禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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——生きてたら、また会おうぜ! 逝ってくる……!!



40.幼魚と道標-背中を押されて

「……僕のせいでもあるし、一緒に謝るよ。僕が引き留めちゃったわけだし……」

 

 スマートフォンを握りしめたまま完全に石化している虎杖悠仁を見て、吉野順平はたまらずそう申し出た。

 自分に付き合ってくれたせいで、彼は任務とやらをすっぽかして夜中まで付き合ってくれたのだ。あの尋常ではない通知の数からヒシヒシと伝わってくる殺気と怒りの度合いを見れば、悠仁がどれほどヤバい状況に立たされているかは順平にも容易に想像がついた。

 

 だが、悠仁はギギギ……と錆びた機械のように首を振り、青ざめた顔のまま力なく答えた。

 

「いや……遅い時間だし、順平を巻き込むわけにはいかねぇよ。悪いのは完全に、ネギ豚に釣られて連絡を忘れてた俺だから……」

 

 そう語る悠仁の背中は、夕暮れの河川敷で暴力の一つも振るわずに不良たちの心をへし折る圧倒的な強さを見せつけたあのスーパーヒーローの如き姿とは、到底結びつかないほどに小さく丸まっていた。

 ガクガクブルブルと、まるで氷水にでも浸かっているかのように全身を激しく震わせ、完全にすくみあがっている。

 

 ……無理もない。激怒している同級生たちだけでも十分に恐ろしいが、メッセージにあった『当主様(禪院全)にチクる』『依頼主(禪院全)に言う』という恵と悟からの最後通告。

 解剖室のベッドでメスを持って自分を見下ろしていた、底知れぬ狂気と理不尽の塊である禪院全に報告がいけば、自分は何らかの実験素材にされるか呪具や呪骸の材料としてスクラップにされるかもしれない。

 ……と、割と真面目に彼はビビっているのだ。心外ですよね。

 

「ほ、本当に大丈夫……? 本当に?」

 

 あまりの怯えように、順平は思わず身を乗り出して重ねて尋ねた。

 今にも処刑台に向かう罪人のような顔をしているのだ。心配にならないわけがない。

 

「ああ……大丈夫……!!」

 

 悠仁はスマホをポケットに突っ込み、フラフラとした足取りで玄関へと向かった。

 そして靴を履き終わると、振り返って順平へ向け——。

 

 どこか遠くを見るような、儚く、悲壮感に満ちた笑顔を浮かべた。

 

「——生きてたら、また会おうぜ! 逝ってくる……!!」

 

 ビシィッ! と、涙目で自衛隊員のような見事な敬礼を一つ残し。

 

 

 ——ドンッ!!!!

 

 

 ドアが開いたかと思うと、突風が巻き起こったような音が響き、悠仁の姿は文字通り一瞬にして視界から掻き消えた。

 

「…………えっ」

 

 順平は、開け放たれた玄関の扉の向こう、夜の街を見つめてポカンと口を開けた。

 静かな住宅街の道を、自動車もかくやという信じられない猛スピードで土煙を上げながら弾丸のように駆け抜けていく影が一つ。

 

「はっや。…………え?? え??」

 

 順平は両手で目をゴシゴシと擦り、もう一度遠ざかっていく影を見た。

 いくらなんでも人間の走る速度ではない。陸上の世界記録など鼻で笑うような、チーターか何かを彷彿とさせる理不尽な加速。

 あまりの非現実的な光景に、順平は自分の目が疲れているのか、それとも映画の見過ぎで幻覚でも見ているのかと本気で己の視力を疑うしかなかった。

 

「……虎杖くん、一体何者なんだろう……」

 

 遠く見えなくなった恩人の無事を祈りながら、順平はそっと玄関の扉を閉めたのだった。

 

 

***

 

 

ぉぉおおおおあああああああああっ!!!!!!

