禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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いいんだよ。俺のほうこそ、救助続けたいとか我儘言ってごめんな……



32.呪胎戴天-心穿つ決断

「……ヤツなら、戻らんぞ」

 

 両面宿儺は片膝をついたまま、視線を目の前の異形——惱无から逸らすことなく、深い笑みを浮かべてそう言い放った。

 

 その言葉に、禪院恵釘﨑野薔薇の息が止まる。

 

「何の縛りもなく俺を利用したツケだな。……俺と代わるのに、酷く手こずっているらしい」

 

 宿儺はクックッと喉を鳴らし、愉悦に満ちた表情で自らの身体を見下ろした。

 死の恐怖と絶望に苛まれ、精神の限界を迎えていた虎杖悠仁の魂は今、自らの奥深くで「呪いの王」の強大な意志に押さえ込まれて水面へと浮上できずに藻掻いているのだ。

 

「実に好都合だ。……これで、しばらくは俺の好きにできる」

 

 宿儺の宣告は、恵たちの希望を無惨に打ち砕くものであった。

 だが、その最悪の状況下にあってなお、壁の穴から現れた惱无はすぐに宿儺に襲い掛かったりはしない。

 

 ただ悠然と立ち、ギョロリとした単眼で宿儺をジッと見下ろしている。

 それは紛れもない、圧倒的な()()()()()()()()であった。

 

 しかし、それだけではない。

 この生体兵器の脳髄に組み込まれた、優秀かつ冷徹な命令遂行プログラムが、今の状況において「最適な行動」を計算し導き出していたのだ。

 

 惱无は直前に恵から下された『虎杖を頼む』という命令の裏にある、恵の「()()()()()()()()()」という意思を正確に読み取っていた。

 さらには、呪具・呪骸班により事前に入力されていた“宿儺の器”としての虎杖悠仁の特性。そして、今の宿儺自身の口振り。

 それらを統合して惱无が選択した戦術は、無闇に攻撃して器ごと破壊することではなく——。

 

 被害を最小限に抑えつつ遅延戦術を取り、宿儺の意志が再び虎杖悠仁に抑え込まれるまでの時間稼ぎをすることであった。

 

「ククッ……」

 

 宿儺はその惱无の沈黙と意図を察し、喉の奥で嗤う。

 

「この傀儡の出来は、恐ろしい程のものだな」

 

 それは明確な賞賛の言葉だった。

 

 現在()()()()の力を有している両面宿儺。

 その自分を相手にして一歩も引かないどころか、先ほどのように力で優位に立ち回れるだけの規格外の戦闘能力。

 そして何より、この醜悪で知性など欠片もなさそうな見た目に反し状況を的確に分析し最適解を導き出す、あまりにも優秀な思考回路。

 

「これを作ったのは、余程の外道らしい」

 

 宿儺はあの日自身の魂に触れてきたあの男——禪院全の顔を思い浮かべ、心底嬉しそうに底意地悪く嗤った。

 

 ——千年の時を経て、呪術というものはかくもおぞましく、かくも冒涜的に進化したのかと。

 

「……さて」

 

 宿儺の瞳が、スッと細められた。

 

「いくら手こずっていようと、小僧の意識が浮上してくるのも時間の問題だ。……ここで半端に終わっては、興醒めというもの。故に——」

 

 宿儺はゆっくりと立ち上がり、悠仁が着ていた高専の制服の上着を、邪魔だとばかりに乱暴に引き裂いた。

 露わにされる、鍛え抜かれた少年の胸板。

 

 そこに、宿儺は自らの右手の爪を、容赦なく深く突き立てた。

 

「なっ……!?」

「虎杖ッ!!」

 

 恵と野薔薇が悲鳴を上げる。

 ぞぶり、という悍ましい音とともに、宿儺の腕が悠仁の胸の奥深くまで沈み込み。

 

 ズグッ——ブチ、ブチブチ

 

 引き抜かれた宿儺の手の中には、ドクドクと赤黒く脈打つソフトボール大の肉塊——()()()()()()()が握られていた。

 

「俺はこんなもの無くとも生きていけるが……」

 

 宿儺は手の中で生々しく脈打つ少年の命の源を見下ろし、邪悪な笑みを深めた。

 

「小僧は、そうもいくまい?」

 

 ポイッ、と。宿儺は、まるでただのゴミでも捨てるかのように、その心臓を廊下の床へと打ち捨てた。

 

「さらに、駄目押しだ」

 

 ベチャッ、という無惨な音を立てて血溜まりの中に転がる心臓を見て絶望に固まる恵たちを嘲笑うように、宿儺は懐から先ほど特級呪霊の残骸から掠め取っていたもう一本の()()宿()()()()を取り出した。

 

宿儺の指……!? 特級が取り込んでいたのか!!)

 

 そしてそれを自身の口へと放り込んでゴクリと飲み込むと、心臓を抜き取った影響で口の端から溢れてきた血を指先で拭う。

 

「……さてと。晴れて自由の身だ」

 

 三本目の指を取り込んだ宿儺は、己の胸にぽっかりと開いた血まみれの風穴を晒しながら、心地よさそうに笑った。

 

 ——心臓を抉り出されたこの状態では、悠仁が表に出てきた瞬間に速やかな死を迎える。つまり、少年の命そのものを人質にとり、宿儺は実質的にこの肉体を完全に掌握したのだ。

 

「……虎杖は、戻ってくる」

 

 その絶望的な宣告に対し、恵はギリッと奥歯を噛み締めて血の滲むような声で言い放った。

 

「たとえ自分が死ぬとしても、お前が表に出て死を振りまくよりは、自分が死んだ方がマシだと考える。……あいつは、そういう奴だ」

 

