禪院全「全ては僕の為に」   作:羂索ハードモード

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大変だったね。……でも、もう大丈夫

私がいる



懐玉編
09.懐玉-軋む理想


 二〇〇六年。

 この日――『星漿体(せいしょうたい)』という、今後数百年の日本の呪術界を背負う重すぎる宿命を背負った少女、天内(あまない)理子(りこ)はひどく焦っていた。

 

(嘘でしょ……なんで、なんでこんな事に……!)

 

 先日、黒井が顔を青くして「理子様の居場所が漏れたかもしれない」と酷く焦っていたのは知っていた。

 黒井は理子の世話係であり、家族同然の存在だ。彼女に言われるまま理子もまた大人しく警戒してはいた。

 しかし。実際に()()()()()になるとは――今まで、宿命を受け入れながらも平穏に暮らしてきた理子には、想像もつかない事態だった。

 

「大人しく死んでくれ、星漿体」

 

 窓際で振り返った理子の視線の先。彼女をこの場所まで追い詰めていたのは、「Q」と名乗る呪詛師集団の男だった。

 コスプレの軍服めいた、まるで冗談のような衣装に身を包んだ男だが、その眼に宿る殺意と狂気は本物だった。男は下卑た笑いを浮かべながら、掌にボウッ、と熱を持つ炎の塊を溜め込んでいる。

 

「悪く思うなよ。恨むなら、天元(てんげん)を恨むんだな――」

 

 男が腕を振りかぶる。今にも、その爆炎がこちらへ放たれようとしていた。

 パニックになった理子は考えるよりも先に、唯一逃げ道として開いていた背後の窓から外へと飛び出していた。

 

きゃああああっ!?

 

 直後、彼女の背を焦がすような爆炎が住居の壁を粉砕しつつ凄まじい勢いで吹き抜け、窓の外へ躍り出た理子の華奢な体を容赦なく空へと弾き飛ばす。

 

「いっ……!!」

 

 炎の熱と衝撃で全身が痛む。だが、それよりも。

 弾き飛ばされ、空中に放り出された理子の視界がぐるり、と一回転し。

 

(こ、ここ……! すっっごく、高いんだった――ッ!!)

 

 理子が住んでいたのは、高層マンションの随分と高い階層だ。

 空中に放り出されたという事は即ち、為す術もなくそこから落下するという事に他ならない。

 ヒュウウウッ、と風を切る音とともに、急激な重力が容赦なく理子の体を下へ下へと引っ張っていく。

 

(死ぬ……! 私、ここで……死ぬんだ……!)

 

 迫りゆく無機質なアスファルトの地面に絶望し、理子は悲鳴を上げる事すらできず、ただ固く目を閉じた。

 

 ――しかし。

 いつまで経っても、全身がバラバラになるような衝撃は訪れなかった。

 代わりに、落下する彼女の体をふわりと柔らかい()()が攫い、優しく受け止めたのだ。

 

「……あれ?」

 

 まだ、死んでない?

 恐る恐る、理子はゆっくりと固く閉じていたまぶたを開けた。

 

「大変だったね。……でも、もう大丈夫」

 

 理子の目に飛び込んできたのは、空を背景にした一人の青年の姿だった。

 長い黒髪を後頭部でゆるく一つにまとめ、前髪を一筋だけ垂らした、ひどく整った顔立ちの男。

 彼は、信じられないことに、空中で理子を横抱きにしたまま、優しげに微笑みかけていた。

 

私がいる

 

 足場など何もないはずの空中で。

 青年は、風そのものを身に纏い、まるで呼吸するように自然に、身一つで空を飛んでいたのだ。

 

 呪術高専二年、特級呪術師・夏油傑。

 

 ――それが、数奇な運命に翻弄される少女と、若くして特級へ至った最強の術師の一人との、劇的な『ファーストコンタクト』であった。

 

 

***

 

 

「――そもそもさあ、帳ってそこまで必要?」

 

