禪院全「全ては僕の為に」 作:羂索ハードモード
これはァ——
——私らの仕事を、二日がかりにしてくれたお礼よッ!!!
その場にいる誰もが、文字通り指一本ぴくりとも動かすことができなかった。
吉野順平も、順平の髪を掴みナイフを当てていた伊藤翔太も。その後ろで薄ら笑いを浮かべていた佐山も、西村も、本田も。
五人全員が、呼吸をすることすら忘れ、ただカチカチと歯の根が合わない口だけがかすかな震えを漏らしている。
彼らの眼前に顕現したそれは真っ赤なトレンチコートを羽織り、顔の下半分を巨大なマスクで覆った異様に背の高い女の姿をしていた。
夕闇に沈む公園の薄暗がりの中にあってなお、彼女の放つ異質さは周囲の空気を泥のように重く、淀んだものへと変質させている。
一級仮想怨霊『口裂け女』。
それが展開したのは、都市伝説における「絶対のルール」を呪術として昇華させた、彼女特有の生得術式——問答を終えるまで互いに交戦と逃亡の不可を強いる特異な『簡易領域』。
それは彼女の不気味な問い掛けを聞き取り、その言葉を認識できる範囲を簡易的な領域と定めて回答を強制するという必中効果をもたらしていた。
呪術の「じゅ」の字も知らない単なる非術師である彼らには、その理屈など知る由もない。ただ、生物としての本能が「動けば死ぬ」と、脳の血管が千切れそうなほどの警鐘を鳴らしているのだ。
今の彼らに許されているのは、ただ問いに『答える』こと。
あるいは、『沈黙』を貫くことの二つのみ。
そしてその答えによっては——あるいは沈黙を選んだとしても、口裂け女による回避不能の先制攻撃を受けることとなる。
『ねェ、わタ、わたし、きレい?』
再び響く、鼓膜にねっとりと直接こびりつくような問いかけ。
——そんな予感が全員に悪寒として駆け巡る。
「あ……が……っ」
伊藤は手に持っていたバタフライナイフを順平の頬に当てた体勢のまま、顔を強張らせていた。
——恐怖。圧倒的な恐怖が彼の全身を支配していたが、同時にこれまで順平のような弱者を虐げて自分が絶対的な「強者」であると錯覚して生きてきた彼の薄っぺらな自尊心がこの理不尽な状況を許容できなかった。
恐怖を塗り潰すための、脊髄反射による虚勢。
それは伊藤だけでなく、背後にいた佐山たちも同じだった。
「……ッ、ふ、ふざけんな!! なんだテメェ、気味悪ィんだよババア!!」
「そうだ! いきなり出てきやがって、ぶっ殺すぞ!!」
「さっさと失せろ化け物!!」
震える声を張り上げ、彼らは口々に罵倒の言葉を吐き出した。
どうにかして金縛りを解こうと、虚勢を張って威嚇すれば相手が怯むと思い込んでいる、ひどく短絡的で愚かな選択。
その罵倒を聞いた瞬間、コートの女の目が三日月の形に細められた。
——ジョッ、キンッ。
一瞬の、静寂。
女は一歩も動いていない。ただその場で手を握るような動きをした途端、巨大なハサミが擦れ合うような金属音が彼らの耳元で響いた。
ゆっくりと、まるでスローモーションのように。
順平の目の前で伊藤の右耳が——そして背後の佐山、西村、本田の片耳が、それぞれ頭部から綺麗に削ぎ落とされてボトリと地面に落ちた。
「——え?」
伊藤が間抜けな声を漏らした直後。
切断面から、ドクドクと赤い血が噴き出した。
「あああああァァァァァッ!!??」
「ぎゃあああああ!! み、耳が!! 俺の耳があああ!!」
罵倒による「不正解」の判定が下り、先制攻撃による罰が執行されたことで、簡易領域による金縛りのルールが解除された。
糸が切れたように地面に崩れ落ちた不良四人は顔を血まみれにし、千切れるような悲鳴を上げてその場でのたうち回った。
——順平の顔に、彼らの血の飛沫が温かく跳ねる。
「ヒッ……!」
順平は腰を抜かし、地面を這うようにして後ずさった。
先ほどまで自分を痛めつけていた男たちが、今は子供のように泣き叫び、血まみれになって泥の中を転げ回っている。
だがその光景にカタルシスを覚える余裕など、順平には一ミリもなかった。
絶叫し泣き喚く彼らには一切目もくれず。