 まだそこまで多くの時間を共にしてはいない。

 それでも、恵には虎杖悠仁という人間の本質が分かっていた。理不尽な死から他人を救うためなら躊躇なく死地に飛び込める、不器用で真っ直ぐな善人。

 アイツなら、自分の命と引き換えにしても必ず宿儺を檻に押し込めに戻ってくる。

 

「……買い被り過ぎだな」

 

 しかし、宿儺は恵の言葉を鼻で笑い飛ばした。

 

「コイツは他の人間より多少頑丈故に、死に対する恐怖が鈍いだけだ」

 

 宿儺の四つの目が、嘲るように細められる。

 

「先刻もな……特級呪霊に吹き飛ばされ、今際の際に立たされた時。死の恐怖に怯えに怯え、ゴチャゴチャと見苦しい御託を並べて泣き喚いていたぞ。自惚れていた、死にたくないとな」

 

 宿儺の口から暴露された、極限状態での少年の弱音。

 その言葉に、恵も野薔薇もハッとして息を呑んだ。

 

「断言する。奴に、己から自死を選ぶ度胸などない」

 

 絶対的な自信に満ちた宿儺の宣告。

 その言葉が事実であれ嘘であれ、今の状況が最悪であることに変わりはない。

 だが、恵の思考は絶望に沈むことなく、極限状態の中で冷徹に回転を続けていた。

 

(……切断されたはずの手首が、完全に治っている)

 

 恵の鋭い観察眼が、宿儺の左腕の状態を捉えていた。

 特級呪霊に切り落とされたはずの手首が、痕跡すらなく元通りに再生している。つまり、この呪いの王はそれだけ高度な反転術式を容易く扱えるという証左だ。

 

(宿儺は受肉体の心臓なしでも生きていられるとはいえ……呪力の循環や肉体のパフォーマンスにおいて、万全ではないはずだ)

 

 恵の脳裏に一つの策が浮かぶ。

 ただただ悠仁が戻るのを待つのではない。彼が戻る前に、宿儺に自らの意志で()()()()()()()のだ。

 

(心臓を欠いた状態のままでは、目の前の敵に負ける――そう思わせればいい!)

 

 あのバカな同級生を取り戻す。恵は顔を上げ、血の滲む拳を強く握りしめた。

 

「惱无」

 

 彼は低く、決意の込もった声で目の前に立つ異形の兵器の名を呼んだ。

 

「第二の命令だ。……心臓無しでは、逆立ちしても勝てないと。アイツに思い知らせてやれ」

 

 ——オォォォォォォォォォォッ!!!!

 

 禪院の血族からの新たな命令……すなわち、両面宿儺を叩きのめせという指示。

 

 これまで器への影響を考慮し行っていた手加減を緩め、反転術式を使わせるまで徹底的に追い詰める。

 惱无は天を仰ぎ、建物を揺るがすほどの凄まじい咆哮をもって応え——次の瞬間、その黒く膨れ上がった巨体が、まさに砲弾のような速度で宿儺めがけて突進した。

 

「ハッ」

 

 宿儺は楽しげに嗤い、迫り来る惱无の丸太のような豪腕を己の拳で真っ向から迎え撃った。

 指三本分の呪力を乗せた、呪いの王の一撃。

 

 ——ドゴォォォォォンッ!!!!

 

 二つの理不尽な暴力が正面から激突し、凄まじい衝撃波が廊下を吹き荒れた。

 だが、その力比べの結末はほんの一瞬で決した。

 

「……チッ」

 

 宿儺の身体が抗う間もなく後方へと弾き飛ばされたのだ。

 三本分の指と心臓を欠いた不完全な肉体での呪力出力では、禪院全が狂気と複数の魂を注ぎ込んで創り上げた最新鋭の呪術兵器の純粋なパワーと拮抗することはできなかった。

 

 弾き飛ばされた宿儺の身体はそのまま少年院の分厚い外壁を突き破り、雨の降りしきる外の運動場へと放り出された。

 瓦礫が舞い、冷たい雨粒が降り注ぐ中、宿儺は大きなダメージを負うこともなく空中で身を翻して軽やかに着地してみせた。

 

「……フッ」

 

 宿儺は雨に濡れた悠仁の髪を鬱陶しそうにかきあげ、壁にぽっかりと開いた大穴の奥——そこから飛び出してこようとしている惱无の姿を、面白そうに見据えた。

 

 ——オォォォォォォォォォッ!!!!

 

 雨を切り裂き、咆哮と共に惱无が宿儺の懐へと猛然と肉薄する。コンクリートを砕きながら迫るその圧倒的な質量と速度に対し、宿儺は全く動じることなくただ冷徹に右手をかざした。

 

(かい)

 

 静かな呟きと共に、目に見えない絶対的な斬撃の嵐が惱无の巨体へと殺到した。

 呪力で守られた並の術師や呪霊であろうと、一瞬で微塵切りにされるほどの威力を誇る。

 

 ザシュッ! ズババッ!!

 

 無数の斬撃が惱无の分厚い筋肉を捉え、黒い血飛沫が雨の中に舞い散った。

 ——だが。

 

(……やはり、硬いな)

 

 宿儺の目が微かに細められた。

 直撃を受けたはずの惱无の歩みは、ただの一歩も止まらない。

 斬撃は確かにその肉を裂いたが骨の髄まで断ち切るには至らず、どれもごく浅い傷に留まっていたのだ。

 

 ——それだけではない。

 惱无の身体に刻まれた無数の傷口で肉芽が蠢き、瞬く間に塞がっていく。

 

(それに……あの治癒、反転術式ではないな。治癒能力そのものが術式か?)