 

 深夜の川崎の河川敷に、遠心力で引き伸ばされた虎杖悠仁の絶叫が木霊していた。

 

 月明かりの下、恵の術式によって顕現した巨大な『巨影』が、悠仁の両足をガッチリと掴み、まるでハンマー投げの要領で猛烈な勢いでジャイアントスウィングをかましていたのだ。

 ブォンッ! ブォンッ! と空気を切り裂く風切り音。

 あまりの回転速度に、悠仁の姿はすでに残像と化し、遠心力によって血流が偏り、常人であれば間違いなく即座にブラックアウトして泡を吹いているレベルのGが彼を襲っていた。

 

「反省したか、バカ! バカ! バーカッ!!!

 

 土手の芝生の上に仁王立ちした野薔薇が、金槌を振り上げながら怒号を飛ばす。

 

はんせぃぃいいしてまああああああああ!!!!

 

 回転の暴風に巻き込まれながら、悠仁は涙と鼻水を撒き散らして全力で反省を表明した。

 連絡一つ寄越さず深夜まで音信不通。呪霊に食われたか、最悪の事態まで想像させられた仲間たちの心労を思えば、この程度の物理的制裁は甘んじて受け入れなければならない。

 

「本当にアンタは……! どれだけ心配したと……!!」

 

 野薔薇の声が、怒りから次第に微かな震えを帯びていく。

 少年院での絶望的な死の記憶。それがフラッシュバックし、彼女は本当に、本気で、またこのバカな同級生が理不尽な死に方をしたのではないかと、生きた心地がしなかったのだ。

 

「まことにっ……! まことにごめんなさいぃぃぃいい!」

 

 悠仁の謝罪が、ドップラー効果を伴って河川敷に響き渡る。

 

「……巨影、放て」

 

 恵が冷ややかな声で短く命じた。

 その瞬間、巨影は絶妙なリリースポイントで悠仁の両足をパッと手放した。

 

「ウボァァァァァァァァッ!?」

 

 凄まじい遠心力によって弾き飛ばされた悠仁の身体は、まるで水面を跳ねる小石のように、多摩川の川面に向かって一直線に飛んでいった。

 

 パァンッ! パァァンッ!!

 

 見事な角度で川面を二度ほどバウンドし、盛大な水飛沫を上げる「人間水切り」。

 そしてそのまま対岸の土手の芝生めがけて、ズサザァァァンッ!! と豪快に仰向けにぶっ倒れ、見事な土煙を巻き上げた。

 

………………きゅう

 

 流石の規格外のフィジカルを持つ悠仁も、この回転と水切りのコンボには完全に目を回し、頭の上で星をピヨピヨと回しながら完全にダウンした。

 

「……フンッ

 

 その無様な姿を見て、野薔薇は小さく鼻を鳴らした。

 そして、怒りと不安で少しだけ赤くなっていた目元を誰にも見られないように制服の袖で乱暴に軽く拭い、ようやくホッと溜飲を下げた。

 怒り狂ってはいたが、彼が五体満足で、相変わらずのバカな姿で戻ってきたことが何よりの救いだった。

 

「……はぁ」

 

 恵もまた深く、今日一番の深いため息を夜風に溶かすように吐き出した。

 そしてスマホの画面に打ち込みかけていた『当主様への報告メッセージ』のテキストを、無言でバックスペースキーを押して全削除した。

 あんなバカだが、新型の嵌合魂魄呪骸の素材にされるには惜しい善人だ。

 ……それに、自分を庇って一度死にかけた恩人でもある。

 

 今回は自分が大目玉を食らうのも覚悟で、禪院全への()()()は取りやめることにしたのだ。

 

 ——あくまで、恵は。だが。

 

 

***

 

 

 結局、対岸の芝生で目を回して伸びていた悠仁を回収し、同じく血眼になって川崎の街を走り回っていた伊地知潔高と合流できた頃には深夜の二時を回ろうとしていた。

 

虎杖くん……! 本当に、本当にご無事でよかった……!! こんなボロボロに、一体どんな激戦を……!!