口裂け女はゆっくりと、その顔を順平の方へと向けたのだ。
「あ……」
順平の喉が、ヒュッと引き攣った。
彼女は決して伊藤たちという「悪童」を懲らしめに来た正義の味方などではない。ましてや、虐げられていた順平を救いに来たわけでもない。
ただ、この場所に呪いの条件が揃ったからこそ顕現し、法則に従って問答を繰り返すだけの、災害にも等しい純粋な
巨大なマスクに手をかけ、口裂け女は順平を見下ろした。
ギチギチと、ハサミの刃を鳴らしながら。
『……わたシ、きレい?』
三度目の問い。これに沈黙を貫けば、次こそ自分も切り刻まれる。
だが「きれいだ」と褒めたとして、どんな結果が待っているか分からない。何度も耳にした噂やかつて見た映画の知識がフラッシュバックするが、何が正解のルートなのか思考は恐怖で完全にショートして判断ができない。
「あ……、あ……」
順平の口からは、意味のある言葉は何も出てこない。ただ、絶望の淵でカチカチと歯を鳴らすことしかできなかった。
(どうする……どうすればいい……!)
極限の恐怖で白く染まりかける意識の中で、順平は必死に回らない頭を稼働させた。伊藤たちは彼女を罵倒した結果、目の前で問答無用に耳を切り落とされたのだ。
ならば、一縷の望みをかけて肯定するしかない。
ネットの知識では「きれい」と答えても結局は殺されるというパターンもあったが、今は他に縋れる生存の選択肢がなかった。
「き、……きれい、です……」
血の気が引いた唇から、震える声が細々と零れ落ちた。
自分でも何を言っているのか分からない。ただ、生き延びたいという本能だけが言わせた言葉だった。
ぴたり、と。
その答えを聞いた瞬間、口裂け女の動きが完全に止まった。
静寂。耳を押さえてうめき声を上げていた伊藤たちすらも、その異様な空気に呑まれ、息を潜めて女を注視した。
やがて、女の三日月形に細められた目元がにたりと——これ以上ないほどおぞましく、凶悪な歓喜の形へと歪んでいった。
彼女はゆっくりと両手を上げ、自らの顔の半分を隠している巨大なマスクへと指をかけた。
『——こレで、もォ?』
べりっ、と皮膚が剥がれるような湿った音を立ててマスクが外される。
「ヒッ……!!」
その下から現れた素顔を目の当たりにし、順平は短い悲鳴とともに息を呑んだ。
耳から耳へと、文字通り顔の半分を切り裂くように真っ二つに裂けた巨大な口。
その赤黒く爛れた裂け目の中には、サメのように鋭く尖った無数の歯が何列にもわたって乱雑に生え揃っていた。
ズルリと垂れた長い舌が動き、粘り気のある唾液が糸を引いてドロリと地面に落ちる。
「ヒィィィッ!! バケモノだ、バケモンだぁぁっ!!」
あまりにもグロテスクで現実離れしたその顔を見て、伊藤たちは顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら後ずさった。
失禁し這いつくばりながら後ずさる彼らの哀れな姿。
順平が「きれい」と答えたことで、問答の儀式は次のフェーズへと移行し、そして完全に終了した。
——それは即ち、彼らを縛っていた「交戦と逃亡を禁ずる簡易領域」の不可侵ルールが完全に解かれたことを意味していた。
儀式を終えた彼女は、もはや問答を強制する怨霊ではない。
ただ目前の獲物を引き裂き、自らと同じ苦痛を刻み込むだけの、純粋で凶暴な『呪い』として動き始めたのだ。
『おなジに、してアげル……』
ジャキッ……ジャキッ……。
口裂け女は、手に持った身の丈ほどもある巨大な銀色のハサミを不気味に鳴らしながら、一歩、また一歩と順平たちへと歩みを進める。
その瞳には、獲物をなぶる悦びに満ちた狂気が宿っていた。
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
「やめろッ! 来るな、来んなァァッ!!」
伊藤たちが半狂乱になって絶叫し、血まみれの頭を押さえながら公園の出口へと向かって這いずり逃げようとする。
だが、恐怖で足がもつれ、立ち上がることすらできない。
(殺される……口を、裂かれる……!)