 

 宿儺の眼がその異常な再生能力の本質を即座に見抜いた。

 反転術式は負の呪力を掛け合わせて正の呪力を生み出すという、極めて高度で燃費の悪い技術だ。いかに呪力総量が多かろうと使い続ければすぐに底が見える。

 

 しかしあれが反転術式ではなく、ただ呪力を流し込むだけで発動する()()()()()()()()なのだとしたら。その燃費の良さと継戦能力は、反転術式の比ではない。

 

「——!」

 

 宿儺がその厄介な性質を分析していた隙を突くように、背後の雨のカーテンを裂いて漆黒の巨影が音もなく顕現し、丸太のように肥大化させた両腕で宿儺の死角から襲い掛かってきた。

 

「鬱陶しいな」

 

 宿儺は振り返りもせず、背後へ向けて指先を振るった。見えざる斬撃が巨影の腕を切り飛ばし、胴体を十字に両断する。

 

 ——しかし。

 切り刻まれたはずの影は先程のように霧散することなく、即座にドロリと黒い泥のように融け合い、元の巨体の姿へと瞬時に復元した。

 

(……チッ。主たるあの小僧が近くにいる分、呪力の供給速度が先程とは段違いというわけか)

 

 大穴の開いた壁の奥。

 そこから巨影に呪力を注ぎ込んでいる禪院恵の気配。

 巨影への対処に宿儺の意識がほんの僅かに——コンマ数秒だけそちらへと逸れた、その一瞬の隙。惱无の搭載された戦闘システムがそれを見逃すはずがなかった。

 

 ——ドゴォォォォンッ!!!!

 

「…………ッッ!?」

 

 宿儺の視界が、急激に上へと跳ね上がった。

 死角から潜り込んだ惱无の強烈な蹴撃が宿儺の顎を正確に捉え、その身体を雨の降る空高くへと蹴り上げたのだ。

 

 ドッ!!

 さらに惱无は、空中に打ち上げられ無防備となった宿儺に追撃をかけるべく、大地を爆発的に踏み砕いて跳躍した。

 雨粒を置き去りにする速度で、宿儺の目前へと肉薄してくる黒い異形。

 

(やはりこれは——良い傀儡だ……!!)

 

 空中で体勢を崩されながらも、宿儺の顔には焦りどころか狂気的な歓喜の笑みが浮かんでいた。

 

 

 

「ちょっ、どうすんの!? アイツら、完全にブッ飛んで行っちゃったけど!!」

 

 少年院の破壊された壁から吹き込む雨風の中、野薔薇は頭上の鉛色の空を仰ぎ見て叫んだ。

 視線の先では、千年の呪いの王と禪院家の誇る最新鋭の生体兵器が常識を嘲笑うような速度と暴力で激突しながら遥か上空へとカチ上がっていくのが見えた。

 

 だが彼女は、ただ呆然と空を見上げていたわけではない。

 野薔薇の左手からは微かな呪力が放たれ、その指先の動きに連動するように血溜まりの中に無惨に転がっていたソフトボール大の肉塊がフワリと宙に浮かび上がる。

 

 ——それは紛れもなく、先ほど両面宿儺によって抉り出された虎杖悠仁の心臓である。

 普通なら女子高生が悲鳴を上げて卒倒するようなグロテスクな代物だが、彼女は一切の躊躇いも嫌悪も見せず、引き寄せた血まみれの心臓を大切に、そして強引に自身のポーチへと押し込んだ。

 

「もちろん、追う」

 

 野薔薇の言葉に応じるように恵は短く、だが確固たる意志を込めて答えた。

 彼が宿儺の斬撃で切り飛ばされていた巨影への呪力供給を断ち切ると、ズルリと巨大な女の影が形を失い、恵の足元へと還元されていく。

 

 巨影は防壁としては強力だが、あの規格外の空中戦と高速機動に追従するには向かない。それにここから先はただの暴力ではなく、高速で暴れ回る怪物たちを追い回すだけの機動力が求められる。

 

「ハァッ……!」

 

 恵は荒い息を吐きながら、頭上に浮かぶ『光球』の出力を限界まで引き上げた。

 白く強烈な光が雨粒を照らし出し、それと反比例するように、恵の足元に落ちる影が異常なまでに広く、大きく、そして底なしの漆黒へと濃くなっていく。

 

 両手で複雑な印を結び、激痛が走る身体から枯渇しそうな呪力を絞り出す。

 

操影呪法:拡張術式・影法師——影鰐(かげわに)……ッ!!

 

 その言霊が響いた瞬間、恵の足元に広がっていた影が、まるで意思を持った墨汁のように地面を這って変形し始めた。

 

 しかし、先ほどの巨影のように立体的に隆起して立ち上がることはない。

 地面に完全に張り付いた平面のまま、それは大きく左右に裂けるような巨大な「口」を持つ、深海魚とも蟲ともつかない禍々しい怪物のシルエットを形成した。

 二次元の怪物は音もなく口をあんぐりと開け、主を迎え入れるように待機する。

 

 恵は一切の躊躇なく、その立体感の欠片もない平面の影——得体の知れない暗黒の泥沼のような怪物の口へと、自らの身体をズブズブと沈み込ませていった。

 

「行くぞ、入れ」

 

 影の中から半身だけを出した恵が、野薔薇へ向けて手を伸ばす。

 足元の地面が怪物の形をした底なし沼と化し、人間がそこに飲み込まれていくというはたから見ればおどろおどろしいホラー映画のような光景。

 

「……アンタの術式、ホント薄気味悪いわね!」

 

 だが、野薔薇は不敵な笑みを浮かべ、ポーチの中の仲間の心臓を軽く手で叩くと、迷うことなく恵の差し出した手をガシッと掴んだ。

 そのまま、一切の恐怖を見せずに黒い影の怪物の中へと豪快に飛び込む。

 

 二人の身体が完全に影の底へと溶け込むと同時に、平面の怪物『影鰐』は、雨に濡れたコンクリートの床を滑るようにして動き出した。

 それは海を泳ぐサメの影のように、あるいは地を這う大蛇のように。

 物理的な障害物も瓦礫もすべてすり抜け、影鰐は圧倒的な速度で地面を這い、遥か前方で衝突を繰り返す宿儺と惱无の莫大な呪力の残滓を追って、音もなく滑走していく。

 

 

***

 

 

 ――ザアアアアッ!!

