禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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  ——ねぇ



     わた、


           わタ、
    
    わたし




         きれい?




41.幼魚と道標-口ハ禍ノ門

 西日がビルの隙間に沈みかけ、空が紫とオレンジの混ざり合った毒々しい色へと染まり始める逢魔が時。

 

 川崎市内の外れにある、遊具がひどく錆びついた薄暗い公園。周囲にガラス張りの建物はなく、公園の水道の蛇口もくすんでおり、反射物になり得るものは徹底的に排除されたようなこの場所に、虎杖悠仁と補助監督の伊地知潔高の二人がポツンと立っていた。

 

「グッパで分かれるなんて、なんか小学生みたいでしたね……」

 

 伊地知がハンカチで額の汗を拭いながら、どこか気まずそうに呟いた。

 恵がアタリをつけた数カ所のポイントを効率よくカバーするため、彼らは「グッパ」で二手に分かれることになったのだ。結果、恵と野薔薇の同期ペア、そして悠仁と伊地知というなんとも言えない取り合わせが完成していた。

 

「まあまあ、効率いいじゃん! それよりさ……」

 

 悠仁は片手に握ったスマートフォンをスクロールしながら、もう片方の手で用意していたべっこう飴の袋をシャカシャカと振った。

 この作戦の肝は口裂け女の出現条件である『口裂け女の噂話をしていること』を満たし続けることである。

 

「ネットのまとめサイト見てるんだけどさ……口裂け女って、百メートルを三秒で走るんだってよ」

「百メートルを三秒ですか。時速に換算すると時速百二十キロ……自動車並みですね。確かに、逃げ切るのは至難の業でしょう」

 

 伊地知が真面目に相槌を打つと、悠仁はスマホから顔を上げ、少し首をひねった。

 

「でもさ、よく考えたら……真希先輩のほうが速くね?

 

 その言葉に、伊地知は思わず咳き込んだ。

 高専グラウンドで天与の身体能力を爆発させている真希の姿が伊地知の脳裏にもよぎる。

 

「ま、まあ……禪院一級術師は、そこらの特級呪霊よりずっとお強いですから……」

「だよなー。真希先輩なら『は? 遅ぇよ』とか言いつつ余裕で抜き去りそうだしなあ。……んー、あとは……身長が二メートルあるとか、三姉妹だとか……」

 

 悠仁は再びスマホに目を落とし、延々と口裂け女のエピソードを読み上げ続けた。

 十分、二十分と時間が過ぎていく。日がさらに落ち、公園は完全に夕闇に包まれつつあった。

 

 ふいに悠仁はスマホを下ろし、真顔になって伊地知を見つめた。

 

「……なぁ伊地知さん。こう、一つの話題で延々と喋り続けんのって、思ったよりキツくね?」

「……ええ、おっしゃる通りです」

 

 伊地知は眼鏡を押し上げながら、心底共感したように苦笑した。

 最初は怪談話としてそれなりに盛り上がるものの、相手が実在する仮想怨霊とはいえ、流石に三十分近くも同じ都市伝説の話ばかりをし続けるのはトークの引き出し的に限界があるのだ。

 とうに話題が尽きた二人は今や、スマホ片手に延々と言葉を垂れ流す『口裂け女Wiki朗読マシーン』と化しつつあった。

 

「つーかさ、口裂け女の伝承って多すぎるし矛盾もいっぱいあるよな」

 

 悠仁は画面をスワイプしながら、呆れたようにぼやいた。

 

「この『べっこう飴』だってさ。好物だから渡せば夢中で食べるって書いてあるサイトもあれば、嫌いだから投げつけたら逃げてくって書いてあるサイトもある。どっちだよ。おまけに『ポマード』だって恐れて逃げるって話と、むしろ激昂して襲いかかってくるって話もあるし。これでもし激昂パターン引いたら最悪じゃね?」

 