迫り来る鋭いハサミの刃。
先ほど伊藤がナイフで言っていた「口を裂いてやる」という陳腐な脅し文句とは次元が違う。
——これは
本物の死と蹂躙が、すぐ目の前まで迫っている。
「や、やめてくれ……っ!」
尻餅をついたまま、必死に後ずさる順平。
だが、逃げ場はない。巨大な影が彼をすっぽりと覆い隠し、無慈悲な刃が振り上げられた。
公園の夕闇に、順平の絶望に満ちた悲鳴が虚しく響き渡る。
そして——。
「うおおおおおッッ!!!」
振り下ろされようとしていた巨大な糸切狭の刃を弾き飛ばすように、真横から凄まじい速度で飛来した
怒号とともに現れたのは、弾丸のように駆けつけてきた虎杖悠仁であった。
順平の悲鳴を聞きつけ一足飛びで公園の奥へと突っ込んできた彼は、その人間離れした跳躍力と勢いをそのまま右の拳に乗せ、宿儺の器たる肉体の全霊をもって打ち据えたのだ。
『ギッ!?』
不意を突かれた口裂け女だったが、腐っても一級仮想怨霊の格を見せつける。
咄嗟に手にした巨大な糸切鋏を盾のように身体の前に構え、悠仁の拳を真っ向から受け止めてみせたのだ。
ガィィィンッ! と金属同士が激突したような硬質な音が響く。
純粋な膂力だけなら、ギリギリで耐え凌げる——呪霊がそう判断した直後だった。
——ドッッッ!!!!
拳の衝突からほんの一瞬、コンマ数秒だけ遅れて爆発的な呪力の塊がまるで目に見えない二発目のハンマーのように糸切鋏を徹して口裂け女の身体を打ち抜いたのだ。
『ギ、ガァッ……!?』
ピキリ、と分厚い鋼鉄のハサミに亀裂が走り、口裂け女の長身がその二重の衝撃に耐えきれず、大きく後方へと弾き飛ばされた。
ズザザザァッ! と土を削りながら数メートル後退し、なんとか踏みとどまる仮想怨霊。
——
それは呪力の流れを掴み始めた悠仁を相手取る真希が組手の中で偶然発見した彼特有の悪癖であり、今の最大の武器であった。
人並み外れた身体能力に呪力というエネルギーの操作が追いつかず、
一度の打撃で生じる、物理的な衝撃と呪力の衝撃のタイムラグ。
それはさながら有名な漫画に登場する必殺技のような、変則的かつ破壊的な一撃となるのだ。
「っしゃ、効いてる! 順平ッ、今の内に——」
手応えを感じた悠仁は順平に呼びかけつつ、さらなる追撃をかけようと足に力を込めて地を蹴ろうとした。しかし、大きく態勢を崩したはずの口裂け女の周囲に再び泥のように重い呪力の空間が展開される。
一級という格は伊達ではない。
ダメージを受けてなお、瞬時に自らの有利なルールを敷く生得術式を発動させたのだ。
『——わタし、キレい?』
先ほどと同じ、粘り気のある強制的な問答。
その言葉が耳に届いた瞬間、猛然と突っ込んでいた悠仁の身体がピタリと停止させられた。
交戦と逃亡を禁じる簡易領域。自身の剛力をもってしても身体が全く言うことを聞かなくなるこの異常な現象に悠仁は焦りを隠せない。
「うおっ!? なんだこれ、動けねぇ!?」
