禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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そんときゃ、そうだな……

俺が学校に乗り込んで、その担任のズボン引っこ抜いてやるよ!



39.幼魚と道標-着信アリ

「——そう、そうなんだよ! 『ミミズ人間』も、2だけは楽しみ方があるんだよ!」

 

 すっかり日が落ち、街灯が灯り始めた河川敷。

 並んで土手の階段に腰を下ろした吉野順平は、先ほどまでの怯えた様子が嘘のように身を乗り出して熱弁を振るっていた。

 

「完璧主義の人間が、すべてを投げ出すまでの感情の動きがちゃんと描かれてるんだ。ただのパニックホラーじゃなくて、人間の精神の崩壊過程として見れば、あれはすごく良く出来てるんだよ!」

「あー! なるほど、だから2はちょっと面白かったのか!」

 

 隣でそれを聞く虎杖悠仁もポンッと手を打ち、深く納得したように頷く。

 

「1はさ、ただスプラッタ描写がやりたいだけって感じで、正直ひたすらつまんなかったんだよなー」

「そう、そのグロ描写すら2が一番キレてるんだ。……僕、あの2作目で感じた面白さの理由を突き止めるのに、結局三回も観直したんだけど……そのせいで本当に辛かった……」

 

 順平が両手で顔を覆い、当時の苦行を思い出してうめき声を漏らす。

 そのオタク特有の深い業に、悠仁は心底ドン引きしたような顔でツッコミを入れた。

 

「えぇ……。いくら他より面白いっつっても、あの映画を三回観るのは拷問だろ……」

 

 二人は顔を見合わせ、夜の河川敷で声を出して笑い合った。

 

 きっかけは、ほんの些細なことだった。

 不良たちが去った後、悠仁が順平の服の汚れを払いながら「アイツらとの関係について愚痴でも吐き出せばちったぁ楽になるかもよ?」と促したのだ。

 最初は言葉を濁していた順平だったが、悠仁の裏表のない態度に少しずつ心を開き、映画館で彼らと居合わせてしまい視聴を諦めて飛び出したことから話し出した。

 そこで悠仁が「ちなみに、何見てたの?」と聞いたことから、二人の間に共通の話題があることが発覚し、一気に映画トークで盛り上がってしまったのである。

 

「……虎杖くんも、映画好きなの?」

 

 ひとしきり笑い終えた後、順平がふと不思議そうに尋ねた。

 高校生で『ミミズ人間』のようなマイナーなカルト映画のナンバリングまでしっかり網羅している人間など、そうそういない。

 

「ん? ああ、俺か?」

 

 悠仁は少しだけ遠い目をして、最近の過酷な「特訓」の日々を思い出した。

 

「最近な、時々映画漬けの日があってさ。修行の一環で一日で五本くらいぶっ続けで観させられたりすんだよ」

「修行で、映画……?」

 

 順平が首を傾げる中、悠仁は忌々しげに溜め息をついた。

 

「釘崎……ああ、うちの同級生の女子な。ある日にそいつが悪ふざけで持ってきたDVDの中に『ミミズ人間』があったんだけどさ。アイツ、自分が持ってきたくせに途中で飽きてどっか行きやがんの」

「あはは、それはひどいね」

 

「でもさ、それよりも一番辛かったのは途中に挟まれたやたらテンポの遅いフランス映画かもしんない。メグミンめ……持ってきた癖にがっつり寝やがって」

「タイトルは?」

 

「えーと確か……『煙草に火をつけるための、14の弁明』だったかな?」

 

 悠仁が記憶を頼りにそのフランス映画のタイトルを口にすると、順平はあからさまに顔をしかめ、同情に満ちた声で呻いた。

 

「……うわ。それはうん、間違いなく拷問だね」

「だろ!? なんかもうずっと人がボソボソしょうもない言い訳喋ってて、いつの間にか終わってるの! マジで地獄だったわ!」

 