「いや、これはなんていうか……アッナンデモナイデス……」

 

 連絡を受けて車で駆けつけた伊地知は、泥だらけでボロボロの悠仁の姿を見るなり、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになっていた。

 彼もまた、少年院の一件で悠仁を死なせてしまったトラウマを抱える大人である。

 禪院全が目を掛ける宿儺の器である彼が任務中に単独で失踪してしまったという責任問題だけでなく、純粋に好人物な一人の生徒の命が再び失われたのではないかと、胃にいくつもの穴が空く思いだったのだ。

 

「あはは……伊地知さん、心配かけてマジでごめん……」

 

 ジャイアントスウィングと人間水切りのダメージでフラフラになりながらも、悠仁は平謝りするしかなかった。

 

「で、どうすんのよ。……今から高専に戻る?」

 

 欠伸を噛み殺しながらひどく嫌そうに野薔薇が問うと、伊地知は困ったように眉を下げた。

 

「……いえ。今の時間から高専の結界を通って戻るとなると手続きに時間がかかりますし、何より明日また捜索を再開するとなると、移動だけで体力を消耗してしまいます。かといって、この時間から四人部屋の宿を手配するのも難しく……」

「じゃあ、車中泊だな」

 

 恵が疲労の色が濃い顔で即座に結論を出した。

 これ以上移動に時間をかけるより、少しでも早く目を閉じて休息を取る方が合理的だ。

 

 そうと決まれば、腹ごしらえである。

 伊地知の車をコンビニの駐車場に停め、三人は深夜の買い出しを済ませた。

 

 

 

「………………」

「………………」

 

 車内の後部座席。

 恵と野薔薇はそれぞれコンビニのツナマヨおにぎりとアメリカンドッグを無言で噛みちぎりながら、間で縮こまって座っている悠仁を親の仇を見るように恨めしげなジト目で睨みつけていた。

 

「いや、あの……ホント、ごめんって」

 

 彼は二人の間に挟まれながら、冷や汗をダラダラと流して小さくなっていた。

 野薔薇の肘が執拗にグリグリと脇腹に突き刺さる。

 

「……私らが足の裏にマメ作ってクソ都市伝説を探し回ってる間、アンタは温かいお家で、手作りの美味しいご飯を食べてたってわけね?」

「うす」

「ネギたっぷりの豚肉の塩炒め?」

「……うす」

 

「しかもビール飲んで陽気になったお母さんや、仲良くなった男子高生と映画トークでわいわい盛り上がってた、と」

「……はい。ほんとマジでスンマセン」

 

 ゴリッ、と。

 野薔薇の握りしめたアメリカンドッグの串が、へし折れる音がした。

 

ぶっ飛ばすわよ、マジで……!! こちとら昼からウィダーインゼリー(4月にウィダーは取れた)とカロリーメイトしか口にしてないっつの!!」

「本当にどうしようもねぇな、お前は……」

 

 野薔薇の怒号と恵の冷ややかな罵倒を全身に浴びながら、悠仁は返す言葉もなく「面目ないッス」と平謝りを続けることしかできなかった。

 深夜のコンビニ飯の虚しさが、彼らの怒りをより一層引き立てている。

 悠仁の腹の中には、吉野家でご馳走になった温かい手料理が巨影にぶん回されてなお口からまろび出さずしっかりと消化吸収されているのだから、その格差は如何ともし難かった。

 

 伊地知が運転席で申し訳なさそうに肩を丸めている中、呪術高専一年生たちの車中泊は、なんとも言えないギスギスした空気のまま夜を更かしていくこととなった。

 

 だが、文句を言い合っていたのも最初の数十分だけだった。

 物理的な捜索による疲労と、精神的な心労。狭いセダンの後部座席に三人で押し込められるという劣悪な寝心地にも関わらず、目を閉じれば数分と経たないうちに、三人は泥のように深い眠りへと落ちていった。

 

 

***

 

 

 翌朝。

 朝日が車内に差し込む眩しさに目を覚ました一行は、再びコンビニで調達した朝食を手に近くの公園のベンチへと腰を下ろしていた。

 

「んー! よく寝た!」

 