無理な体勢のまま固まった悠仁に対し、口裂け女はハサミを鳴らしながら答えを待つ。
この金縛りを解くには、彼女の問いに「答える」しかない。
「ってか、綺麗かって聞かれてもなぁ……!」
悠仁は顔の半分を占めるおぞましいサメのような牙と、裂けた口から垂れる涎を真正面から見据えながらあっけらかんと言い放った。
「あー、普通だ、普通!」
真っ直ぐに放たれた、悠仁の回答。
伊地知と事前に話し合った、対口裂け女必勝の策だ。
『…………』
その瞬間、口裂け女の動きが完全にフリーズした。「きれい?」と言う質問に肯定すればマスクを外し「これでもか」と脅かし、否定すれば激高し襲いかかる。
それら二つのルートを想定された伝承のルールにおいて、いつしか付け加えられた「普通」という曖昧な回答は、この怪異への対処法の一つである。
『フつ、ウ? ふつウ……?』
口裂け女は巨大な糸切鋏を持ったまま、首をカクカクと不自然に傾げ、まるで壊れた機械のようにうわ言を繰り返し始めた。
「っしゃ! 動ける!」
回答の判定が下されたことで簡易領域の金縛りが解け、自由を取り戻した悠仁はもう一度爆発的な踏み込みで突貫した。
「らァッ!!」
今度は左の拳を握り込み、その顔面めがけて強烈な一撃を叩き込もうとする。
だが、処理落ちで硬直していたかに見えた口裂け女も目前まで迫った殺気に対して呪いとしての本能を起動させた。
『ァァァアァッ!!』
ギリギリのところで身を躱し、悠仁の拳を紙一重で避けると同時に、右手の巨大なハサミを鋭く振り抜いた。
「おわっ!」
悠仁は咄嗟に体を仰け反らせて刃を避けたが、着ていたパーカーの胸元が浅く切り裂かれた。
反撃を躱された悠仁と体勢を立て直した口裂け女。両者は距離を取り、再びジリジリと睨み合う。
——その隙を突いて。
「ヒィィッ……! 逃げろ、逃げろォォォッ!!」
「助けてっ、誰かああああ!!」
呪霊の意識が完全に悠仁へと向いたことで、這いつくばっていた伊藤たち四人の不良は、我先にと泣き叫びながら這々の体で公園の出口へと向かって一目散に逃げ出していった。
耳を失い、血だるまになった無様な背中。彼らにとって順平のことなど、もはや気にかける余裕すら微塵も残っていなかった。
「………………」
順平は自分をあんなにも理不尽に痛めつけていた彼らが惨めに悲鳴を上げながら逃げ去っていく姿を、ただ呆然と見送った。
そして、彼の視線はすぐに前方の光景へと引き戻された。
夕闇の中、口裂け女というおぞましい化け物と真っ向から対峙して一歩も引かずに拳を構えている少年の背中。
(虎杖、くん……)
自分とは違う世界に生きる、圧倒的な力を持った存在。だが、彼はその力を弱者を虐げるためではなく、ただ見ず知らずの自分を助けるためだけに使ってくれている。
——まるで、スクリーンから飛び出してきたヒーローのようだ。
順平はその広く頼もしい背中から、どうしても目を離すことができなかった。
——チャキッ、ジャキッ、ジャキンッ!