 

 土砂降りの雨を薙ぎ払い、西東京の空に大小二つの影が激しく交差していた。

 

「シィッ!」

 

 空中で身を翻した宿儺が、指先から見えざる斬撃の網——『解』の乱れ打ちを放つ。

 だが、惱无の黒く膨れ上がった巨体は、空中に足場がないにも関わらず、背中や足裏から爆発的に呪力を噴射し、まるでジェット機のように凄まじい速度で空を翔けた。

 直撃コースの斬撃を強引な軌道変更で躱し、避けきれないものは分厚い筋肉で平然と受け止めながら、惱无は宿儺の死角へと瞬時に回り込む。

 

オォォッ!!

 

 そして、剝き出しの脳髄を揺らしながら放たれた、丸太のような右の剛腕。

 宿儺は即座に両腕をクロスしてガードを固めたが、その打撃が触れた瞬間、想像を絶する事態が起こった。

 

 ――バヂィィィィッ!!!!

 

「がッ……!?」

 

 打撃の物理的衝撃に加えて、青白い高圧電流が宿儺の身体を激しく駆け巡ったのだ。

 肉を焦がし、神経を麻痺させようとする暴力的な雷撃。

 これは『呪力特性』によるそれではない。これまで受けてきたそれはそんな性質をしていない。ならば、考えられることは一つ。

 

 吹き飛ばされそうになる体勢を空中で無理やり立て直しながら、宿儺は四つの眼を鋭く細めた。

 

(斬撃を受けても瞬時に肉体を修復する『超再生』に加えて、打撃に乗せて放つ『帯電』の術式。……()()()()二つ、か)

 

 一つの肉体に複数の術式を宿す。本来であれば脳が焼き切れ、自滅しかねないの理外の産物を、この継ぎ接ぎの怪物はそれを平然とやってのけている。

 

(いや、それだけではないな)

 

 宿儺の直感が、さらに深いおぞましさを感知していた。

 先ほど看破した通り、この呪骸の内部には四つの魂が押し込められている。

 三つが動力炉であり、一つが制御装置。

 

 ならば、その四つの魂の全てが()()()()()()()()()()()()()()()()()()と考えるのが自然だ。

 当たり前のようにいくつもの術式を同時に、あるいは流れるように切り替えて駆使し、千年の呪いの王を空中戦で完全に翻弄しているのだから。

 

 ヒュパッ!

 

 雨のカーテンを切り裂くような微かな風切り音。

 宿儺が反応するよりも早く、空中に留まっていた惱无の指先から散らばるように射出された極細の()()()()たちが、宿儺の周囲を包囲するように拡がる。

 

 そして宿儺を逃さずに捕らえ、その五体を四方八方から縛り上げた。

 

「これは……!」

 

 三つ目の術式――『呪糸』の展開。

 そしてその糸を伝い、先ほど以上の強烈な電撃がビリビリと宿儺の全身へと流し込まれる。

 

ぎ、ガ……ッ!

 

 シンプルながら、的確な術式の嵌合。

 拘束と同時に電流を流し込まれて動きを封じられた宿儺を、惱无は空中でハンマー投げのように大きく振り回した。

 

オォォォオオオオオ————ッ!!

 

 そして遠心力が最大に達した瞬間、糸を解除して力任せに放り投げる。

 

 ブォォォォンッ!!

 

 弾丸のように吹き飛ばされた宿儺の身体は、直線上にある高層マンションの中層部へと激突した。

 コンクリートの外壁を粉砕して居住空間を突き破り、幾つもの階層を斜めに貫通してブチ抜きながら、最後はアスファルトの路面へと激しく叩きつけられた。

 

 ドガシャァァァァンッ!!!!

 

 巨大なクレーターができ、もうもうと土煙が上がる。

 雨に濡れた道路のど真ん中、宿儺は全身から血を流して大の字に横たわっていた。

 

 術式、膂力、敏捷性。

 

 ——そして、それらを組み合わせる戦闘の()()()

 この恐るべき最新鋭の呪術傀儡は、心臓を欠き指三本分の出力しか出せない現状の宿儺をすべてにおいて遥かに上回る文字通りの怪物であった。

 

「ぐ、ケホッ……かはッ!

 

 瓦礫の中で宿儺は赤黒い血の塊を吐き出した。

 全身の骨が軋み、肉体が悲鳴を上げている。——だが、その顔には。

 

「……ケヒッ、クハハッ!!