 悠仁は呪骸に殴られまいと必死に感情をフラットに保ちながらあの退屈な映画を耐え抜いた地獄の時間を思い出し、頭を抱えた。

 

「その後に観た、一本だけあった王道のB級アクション映画がさ。相対的にウルトラ超大作に見えたわ。ドカーン! ババーン! って感じで最高だった」

「あははははっ! 分かる、分かるよそれ!」

 

 順平は腹を抱えて大笑いした。

 学校ではほとんど息を潜めて誰とも話さず、気軽に映画の話を共有できる友人などもう一人もいなかった。

 今日初めて会ったばかりの、しかも自分を助けてくれた強くてかっこいい少年とこんな風に腹を割って好きな映画の話で笑い合える日が来るなんて、想像もしていなかった。

 

(……なんだ、僕も。普通に笑えるんじゃないか)

 

 順平の胸の奥で、冷たく固まっていた何かが温かく溶けていくのを感じていた。

 

「あっはっは、いやーマジでさぁ——」

 

 二人が心からの笑顔で盛り上がっていた、その時。

 

「——あれ、順平?」

 

 ふいに、河川敷へ降りる階段の上から女性の声が降ってきた。

 二人が弾かれたように振り返ると、そこには買い物袋を提げた一人の女性が立っていた。

 少しウェーブのかかったショートボブに口元のほくろが特徴的な、若々しくもどこか順平の面影を感じさせる女性。

 

「……母さん?」

 

 順平が驚いたように立ち上がった。

 彼女は順平の母親である吉野凪(よしのなぎ)。彼女は階段を下りてくると、順平とその隣にいる見慣れない少年——悠仁を不思議そうに見比べた。

 

「珍しいね、順平。……お友達?」

 

 凪は息子の隣に立つガッシリとした体格の少年を見つめ、どこかホッとしたような、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 順平が学校を休みがちになり、塞ぎ込んでいることは母親として痛いほど分かっていた。だからこそ、こうして誰かと河川敷で腹を抱えて笑い合っている姿を見るのは、彼女にとって何よりも喜ばしい光景だったのだ。

 

「えっ、あ、いや……」

 

 順平は少しバツが悪そうに目を伏せ、照れ隠しのように頭を掻いた。

 

「友達っていうか……さっき会ったばかり、だよ」

 

 まだ「友達」と呼んでいいのか自信が持てず、濁した順平の言葉。

 ——しかし、その横から。

 

「さっき会ったばかりだけど、俺たち友達になれそうでーす!」

 

 悠仁が持ち前の底抜けに明るい笑顔で、ビシッと親指を立ててみせた。

 その一切の淀みも計算もない、真っ直ぐな言葉に、順平はハッとして目を見開く。

 

 少しだけ赤くなった順平の耳元を見て、凪は「ふふっ」と声を立てて笑った。

 

「そうなんだ! 私は順平の母です。君、名前は?」

「うす! 虎杖悠仁です!」

 

 悠仁は元気よく名乗り、ペコリと頭を下げた。

 そして、ふと顔を上げると、凪が提げている透明なレジ袋からひょっこりと顔を出している長ネギに視線を向け、不思議そうに首を傾げた。

 

「お母さん、なんかネギ似合わないッスね!」

「お?」

 

 初対面の大人に向かって放たれた、なんとも失礼で突拍子もない感想。

 普通なら怒るか呆れるかするところだが、凪はそれを聞くや否や、パァッと顔を輝かせた。

 そして、空いている方の手でポケットからタバコを取り出し、火をつけてスゥッと深く吸い込みながら、得意げに紫煙をくゆらせた。

 

「わかる? 私、ネギ似合わない女目指してんのよ」

 

 冗談とも本気ともつかない、独特の気怠い色気を漂わせながら笑う凪。

 

「何言ってんの……」

 

 順平が心底呆れたようにため息をつき、すかさず凪の口元からタバコをヒョイと取り上げた。

 