 呪術高専東京校の教室内で堂々とそんな事をのたまうのは、よりにもよって呪術御三家の一角たる五条家の御曹司にして次期当主。

 『六眼』と『無下限呪術』の抱き合わせで生まれた呪術界の麒麟児こと、五条悟であった。

 彼は、過保護で退屈な自宅を嫌って飛び出し、「卒業と同時に当主へ就任する」という前提でこの高専に入学していた。

 

「別にパンピーに見られたってどうってことないっしょ。どうせ非術師には呪霊も呪術も視えないんだからさ」

 

 丸いサングラス越しに面倒くさそうに息を吐き、そんな暴論を悪びれもせず口にする。それを隣で聞き、やれやれと呆れたように諌めるのは一つ結びの黒髪を揺らす青年、夏油傑である。

 

「駄目に決まっているだろ」

「なんでよ」

「呪術師は人々を守る存在だが、それは()()()()()だけの話じゃない。心の平穏だって守るのが、私達の使命なのさ」

 

 傑の言葉には、一片の迷いもなかった。

 

「視えない脅威こそが最も不安を呼び、不安こそが呪霊を生む。帳は、それを見せないためにあるんだ。……呪いを祓うだけが仕事じゃない。不安に震える人に寄り添い、心を助けるのも仕事さ。『()()()()()()()()()()』とね」

 

 かつて幼い頃、家の前に居座る呪霊を鮮やかに祓い、不安に震える自身に寄り添い「僕がいる」と優しく微笑んでくれたあの若き呪術師のように。

 傑にとっての呪術師とは、まさしく弱きを助け、安心をもたらす存在そのものであった。

 

「うっぜ。ヒーローかよ」

 

 悟は心底気持ち悪そうに顔をしかめ、吐き捨てる。

 だが傑は、親友からの口の悪い皮肉などどこ吹く風とばかりに、涼やかに笑ってみせた。

 

「ヒーローさ。少なくとも、救われる側から見た呪術師はね」

 

 傲岸不遜で天上天下唯我独尊を地で行く悟と、高潔で真っ直ぐな理想を掲げる傑。正反対でありながら、自他共に認める「最強の二人」である彼らの歩みは、呪術界を取り巻く巨大なうねりの中で交差していくのであった。

 

 

***

 

 

「――硝子はどうした」

 

 ガラッ、と教室の扉が荒々しく開き、担任である夜蛾正道が姿を現した。

 無人の教卓へと向かいながら、夜蛾はいつものように黒板ではなく、机にだらしなく突っ伏している悟と、姿勢良く座っている傑の二人を見渡した。

 

「さあ? 便所でしょ」

「女子のことは分かりませんね」

 

 興味なさげに、そして飄々と答える二人の問題児を前に、夜蛾は深い深いため息を一つ吐き出した。

 

「……まあいい。今回の任務は、東京校からはオマエ達二人に行ってもらうことになっている」

 

 任務、という言葉に、傑の瞳に微かな意気込みの色が宿る。対照的に、悟の方はあからさまに「えぇー」と顔をしかめた。

 

「悟、なんだそのツラは」

「別にー。『このヒーロー馬鹿と一緒かよ』とか欠片も思ってないですよー」

 

 思っていることが完全に表情と言葉に出ている悟を、夜蛾はジロリと睨みつけたが、すぐにその視線を真剣なものへと切り替えた。

 

「実力はともかくとして……オマエら二人には、正直、荷が重い任務だと思う。だが、他でもない()()()からの直々のご指名だ」

 

 『天元』。その単語が出た瞬間、悟の顔から「退屈」がすっと消え失せた。傑もまた、僅かに背筋を正す。

 

「今回の任務は、天元様との適合者たる『星漿体(せいしょうたい)』の少女の護衛。そして、――『抹消』だ」

 