 悠仁が両腕を突き上げて、盛大に背伸びをしてバキバキと全身を鳴らす。

 昨夜、巨影による大回転と川面への激突という一般人なら間違いなく全身打撲か複雑骨折で良くて病院、悪くてあの世送りになる物理的制裁を受けたはずなのだが。

 彼の身体にはうっすらと擦り傷が残っている程度で、ケロッとした顔でおにぎりを頬張っている。

 

「……ホント、化物みたいに頑丈な身体してるわね」

 

 野薔薇がミックスサンドをかじりながら呆れたように感心した。

 宿儺の器としての異常なタフネスか、あるいは生まれ持った天性のフィジカルか。どちらにせよ、人間をやめていることには変わりない。

 逆に、そうでもなければあんな制裁を受けることもなかったのだが。

 

「で、今日はどうすんだよ」

 

 悠仁がツナマヨおにぎりを飲み込み、恵と野薔薇へと視線を向けた。

 二人は悠仁の昨夜のサボりに対する文句はもうあらかた言い尽くしたのか、呪術師としての真面目な顔つきへと切り替わっていた。

 

「……昨日、お前がサボってネギ豚食ってる間に、釘崎と二人で目撃情報のあったポイントを改めて洗い直した」

 

 恵が、手元のスマートフォンでマップアプリを開きながら淡々と言った。

 

「その結果、口裂け女が出現する()()に、一定のアタリをつけることができた」

「おっ! マジで!? さすがメグミン、仕事できんなぁ!」

 

 悠仁がパァッと顔を輝かせて賞賛するが、恵は深くため息をついてからマップ上にピン打ちされた数カ所の場所を指差した。

 

「まず、奴が出現する条件だ」

 

 恵はスマートフォンの画面をスワイプし、整理されたメモの画面を悠仁と野薔薇に見せた。

 

「一つ目。時刻は『()()()()』。夕暮れ時から完全に日が沈み切るまでの、ごく限られた時間帯だ」

「逢魔が時……! いかにもオバケが出そうな時間帯だな」

 

「仮想怨霊だからな。人間の都市伝説に対する恐怖が最も高まるシチュエーションに縛られやすい」

 

 恵は淡々と解説を続ける。

 

「二つ目。近くに『()』や、それに準ずる反射物がなく、ターゲットとなる対象自身も鏡を持っていないこと。そして三つ目。対象が、直前に『()()()()()()()()()()()()()()()()()』」

 

 その三つの条件を聞いて、悠仁は腕を組んで首を捻った。

 

「んー? でもさ、ネットの噂だと『真夜中のコンビニ帰りに見かけた』とか、『駅のトイレで出た』とか、色んなパターンがあった気がするんだけど……」

 

「それが罠だったのよ」

 

 野薔薇がミックスサンドの最後のひと口を飲み込んでから、鼻で笑った。

 

「ネットの書き込みなんて大半がアクセス稼ぎのフカシや、ただの見間違い。警察に被害届が出てるような『本物』の証言だけを精査して絞り込んだ結果……真に迫ってる証言者は、見事なまでに全員この条件に合致してたってワケ」

「なるほど……!」

 

 悠仁は目を輝かせて二人の調査能力に感心した。

 口裂け女への対処法として有名な「ポマードと三回唱える」や「べっこう飴を投げる」に加えて、近年では「鏡を見せる」という俗説も存在する。

 仮想怨霊がその伝承のルールに縛られているのなら、自らの弱点となる()が存在する環境を本能的に避けるのは理にかなっていた。

 

「でもさ」

 

 悠仁はふと疑問に思い、恵に尋ねた。

 

「その条件が揃えば絶対に出るのか? 昨日の夕暮れ時は俺たち三人とも川崎にいて探し回ってたのに、誰のところにも出なかったじゃん」

「条件を満たした場所の中から、ランダムで一箇所に出現するのか、あるいは標的を選ぶ優先順位があるのかまでは分からん。……だが、昨日俺たちの所に現れなかった理由は、ハッキリしてる」

 