不気味な金属音が虚空から鳴り響く。
悠仁の周囲の空間が微かに歪んだかと思うと、その中からいくつもの大振りな糸切鋏が浮かび上がり、まるで意思を持つ蜂の群れのように刃を向けて襲いかかってきたのだ。
「うおっ!?」
悠仁は咄嗟に身を沈め、首筋を狙って飛んできた最初の一振りを躱す。
右から左から、さらに三振りのハサミが四肢を切り裂かんと飛来する。
先程伊藤ら不良達へ向けられた糸切鋏は、ほぼ回避不能の半必中攻撃として彼らの耳を『
だが今彼を取り囲むハサミは空中に浮かび、視認できる軌道を描いて飛んできている。
それは彼が問答において『否定』を選ばなかったことでペナルティを回避し、辛うじて物理的な回避が可能なレベルの攻撃へと緩和されているためだ。
「シッ!」
悠仁は持ち前の超人的な反射神経と、真希から叩き込まれた体捌きを駆使し、飛来するハサミの群れを次々と躱していく。
バックステップで刃を避け、身を捻って胴への一撃を躱し、呪力を込めた拳で飛んでくるハサミを弾き落とす。
しかし、いかんせん数が多い。
シュパッ!
「痛っ……!」
躱しきれなかった一振りが悠仁の頬を浅く切り裂き、別のハサミが腕や太ももの服を裂いて生傷を増やしていく。
血が滲み、ジリジリと体力が削られていくが、悠仁の視線は決して目の前の口裂け女本体から逸れることはなかった。
「順平ッ!! 俺がコイツを食い止めてる内に、なんとか逃げてくれ!!」
悠仁はハサミの雨を躱しながら、背後でへたり込んでいる順平に向かって叫んだ。
その声にハッとして、順平は地面に手をついて立ち上がろうとする。だが、極度の恐怖と、目の前で繰り広げられる非現実的な死闘に圧倒され、腰が完全に抜けてしまっていた。
(逃げなきゃ……でも、足が……動かない……!)
順平が震える足に必死に力を込めようとした、その時だった。
「く、くらえーっ!!!」
気の抜ける掛け声とともに、公園の茂みの奥から大量の黄色く透明な何かが勢いよく放り投げられ、口裂け女の足元へとバラバラと音を立てて降り注いだ。
コンビニの袋からぶちまけられた、大量の『べっこう飴』である。
「一般人、保護します!!」
息を切らしながら飛び出してきたのは、スーツ姿に眼鏡をかけた伊地知潔高だった。彼は補助監督として基本的に戦闘には参加しないが、非術師の保護と現場のサポートにおいてはプロフェッショナルである。
『……?』
突然足元にバラ撒かれた甘い匂いのする飴玉に、口裂け女の巨大な単眼がチラリとそちらへ向けられた。
伝承によれば、べっこう飴は彼女の大好物であり、これを与えれば夢中になって舐めるという「設定」がある。
だが——。
『キシャァァァァッ!!』
口裂け女は足元の飴玉をほんの一瞥しただけで即座に興味を失い、再び悠仁めがけて巨大なハサミを振り下ろしてきた。
いくら伝承のルールに縛られる仮想怨霊とはいえ、すでに戦闘に突入している状態である。目の前に命を脅かす敵がいるのにのんきに足元の飴を拾い集めるほど愚かではなかった。
「やっぱり戦闘中には効きませんか……! 虎杖くん、禪院準一級と釘崎二級には既に位置情報を連絡済みです!」
伊地知はそう叫びながら、這いつくばっている順平の脇に素早く入り込み、その身体を力強く抱え起こした。
「彼らが駆けつけるまで、なんとか持ち堪えてください!!」
「おう!! 任せとけ!!」
伊地知の頼もしい報告に、悠仁はニカッと血まみれの顔で笑って親指を立ててみせた。
「君、立てますか? こっちへ!」
「あ、はい……っ!」
伊地知に肩を貸してもらいながら、順平は公園の出口へと足を引きずるようにして向かう。
