒の壁だ。

 

 再生した巨影が、長くしなやかな腕を振り回して特級呪霊に襲いかかる。

 しかし呪霊はその巨躯に似合わぬ軽やかな――まるで遊んでいるかのようなステップで、いとも容易くその一撃を躱してみせた。

 

キャハハッ、キャッキャッ!

 

 特級呪霊が子どものように無邪気な笑い声を上げながら、再び巨影の胴体をズタズタに切り裂く。

 巨影は恵の呪力を糧として即座に再生するが、相手に決定打を与えられない以上状況はジリ貧だ。

 

(持たない……! あの特級が巨影をいくら刻んでも時間の無駄だと気づく前に、早くこの場を離れなければ!)

 

 恵は額から血と冷や汗を流しながら、即座に決断を下した。

 

「釘崎! 虎杖!」

 

 恵は足元の影を広げ、床に転がっていた二人を自らの影の底へと強制的に引きずり込む。腕を切断され激痛に顔を歪めている悠仁も、痛みにうめく野薔薇も、ズブズブと音もなく影の中へと沈んでいく。

 恵自身もまた、最後に残った呪力を振り絞り、自らの影へと潜り込んだ。

 

 『影渡り』。影から影へと空間を無視して移動するこの力こそが、この絶望的な状況から脱出するための唯一の希望だ。

 通常であれば、影の中はほとんどの干渉を受け付けない安全圏のはずだった。

 

 ——しかし。

 

「……なっ!?」

 

 影の海に沈み切る寸前、恵の全身は強烈な反発力によってまるで蹴飛ばされるゴム鞠のように跳ね返された。

 

「ぐはぁッ!?」

「うわっ!」

「きゃあっ!!」

 

 次の瞬間、三人の身体は先に格納していた岡崎正の遺体もろとも影の中から吐き出されるように弾き飛ばされた。

 

「ゴホッ……! 嘘、だろ……!?」

 

 恵は床に叩きつけられた痛みに顔を歪めながら、信じられないものを見るように目を見開いた。

 影の中はある種の術式によってのみ侵入可能な特殊な空間だ。そう簡単に他者が干渉できる場所ではない。

 

(——いや。ここは、あの特級呪霊の()()()()だ)

 

 恵はギリッと奥歯を噛み締めた。

 この空間そのものがあの化け物のテリトリー。

 奴がこの領域内における空間の支配力を強め、恵の術式による空間移動を強引に弾き出したのだ。

 

キャハッ

 

 弾き出された三人のすぐ傍で。

 先ほどまで巨影と遊んでいたはずの特級呪霊が、いつの間にか音もなく立っていた。恵の呪力が影渡りを封じられた動揺に乱れたことで巨影の維持が解け、霧散してしまったのだ。

 

ヒッ……ヒヒヒッ

 

 特級呪霊は剥き出しの歯茎から涎を垂らしながら、ニタニタと口角を吊り上げて嗤っている。

 すぐに殺すことはしない。いとも簡単に殺せるだけの力と速度を持ちながら、彼らがもがき苦しむ様子をじっと観察している。

 

 ——明らかに、遊んでいる。

 

「……クソがッ……!!」

 

 退路は断たれ、身を隠す場所もない。

 

「クソッ……この距離じゃ逃げらんねえ」

 

 悠仁は切断された左腕から噴き出す血を、残った右手でベルトをキツく巻き付けて必死に止血しながら、叫んだ。

 

「俺が死んだらオマエも死ぬんだろ! それが嫌なら協力しろよ、宿儺!!」

 

 悠仁の顔の右頬に、再びあの禍々しい()が浮かび上がる。

 だが、そこから発せられたのは、悠仁の必死の懇願を嘲笑うかのような冷徹で傲慢な声だった。

 

『――断る』

 

 宿儺は地を這うような低い声で静かに言い捨てる。

 

『オマエの中にある俺の欠片が終わろうと、切り分けた魂はあと十八残っている。一つや二つ欠けようとも問題はない』

「てめぇ……ッ!」

 

 悠仁の額に青筋が浮かぶ。

 この呪いの王にとって自分たちの命など、文字通りどうでもいいゴミの一部でしかないのだ。

 

『……とはいえ』

 

 宿儺の口元が、ニィッと歪に吊り上がる。

 

『腹立たしい事に、この身体の支配権は俺にはない。……代わりたいなら代わるがいい』

 

 それは絶望的な状況下での悪魔の囁きだった。

 しかし、その誘いには最悪の代償が伴う。

 