 恵は、ジト目で悠仁と野薔薇を交互に見た。

 

「まず、釘崎。お前、昨日ポーチの中に何入れてた」

「は? メイク道具と呪具に決まってるでしょ。……あっ

 

 野薔薇は言いかけて、ポンと手を打った。

 年頃の女子高生であり、身だしなみに気を使う彼女のポーチの中には、当然のように()()が常備されていたのだ。

 

「ふっ、私の美意識の高さが結果的に呪い避けになってたってわけね。……ふん、まあ私にビビって出てこれなかったってのもあるかもしれないけど」

 

 得意げに髪をかき上げる野薔薇。

 恵はそれをスルーして、自分の反省点も口にした。

 

「次に俺だ。俺が昨日担当していたのは、川崎の市街地や駅周辺だった」

「あー、お店とかがいっぱいあるとこか」

 

「そうだ。あの辺りはショーウィンドウのガラスや、停まっている車の窓ガラスだらけだ。夕暮れ時になれば、あちこちに『反射物』が存在する。奴が出現できる環境じゃなかった」

 

 結果として、真面目に捜索していた恵と野薔薇は、自らの持ち物や捜索エリアの性質上、口裂け女の出現条件から完全に外れてしまっていたのだ。

 

「で。……問題は、オマエだ」

 

 恵と野薔薇の冷ややかな視線が、再び悠仁へと集中した。

 

「俺!?」

「ええ。アンタ、昨日の夕暮れ時、どこで何してたのよ」

 

「えっと……川崎の河川敷で、順平と『ミミズ人間』の話で盛り上がってたけど……」

「……趣味悪いな。じゃなくて、そういう事だ」

 

 恵が深く、深くため息をついた。

 

「川辺の水面は、夕日を反射する立派な()になる。しかもお前、口裂け女の『く』の字も口に出してなかっただろ」

「あ……」

 

 完全に条件から外れている。

 サボっていた上に、出現条件をすべてへし折るような場所で、全く関係ないB級ホラー映画の話でキャッキャと盛り上がっていたのだ。これでは、仮想怨霊も出ようがない。

 

「……アンタ、本当に一回水切りじゃ足りないくらい役に立ってないわね」

「ご、ごめんてば……!!」

 

 野薔薇の冷酷な評価に、悠仁は再び平謝りするしかなかった。

 

「……まあいい。条件が分かった以上、今日の作戦はシンプルだ」

 

 恵はスマートフォンをしまい、立ち上がりながら二人に告げた。

 

「今日の『逢魔が時』。鏡や反射物のない場所に三人で待機し、口裂け女の話題を口に出し続ける。……向こうから出向いてくるように、罠を張る」

 

 それは、確実に呪いを釣り上げるための撒き餌作戦だった。

 

「おっ、なるほど! それならエンカウントできるな!」

「ようやくまともに暴れられそうね。ストレス溜まってたのよ」

 

 悠仁が拳を打ち合わせ、野薔薇も金槌をポンポンと肩に叩きつけて獰猛な笑みを浮かべる。

 一級仮想怨霊の捕獲。

 禪院全からの『勅命』を果たし、ボーナスと自らの成長を証明するための舞台が、整いつつあった。

 

 

***

 

 

 ——その日。

 

 順平は久々に学校の門をくぐった。

 だが、朝のHRや一時間目の授業には間に合わないよう、あえて大きく時間をずらしての登校だった。

 クラスメイトたち——特に、自分を日常的に虐げている伊藤たちの集団と顔を合わせるのを避けるためだ。

 

 静まり返った廊下を歩きながら、順平は何度も深く深呼吸を繰り返した。

 昨夜、悠仁と河川敷で笑い合い、母である凪の言葉に背中を押され、そして何より——。

 

『先生とかもさ、腹割って話せば案外わかってくれるかもしれねーぜ? 話す前から諦めちゃだめだ』

『もしだめだったら、俺がそいつのトコに乗り込んで、ズボン引っこ抜いてやるよ!』

 