だが、その間も順平は、自分を逃がすために決死の覚悟で化け物の前に立ち塞がる悠仁の背中を、何度も何度も振り返って見ていた。
あの時、映画館を出たあとで見かけた彼ら三人が口裂け女について話し込んでいた内容。
都市伝説なんかに本気になっている彼らに「くだらない」と断じた感情が、いかに浅はかだったかを思い知らされながら。
「よっしゃ……!!」
順平と伊地知が安全圏へと退避したのを確認し、悠仁の目つきがスッと鋭く研ぎ澄まされた。
もう、背後を気にする必要はない。庇うべき一般人がいなくなったことで、悠仁は口裂け女に意識を完全に集中させる。
「うおおおおッ!!」
地を蹴る音が爆発し、悠仁の身体が弾丸のように口裂け女の懐へと飛び込む。
飛来する糸切鋏の雨を無理に躱すのではなく、急所だけを逸らしながら強引に突っ切る。
二撃、三撃と身体を浅く切り裂かれるが、異常なまでのタフネスがそれを致命傷にはさせない。
懐に潜り込み、下から上へ強烈なアッパーカットを口裂け女の顎めがけて振り上げる。
ガキィィンッ!!
だが、一級の壁はやはり厚かった。
口裂け女は巨大なハサミを交差させて悠仁の拳をいとも容易く受け止めると、遅れてくる呪力もいなして、蹴りを悠仁の腹部へと叩き込んだ。
「ごふっ……!!」
内臓を揺らす重い衝撃に息を詰まらせながらも、彼は吹き飛ばされる前に口裂け女の腕を掴み強引に引き寄せて至近距離から頭突きを見舞う。
ドゴッ! という鈍い音が響くが、口裂け女は怯みながらもさらにハサミを開いて悠仁の首を刈り取らんと迫る。
「くっそ……! やっぱ硬てぇし、重てぇ……!」
悠仁は間一髪で身を沈めてハサミの刃を躱しつつ攻勢を掛けるものの、圧倒的な呪力差を前にジリジリと押し込まれていく。
逕庭拳の遅れてくる呪力打撃を当てようにも、警戒した口裂け女はまともに攻撃を受けず、巨大なハサミのリーチを活かして徹底的に距離を保ちながら斬りかかってくるのだ。
(二人が来るまで……耐え切る……!)
血まみれになりながらも拳を強く握り直し、決して一歩も引くことなく仮想怨霊へと食らいつくものの、防戦一方でジリジリと後退を余儀なくされる悠仁。
口裂け女が彼の首を刈り取らんと、巨大なハサミを握った右腕を大きく振り上げた、その刹那だった。
公園を照らす点在した街灯の灯り。
その光によって地面に落ちた口裂け女の長い影の先端へ向けて、不自然にうごめく漆黒の影が、まるで水面を泳ぐ深海魚のように音もなく急接近してきた。
ズワァ——。
その影が突如として巨大な
——バツンッ!!!
『ギ、ギィィィッ!?』
口裂け女が驚愕の悲鳴を上げた。
影を噛み砕かれたはずの彼女の
激痛と見えざる拘束力によって、振り上げられた腕は空中で完全に固定され、ピクリとも動かせなくなる。
影を媒介に対象を噛み砕く、恵の拡張術式『影鰐』の真骨頂。
「な、なんだ!?」
悠仁が驚きの声を上げるのと同時に。
影鰐の黒い泥沼の中から、見慣れた人影が勢いよく飛び出してきた。
「ちゃんと足止めできたじゃない、褒めたげる!!」
禪院恵と釘崎野薔薇。
合流を果たした同期二人の姿に、悠仁の顔がパァッと明るく輝いた。
「恵! 釘崎!!」
影から飛び出した野薔薇は、空中でくるりと身を翻しながら腰のポーチから数本の五寸釘を抜き放ち、第二術式『念動』によって自身の眼前の空中にピタリと整列させて固定した。
「ハァッ!!」
着地すると同時に彼女の右手に握られた金槌がフルスイングで空を切り、空中に静止した釘の頭を正確に叩き据える。
キィィンッ!!