「タバコやめろっていつも言ってるだろ。ほら、灰皿!」

 

 順平は取り上げたタバコの火を器用に消し、自分のポケットから携帯灰皿を取り出して凪の前に突き出した。

 

「ハイハイ、分かってますよーだ」

 

 凪は諦めたように肩をすくめ、息子の差し出した灰皿に吸い殻をぽいっと捨てた。

 親の健康を気遣う息子と、それに素直に従う少し奔放な母親。その距離感の近さと温かいやり取りに、悠仁は少しだけ羨ましそうに目を細めた。

 彼にとっての家族は祖父だけだったから、こういう「普通の親子」の光景が、なんだかとても眩しく見えたのだ。

 

「言い訳しなくてえらいっ」

「……!? ふはっ……!!」

 

 そして少しだけ茶化すように、先程した映画の話になぞらえて小声で茶々を入れると、耳ざとく聞き取った順平が吹き出した。

 そんなやり取りを見て、凪が目を細める。

 

「ねえ、虎杖くん」

 

 そして彼女は、思い立ったように悠仁の方へと向き直った。

 

「これから夕飯なんだけど……よかったら、うちで一緒に食べていかない?」

えっ

 

 思いがけない誘いに、悠仁は目を瞬かせた。順平も「えっ、いいの母さん?」と驚いている。

 

「いいじゃない。順平が連れてきた友達なんだから、大歓迎よ! それに、特売で買いすぎちゃってちょっと消費に困ってたところだし」

 

 凪がにーっと気さくに笑いかける。

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 

 ——キュルルルルルルルルルギュルルルゥゥゥゥ!!!!

 

 悠仁の腹の底から、特級呪霊の産声かと思うようなとんでもなく巨大で野太い腹の虫の音が河川敷に響き渡った。

 

「…………あっ」

 

 悠仁は両手でお腹を押さえ、顔を真っ赤にしてフリーズした。

 そういえば朝ごはんを高専の食堂で食べて以来、こっちに来て口裂け女探しに熱中しすぎて食べそびれたままずっと歩きっぱなしだったのだ。

 

 カロリー消費の激しい育ち盛りの高校生。しかも街中駆けずりまわって長時間稼働していた彼の肉体はすっかりと限界を訴えていた。

 

あははははっ! すごい音!」

「ふふっ、これはもう決定だね」

 

 順平と凪が、そのあまりに見事な腹の音に腹を抱えて笑い出す。

 

「うっす……お邪魔します……」

 

 悠仁は恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で答えながらも、その頭の中はすでに一つの文字で完全に覆い尽くされていた。

 

 ——『()』。

 

 ほかほかの白米。肉。手料理。

 その魅力的なビジョンが脳内を支配した結果。

 

 彼の脳内から、現在進行形で街のどこかを徘徊している口裂け女の存在と禪院全からの勅命という重大な任務。

 そして今も別行動で足の裏をマメだらけにしながら血眼になってターゲットを探し回っているであろう、恵や野薔薇の存在が。

 

 見事なまでに綺麗さっぱり、無限の彼方へとすっ飛んでいってしまったのであった。

 

 

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————

 

 

 

「そんで!? そんで!?」

 

 吉野家のダイニングテーブル。

 ネギがたっぷり入った豚肉の塩炒めを始めとする温かい家庭料理が並ぶ食卓で、すっかり出来上がった凪が缶ビールを片手に身を乗り出していた。

 

「いやー、それがさ!」

 

 口いっぱいに白米を頬張りながら、悠仁は得意げに身振り手振りで語り続ける。

 

「うちの学校の三年生に秤先輩ってゴツい人がいてさ。初対面がよりによって駅前のパチ屋だったんだよ! 隣の台で打ってて、俺が『それアツいっスね!』って声かけたら、『お前、分かってんじゃねぇか!』って意気投合しちゃってさ!」