『だが、俺が代わって表に出たその時は……まず、あの呪霊より先にその二人のガキを殺す』

 

 宿儺の言葉に、恵と野薔薇の背筋に氷のような悪寒が走る。

 特に宿儺の目は床で痛みにうずくまっている野薔薇へと向けられていた。

 

『特に、女の方は活きがいい。色々と……楽しめそうだ』

「……んな事、俺がさせねぇ」

 

 悠仁は激怒して凄んだ。

 

『だろうな』

 

 宿儺は、彼の決意を嘲笑うように嗤った。

 

『しかし……俺にばかり構っていていいのか?』

 

 その言葉の直後。

 特級呪霊の頬がまるで風船のように異様に膨れ上がった。

 

シィィィィィッ!!

 

 息を吸い込むような気味の悪い音の後、呪霊の口から、弾丸のような勢いで高密度に圧縮された『呪力の塊』が吐き出された。

 

「しまッ……!」

 

 恵が咄嗟に足元の影を操り、分厚い盾を形成して三人の前に立ちはだからせる。

 だが、その影の盾は水鉄砲で撃たれた薄紙のようにあっさりと貫通され、呪力弾は軌道をわずかに逸らしながら、彼らのすぐ横の床を完全に消し飛ばした。

 

「ガハッ……!?」

「うわぁっ!!」

 

 吹き飛んだ床の破片と爆風が三人を襲う。ただの呪力を固めて吐き出しただけの、術式ですらない純粋な呪力弾。それだけで、この破壊力。

 

 瓦礫の中で咳き込む三人を見下ろし、特級呪霊はケタケタと腹を抱えて嗤っている。

 

「……恵! 釘崎と二人でここから逃げろ!!」

 

 土煙の中で咳き込みながら、悠仁が叫んだ。

 その顔は、片腕を失った激痛と失血で青ざめていたが、瞳の奥には決して折れない決意の炎が燃えていた。

 

「二人が十分に離れたら、何か合図をくれ。……そしたら俺が、宿儺を出す……!」

「……はぁ!?」

 

 今すぐ宿儺に代われば、恵と野薔薇は宿儺に殺される。

 だから自分たちが逃げるまでの間、悠仁が一人で特級呪霊の相手をして時間を稼ぐというのだ。

 

「片腕で、特級相手に時間が稼げる訳ねぇだろ!!」

 

 悠仁の無茶苦茶な提案に、恵が血相を変えて吼えた。

 

「見ろよ」

 

 ケタケタと嗤いながらゆっくりと近づいてくる特級呪霊を、悠仁は痛みを堪えながら睨みつけた。

 

「コイツ、いつでも俺たちを殺れるのにずっと遊んでやがるだろ。……俺たちが必死に抵抗するのを、思惑に乗った上で叩き潰すのが好きなタイプだぜ」

 

 獲物が足掻けば足掻くほど、喜んで嬲りを楽しむ性格。

 だからこそ、悠仁が一人で向かっていけば即座に殺すことはせず、彼が絶望するまで痛めつけてから次を追うはずだ。

 

「ふざけんな……! アンタ一人残して、逃げられるわけないでしょ!!」

 

 野薔薇が立ち上がりながら、怒りと悲痛さの混じった声で叫んだ。出会ったばかりの同期。

 少しバカだが、真っ直ぐで良い奴だと分かってきた。そいつを一人見捨てて、自分たちだけが助かるなど、彼女の矜持が許すはずがなかった。

 

「……頼むよ」

 

 悠仁はボロボロになった顔で、ふっと薄く——寂しそうに、だがとても優しい笑みを浮かべた。

 

「このまま全員で死ぬより……俺に賭けてくれよ」

 

 その笑顔に。恵も野薔薇も、何も言えなくなってしまった。

 悠仁の提案はただ自身を犠牲にするためのものではない、針の穴を通すようでも、全員を生き残らせる策だ。

 

「…………ッ!!」

 

 恵はギリッと歯が砕けるほどに強く奥歯を噛み締めた。

 

「巨影……ッ」

 

 光球を浮かべて絞り出すように呟くと、彼の影から再び、あの巨大な女の影が這い出してくる。

 

「……せめてもの援護だ。盾くらいにはなる」

 

 恵の声は、血を吐くように震えていた。

 彼は野薔薇の腕を強引に引き、背を向けて走り出す。

 

「死ぬな」

 

 恵の短い別れの言葉。

 

「死んだら、私がぶっ殺してやるからね!!」

 

 野薔薇の涙声の怒号。

 

 二人の背中が薄暗い廊下の奥へと遠ざかっていくのを見送り、悠仁は残った右手でしっかりと拳を握り直した。

 仲間たちの足音が完全に聞こえなくなったのを確認し、悠仁はゆっくりと前を向いた。

 

「……さて。律儀に待っててくれた訳だけど」

 

 そこには、悠仁が仲間と別れを告げる間、まるで面白いショーでも見物するようにニヤニヤと静観していた特級呪霊の姿があった。

 

「オマエ、相当性格悪いだろ」

 

 彼は残った右手で口元の血を拭い、虚勢を張ってニッと不敵に笑ってみせた。

 

 ——そして。

 

うおおおおっ!!