金属音が弾け、射出された五寸釘が影鰐によって空中に固定された口裂け女の右腕をめがけ矢のような速度で吸い込まれていく。
ドッッ、ズドドッ!!
巨大なハサミを握る腕の関節部に、呪力を帯びた釘が深々と突き刺さった。
「
野薔薇が指をパチンと鳴らす。
「——
突き刺さった釘を起点として、野薔薇の呪力が爆発的に膨れ上がり、腕の内部で激しく爆ぜた。
ドバァァンッ!! という破裂音と共に、口裂け女の右腕が肩口から無惨に引きちぎられ、黒い血飛沫を上げながら宙へと舞い上がる。
『ギィィィィィアアアアアッ!!!!』
右腕を失った激痛に、口裂け女が鼓膜を劈くような絶叫を上げた。
だが、野薔薇の猛攻はここでは終わらない。
「クイッ」と、野薔薇が左手の指先を手前に引く。
宙を舞っていた口裂け女の切断された右腕が、『念動』の力によって見えない糸に引かれるように野薔薇の目の前へと急速に引き寄せられ、空中にピタリと固定された。
さらに彼女のポーチからフワリと浮かび上がった藁人形が、固定された腕の真正面に陣取る。
野薔薇の顔に溜まりに溜まった鬱憤を晴らす、獰猛な笑みが浮かび上がった。
「これはァ——」
野薔薇は金槌を高く振り上げ、最後の一本の五寸釘を藁人形の心臓部にあてがった。
車中泊でバキバキになった身体の痛み。ろくなご飯も食べられず、川崎の街を歩き回らされた疲労と怒り。そのすべてを乗せた、怒涛のフルスイング。
「——私らの仕事を、二日がかりにしてくれたお礼よッ!!!」
カンッ!!!!
静かな夜の公園に、甲高い金属音が響き渡る。
「芻霊呪法・共鳴りッッ!!!!」
藁人形の心臓部を貫いた釘から、野薔薇の呪力が絶大な威力を伴って口裂け女の本体へとダイレクトに流れ込んだ。
『ギャ、ガァァアアッ!!!!!!』
口裂け女の胸の中心——心臓部で、野薔薇の呪力が無数の鋭い棘となって内側から激しく爆発し、分厚いトレンチコートが内側からズタズタに引き裂かれて黒い呪いの血が四方八方へと噴き出す。
二級以下程度の呪霊ならこの一撃で呪力の核を破壊され、完全に消滅していただろうほどの致命の一撃。
「殺ったか!?」
「いや殺っちゃ駄目だろうが」
野薔薇が金槌を下ろし、悠仁が歓声を上げるのを、恵は呆れて指摘する。
——だが。
『シュゥゥゥ……シィィィィ……!!』
紫色の煙を上げ、胸に大穴を開けられながらも。
口裂け女は残った左手でだらりと垂れた自らの顔を抑え、怨念に満ちた赤い目で三人を見据えながら、辛うじてその場に踏みとどまっていたのだ。
「チッ……流石は一級ってとこかしら」
野薔薇が忌々しげに舌打ちをする。
だが、その致命傷は確実に効いている。口裂け女の身体の輪郭がブレ、周囲の空間を支配していた重苦しい呪力のプレッシャーが明らかに減衰していた。
それでもなお、一級仮想怨霊としての執念か、はたまた都市伝説として語り継がれてきた恐怖の権化としての意地か。
口裂け女は裂けた口から「シィィィッ……」と不気味な呼気を漏らし、残った両足にギリッと力を込めた。
反撃に出るか、あるいは夜の闇へと逃亡を図るか。どちらにせよ、ここで態勢を立て直されれば厄介だ。全からの勅命である
「——逃がすかよ」
恵が冷徹に呟き、頭上の光球の出力を調整した。