「あはははは! なにそれ!」

 

「で、そのまま入り浸ってたら、突然後ろから夜蛾学長っていう蝶野正洋(ちょうのまさひろ)クリソツなセンセーが鬼みたいな顔して立ってて……二人揃って死ぬほど大目玉食らったってワケ! 俺がうっかり制服のまま行ってたせいで高校生がパチ屋に居るって高専に連絡されちゃったみたいでさ……」

 

 バンッ! と凪がテーブルを叩いて大爆笑する。

 

ひゃーっはっはっはっ! 最ッ高! あんたの学校、先生も先輩も面白すぎでしょ!」

「いやもう、あの時の学長の顔思い出すだけで寿命縮むわ……」

 

 ケラケラと笑い合う大人と高校生。

 その向かいの席で、順平は箸を止めたまま完全にドン引きした顔で悠仁を見つめていた。

 

(……高校生なのに、平然とパチ屋に入り浸る話をしてる……)

 

 学校をサボって映画館に行く自分すら可愛いものに思えてくる、正真正銘の不良エピソードである。

 

 ……しかし、順平の目には本来忌み嫌うはずの「()()()()()」が不思議と嫌なものには映らなかった。

 弱い者いじめをするような陰湿なあいつらとは全く違う。誰に対しても裏表がなく、自分の失敗談をあっけらかんと笑い話にできる明るさ。

 

(不良だ。でも……アレだな。不良漫画に出てくる、筋の通った()()()ってこんな感じだろうか)

 

 順平は自分が助けられた時の悠仁の圧倒的な強さと、今の無邪気な笑顔を重ね合わせてそんな風に納得していた。

 

「ねね、悠仁くん!」

 

 すっかりアルコールが回り、上機嫌で顔を赤くした凪が、不意に立ち上がってキッチンから『木製のお盆』を持ってきた。

 そして、それを悠仁の前にスッと差し出す。

 

「なんかやって! ……そう、モノボケ!

母さん!?

 

 順平が血相を変えて立ち上がりかけた。

 初めて家に呼んだ、しかも息子を助けてくれた恩人に対して酒の勢いで一発ギャグを強要する。

 

(我が親ながら、最悪の酔っ払いだ……!)

 

 順平は顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。

 普通なら困惑するか、嫌な顔をする場面だ。「ごめん、うちの母さん酔ってて……」と順平が謝ろうとした、その時だった。

 

「おっ、モノボケすか! 任せてください!」

 

 悠仁は嫌な顔一つせず、むしろノリノリでお盆を受け取った。

 そして、丸いお盆を自分の顔の前に掲げ、マジックペンで顔を描くようなマイムをした後、ふいに表情を「絶望の淵に立つ遭難者」のそれへと切り替えた。

 

 悠仁はお盆を遠くへ流される『何か』に見立て、床に膝をついて手を伸ばし、迫真の演技で叫び始めた。

 

ウィルソーーーン!!

 

 悲痛な叫び声。

 

ウィルソォォーーンッ!! ごめんよぉ、ウィルソォーーン!!

 

 それは、無人島からの脱出中、激しい波にさらわれて遠ざかっていく唯一の「友」——血の手形で顔を描いたバレーボールに向かって、トム・ハンクスが涙ながらに叫ぶ映画史に残る名シーンの完全再現であった。

 

「……ッ、ぶはっ!