 夜蛾の放った重い言葉が、教室の空気をピンと張り詰めさせた。

 星漿体の護衛、そして抹消。それは即ち、不死の術式を持つ天元が()()()()()を防ぐために自身の肉体を初期化する――そのための「人身御供(ひとみごくう)」として、適合者である少女を天元と同化させるという事に他ならない。

 

「…………」

 

 その事実を確認した瞬間、傑の顔がにわかに曇った。

 日本の呪術界の要所を守り、日本中に張られた結界を強固にし、補助監督たちの結界術を補佐する天元。

 その天元が人ならざるものへ変質してしまえば、最悪の場合天元が人類の敵に回るなど、呪術界――ひいては日本そのものにとって取り返しのつかない事態になることは傑も頭では理解していた。

 

「天元様が変化してしまうことが、どれほどの脅威をもたらすかは分かります」

 

 傑は、組んだ手の上に顎を乗せ、どこか苦しげな色を滲ませて夜蛾を見据えた。

 

「しかし……罪のない一人の少女にすべてを背負わせ、犠牲にするというのは。……正直、やりきれませんね」

 

 ヒーローとして弱きを助けることを信条とする彼にとって、「大義のために犠牲を強いる」というその呪術界のシステムの根本は、到底受け入れがたい、呑み込みづらいものであったのだ。

 

 夜蛾は、傑のその真っ直ぐな苦悩に対して、つとめて冷静に、表情を崩さぬまま言葉を紡いだ。

 

「……秩序を守るためには、時に非情な判断が必要となることもある。こと、呪術の世界ではな」

 

 その言葉は、教育者としての厳しさと、大人としての痛みが入り混じったものだった。

 

「ヒーローの如き存在でありたいと願うことは構わん。だが……肝心なときに、判断を間違えるようにはならないでくれ」

 

 傑は、何かを呑み込むように一つだけ瞑目し、静かに頷いた。悟はそんな親友と教師の空気を黙って眺めていた。

 

「……さて、切り替えるぞ」

 

 夜蛾は教卓に両手をつき、声のトーンを完全な「作戦説明」のものへと変えた。

 

「星漿体の少女の所在が敵に漏れてしまった。今、彼女を狙っている勢力は大きく分けて二つ」

 

 夜蛾は黒板に荒い字でそれぞれの名を書き殴る。

 

「一つは、天元様を暴走させ、呪詛師にとって著しく不利となった今の体制を覆そうと目論む呪詛師集団――『』」

 

 この呪詛師暗黒時代に勢力を維持している、軍服コスプレの連中だ。

 見た目は滑稽だが、今まで呪詛師狩りから逃れ続けているという実績はある。

 

「そしてもう一つ。天元様を信仰崇拝する宗教団体――盤星教『時の器の会』。こちらは非術師の集団だが、数と資金力がある。何をしてくるか分からん」

 

 呪詛師集団と、カルト宗教。

 星漿体を巡って暗躍する二つの勢力を聞いた悟は、僅かに口角を上げた。

 

「ふーん。面倒くさそうだけど、まあ雑魚っしょ?」

 

 夜蛾は悟を一瞥し、無視して続ける。

 

「同化は二日後の満月だ。それまで星漿体を護衛し、確実に天元様のもとへ送り届けろ。――なお、禪院家からも護衛として一名が派遣されている。現地で合流しろ」

 

 

***

 

 

 ――そして時は現在に戻り。

 傑は無事に星漿体たる天内理子を抱え、壁の吹き飛んだ彼女のマンションの部屋へと戻ってきていた。

 

 風通しが良すぎる室内。壁の一面がポッカリと吹き飛んだ「元・窓のあった壁」から、夜風がごうごうと吹き込んでくる。

 その惨状とは裏腹に、部屋の中央には妙に間の抜けた光景が広がっていた。

 

ギブ! ギブギブギブ!! もう参った! 参りましたーッ!!」

 