口裂け女が地を蹴ろうと身を屈めた、まさにその背後。恵の足元から伸びた影が立体的に隆起し、『巨影』が音もなく顕現した。
麦わら帽子を被った八尺様を模した巨大な影の女が、逃げようとする口裂け女の背後から両腕を回し、その身体をガッチリと抱きすくめるようにして組み付いた。
「ギ、ガァッ……!?」
巨影の細くしなやかな腕が万力の如き力で口裂け女の身体を締め上げる。
もがこうにも、片腕を失い深手を負っている状態では影の巨人が放つ圧倒的な仮想の質量を振りほどくことは不可能だった。
逃亡も反撃も、完全に封じられた完璧な拘束。
「今だ虎杖、捕まえろ!!」
恵の鋭い指示が夜の公園に響く。
「おっしゃ、任せろッ!!」
その声にハッとした悠仁は、ポケットに突っ込んでいた肌色の不気味なキューブ——『
そしてピッチャーが剛速球を投げ込むかのような完璧なフォームで大きく振りかぶり、もがく口裂け女めがけて思い切り投げつけた。
「いっけぇぇぇぇ!!」
風を切り裂いて飛翔した魍魎匣が、巨影に拘束されている口裂け女の胴体にポスッ!と見事に命中する。
その瞬間だった。
キューブの表面に埋め込まれた血走った目玉が、ギョロリと獲物である口裂け女を見据える。
まるで意志を持っているかのように瞳孔が開いたかと思うと、キューブの表面が目の前の仮想怨霊の裂けた口にも負けず劣らずの勢いでガパァッ!! と大きく開かれたのだ。
シュゴォォォォッ!
『ギ、ギィィィィィィィアアアアッ……!?』
開かれたキューブの「口」の奥深くから、禪院全によって込められた『呪霊操術』の術式効果が発動する。
巨影に締め上げられていた口裂け女の長身が、まるで空間ごとねじ曲げられるようにしてドロドロと黒い泥のような流体へと変質していく。
そして、その黒い流体は球体——手の平大の漆黒の呪霊玉へと強引に圧縮されながら、魍魎匣の開かれた口の中へと凄まじい勢いで吸い込まれていった。
ポンッ、と。
最後の一滴まで残さず吸い尽くしたキューブは、満足げに口をパタンと閉じた。
一級仮想怨霊を完全に封じ込めた魍魎匣は、空中で力を失い、コロンと軽い音を立てて公園の地面の上に転がり落ちた。
まるで満腹になって微睡むかのように、埋め込まれた目玉がゆっくりと瞼を閉じていく。
先ほどまで公園全体を包み込んでいた、一級仮想怨霊の放つ重苦しい呪力のプレッシャーと身を刺すような悪寒が嘘のようにスッと霧散し、夜の涼しい風だけが吹き抜けていく。
三人の口裂け女捕獲任務は、無事に完遂された。
■ 口裂け女の「簡易領域」
問いかけを聞き取れた範囲を領域と定め、互いに交戦と逃走を禁じる。
対象の答えによって、口裂け女の行動が変わる。
Q.わたし、きれい?
A1.肯定→「これでも?」とマスクを取り脅かし、戦闘開始
A2.否定→すでに対象を挟んだ状態で鋏が出現、ほぼ必中の先制攻撃
A3.対抗策→ポマードなどで退散or怯みや困惑等で隙ができる
A4.沈黙や無関係の答え→三回まで問い直す、四回目で否定と同じ状況
……結界的なものも発生しないし、簡易領域とは?
そういう術式です、ってだけならいいんですが簡易領域だと言われてるのがややこしい。
何か範囲を決めて効果を及ぼすから範囲領域??
それなら条件当てはまるものは色々あるような……?
ひとまずこれで任務は終了、次回で幼魚と道標はエピローグとなります。