 

 爆発的な脚力で地を蹴り、呪霊の懐へと猛然と飛び込む。

 恵が残した巨影もまた、その意志に呼応するように巨躯を揺らして悠仁の背後から襲い掛かる。

 

(呪力操作がイマイチな俺じゃそもそもコイツにまともなダメージは入らねえ。隙を作って影のねーちゃんに殴らせるとか……とにかく、一秒でも長く時間を稼——!)

 

 悠仁の思考が、そこまで至った瞬間だった。

 

 ——ガッ!!

 

 肉薄しようとした悠仁の身体が、突如として見えない「壁」に激突した。

 

 ——いや、壁ではない。

 特級呪霊がゆっくりと両手を横に広げた瞬間、呪霊を中心にして見えない『何か』が爆発的に拡散し、悠仁と巨影の身体を紙屑のように弾き飛ばしたのだ。

 

「あ゙っ……が……っ!」

 

 悠仁の身体はそのまま宙を舞い、背後の分厚いコンクリートの壁にめり込むほど強かに叩きつけられた。

 肺から空気が根こそぎ吐き出され、視界がチカチカと明滅する。

 

(なんだ、今の……!? バリアみたいな何かに、弾き飛ばされた……?)

 

 全身の骨が悲鳴を上げる中、悠仁は困惑する頭を必死に回して敵の攻撃を理解しようと試みるが、その思考は視界の上端に逆さまに降りてきた呪霊の顔が映った瞬間、恐怖に凍りついた。

 

キャハッ

 

 特級呪霊は壁にめり込んだ悠仁の真上の天井に張り付き、見下ろすようにして嗤っていた。

 次の瞬間、呪霊の太い腕が壁ごと悠仁をぶち抜く勢いで振り下ろされた。

 

 ドゴォォォォンッ!!

 

 壁が粉々に崩れ去り、悠仁の身体はそのまま反対側の空間——配管が剥き出しになった下の階のフロアへと叩き落とされた。

 

「ゲハッ……!」

 

 血を吐きながらも、悠仁は超人的な反射神経でなんとか受け身を取り、即座に体勢を立て直す。

 その正面に、同じく下の階へと降り立った特級呪霊が立っていた。

 

 巨影がプログラムされた防衛本能に従い特級呪霊の背後から巨大な拳を振り下ろすが、呪霊はそれを歯牙にもかけず、ただ片腕を払うだけでその半身を吹き飛ばしてしまった。

 影はすぐに再生しようと蠢くが、その隙を突いて呪霊は悠仁へと向き直った。

 

シィィィィィ……

 

 特級呪霊が、先ほど彼らを吹き飛ばした呪力の衝撃を放つ構えをとる。

 両腕をクロスさせ、その中心に高密度の呪力を圧縮し始めた。

 

(……躱せ、ない!)

 

 盾である巨影は排除され、逃げ場もない。悠仁は、切断された左腕の傷を庇いながら、残った右腕を顔の前に出し、少しでも急所を守るための盾とした。

 

 ズバァァァァンッ!!!!

 

 呪力の奔流が、至近距離から悠仁を飲み込んだ。

 

あ゙ぁぁぁああああっ!!!!

 

 悠仁の咆哮が響き渡る。

 呪力の衝撃に触れた右腕が、グラインダーにかけられるように触れるそばからゴリゴリと削られていく。

 想像を絶する激痛が、全身の神経を焼き焦がすように駆け巡る。

 

(いだいいだい!! やだ、死にたくない……っ!! なんで、なんで俺がこんな目にっ!)