 

 痛みを堪えるような表情など微塵もなく、ただただ底知れぬ狂気と歓喜に満ちた嗤い声が漏れ出していた。

 

 ——面白い。実におぞましく、実に素晴らしい玩具だ。

 血まみれの顔で嗤いながら、宿儺は夜空から降下してくる惱无の巨体を見上げる。

 

(さて。この怪物との闘争を本当の意味で愉しむならば……)

 

 宿儺は己の魂の底で、失われた力を逆算する。

 

(最低でもあと五本……いや、八本は指を取り込む必要がある。否、術式が他にもあるならそれでも、不足があるかもしれんな? だが、それもいい)

 

 圧倒的な劣勢。しかし、呪いの王は決して絶望などしていなかった。

 ただ、この狂った時代の産物をどう味わってやろうと、凄惨な笑みを深めるばかりであった。

 

 

 雨がアスファルトを叩く音だけが響く中、土煙の晴れたクレーターの縁に、不自然に濃く、蠢く()が音もなく広がり。

 

 ズズッ……。

 その暗黒の沼から恵と野薔薇の二人が、水面から浮上するように現れる。

 

「――宿儺」

 

 恵は血反吐を吐きながらクレーターの底に横たわる呪いの王を、遠巻きに見下ろして静かに名を呼んだ。

 その声には怒りや恐怖を通り越した、冷徹な響きがあった。

 

「十分に暴れて、満足しただろう」

 

 恵の言葉に加え、野薔薇も金槌を構えながら鋭い視線を送る。

 圧倒的な力を持つはずの宿儺が、禪院家が派遣した兵器によって手も足も出ずに叩き伏せられている。その光景は、彼らに一時の安堵と優位性をもたらしていた。

 

「さっさと心臓を治せ。そんで、虎杖と代われ」

 

 恵が冷たく要求する。

 宿儺がここで死ねば、虎杖悠仁も死ぬ。だが、反転術式を使える宿儺が自ら心臓を治し、肉体の主導権を返せば彼は助かる。

 

 そして今の宿儺では惱无に勝てないことを身を以て理解したはずだ。これ以上意地を張る理由はない。

 

 ズウンッ……。

 その言葉の直後、遥か上空から落下してきた惱无が、二人のすぐ近くのアスファルトへと音もなく着地した。

 あれほどの高度からの落下でありながら、足元の地面を一切砕くことなく呪力で衝撃を完全に殺し切る神業。

 

 剥き出しの脳髄を雨に晒しながら、惱无は依然として宿儺への警戒を解かずに無言のまま巌のように静観している。

 主である恵の指示を待ちながら、いつでも即応できる態勢だ。

 

「……ククッ、随分と嬉しそうだな」

 

 クレーターの底で宿儺が肩を揺らして嗤った。

 

「俺を打ちのめしたのはお前たちの力ではなく、その傀儡だというのに。……他人の褌で勝者気取りか?」

「虎杖さえ戻れば、誰の勝ちだの手柄だのってのはどうでもいいからな。早く戻せ」

 

 そんな恵の言葉に、宿儺は血に濡れた身体をゆっくりと起こしふらつくことなく立ち上がった。

 

「——断る

 

 そして、己の胸に空いたぽっかりとした風穴から血を流したまま、にやりと残酷な笑みを浮かべた。

 

「……なんだと?」

 

 その短くも断固とした拒絶に、恵と野薔薇はハッと息を呑んだ。

 

はぁ!?

 

 野薔薇が顔を怒りに歪ませ、金槌を振りかぶるようにして叫んだ。

 

「アンタ馬鹿なの!? そんな心臓に穴空いたボロボロの有様で、その化け物に勝てないのはもう嫌ってほどわかったでしょ!?」

 

 勝てないなら、大人しく心臓を治して引っ込む。それが一番生存確率の高い合理的な選択であるはずだ。

 だが、宿儺は楽しそうに目の前の惱无を見つめゲラゲラと笑い声を上げた。

 

「確かに、この傀儡に今の俺では勝てんらしい。……心臓を治したとて、これだけの出力差は如何ともし難い。それは変わらんだろう」

 

 宿儺はあっさりと己の敗北を認めた。

 しかし、その瞳に敗北者の悲壮感は微塵もない。

 

「だからこそ——ここで心臓を治してお前たちを喜ばせるのも癪だ!」

「てめぇ……ッ!!」

 

 ただ意地を張って、他人の命を道連れにするだけのその身勝手極まりない理由に、恵と野薔薇の怒りが頂点に達する。

 自分たちを助けようとした悠仁の命が、こんな不条理な悪意で消費されようとしているのだ。

 

「さて」

 

 不意に、宿儺が笑うのをやめる。そして激昂する二人を完全に無視し、宿儺はゆっくりと両手を胸の前へと持ち上げた。

 

「……傀儡。貴様に、これはできるか?」

 

 ——その瞬間。

 

(……しまった!!)

 

 恵の眼が、極限まで見開かれた。

 完全に油断していた。禪院全という呪術界の理不尽が造らせた呪術兵器の最高傑作が宿儺を圧倒し、地に伏せさせていた光景を見て。

 

 ——あろうことか、あの旧き呪いの王がこのまま大人しく敗北を受け入れるなどという甘い幻想を抱き、不覚にも気が緩んでいたのだ。

 

 勝てないからといって、ただ黙って従うような存在であるはずがない。

 

 呪いの王の矜持。

 それは諸共に死のうとも、己の最大の牙を剥くという選択を躊躇わせない。

 

 宿儺の指がゆっくりと、閻魔天印を結んだ。

 惱无が反応するが、ほんの僅かに間に合わない。

 

「——領域展開

 

 恵が野薔薇の腕を強引に引っ掴み、足元に待機する影鰐へと再び身を投げ出したのは——宿儺の口から言霊が紡がれるのと全く同時であった。

 

 

 巨大な顎を開け放ったような悍ましい仏堂が、土砂降りの雨を切り裂いて夜空に顕現した。

 

 無数に散らばる水牛の頭骨。

 背後には奇怪な角や刃が乱立し、まるで地獄の祭壇そのもの。

 

 その神聖にして冒涜的な御堂を中心に——。

 

 

「——伏魔御廚子(ふくまみづし)

 

 

 ——放たれたのは、絶対的な死の嵐。

 二種類の斬撃が、半径八十メートルという広大な空間を文字通り塵になるまで蹂躙し始めた。

 