 先ほど理子を襲った「Q」の呪詛師――コードネーム「コークン」と名乗っていた男が、まるで繭のごとくガチガチに縛り上げられ、床に転がされてベソベソと喚いていた。

 そして、その哀れな呪詛師を容赦なく足蹴にしているのは、着流し姿の若い男であった。

 

 風穴から風を纏って悠々と帰還した傑を一瞥し、男は鼻を鳴らした。

 

「はん、ちゃんとキャッチできたんやね、傑クン。落としたらどないしょうかと思ってたわ」

「……そちらも、無事に制圧できたようだね」

 

 着流しの男を見て、傑は僅かに表情を引き締める。

 禪院家から護衛として派遣された若き特別一級術師――禪院直哉

 禪院家二十六代当主・全の腹心たる直毘人の息子であり、投射呪法の使い手にして、すでに『炳』の中でも屈指の実力を持つと評される、飄々とした男だった。

 

「……トドメは刺さないのかい?」

 

 傑が足元のコークンを見下ろして問うと、直哉は心底呆れたような顔をした。

 

「アホ言いなや。生け捕りにしたらな、ご当主サマへの貢物になるんよ。死んどったらただのゴミやけど、生きとったら術式も寿命もぜーんぶ絞れる立派な資源や」

 

 直哉がニヤリと笑いながらそう言った瞬間。

 

イヤーッ!! それだけはやめてえええ!! 呪詛師辞めるからあああ!! 絞り取られるの嫌ああああ!!

 

 足元のコークンが盛大にわめき始めた。

 直哉は表情一つ変えぬまま、暴れる呪詛師の頭を絶妙な力加減で蹴り飛ばした。

 

「うるさいわ」

 

 ゴンッ、という鈍い音とともに、コークンは白目を剥いて静かになった。

 

「……」

 

 その一連のやり取りを見ていた傑は、複雑な色を瞳に湛えたまま、小さく目を伏せた。

 

 ――禪院家二十六代当主、禪院全

 今の呪術界の体制をたった一人で築き上げ、天元と並ぶ呪術界の()()()()とまで称される男。

 捕えた呪詛師から術式と寿命を根こそぎ吸い取り、そのすべてをすりつぶして()()とする。呪術界の秩序と安寧のために、人間を燃料として消費するシステムの創造者。

 呪いによる被害を就任以前と比べ劇的に減らした功績を持つ一方で、呪詛師を――人間をも資源と見做す冷徹な支配者。

 

 傑は、禪院全という男を、いまだにどう判断していいのか分からなかった。

 

 

 

 そんな傑の内心をよそに、彼のガラケーがブッと震えた。

 液晶画面に送られてきた「写メ」を覗き込むと、そこにはズタボロに伸びたロン毛の男と、サングラスをかけた銀髪の青年が並んで映ったツーショット写真があった。

 

「お……さすがやね、悟クン。Qの最高戦力とやらも、ちゃーんと生け捕りにしてくれたんやね」

 

 画面を覗き込んだ直哉は感心したように目を細め、口角をニヤリと上げた。

 

 その笑みと電話に視線を向けながら、傑の隣で恐る恐る周囲を見渡していた少女――理子は、今度は傑と直哉を交互に見比べた。

 落下の衝撃か。あるいは、絶望の淵で突如現れた長身のイケメンにお姫様抱っこで救われた吊り橋効果か。

 理子の心臓はまだ激しくドクドクと脈打っていたが、ようやく「生きている」という実感が戻ってきたのか、やっと落ち着いた声で口を開いた。

 

「お、お主らが……(わらわ)の護衛か……?」

 

 次の瞬間、直哉がプッと噴き出した。

 

「なんやそれ。今どき、うちのババアどもでも『わらわ』とか言わんで。ガッコでいじめられとるんちゃう?」

 

 カッと耳まで顔を赤らめた理子が、ムッと肩を怒らせる。

 

「がっ……! 学校では普通に喋ってるもん!! これは、その、雰囲気的に……!!」

「雰囲気ぃ?」

 