 あの底抜けに明るい、少しおバカで真っ直ぐな言葉が、今の順平の背中を力強く押してくれていた。

 ダメでもともと。最悪の場合、あの無茶苦茶に強い虎杖くんがパンツ一丁にしてくれる*1と思えば、不思議と足の震えは収まっていた。

 

 順平は職員室の重い扉の前に立ち、意を決してノックをした。

 

「失礼します」

 

 中に入ると、授業の空き時間でデスクに向かってパソコンを操作している担任教師——外村の姿があった。

 ずんぐりとした体型に、常に脂ぎった顔。デリカシーがなく、生徒の空気を読むのが致命的に下手な、順平が「大人」として見限っていた男だ。

 

「……外村先生、話があります」

 

 順平が声をかけると、外村はビクッと肩を揺らし、驚いたように顔を上げた。

 

「え? あっ、吉野! お前、どうしたこんな時間に!」

 

 外村は慌てて立ち上がり、ドタドタと順平の元へと駆け寄ってきた。

 

「もうだいぶ遅刻だぞ! 連絡もないから心配したんだぞ! ……いやまあ、ちゃんと来ただけ良かったよかった。風邪か何かか?」

 

 その言葉の裏には、彼なりの不器用な安堵が滲んでいた。

 登校拒否になりかけている生徒が、大遅刻とはいえ自分から学校へやってきたのだ。外村としては「とりあえず良かった」というのが本音なのだろう。

 

「で、話ってなんだ? 気分でも悪いのか?」

 

 外村が心配そうに覗き込んでくる。

 

 順平はギュッと拳を握りしめた。

 話す前から諦めていた。どうせこの大人は事勿れ主義で、自分の痛みになんて気づかないし、気づいても目を逸らすだけだと。

 

(……でも、()()()()()()()()()()

 

 順平はゆっくりと右手を上げ——ずっと恥ずかしくて、慘めで、誰にも見せまいと頑なに隠し続けていた右の重い前髪をグッとかき上げた。

 

「…………ッ!!」

 

 露わになった順平の右額。

 そこには赤く爛れ、ケロイド状に残った痛々しい火傷の痕がいくつも無惨に刻み込まれていた。

 タバコの火を何度も、何度も押し付けられた残酷な暴力の証。

 

「よ、吉野……お前、その額……ッ!」

 

 外村の顔から、スゥッと血の気が引いていくのが分かった。

 いつもヘラヘラとして、軽薄な笑いを浮かべていたその目が、限界まで見開かれ、信じられないものを見るように順平の傷跡に釘付けになっている。

 

「伊藤たちに、やられました」

 

 順平の口から今まで決して言えなかった事実が静かに、だがはっきりと零れ落ちた。

 

 彼らが映画研究会を乗っ取り、自分をサンドバッグのように扱い、日常的に暴力を振るってきたこと。誰もいない死角で、タバコの火を押し付けられたこと。

 

「な……なんだと……」

 

 外村の声は、ひどく震えていた。

 順平は怯えながらも外村の顔を真っ直ぐに見つめ返した。

 

 「証拠はあるのか」と疑われるかもしれない。

 「お前にも原因があるんじゃないのか」と説教されるかもしれない。

 

 最悪のシチュエーションをいくつも想像し、身体が強張りそうになる。

 

 ——だが。

 

「……すまん」

 

 外村は顔をくしゃくしゃに歪め、ギリッと奥歯を噛み締め深々と頭を下げたのだ。

 

「すまん、吉野……! 先生、お前がそんな酷い目に遭ってるなんて……全然、気がついてやれなかった……ッ!!」

 

 その声には嘘偽りのない後悔と、教師としての己の不甲斐なさへの怒りが込められていた。

 

「あいつら、ふざけやがって……! 許されることじゃない……絶対に、学校として厳正に対処する!」

 

 外村は震える手で順平の肩をガッシリと掴み、血走った目で力強く宣言した。

 その表情には、普段の事勿れ主義な態度など微塵もなかった。ただ、教え子が酷い虐めを受けていた事実に本気で憤り、守ろうとする大人の顔がそこにあった。

 