 呪力を持たない物質――アスファルト、鉄柱、コンクリートの建物には、通常の斬撃『(かい)』が。

 

 そして呪力を持つ者——禪院の兵器である『惱无』には、相手の呪力差と強度に応じて一太刀で致命傷を与えるべく最適化される必殺の斬撃『(はち)』が。

 

 伏魔御廚子が顕現している間、それらは絶え間ない暴風雨となって降り注ぎ続ける。

 

 

「な、なに、これ……!?」

 

 影の水底、影鰐の腹の中から影面越しに外の光景を見上げた野薔薇が息を呑んで絶句した。

 

 ビルが豆腐のように賽の目に切り刻まれ、ガラガラと崩れ落ちていく。

 道路が粉砕され、街灯が千切れ飛ぶ。

 

 周囲の風景が、ただの一瞬で「更地」へと還っていくのだ。

 

「……結界の()()が、無い」

 

 恵は額に冷や汗を流しながら、その光景の異常性を呪術師としての視点で的確に読み取っていた。

 

 領域展開とは本来、結界によって空間を分断し、その内側に生得領域を具現化する技術だ。

 だが、宿儺の領域にはその「壁」が存在しない。

 

(結界を閉じずに生得領域を具現化するなんて、そんな事が可能なのか……!?)

 

 それはキャンバスを用いずに空に絵を描くに等しい、まさに神業であった。

 外殻で相手を閉じ込めない、すなわち「相手に逃げ道を与える」という特大の()()

 それによって底上げされた領域の必中範囲は、指三本分という本来の六分の一にも満たない力の現状であっても、半径八十メートルにも及んでいた。

 

(……もしも、伊地知さんに避難区域の拡大を頼んでいなかったら)

 

 恵の背筋に、氷をねじ込まれたような悪寒が走った。周囲の住人たちは、逃げる間もなくこの見えざる刃の雨に巻き込まれ、皆殺しにされていたに違いない。

 

「……ッ、禪院! この影の中、なんかミシミシ言ってるんだけど!?」

 

 野薔薇が暗黒の空間の壁を叩きながら焦燥の声を上げた。

 通常の『影渡り』で潜る影の中であれば、少年院の時と同じように領域展開の術式中和効果によって問答無用で引きずり出されていただろう。

 

 だが、この拡張術式『影鰐』には、簡易領域にも似た領域対策効果が備わっている。故にこうして引き篭もっていられるのだが……それは決して攻撃に対して無敵であることを意味するわけではない。

 

 これは物理現象としての影ではなく恵の呪力によって編み出された疑似空間だ。

 外で吹き荒れる斬撃の雨は影鰐を削り、恵の呪力をゴリゴリと削り取っていた。

 

「くっ……! 黙ってろ、集中が途切れる……!」

 

 恵は両手を強く握りしめ、影鰐の維持に全呪力を注ぎ込んでいる。

 この呪力の防壁が削り切れ、崩壊すれば。二人は無防備なまま斬撃の嵐の中に放り出され、一瞬で細切れにされるだろう。

 

 そして。

 その死の豪雨のど真ん中で、ただ一人立ち続けている怪物がいた。

 

 ——ズババババババババッ!!!!

 

 無数の『捌』が、惱无の黒く膨れ上がった巨体を容赦なく刻み続ける。

 

 相手の強度に応じて一太刀で卸すはずの『捌』。

 だが、指三本分の出力では禪院家の狂気が複数の魂魄を嵌合し創り上げた最高傑作の硬度を両断するには至らない。

 

オォォォォォォォォッ!!!!

 

 斬られ、抉られ、黒い血飛沫を上げながらも、惱无は倒れない。

 傷口から瞬時に肉芽が蠢き、切り裂かれた端から凄まじい速度で再生していく。

 

(……ケヒッ! やはりすばらしく硬いな!)

 

 仏堂の前に立つ宿儺は、降りしきる斬撃の雨の中で立ち続ける怪物を心底愉快そうに眺めていた。

 

 もしこれが反転術式による回復だったなら、この絶え間ない斬撃の雨の中でとっくに呪力は底を突き、細切れになっていたはずだ。

 生得術式としての「超再生」。その異常なまでの燃費の良さとタフネスが、伏魔御廚子の猛攻にギリギリで耐え抜いているのだ。

 

「ククッ……ほら、頑張れ頑張れ」

 

 宿儺は腕を組み、嗜虐的な笑みを深めた。

 

「その継ぎ接ぎの肉体で、この領域内でどこまで無事にいられるか。……俺に魅せてみろ!」

 

 宿儺の指先が動き、斬撃の雨がさらに激しさを増す。

 

 惱无の再生速度と捌の破壊速度の拮抗。

 いくら燃費が良いとはいえ、呪力が無尽蔵に湧いてくるわけではない。斬られ続ければ、やがて回復は限界を迎えて崩壊する。

 

 恵の影の崩壊が先か。

 惱无の呪力が尽きるのが先か。

 宿儺の術式が焼き切れるのが先か。

 

 死の雨が降り注ぐ絶望の領域内で、極限の我慢比べが続いていた。

 

 ミシミシと、恵の呪力で編まれた『影鰐』の空間が悲鳴を上げている。

 

(これ以上……持たない……ッ!)