 直哉がまたニヤニヤと楽しげに口を歪める。肩を怒らせたまま俯く理子の隣で、傑がやれやれと苦笑しながら、その細い肩をポン、と優しく叩いた。

 

「まあまあ。重い宿命を前に、自分を飾って奮い立たせるのは悪いことじゃないと思うよ」

 

 その言葉は、からかい半分ではなく、まっすぐに理子のことを思いやるものだった。

 

「……べ、別に飾るとかじゃ……」

 

 理子が言葉を濁して横を向いた、その瞬間。

 

お嬢様――!!

 

 部屋の入り口の方から、息を切らした女性の声が飛んできた。

 見れば、コート姿の女性が転がり込むように室内に駆け込んできて、その勢いのまま理子にしがみつくようにして抱きついた。

 

「く、黒井!?」

「ご無事でよかった……! 本当によかった……!!」

 

 涙目で理子を抱きしめる黒井を見て、理子もまた、ようやく安堵の表情を見せた。

 そして。その黒井が入ってきた入り口に、するりと飄々とした足取りで立ちはだかる人影があった。

 

「うっわ、ここ風通し良すぎだろ! 匠の粋な仕事ってやつか?」

 

 丸いサングラスをかけた銀髪の青年、五条悟。

 その右手には、腕をだらんと弛緩させてグッタリと気を失ったロン毛男の襟首が、まるでゴミ袋でも提げるかのようにひょいと掴まれてぶら下がっていた。

 

「近くで縛られてた。関係者みたいだし連れてきた」

 

 黒井を横目で見ながら告げる悟に対し、傑は一つ頷いた。

 

「ご苦労様」

「待ってたで、悟クン」

 

 直哉が面白そうに嗤い、傑が微かに苦笑する。

 床に転がるコークン、ぐったりと吊るされた最高戦力バイエル、早くも瓦解したQと言う組織を背に、護衛任務に集まった全員が今ここに顔を揃えた。

 

 天内理子と黒井、呪術高専東京校二年・五条悟と夏油傑、そして禪院家より派遣された特別一級術師・禪院直哉。

 

 ――これで、二日後の満月までの護衛作戦の全員が、揃ったのであった。

 

 

***

 

 

「いやー、同化を目前にしておセンチになってたら、気い遣うのめんどくせーなって思ってたんだけどさ」

 

 吹き飛んだ壁の隙間から吹き込む夜風に銀髪を揺らしながら、悟は口の端をニヤリと吊り上げた。

 丸いサングラスの奥で、蒼天の瞳が理子を値踏みするように見下ろしている。

 

「元気そうじゃんか。ていうか壁ぶち抜かれて外に放り出されたばっかってのに、ずいぶんと肝が据わってんね、ガキのくせに」

 

 からかうような、それでいてどこか面白がるような悟の物言いに、理子の顔がカッと朱に染まった。

 先ほどまで怯えていたのが嘘のように、彼女は黒井の腕から離れ、バンッと胸を張ってみせる。

 

「フンッ! いかにも下賎な者の考え方じゃな!」

 

 むっふー、と誇らしげに鼻息を荒くする理子。

 「下賎」呼ばわりされた悟のこめかみにピキッと青筋が浮かんだが、理子はそんな危険信号など全く意に介する様子もなく、高らかに演説をぶち上げ始めた。

 

「いいか、天元様は妾となり、妾は天元様となるのだ! 同化を()と混同して悲観する阿呆も多いが、それは大きな間違いじゃ!」

 

 理子はビシッと悟を指差し、得意げな顔で語り続ける。

 

「妾の意志、妾の魂は天元様という高次なる存在の中で生き続ける! 悲しむ要素など微塵もない! むしろ名誉! 至上の喜びと知れ!」

 