 悠仁の真っ当なツッコミに、伊地知はバインダーに挟んだ資料を確認しながら答えた。

 

「少なくとも、ポマードに関しては実際に遭遇した『窓』の職員が三回連呼して逃げ切れていることから、今回の該当個体には効くはずです。仮想怨霊は発生地域で最も強く信じられているルールの影響を受けやすいですからね」

「へー、そういうもんなのか」

 

 悠仁はさらに画面を下へとスクロールしていく。

 

「苦手なもの……にんにく、犬、レコードの音……って、調べると案外たくさんあんな。でも、恵が言ってた『鏡』はWikiには載ってないぞ?」

「鏡に関してはここ最近のネットやSNSを中心に後から付け足された比較的新しい()()のようですね」

「なるほどなー。最新の弱点ってわけか」

 

 怪談や都市伝説が、時代とともにアップデートされているという事実に、悠仁は感心したように頷いた。

 

「都市伝説なんて、そんなものです」

 

 伊地知は、薄暗い公園のベンチに腰を下ろし、静かな声で語り始めた。

 

「口伝の集合体であるがゆえに、人々の恐怖や想像が混ざり合い、その姿や弱点は容易に揺らぎます。……ですが、それらの膨大な情報の中で、時代が変わっても『変わらずに伝えられている内容』こそが、仮想怨霊という呪いの核に強固に反映されているはずなんです」

 

「変わらずに伝えられている内容……」

 

 悠仁は顎に手を当て、口裂け女という都市伝説の()()()()()を思い浮かべた。

 

「ああ、つまり……『わたし、きれい?』って聞いてくるヤツか」

「はい。遭遇した際のその問答だけは、どの伝承でも絶対に共通しています」

 

 伊地知の言葉を聞き、悠仁は腕を組んで「うーん」と唸った。

 

「ポマードで逃げられたり、べっこう飴で時間稼ぎしたりするのもいいけどさ……今回、俺たちの目的は『生け捕り』なんだよな? 逃げられてもそれはそれで困るし」

 

 禪院全からの勅命は、口裂け女の捕獲。

 悠仁はポケットに入っているあの気味の悪い『魍魎匣』をポンポンと叩いた。

 

「今やれるなかで一番良さげな対処法ってさ、問答の時に『普通』って答えて、相手を困惑させるってヤツじゃねーかな? 動きが止まった隙に一気に距離詰めて、俺がぶっ飛ばして弱らせるのが一番確実な気がする」

 

「……虎杖くん」

 

 悠仁の『普通と答えて困惑させ、その隙にぶっ飛ばす』というシンプルかつアグレッシブな提案を聞いて伊地知は眼鏡の位置を直し、少しだけ表情を引き締めた。

 

「確かにあなたの呪力操作は、映画鑑賞の特訓を経て見違えるほど安定しています。日々の組手を拝見した際にも、その規格外の身体能力と相まって既に一人前の術師として十分に通用する『強さ』をお持ちだと理解しました」

 

 補助監督として数多の術師の戦いを見てきた伊地知から見ても、今の悠仁のポテンシャルは目を見張るものがあった。

 

「ですが実戦は、組手とは全くの別物です。呪いとは、理解の及ばないバケモノ……実戦経験の浅さは、ほんの一瞬の判断の遅れを招き、それが命取りになる世界。あの禪院一級術師ですら、任務で失敗した事があるんですから」

「マジで? ()()真希先輩が??」

 

 伊地知は、手元のバインダーをギュッと強く握りしめた。

 

「五条さんが今回、あなたを禪院くんや釘崎さんと『三人一組』での任務としたのも、そうした経験不足から来る不測の事態を、互いにカバーし合わせるためのはずです。……今回はたまたま二手に分かれていますが、それでも、決して一人で抱え込もうとはしないでください」

 