 

 そのあまりにも的確で、今日の昼間に「映画好き」だと話した自分を完全に意識したピンポイントすぎるネタのチョイスに順平は耐えきれず、吹き出してしまった。

 

あははははっ! な、なんで『キャスト・アウェイ』なんだよ……ッ! 迫真の再現度だけど……お盆なのに、丸いからって……っ!」

 

 順平が腹を抱えて笑い転げるのを見て、悠仁も「おっ、通じた!」と嬉しそうにニッと笑って元の席に戻る。

 

「……?」

 

 一方のネタを振った張本人である凪は、名作映画のパロディが全く分からなかったらしく、「うぃるそん……?」とポカンと首を傾げていた。

 だが順平が涙を流すほど大笑いしている姿を見て、彼女の顔からはすぐに困惑が消え、どこまでも優しく、安心したような微笑みが浮かんだ。

 

 息子がこんなにも楽しそうに声を上げて笑っている。

 それだけで、彼女にとってはどんなに面白ギャグよりも最高の瞬間だったのだ。

 

「あはは、母さんにはちょっと難しかったかな。でも、順平が笑ってくれたから合格!」

 

 凪は嬉しそうにビールをグイッと煽り、悠仁の背中をバンバンと叩いた。

 温かい食卓。笑い声。美味しいご飯。

 

 虎杖悠仁にとって、そして吉野順平にとって。それは呪いや暴力とは無縁の、かけがえのない平穏な夜のひとときであった。

 

 

————

 

————————

 

 

————————————————

 

 

 

 ——その頃。川崎市内のとある裏路地にて。

 

あンのバカ……ッ! 一体どこほっつき歩いてんのよ!!」

 

 夜の闇の中、釘崎野薔薇が金槌を片手に怒り狂った般若のような形相で街灯を蹴り飛ばしていた。

 

「定時連絡も寄越さないわ、電話は繋がらないわ、既読もつかないわ! まさかアイツ呪霊に食われたんじゃないでしょうね!?」

「……いや、あいつのフィジカルなら一級相手でもそうそう死なねぇよ」

 

 隣でスマートフォンを睨みつけている恵が疲労困憊といった様子で深く、深いため息を吐き出した。

 既に日はとっぷりと暮れ、時刻は夜の八時を回っている。

 口裂け女の気配は未だに掴めず、あまつさえ頭数の一つが音信不通で失踪。

 

「あの野郎……見つけたら、巨影にジャイアントスウィングさせてやる……!」

 

 恵の背後から落ちる、街灯に長く引き伸ばされた影が、主の静かな怒りに呼応して不気味にゆらゆらとうごめいている。

 同期が温かい食卓で笑い合っていることなど露知らず、残された二人の若き呪術師は冷たい夜風に吹かれながら地獄の捜索行を泣く泣く続けるのであった。

 

 あまりの音信不通ぶりに、少しずつ不安に苛まれながら。

 

 

***

 

 

「……いい母ちゃんだな」

 

 すっかり出来上がってしまってダイニングテーブルに突っ伏しスヤスヤと寝入ってしまった凪の背中にそっと毛布をかける順平を見て、悠仁は優しく微笑んで言った。

 

「……うん」

 

 順平は母の寝顔を見つめながら照れくさそうに、けれど嬉しそうに小さく頷いた。

 

 夕食の中、凪から香るアルコールのにおいと悠仁の明るい空気に背中を押され、順平は意を決してほんの少しだけ……本当に少しだけ、学校での辛さをこぼしたのだ。

 

 ——学校に、行きたくないと。

 

 それを聞いた凪は怒るでもなく、悲しむでもなく……いつもの気怠げな、けれど絶対的な肯定の笑みを浮かべてこう言ったのだ。

 

『——行かなくていいんじゃない?』

『学校なんて、小さな水槽の一つに過ぎないんだよ。水が合わなきゃ他の水槽なり、海原なり、池なり川なり……いくらでも選択肢はあるからね』

 

『小さな集まりん中に馴染めないくらい、重く受け止めなくたっていいの』

 

 その言葉は学校という狭い世界に閉じ込められて息も絶え絶えになっていた順平の心を、ふわりと水面へと引き上げてくれるような……何よりも欲しかった救いの言葉だった。

 

 ……まあ、その直後に『私めっちゃいいこと言うな?』とドヤ顔で付け加えなければ、もっと感動的で良かったのだが。

 それでも、順平にとってはその明るさこそが、何よりの救いだった。

 