 

 恵の額からは滝のような汗が流れ落ち、呼吸は荒く乱れていた。

 

 外で吹き荒れる宿儺の領域の斬撃は、影の防壁を容赦なく削り取っていく。このまま結界が崩壊すれば自分たちは細切れにされるし、たとえ耐え切ったとしても、その前に惱无が限界を迎えるだろう。

 

 惱无が斃れれば、これ程の暴威を宿す宿儺が完全に自由となる。

 五条悟が駆けつけるまで、あるいは他の対処できる誰かと会敵するまでに、あの呪いの王がどれほど人々の血を流し、街を蹂躙するか想像もつかない。

 

 影の深海の中で、野薔薇は血の滲むような思いで唇を強く噛み締めた。

 決断しなければならない。

 

「……ごめん。虎杖」

 

 野薔薇は沈痛な面持ちで小さく呟くと、ポーチの中から一つの()()を取り出した。

 

 それはまだ微かに痙攣するように脈を打つ、虎杖悠仁の心臓。

 彼女はそれを、念動の術式で空中の目線ほどの高さにふわりと固定した。さらにそのすぐ手前に、呪力を込めた五寸釘を浮かび上がらせる。

 

「釘崎、お前……」

 

 恵が息を呑んでその光景を見つめた。

 彼女が何をしようとしているのか、彼にも痛いほどに分かっていた。

 

 この方法自体は、宿儺が悠仁の心臓を抉り出して床に投げ捨てたのを目の当たりにした時点で野薔薇の頭の片隅に浮かんでいたのだ。

 『心臓』というこれ以上ない強固なリンク。それを使えば、自らの術式で外の宿儺に対してダメージを与えることができる。

 術式効果は影鰐の結界すらも透過して対象へ必中で届く。

 

 ——しかし、それは同時に『最悪の引き金』を引く行為でもあった。

 

 魂を通じた強烈な呪力の打撃は、現在宿儺によって奥底に押し込められている虎杖悠仁の魂を、強制的に覚醒させてしまう可能性が極めて高い。

 もし宿儺が反転術式で心臓を治さないまま悠仁が主導権を取り戻してしまえば、どうなるか。

 

 心臓を欠いた悠仁は、その瞬間に確実に死ぬ。

 

 だからこそ、二人は惱无に命じて宿儺を追い詰め、彼に反転術式を使わせようと試みたのだ。

 だが宿儺が意地を張り、反転術式を拒絶して領域展開という最終手段に打って出た時点でその作戦は完全に破綻していた。

 

 このまま何もしなければ自分たちも死に、外の非術師たちも無数に巻き込まれる。伊地知の要請でやってきた術師が五条悟でなければ、それも死ぬかもしれない。

 それを止めるためには、虎杖悠仁という少年の命を天秤にかける必要があった。

 

「恨むなら、私を恨みなさいよね……ッ!」

 

 野薔薇の瞳に覚悟の光が宿る。

 震える左手で藁人形を握りしめ、心臓と釘の間へそっと添える。

 

 そして彼女は大きく金槌を振りかぶり——空中に固定した藁人形の心臓部、その先にある悠仁の心臓の形へ向けて渾身の力で打ち下ろした。

 

芻霊呪法(すうれいじゅほう)——共鳴(ともな)り!!!

 

 

 

 カンッッッ!!!!

 

 

 

 鋭い金属音が影の空間に響き渡った——その瞬間。

 

「……ッ!?」

 

 外の世界。

 無数の斬撃を降らせていた伏魔御廚子の御堂の前に立つ宿儺が、突如として大きく目を見開き、己の胸を抑えてガクリと膝をついた。

 

 心臓を抉り出し、ぽっかりと穴が空いているはずのその場所。

 本来心臓があるべきその()()で、野薔薇の撃ち込んだ呪力が強烈な杭となって内側から弾けたのだ。

 

(——これは、あの小娘の呪力……!

 

 宿儺の四つの目が驚愕に見開かれる。

 ただの打撃ではない。魂を直接貫く共鳴の呪撃。

 それがもたらした衝撃は、宿儺の魂の集中を完全に乱し、同時に彼が押さえ込んでいた『器の魂』を強烈に刺激した。

 

「ガハッ……!」

 

 宿儺の口から大量の血が吐き出され、領域の維持が解ける。

 ピシリと空間にヒビが入り、地獄の如き御堂が蜃気楼のようにブレていき。

 

 伏魔御廚子が、即座に完全崩壊した。

 雨のように降り注いでいた斬撃の嵐がピタリと止み、西東京の空に再び重い雨雲が姿を現す。

 

 ——ヒュパッ!

 

 その隙を、満身創痍の怪物が逃すはずがなかった。

 

 斬撃の雨を耐え抜き、黒い肉体から湯気のような呪力を立ち昇らせた惱无の指先から無数の呪糸が射出される。

 膝をついた宿儺の四肢を呪力の糸が幾重にも強固に拘束し、その身体をその場に縫い付けた。

 

「ハァッ……ハァッ……」

 

 伏魔御廚子が崩壊したのを確認し、恵はすぐに影鰐の術式を解いた。

 ドロリと黒い影が溶け、雨の降るアスファルトの上に恵と野薔薇が吐き出される。

 二人は息を切らしながら、惱无の糸によって拘束された宿儺の姿を目の当たりにした。

 

 その顔からあの禍々しい黒い文様が。四つの瞳が——スッと、まるで潮が引くように薄れて消えていくのが見えた。

 呪いの王の意志が沈み、本来の魂が浮上してくる。

 

 ——浮上してきて、しまった。

 

「……あ」

 

 文様が完全に消え去り、元の純朴な少年の顔に戻った虎杖悠仁。

 彼の身体を縛っていた呪糸がパツン、と音を立てて解かれた。

 脅威対象である『両面宿儺』の気配が消失したことを惱无の制御システムが感知し、拘束を解いたのだ。

 

 糸が解かれ、悠仁の身体がグラリと前に傾く。

 それを恵が慌てて駆け寄り、その身体を抱きとめた。

 

 

「……ごめん」

 

 彼は恵の腕の中で口の端から血を流しながら、力なく微笑んだ。

 

「やらかした……」

 