 それは、引率の補助監督としての、真っ当な忠告であった。

 だが、伊地知はそこで言葉を区切り、少しだけ視線を下に落とした。

 薄暗い公園の地面を見つめるその眼鏡の奥には、事務的な冷静さとは全く違う、痛みを堪えるような色が浮かんでいた。

 

「……個人的な、私情を挟むことをお許しください」

 

 伊地知の声が、微かに、しかし確かに震えた。

 

「私は……もう二度と。あの地下の冷たい台の上で、白い布を被されたあなたの姿を……見たくないんです」

 

「……伊地知さん」

 

 沈んだ声に、悠仁はハッと息を呑んだ。少年院で宿儺によって心臓を抉り出され、最終的に死体となって運ばれたあの日の出来事。

 自分が生き返ったことで「なんとかなった」と少しだけ軽く考えてしまっていたが、あの出来事が、残された大人たちや仲間たちの心にどれほど重く、暗い傷跡を残していたのか。

 伊地知の絞り出すような震える声を聞いて、悠仁は改めてその重さを痛感した。

 

「ごめん……」

 

 悠仁は表情を引き締め、伊地知に向かって真っ直ぐに頷いた。

 

「無茶はしない。絶対に死なないし、伊地知さんにも悲しい思いはさせない。……約束するよ」

 

 その力強く、誠実な少年の眼差しに、伊地知はようやく少しだけ張り詰めていた肩の力を抜き、「……ええ。頼みますよ」と、小さく安堵の笑みをこぼした。

 

 夕闇が深まり、街の喧騒も遠ざかっていく静かな時間。

 二人の間に、しんみりとした、だが確かな信頼の空気が流れた。

 

 ——その、直後だった。

 

 静寂を切り裂くように、公園の奥——木々が鬱蒼と茂る死角の方向から、鬼気迫る複数の絶叫が響き渡った。

 

「ッ!?」

 

 伊地知が弾かれたように振り返り、悠仁も拳を握って腰を落とした。

 ただの喧嘩や騒ぎではない。命の危機に直面した人間の、本能からの悲鳴だ。

 もしかして、口裂け女が出たのか!?

 

うわぁぁぁぁぁっ!!

やめろッ! 来るな、来んなァァッ!!

 

 悠仁が立て続けに響く悲鳴の方へ駆け出そうと足に力を込めた瞬間。

 複数の悲鳴の中に混じって聞こえた()()()()に、彼の耳がピクリと反応した。

 

「や、やめてくれ……っ!」

 

 怯えきった、押し殺すような少年の声。

 それは昨日の夕暮れ時に不良たちに虐げられていたところを助け出し、その後一緒に映画の話をして笑い合った、あの少年の声だった。

 

「——順平?」

 

 悠仁の顔から先ほどまでの穏やかな高校生としての空気がスッと完全に消え去った。瞳に宿るのは、理不尽な暴力から他者を守らんとする、呪術師としての研ぎ澄まされた冷徹な光。

 

「伊地知さん、ここで待ってて! すぐ戻る!」

「い、虎杖くん! 無茶はしないと——」

 

 伊地知の制止の言葉が終わるよりも早く。

 悠仁の身体は文字通り風を切り裂き、悲鳴の上がる公園の奥深くへと、弾丸のような速度で駆け出していった。

 

 

***

 

 

 ——時は、悠仁が悲鳴を聞く数十分前へと遡る。

 

 川崎市内の里桜高校、職員室の奥に設けられた小さな面談スペース。

 順平は、用意されたパイプ椅子に座り、目の前で真剣な表情を浮かべる外村と、立ち会いに呼ばれた学年主任の教師を前に、ゆっくりと、しかしハッキリとした口調で語り続けていた。

 

「……佐山、西村、本田。そして、伊藤です」

 

 順平の口から、映画研究部を乗っ取って部室を溜まり場にし自分を執拗に虐げてきた不良たちの名前が告げられる。

 外村は手元のメモ帳にペンを走らせながら、ギリッと歯を食いしばっていた。

 