「ねえ、虎杖くんのお母さんは……どんな人?」

 

 ふと、順平がマグカップを両手で包み込みながら尋ねた。

 これほど明るく、誰に対しても裏表のない優しい少年を育てたのはどんな素敵な家庭なのだろうと純粋に気になったのだ。

 

「ん?」

 

 悠仁は首を傾げ、少しだけ天井を見上げて記憶を探るような仕草をした。

 

「ああ、俺、母ちゃんには会った事ねんだわ。顔も知らねぇ」

「えっ……」

 

 悠仁はあっけらかんと言い切った。

 

「父ちゃんは、うーっすらと覚えてるかな。メガネかけてたような気がする。……まあ、俺には爺ちゃんが居たからさ。寂しくなんかはなかったよ」

 

 その言葉に悲壮感は微塵もない。彼を育てた祖父の愛情が、いかに深く真っ直ぐであったかがその屈託のない笑顔から十分に伝わってくる。

 

「……そっか」

 

 順平は短く頷き、静かに視線を落とした。

 

「なあ、順平」

 

 悠仁はテーブルに肘をつき、順平を真っ直ぐに見つめる。

 

「吐き出すのって、大事だろ?」

 

 その言葉に、順平はハッとして顔を上げた。

 確かにそうだ。先ほど凪へほんの少しだけ辛さを打ち明けたことで、彼の心に重くのしかかっていた鉛のような塊は驚くほど軽くなっていた。

 

 一人で抱え込んで世界を呪いそうになっていたあの時の自分が、嘘のように思える。

 

「母ちゃんだけじゃねえぞ。案外、味方になってくれる人ってのはいるもんだ」

 

 悠仁はニッと頼もしい笑顔を見せた。

 

「先生とかもさ、腹割って話せば案外わかってくれるかもしれねーぜ? 話す前から諦めちゃだめだ」

 

 悠仁の言葉に、順平はドキリとした。

 学校の教師。事勿(ことなか)れ主義で、いじめを見て見ぬふりをする大人たち。彼らには何を言っても無駄だと、ずっと諦めていた。

 

 だが悠仁と出会い、母の言葉を聞いた今の自分なら。ほんの少しだけ、世界と向き合う勇気を持てる気がした。

 

「……でも」

 

 それでも、心にこびりついた恐怖は完全には拭えない。順平は不安げに視線を泳がせた。

 

「話しても……だめだったら?」

 

 もし、勇気を振り絞って助けを求めたのに、また裏切られたら。その時こそ、自分は本当に壊れてしまうかもしれない。

 順平の震える声に対し、悠仁は「うーん」と顎に手を当てて数秒だけ考え込み——やがて、ポンッと手を打った。

 

「そんときゃ、そうだな……」

 

 悠仁はニヤリと悪戯っぽく笑って、とんでもないことを言い放った。

 

「俺が学校に乗り込んで、その担任のズボン引っこ抜いてやるよ!」

 

「…………」

 

 順平は数秒間ポカンとして、それから、こらえきれずに吹き出した。

 

「……ははっ、なんだそれ!」

 

 教師のズボンを引っこ抜く。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、小学生のような報復。

 だがそれが不思議と、どんな高尚なアドバイスよりも順平の心にスッと入り込み、残っていた不安の靄を吹き飛ばしてくれた。

 

「あはははっ! 虎杖くん、それ犯罪だからね!?」

「いいじゃん! パンツ丸出しで職員室立たせてやんだよ! 傑作だろ?」

 

 二人の笑い声が、深夜の静かなリビングに響き合う。

 

 ——ボーン、ボーン。

 

 ふいに、リビングの壁に掛けられた時計が、低く重い音を立てて日付の変更——深夜〇時を告げた。

 

「おー、もうこんな時間か……。長居しちまったな」

 

 悠仁が壁時計を見上げて伸びをした、その時だった。

 

「ん? ……あれ?」

 

 悠仁の動きが、ピタリと止まった。

 日付が変わった。夜中だ。

 自分が川崎にやってきたのは、昼過ぎ。目的は……。

 

(——()()()()()()()()()

 

 ドッ、と。

 悠仁の全身の毛穴から、滝のような冷や汗が吹き出した。

 

(お、俺……何時間、任務すっぽかしてるんだ……!?)