 その声はひどく掠れ、息も絶え絶えだった。

 ぽっかりと穴の空いた胸からは、もはや血を流す力すら残っていないように見えた。

 

「……釘崎、起こしてくれてサンキューな。……やっと目が覚めたよ」

 

 悠仁は恵の後ろで金槌を握りしめたまま俯いている野薔薇の方を見て、ふっと優しく笑った。滅茶苦茶効いたわ、今の、と。

 自分を殺すという苦渋の決断をしてくれた同期への恨み言ではなく、心からの感謝の言葉だった。

 

「…………ばか」

 

 野薔薇の瞳から、堪えきれずに大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 彼女は震える声で、必死にいつもの悪態をつこうと唇を噛み締める。

 

「化けて出るなら、私の所にしときなさいよ……。絶対、祓ってやるから……っ」

 

 その強がりな言葉に、虎杖は「ははっ……お手柔らかに頼むわ」と小さく笑った。

 そして、疲労困憊のまま自分を抱きとめている恵の顔を見上げた。

 

「禪院……お前、フラフラじゃんか」

「……」

 

 恵は奥歯を噛み締め、俯いた。

 もし自分がもっと強ければ。あの時、呪霊から彼をすぐに助け出せていれば。こんな選択を彼に強いることはなかった。

 

「……すまない。助けられなかった」

 

 血を吐くような恵の謝罪。

 しかし虎杖は、ゆっくりと首を横に振った。

 

「いいんだよ。俺のほうこそ、救助続けたいとか我儘言ってごめんな……」

 

 虎杖の視線が、雨空へと向けられる。

 次第に焦点が合わなくなり、その瞳から光が失われていく。

 

「長生き、しろよ……」

 

 その言葉を最後に、少年の首がガクリと力なく落ちた。

 

「虎杖……?」

 

 恵が揺さぶるが、反応はない。

 雨音だけが、静かに、そして冷たく、彼らの上に降り注いでいた。

 特級呪物を食らい、理不尽な世界で足掻いた少年、虎杖悠仁の命が、今、確かにここで燃え尽きたのであった。




呪具・呪骸班「…………!!」ガタッ

■ 嵌合魂魄呪骸・陸號:無心器『惱无』
こう見えてちゃんと考えてるし、指示の意図を汲み取って遂行してくれる。
互角にやり合うには最低でも12本くらい指欲しいなぁと宿儺からお墨付きを得た。
いくらか調整すれば最終決戦の環境でも戦えるインフレ戦力。バチクソ強い。
ただし現状だと伏魔御廚子はライフで受けるしかない。
本来パンダのような呪骸の核は「魂の情報を転写したもの」を使用するが、伍號と陸號は無為転変でぶっこ抜いたナマの魂をいじくりまわしてねじ込んでいる。
この製法のおかげで魂の相性とか全部無視して呪力を生み出し続けられる。
陸號は三つの魂が「シテ…コロシテ…」「コロス…ゼンインコロス…」「ユルシテ…ユルシテ…」とかやりつつ呪力生産してるのを、漂白してより都合よく調整(プログラミング)した魂統括して制御している。
各魂に術式が埋め込まれており、統括核がそれらを適切に引き出して戦うためモードチェンジなどは存在しない。ロマンが分かっていないと直毘人に言われた。

●搭載術式(判明分)
▷超再生:この呪霊いい術式持ってるけど全然弱らなくて捕獲できないんですけお!!って報告を受けて直々に抜きに行った。反転術式よりはるかに低燃費でぐんぐん回復する。
▷帯電:静電気に悩む非術師の女性からもらった。改善したらしい。触れたものに電撃を加える。
▷呪糸操術:当主様とお揃い♡ 禪院家内にはちょこちょこ出る。
▷ジェット噴射:呪霊が持ってた。担当呪術師は捕獲に滅茶苦茶苦労したらしい。少ない呪力で効率よく加速・飛行できる。

■操影呪法・拡張術式:影法師『影鰐』
巨影を真希からあまりに弄られ、他にもいるから……複数いる中の一体に過ぎないから……と言い訳する為に急いで二体目として制作された影法師。
捕獲できずに祓われてしまったという一級仮想怨霊『影鰐』についての愚痴を全から聞いた事があり、実家から資料を取り寄せて概ねその能力を再現しつつ領域対策まで施した自信作。影を噛み砕く能力もちゃんと備えている。
なお普段遣いは大抵巨影。
恵は生得術式が十種影法術だった影響か、こういった式神の作成に適性が高い。

●一級仮想怨霊『影鰐』
独立して動く、巨大な魚影のような呪霊。
頭部が左右に大きく開き他の影を捕食すると、その際影と同じように影の主にも同じ損傷が起きる『影喰らい』の術式を持つ。呪力ガードで防げる。
島根県に2016年辺りに湧いたため、妖怪としての伝承だけでなく某作品の影響もあるのではと推測した全がリポップさせるために第三シーズンを作らせるために画策していると言う噂がある。

■ 釘﨑野薔薇
救急搬送されて現場に居合わせる事すらできなかった原作と違い、半ば自身の手に掛けたような形になってしまったため、ショックがより大きい。


呪胎戴天編はこれにて完結。
過程は大きく違えど、最終的に似たような結末へ収束。
あのとき、現状勝てない戦力ぶつけられたら心臓戻すか? って考えて、戻さないだろうなぁ……と思ったためこうなりました。
そして犠牲者こそ出なかったものの『渋谷事変の伏魔御廚子』や、更に『宿儺への共鳴り』的なシーンを先取りする感じに。

さて、次章は原作とがらっと変わっていく予定。
ざっくりと書いただけなので推敲や加筆修正がまだ必要ですが、ストックがそこそこできています。
なので今回よりは早く仕上がるはずなので、おたのしみに!
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