「僕がされた暴力やカツアゲだけじゃありません。彼らは、他の生徒にも……。たしか、伊藤は読書感想文の課題も別のクラスの生徒を脅して書かせていたはずです」

「なんだと……!?」

 

 その言葉に外村の顔色がサッと変わった。彼は学年主任と顔を見合わせ、愕然とした声で呻いた。

 

「伊藤のあの感想文は、全国コンクールで『最優秀作品賞』を取った通知が来てるんだぞ……! あれが、代筆だったというのか……!?」

 

 ただのいじめや暴力行為に留まらず、学校の評価にも関わる重大な不正行為。

 外村の顔に更に強い怒りの朱が差した。これまで彼が「優秀で活発な生徒」だと思い込まされていた伊藤という人間のメッキが、音を立てて剥がれ落ちていく。

 

「……吉野。よく、ここまで話してくれたな」

 

 外村はペンを置き、順平の目を真っ直ぐに見据えて、力強く頷いた。

 

「お前が受けた苦痛は、決して許されるものじゃない。先生が、学校が、絶対に何とかする。約束する」

「先生……」

 

 その言葉の響きに、順平の胸の奥が熱くなった。

 虎杖悠仁に言われて、ダメ元で踏み出した一歩。それが、諦めかけていた大人を動かし、自分の世界を変えようとしている。

 

 だが、外村は少しだけ表情を引き締め、現実的な話として言葉を続けた。

 

「だがな、吉野。どうしても、こういう物事には()()()()が必要になるんだ」

 

 外村は真摯な態度で、これからの流れを説明し始めた。

 

「お前の証言だけで即退学、というわけにはいかない。多方面への裏取り、感想文を書かされたという他の被害生徒への聴取、そして何より、伊藤たち本人への厳密な聴取が必要になる。……教育委員会の絡みもあるし、実際に停学や退学といった明確な処分が下るまでには、最低でも一週間以上はかかると思ってくれ」

「……はい」

 

 順平は頷いた。すぐにすべてが解決する魔法などないことは、彼もわかっている。

 

「それでも、だ」

 

 外村は、太い指で机をトンと叩いた。

 

「これだけの証言と、お前のその額の傷がある。伊藤たちは今日中に必ず呼び出して問い詰める。……明日以降、あいつらはお前と同じ教室には入れさせない。別室登校などの隔離処置は、直ちに行う手筈を整える」

 

 だから、もうあいつらと顔を合わせる心配はない。

 外村のその力強い保証に、順平は張り詰めていた肩の力がスッと抜けていくのを感じた。

 

「今日はもう、帰っても構わないぞ。疲れただろう、ゆっくり休みなさい。……何か不安なことがあったら、いつでも先生の携帯に連絡してこいよ」

 

 外村はそう言って、メモの切れ端に自分の携帯番号を書いて順平に手渡した。

 

「……ありがとうございます、外村先生」

 

 順平は深々と頭を下げ、面談スペースを立ち上がった。

 

 職員室の出口へと向かう背後から、外村が学年主任と深刻な声で話し始めているのが聞こえてくる。

 「至急、いじめ対策委員会を設置して……」「伊藤のコンクールの件は校長にも報告を……」と、大人たちが自分のために忙しなく動いてくれている。その事実が、たまらなく嬉しかった。

 

(虎杖くんの言う通りだったな。……話す前から、諦めちゃ駄目だったんだ)

 

 学校の廊下を歩く順平の足取りは、ここ数ヶ月で一番軽い。前髪で隠していた右目の傷跡も、もうそこまで恥ずかしいものではないように思えた。

 家に帰ったら、母さんに報告しよう。そして、もしまた虎杖くんに会えたら、真っ先にお礼を言おう。

 そんな前向きな思考を巡らせながら、順平は夕暮れが迫る学校の門を後にする。

 帰り道の足取りはまるで背中に羽が生えたように軽かった。

 