 

 悠仁は弾かれたように自分のポケットを探り、スマートフォンを取り出した。

 画面は真っ暗だ。電源ボタンを長押ししても、うんともすんとも言わない。

 

「……スマホの、充電が切れてる」

 

 いつの間に切れたのか。これでは、恵や野薔薇からの連絡も、五条からの指示も受け取れない。

 顔面を蒼白にして震える悠仁を見て、順平が不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしたの? 良かったら、充電器貸すよ?」

「じゅ、順平……か、神ィ……ッ!」

 

 悠仁は祈るようにして順平から充電器を借り、コンセントに差し込んだ。

 

 ピロンッ、と画面にリンゴのマークが浮かび上がり……数秒後、ロック画面が表示される。

 

 ——その瞬間。

 

ッ!!!!

ピロリンッ! ピロリンッ! ピロリンッ!

 

【不在着信:禪院恵4()2()件)

【不在着信:釘崎野薔薇8()6()件)

 

 再起動を果たしたスマートフォンが、まるで罵詈雑言を浴びせるかのように激しく振動し、通知音を怒涛の勢いで鳴らし始めた。

 画面を埋め尽くすのは着信履歴、そしてのライン通知の嵐。

 

 キレつつも心配する野薔薇。

 

【挿絵表示】

 

 

 事務的な中に焦りと怒りの滲む恵。

 

【挿絵表示】

 

 

 そして、担任からのメッセージ。

 

【挿絵表示】

 

 

 

「……………………………………………」

 

 悠仁は青白い光を放つスマートフォンの画面を見つめたまま。

 両手で顔を挟み込み、まるでムンクの『叫び』のごとき完璧な絶望のポーズで、完全にフリーズしてしまったのだった。




野薔薇「ホントに死んでたらどうしよう……!」ポロポロ
恵「……そんなわけねぇだろ」アセアセ

恵「(まずは俺を助けろ……! 虎杖!!)」

■ 釘﨑野薔薇
せっかく癒えかけたトラウマに直撃。

■ 禪院恵
大丈夫だとは思いつつもちょっと不安になってきた。

■ 虎杖悠仁
オタクに優しいギャル。
飯に釣られて大事な事を完全に忘れる馬鹿。

■ 五条悟
恵焦っててウケる(笑)
まあ悠仁なら一級くらい大丈夫っしょ!

■ 吉野親子
久し振りに穏やかなひとときを過ごせた。

■ 煙草に火をつけるための、14の弁明
ゲロ吐きそうなほどクソつまんないことで有名な架空のフランス映画。
このままじゃ死ぬよと医者に宣告されたヘビースモーカーの男が主人公。
友人や妻、仕事仲間や上司にまでさんざん止められながらボソボソと言い訳しつつタバコに火をつけるだけの物語。墓石をバックに「FIN」が出て終わる。
喫煙者にこれで時計仕掛けのオレンジ(ルドヴィコ療法)する禁煙法(拷問)が流行っている(大嘘)


Line画面、最初は特殊タグでやろうかと思ったけど「挿絵でよくね?」となった。
チャッピーがやってくれると聞いて頼んでみたらスッとお出ししてくれた。ちょっとだけ切り貼りしたけどしゅごい。

そして誤字報告で純平だと思い込んでいたことが発覚した。
完全に頭の中で純平だった……なんでや、3,4巻の電子書籍にめっちゃ目を通しながら文字打ち込んでたはずなのに……。
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