「……先生」

 

 順平は、呆然と外村を見つめていた。

 

 ——知らなかった。

 

 外村先生は軽薄な事勿れ主義者で、テキトーで、デリカシーのない脂ぎったデブで……尊敬できない大人だと思っていた。

 

 でも。

 自分が勇気を出して、前髪を上げてちゃんと真剣に話せば。

 

 この人は、ちゃんと真剣に話を聞いてくれたのだ。

 

「……っ」

 

 順平の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、痛みや悲しみの涙ではなかった。

 今まで一人で暗闇の中に閉じこもっていた自分が、ようやく差し出された光に触れることができた、安堵の涙だった。

 

(虎杖くんの、言う通りだった……)

 

 話す前から、諦めちゃ駄目だったんだ。

 世界は、自分が思っているほど冷たくて腐りきったものばかりではなかった。

 

「……ありがとうございます、先生」

 

 順平はもう前髪で傷を隠すことはせず、涙を拭ってしっかりと外村に向かって頭を下げた。

 彼の心に重くのしかかっていた呪いが、一つ、確実に祓われた瞬間だった。

 

 

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 ——川崎市内のファストフード店。

 

「……なぁ」

 

 ハンバーガーの包み紙をガサガサと開けつつ、悠仁が向かいの席に座る二人に素朴な疑問を投げかけた。

 

「口裂け女が出るのが夕方からならさ、昨日の夜一回高専に帰ったほうがよくなかった? 高専のベッドで寝て、今日の昼過ぎくらいにこっちに来ればよかったじゃんか」

 

 車中泊で少なからず疲労の抜けが足りない悠仁としてはもっともな意見だった。

 しかしその言葉を聞いた瞬間、ポテトをつまんでいた恵とストローでコーラを啜っていた野薔薇の視線がチベットの永久凍土よりも冷たく鋭く悠仁へと突き刺さった。

 

「…………」

「…………」

 

ひっ

 

 悠仁はハンバーガーをかじる口を止め、ビクッと身を縮込ませた。

 

「あのまま高専に帰るとなればだ」

 

 恵が感情の消え失せた淡々とした声で説明を始めた。

 

「車で二時間少し揺られて帰って、高専の結界を通る手続きをして寮の部屋に戻る頃には深夜四時前後だ。そこから寝直して、昼前に起きて飯食って、また二時間かけて戻ってくる……手間だろうが。少しは頭を使え」

 

「それに加えてね」

 

 野薔薇が、氷のような笑顔を浮かべて身を乗り出した。

 

「口裂け女の手がかりを探して歩き回って、さらにアンタを探して夜の街を駆けずり回って……私たち、死ぬほど疲れてたのよ。ぶっちゃけ、車でもどこでもいいから、一秒でも早くソッコーで寝たかったの。一体、誰のせいでそんなに疲れてたのかしらねえ?」

 

「スンマセン……」

 

 悠仁は完全に縮み上がり、ハンバーガーをモソモソと小動物のようにかじるしかなかった。

 全ての原因は自分にあるのだ。これ以上反論すれば、命に関わる。

 

「……条件に合致する待機場所の目星は既につけてある」

 

 恵はポテトを飲み込み、手元のスマートフォンでマップを開いた。

 

「あとは出現時間——『逢魔が時』になったらそこへ立ち、口裂け女の噂話をして釣りを始めるだけだ。それまでは下手に動かず、体を休めて万全を期すのが一番だ」

 

 合理的で隙のない判断。

 悠仁も「まあ、そうなるか」と納得し、ハンバーガーを大きく口に運んだ。

 だが、ふと別の疑問が湧いてくる。

 

「てかさ、もし今日、口裂け女が他の場所へ行っちゃったらどうすんの? 相手もランダムで現れるんだろ?」

 

 その悠仁の問いに、恵は無表情のままポツリと答えた。

 

「そんときは、また明日やるだけだ」

「ゲッ……」

 