 オレンジ色に染まり始めた川崎の街並みが今日はなんだか鮮やかに、いつもより美しく見える。

 ここ数年に渡り、重い泥濘の中に沈み込んでいたような鬱屈とした日常が、今日を境に明確に終わりを告げようとしているのだ。

 

(虎杖くん……まだ、この辺りにいるかな)

 

 順平は少しだけ浮ついた気持ちで周囲をキョロキョロと見回した。

 昨日は連絡先を交換するのも忘れて別れてしまったのが悔やまれる。もしどこかで彼と偶然会えたなら、一番に「ありがとう」と伝えたい。

 ——先生にちゃんと話せたよ、と報告したい。

 

 そんな淡い期待を胸に抱きながら、順平は家への近道である、木々が生い茂る人気のない古い公園へと足を踏み入れた。

 夕闇が迫り、遊具の影が長く不気味に伸び始めている。普段なら少し薄気味悪く感じる場所だが、今の順平の心には恐怖よりも前向きな希望の方が勝っていた。

 

 ——ザッ

 

 不意に背後の砂利を踏みしめる足音が聞こえた。

 

(……!)

 

 順平はハッとして足を止めた。

 もしかして。そんな期待に胸を弾ませ、彼は急いで振り返った。

 

「虎杖く——」

 

 だが、順平の言葉は、口から出る前に喉の奥で完全に凍りついた。

 

「……やあ、吉野」

 

 そこに立っていたのは、太陽のような笑顔を向けてくれる少年ではなかった。

 いつも通りのスカした顔に隠しきれない苛立ちと、ねっとりとした陰湿な悪意をこれでもかと滲ませた男——伊藤翔太だった。

 

「い、とう……」

 

 順平の顔から、スゥッと血の気が引いていく。

 

 ——なぜ、彼がここにいる。外村先生は「今日中に必ず呼び出して問い詰める」と、そう言っていたはずだ。

 今頃は職員室か別室に軟禁され、教師たちから厳しい聴取を受けている時間ではないのか。

 

「——お前、外村のデブにチクったらしいな?」

 

 伊藤の口から低く吐き出されたその一言で、順平は一瞬にして状況の最悪さを察知した。

 

(バレてる……!)

 

 順平は弾かれたように踵を返し、一目散に逃げ出そうとした。

 だが——。

 

「おい陰キャ、どこに行くつもりだ?」

 

 振り返った先、公園の出口へと続く細い小道を塞ぐようにして三人の男がヘラヘラと下劣な笑みを浮かべて立ちはだかっていた。

 佐山西村本田。昨日、悠仁に気圧されて無様に逃げ帰っていった不良三人組だ。

 

 前を伊藤に、後ろを三人に完全に塞がれた順平は逃げ場を失い、公園のど真ん中で孤立してしまった。

 

「なっ、なんで……先生に呼ばれてたんじゃ……!」

 

 順平が震える声で絞り出すと、伊藤は鼻で「ハッ」と嗤った。

 

「馬鹿かお前。あの事勿れ主義のデブが、自分の担当科目を自習にしてまで他の教師とコソコソ動いてりゃ、何か嗅ぎつけられたってことくらい一発で分かるだろ」

 

 不良特有の悪事に対する無駄に鋭い嗅覚と悪知恵。

 順平が来ているらしいという噂と、外村たちが慌ただしく動き始めた時点で伊藤はすでに事態を察知していたのだ。

 

「で? 放課後に呼び出しがかかったけど、俺たちがそんなもん大人しく聞き入れて職員室に行くと思ったか?」

 

 伊藤がポケットに手を入れたまま、ジリッ、ジリッと順平との距離を詰めてくる。

 

「とりあえず学校をバックれて、お前がチクったのかどうかの()()()()()をしてやろうと思ってな。こいつらと合流して、お前の家の近くで張り込んでたんだよ」

 