 

 激痛の中、痩せ我慢で無理やり封じ込めていた十六歳の少年としての弱音と泣き言が、堰を切ったように漏れ出した。

 

 祖父の遺言に縛られ、自分は強いのだと信じ込もうとしていた。人を助けなければならないと、その信念だけでここまで突き進んできた。

 

 だが、今頭の中を占めているのはただ純粋な痛みと、どうしようもない『死への恐怖』だけだった。

 

(俺は……こんなに、弱かったのか……)

 

 呪力の奔流に吹き飛ばされ、宙を舞う中で。

 虎杖悠仁は生まれて初めて、自分自身の圧倒的な()()と直面していた。

 自分が無力で、ちっぽけで、この理不尽な世界においてはただの無力な子供に過ぎないのだという事実を。

 

 

***

 

 

「ハァッ……ハァッ……!」

 

 恵と野薔薇は、いびつに歪んだ迷宮のような配管の廊下を、息を切らして駆け抜けていた。

 後ろ髪を引かれるような罪悪感を無理やり振り払い、二人は前へ、ただ前へと走る。

 

「ねえ、ちょっと!」

 

 走りながら、野薔薇が険しい顔で恵に問いかけた。

 

「さっきの口ぶりからして、虎杖のやつが飲み込んだっていう呪物……『両面宿儺』なのよね!?」

「……ああ」

 

「それなら、いくら特級呪霊が相手だろうがどうにかなるだろうけど……ホントに、元の虎杖に戻ってこられるの!?」

 

 野薔薇の懸念はもっともだった。

 かの呪いの王ならば、特級呪霊ごとき瞬殺できるだろう。だが、その後で再び悠仁が主導権を取り戻せなければ、よりたちの悪い大惨事になる。

 

「……一応、実績はある」

 

 恵は前を見据えたまま、重苦しい声で答えた。

 

「受肉した時は、ちゃんとアイツの意志で宿儺を押さえ込んで戻ってきた。……だが、保証はできない」

 

 恵は奥歯を噛み締める。

 

「死ぬ前に代われたとして……今回は、心身ともに限界な状態からの交代になる。あの激痛と恐怖の中で精神がすり減った状態で宿儺の意志を押さえ込めるかは……わからん」

 

 悠仁の心が折れ、宿儺に完全に主導権を奪われてしまったら。

 禪院全に解剖されたくないと死に物狂いで面接を通ったあのバカな同級生は、もう二度と帰ってこない。

 

「だから俺たちが脱出できたら……すぐに伊地知さんに連絡して、避難範囲を広げさせる。そして、可能なら緊急事態として出張中の五条先生を呼び戻してもらおう」

「五条先生を?」

 

「ああ。あの人なら、なりふり構わず全力で移動すれば被害が大きく広がる前に帰ってこれるはずだ」

 

 恵は額に滲む汗を拭うことなく、祈るように呟いた。

 

「それ以前に、虎杖が無事に宿儺を押さえ込んでくれればいいんだが…………!!」

 

 その言葉の直後。二人の視界の先、薄暗い配管の向こうに、周囲よりも明らかに呪力の密度が薄く、空間が歪んでいる結界の綻びを発見した。

 

「アレだ……!」

 

 これで生得領域の外へ出られる。

 恵は遠く離れた場所で悠仁を庇って戦っているはずの『巨影』へと、術式を通して思念を送った。

 

「……よし」

 

 恵は結界の綻びへ向けて駆けながら、ギリッと歯を食いしばって呟いた。

 

「これで、虎杖に合図は伝わったはずだ。……あいつがまだ、生きていればだが」

「ちょっと、不吉な事言わないでよ!」

 

 野薔薇が顔をしかめて金槌を握り直す。

 

「というかさ、後詰めで来る予定の『禪院家の祓除人員』ってのはどうなの? 虎杖が宿儺を抑えきれなかった場合、そいつらで対抗できたりしないわけ?」

 

「……当主様が自ら来れば、間違いなく宿儺を押さえ込める。あとは炳の連中でも何人かいればワンチャンなくもないだろうが……」

 

 恵は、走りながら顔を険しくした。

 

「ただ、この任務の初めに伊地知さんが『実験戦力』と言っていたのがどうにも引っかかる」

「実験戦力?」

 

「ああ。もしかしたら……()()が来るのかもしれない」

「あ? アレって何よ――」

 

 野薔薇が尋ねようとした、その時だった。

 

 ——ズドォンッ!!