 野薔薇が心底うんざりしたように顔をしかめ、テーブルに突っ伏した。

 

「一番ウザいタイプの任務ね。私、もう車中泊なんて絶対に御免だわ。今日終わらなかったら今度は一旦高専帰るわよ」

「同感だ」

 

 何日もこの川崎に滞在して空振りを続けるのは精神的にも肉体的にも疲労が溜まるだけだ。野薔薇は少し顔を上げ、顎に手を当てて思案した。

 

「やっぱ、遭遇する確率を上げるために別れる? 私たちが網を張るポイントを増やせば、今日でケリがつく確率は上がるでしょ」

 

 彼女の提案に、恵は「……一理あるな」と頷いた。

 確かに、こんな面倒な張り込み任務に何日も時間をかけたくはない。さっさと終わらせたいというのは、恵とて同じだった。

 

「口裂け女の話題を話さなきゃいけない以上、一人でブツブツ独り言を言うのも変だし、二人一組になるけど」

「二人一組かあ。……ん、あれ?」

 

 野薔薇の言葉に悠仁が指を折りながら数を数え、不思議そうに首を傾げた。

 

「二人一組って……俺たち、三人じゃん。一人たんなくね? どうすんの?」

伊地知さんしかいないな

 

 恵は、少し離れた席でパソコンを開いて事務作業をしている補助監督の背中を、なんの躊躇いもなく指差した。

 

はっ!?

 

 悠仁は思わず声を荒げ、驚愕の目で恵を見た。

 

「補助監督って、戦闘に巻き込んでいいんだっけ!?」

 

 「補助監督は戦闘に参加しない」という常識は当然聞かされている。

 それなのに、一級仮想怨霊の撒き餌として戦闘に秀でた訳でもない補助監督を最前線に立たせるというのか。

 

「別に伊地知さんに戦えって言ってるわけじゃない。戦闘に巻き込まなきゃ、まあ大丈夫だろう」

「いや、口裂け女の前に立つ時点で十分巻き込んでるじゃん!!」

 

 悠仁の真っ当すぎるツッコミに対し、恵は涼しい顔でコーヒーを啜りながら淡々と言い放った。

 

「口裂け女は最初に必ず問答してくる。……その間にべっこう飴を投げて気を引いて、その隙に全速力で逃げてもらう。そのくらいは伊地知さんにだってできんだろ」

「…………」

 

 悠仁は絶句した。

 確かに理屈としては通っている。伊地知は戦闘員ではないが呪霊の姿は見えるし、呪術界で生き残ってきただけの肝の据わり方と最低限の身のこなしはあるはずだ。

 だが、そのあまりにもドライで人員を「使える駒」として容赦なく配置するその冷徹な思考回路。

 

「……なんだかんだ、お前も『()()』だよな」

「血は争えないってやつね……」

 

 悠仁は薄暗い地下室で自分にメスを向けたあの胡散臭い当主の顔と、目の前でポテトを食っている同級生の顔を重ね合わせた。

 

 目的を達成するためなら、身内だろうが非戦闘員だろうが、使える手札は最も効率的な形で盤面に配置する。

 血は争えないというか、あるいは環境がそうさせたのか。

 修羅の家系、禪院家。その末端に連なる恵の根底にも確かに狂気と合理性が息づいていることを、二人はヒシヒシと実感するのであった。

*1
そこまでは言っていない




■ 人間水切り
虎杖ならこれくらいの制裁でもギャグで済むだろうなって。

■ 三人並んで車中泊
釘﨑は本来助手席が定位置なものの、虎杖を二人で挟んでガン詰めしているうちに寝落ち。青春感マシマシで。

■ 口裂け女の出現条件
1.逢魔が時であること。2.鏡が無い環境であること。3.口裂け女について口に出すこと。
当主様がかつて捕獲した特級の個体はもう少しゆるい条件でも出会えたかもしれません。

■ 外村先生
原作の幼魚と逆罰エピローグから、ちゃんと事実を認識さえすればちゃんと対応してくれるのでは、と思いました。そう信じたい……。
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