 伊藤が顎でしゃくると、背後の佐山たちがニタニタと笑いながら順平の背後へとにじり寄ってきた。

 彼ら三人は昨日の悠仁に対する腹いせも重なっており、その目は完全にどす黒い暴力の喜びに染まっている。

 

「……で、お前のその怯えきったツラ見たら、一目瞭然だな」

 

 伊藤の顔からスカした笑みが消え去り——明確なドス黒い怒りが浮かび上がった。

 

「逃がすかよ、クソ陰キャが」

「昨日テメェのツレにコケにされた借り返させろや」

 

 背後から迫った佐山と西村が順平の両腕を乱暴に捻り上げ、その身体を強引に押さえ込んだ。

 

「がっ……! や、やめ……!」

 

 順平が抗う間もなく、正面に立っていた伊藤は一切の躊躇いもなくその足を振り上げた。

 

 ——ドゴッ!

 

「カハッ……!!」

 

 固いつま先が彼の鳩尾に深く、正確に突き刺さった。

 肺の中の空気が一瞬にして空っぽになり、胃液が逆流するような凄まじい激痛に、順平は声にならない呻きを上げてその場に崩れ落ちそうになる。だが、両腕を拘束されているため、中腰の無様な姿勢でガクガクと痙攣することしかできない。

 

 伊藤は痛みに涙目になっている彼の長い前髪をガシッと無造作に掴み、強引に上を向かせた。

 

「あ、ぐ……」

「あのさぁ」

 

 髪を引っ張られて首が反り返った状態の順平の顔を見下ろすその瞳には、学校で見せている「爽やかな優等生」の面影など微塵もなく、ただ他者を見下し痛めつけることに愉悦を覚えるサディストの素顔が剥き出しになっていた。

 

「俺って結構、親からのプレッシャーとかあるし。学校でそつなく優等生演じる日々もそれなりにストレス溜まるんだよね」

 

 伊藤の口から語られる、あまりにも身勝手で歪んだ自己正当化。

 

「それの解消に、お前を使ってやってたってのにさ……何してくれてんの?」

 

 ギリッ、と前髪を引っ張る手に力が込められる。

 頭皮が剥がれそうな痛みに順平が顔を歪めると、伊藤は順平の顔のすぐ数センチの距離まで顔を近づけ、爬虫類を思わせる冷酷な目で凄んだ。

 

「——死ぬか?」

 

 その本気の殺意すら孕んだ低い声に、順平の心臓が恐怖で大きく跳ねた。

 本当に殺されるかもしれない。本能的な恐怖に全身が粟立つ。

 

 ——だが。

 数秒の息詰まる沈黙の後、伊藤はパッと順平の前髪から手を離した。

 

「ハハッ」

 

 拘束されたまま咳き込む順平を見下ろし、伊藤はケラケラと軽薄な笑い声を上げた。

 

「嘘嘘、冗談だよ。流石に殺しちまったら誤魔化しが効かなくなる」

 

 その底知れない倫理観の欠如に、順平は絶望的な寒気を覚えた。この男にはどんな言葉も、どんな痛みの訴えも通じないのだ。

 

「……なぁ、吉野。今から外村に、『全部僕のでっち上げの嘘でした』って言ってこいよ」

 

 伊藤はポケットに手を入れたまま、悪魔のような妥協案を提示してきた。

 

「そしたら、次からお前殴るのは勘弁してやるからさ」

 

 カチャッ、チャキッ。

 彼のポケットから取り出されたのは、銀色に光るバタフライナイフだった。

 伊藤が手首をスナップさせて器用に刃を展開すると、その冷たく鋭い金属の切っ先が順平の頬にピタリとあてがわれた。

 

「ヒッ……!」

 

 刃の冷たさに、順平の喉がヒクッと鳴る。

 

「それが嫌ならさぁ……そのクソ軽い口を、もっと喋りやすくしてやろうか」

 