 

 彼らが目指していた結界の綻びが、突如として()()から凄まじい衝撃とともに爆破され、巨大な穴が開いたのだ。

 瓦礫が吹き飛び、外の薄暗い雨雲と、じめっとした空気が流れ込んでくる。

 

 そして、その穴の向こうに立っていたのは——。

 

「…………ッ!?」

 

 野薔薇は息を呑み、思わず後ずさった。

 そこにいたのは特級呪霊に勝るとも劣らない、おぞましい異形の怪物だった。

 

 頭部の上半分がなく、剥き出しになった巨大な脳髄と、その脳に直接張り付くようにギョロリと動く不気味な目玉。

 剥き出しの歯茎と頑強な顎。そして、異常なまでに筋骨隆々で、パンパンに膨れ上がった黒い肉体。

 

 その怪物は下半身に黒い袴のみを身に着け、ズシンと重い足取りで結界の穴を跨いで立っていた。

 

「げっ……! こんな時に外から新手!?」

 

 野薔薇が金槌を構え、顔面を蒼白にする。

 

「い、伊地知さん……! 外で待機してた伊地知さんたちはどうなったの!?」

 

 これほどの化け物が外にいるなら、待機していた補助監督たちが無事であるはずがない。

 最悪の事態を想像して野薔薇が叫ぶと、恵は「はぁ……」と、安堵とひどく複雑な感情が入り混じったような、深いため息をついた。

 

「……そう思うのは当然だし、俺もこういうところは身内ながらホントどうかと思うんだが」

「えっ?」

 

 恵は構えを解いて肩の力を抜いた。

 

「それが、禪院家の()()()()だ。……まさかとは思っていたが、調整が終わったらしい」

「……はあ!?」

 

 野薔薇が目をひん剥いて、恵と怪物を交互に見比べる。

 するとその異形の怪物の背後から、着物を着た禪院家の呪具・呪骸開発班とおぼしき人間たちが数人、ぞろぞろと顔を出した。

 伊地知たち補助監督も、彼らの後ろで青ざめた顔をして無事に立っているのが見える。

 

嵌合魂魄呪骸(かんごうこんぱくじゅがい)陸號(ろくごう)無心器(むしんき)

 

 彼はその怪物の正式名称を重苦しく口にした。

 

「識別名――『惱无(のうむ)』」

 

 呪詛師を資源として解体し、その肉体と魂を継ぎ接ぎにして創り上げられた、倫理の欠片もない禪院家の最新呪術兵器。

 全の「悪趣味な玩具」の最たるものであるその姿に、恵は忌々しげに目を細めた。

 

「最高に趣味の悪い、大戦力だ」




野薔薇「こんな脳味噌剥き出しの化け物が味方枠ってマジ? どう見ても悪の組織の怪人か何かでしょ……」
恵「気持ちは凄くわかる」

■ 少年院任務
原作と違い一年生組は避難誘導+万が一のための待機要員でしかない。
宿舎の大きさや構造を判断材料に、パッと入って呪力強化含むフィジカルで、最悪術式使ってまとめて運搬すればなんとかなると判断したものの、内部は生得領域に飲まれており……と行った流れ。

上層部「宿儺の器の謀殺? するわけ無いだろう、禪院全の玩具を……!」
どこぞの誰か「だからこの盤面整えるのすごい綱渡りだったんだよね」

■ 操影呪法・影渡り
「術者の影」という入り口を介して通常の影の中にまで侵入可能。
影の世界は地面に落ちた影を水面として、その下に広がる広大な影の海を移動することができる。呼吸はできるし基本安全。
孤立した影からも近くの別の影へと渡ることは可能だが、その物理的距離が離れているほど消費される呪力が増すため多用はできないが、物理的な障壁を一切無視して移動できる。
繋がっている一定サイズ以上の全ての影を消されると即座に外にはじき出される。
結界などで区切られている場合はその先へ行くことはできない。

■ 嵌合魂魄呪骸・陸號:無心器『惱无』
複数の魂と魄を禪院全自ら術式によって撚り合わせて製造した『生体呪骸』。
全が『当主やっぱヤバイわ……』と一族内の比較的まともな連中をドン引きさせる最大の要因となっている程度には人の心が無い代物。つ よ い。
初期型は夜蛾正道の作る「完全自立型人工呪骸」を真似て、かつ素材をより呪力を帯びやすい呪詛師(じんたい)由来の素材で作っていただけの単純なものだったらしい。
なお、脳無ほど量産の効く代物でもない模様。

と言う訳で、脳無もとい惱无登場です。惱は悩の旧字体、无は無の異字体。
第一章の段階では登場の予定は無かったんですが、感想欄でよく名前が挙げられ、どういうふうに物語へ組み込むかを妄想した結果、ガッチリ組み込む事に。

嵌合魂魄呪骸・陸號:無心器『惱无』の字面かっこよくないですか?(自賛)
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