 伊藤はニヤニヤと笑いながら、ナイフの刃の平で順平の口の端をトントンと軽く叩いた。そして獲物をなぶるような、極めて下劣な声で言い放った。

 

「ほら、最近お前みたいな陰キャの間で流行ってんだろ? アレみたいにさ」

 

 ナイフの切っ先が、順平の頬を耳に向かってツーッとなぞる。

 

「『()()()()』みたいに、デカい口にしてやるよ」

 

 

 ——それは、伊藤にとっては単なる陰湿な軽口であり、相手を震え上がらせるための陳腐な脅し文句の一つでしかなかったはずだった。

 

 しかし。

 この場においては、違った。

 

 夕闇が迫り、異界との境界が曖昧になる『()()()()』。

 周囲に鏡や反射物のない、古く寂れた隔離された公園。

 ターゲットとなる伊藤たちはもとより、順平もまた、手鏡など持っていない。

 

 すべての()()が、完璧に揃ってしまった。

 

 そして何より。

 順平の圧倒的な恐怖と絶望、そして伊藤たち四人の陰湿な悪意という『負の感情』がドロドロの煮凝りと化して充満したこの空間。

 かの呪いの棲み着いたこの街でその名を口にするということは、一つの意味を持つこととなる。

 

 ——ピタッ。

 

 突然、風が止んだ。

 公園の木々を揺らしていた葉擦れの音も、遠くから聞こえていたはずの車の排気音も。

 

 一切の環境音が世界から切り取られたかのように消失した。

 

「……あ?」

 

 順平の頬にナイフを当てていた伊藤の顔から、薄笑いが消える。

 彼を拘束していた佐山と西村も、背後の本田も、突如として空間を支配した『異常な冷気と肌を刺すようなプレッシャーに、ビクリと肩を震わせた。

 

 どこからともなく——いや、彼らを包み込むような全方位の虚空から。

 

 ひどくしゃがれた、粘り気の不気味な声が。

 鼓膜を直接撫でるように、ねっとりと響き渡った。

 

 

『——ねぇ

 

 

 伊藤の動きが完全に硬直する。

 ナイフを持った手が、見えない氷に覆われたようにガタガタと震え始めた。

 

 順平の背後で、佐山たちが「ひっ」と短い悲鳴を上げて彼の拘束を解き、後ずさる気配がする。

 

 誰も声の主を探すために振り向くことすらできない。

 本能が、それを直視してはならないと全身の細胞を総動員して警鐘を鳴らしていた。

 

 

わた、

 

    わタ、

 

 

       わたし

 

 

 耳元で、カチャッ……カチャッ……という、巨大なハサミが擦れ合うような金属音が鳴り響く。

 そしてその声は、知られた()()を彼らに投げかけた。

 

 

きれい?




Q.バタフライナイフは鏡判定にならないの?
A.しっかり顔が映るような代物じゃないからセーフ
ということにしておきます、不良が脅しといえばバタフライナイフだろくらいのノリで使わせたら思いの外ツッコミが……
なんなら刃物自体は口裂け女も持ってるんですよねもっとでけぇやつ

■ 口裂け女の伝承
身長が二メートルある、100mを3or6or12秒で走る、空中に浮く、赤い傘で飛ぶなど結構多彩な能力持ち。なんかあまり速くないやつもいるみたい。
武器は大きなハサミだったり鉈だったり鎌だったりメスだったりと刃物中心。
服装は赤いコートだったり白いコートだったり浮浪者風だったり着物だったり。
調べれば調べるほど多彩すぎる。
三姉妹説だのなんだの、何故か「三」に関わる要素が多く、三のつく地名に現れやすいと言う説もあるとかなんとか。川崎もほら「三」が横倒しになってるし。
ちなみに「鏡が弱点」の記述は検索しても見つからなかった。


具体例はちょっと出てこないんですけど、不良ってこういうタイミングでいじめられっ子もろとも怪異に襲われるイメージありますよね?
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