 それは、物心ついた時から「星漿体」として育てられ、己の命を捧げることを運命づけられてきた少女が、恐怖を押し殺し、自己を保つために必死に組み上げた『理論武装』だろう。

 虚勢であり、自己暗示。そうでも思わなければ、今日まで正気を保って生きてなどこられなかったのだ。

 

 しかし。彼女がどれほど胸を張り、言葉を尽くして自らの覚悟を語ろうとも。

 聞かせる相手が、致命的に悪かった。

 

「……あー、ハイハイ。で、今日の飯どうすっかなぁ」

 

 悟は、理子が語り始めた時点ですでに興味を完全に失っており、手元のガラケーをパチパチと操作して今日の夕飯の店を検索し始めていた。

 

「…………」

 

 一方、直哉はといえば、壁によりかかったまま完全に上の空だった。

 彼の視線は理子ではなく、床に転がっているQの呪詛師――コークンとバイエルに向けられている。

 

(このロン毛の方の呪詛師、なかなかええ呪力しとるやんけ。これなら当主サマも喜んで買い取ってくれるやろ。若う見えるし寿命も上々、術式は……)

 

 直哉の脳内は、目の前の少女の命や使命などよりも、「この生け捕りにした呪詛師たちを禪院家に持ち帰ったら、全からどれほど褒められ、評価されるか」という査定計算で完全に占められていた。彼にとって天元の同化など、一族の利益に比べれば欠伸が出るほどどうでもいい事なのだ。

 

 自分が決死の覚悟で語った誇り高き使命を、見事なまでに馬耳東風でスルーする護衛二人。

 

「――って聞けぇおのれら!!」

 

 理子の堪忍袋の緒がブチッと切れ、顔を真っ赤にして怒髪天を突く勢いで怒鳴り声を上げた。

 ガラケーから目を離さない悟と、うるさそうに小指で耳をほじり出す直哉。

 

 そんな、まるで噛み合わないドタバタ喜劇のような光景の中で。

 傑だけが、痛ましげな顔で理子を眺めていた。

 

(……悲しむ要素など微塵もない、か)

 

 傑の胸の奥が、チクリと痛む。

 彼女の言葉が、強がり以外の何物でもないことは明白だった。

 あんなにも誇らしげに語る理子の手は、微かに、しかし確かに震えていたからだ。

 死を目前にした少女が、自らを納得させるために必死に自分に言い聞かせている空元気。

 

 弱きを助け、人々の平穏を守るのが呪術師の使命だと信じている傑にとって、この少女の姿はあまりにも残酷な矛盾の象徴だった。

 呪術界という「システム」を維持するために、このまだ中学生の少女の未来を、可能性を、文字通りすべてすり潰して犠牲にする。

 同化。それはどう取り繕おうとも、天内理子という一個人の『死』に他ならない。

 

(これが、私達の守るべき秩序なのか……?)

 

 傑は、視線を理子から、床で気絶している呪詛師たちへと無意識に移した。

 そして、直哉の言葉を思い出す。

 ――『生きとったら術式も寿命もぜーんぶ絞れる立派な資源や』。

 

 天元の同化のために、罪なき少女を『人身御供』として捧げる呪術界のシステム。

 そして、禪院全という特異点が創り上げた、悪人を徹底的に()()として消費し尽くすシステム。

 どちらも、個人の尊厳をシステムの維持のために蹂躙しているという点では、根っこは同じなのではないか。

 

「……はぁ」

 

 傑は誰にも聞こえないほどの小さなため息をこぼし、前髪を掻き上げた。

 少なくとも自分は、二日後の満月まで――彼女が自らの運命を受け入れるその瞬間まで、全力で彼女の命と、その『』を守り抜こう。

 それが、せめてもの彼なりの「ヒーロー」としての矜持であった。

 

「……さて」

 

 傑は意識を切り替え、手を叩いて場を仕切り直した。

 

「理子ちゃん、黒井さん。ここの壁が吹き飛んでしまった以上、もうこの部屋は安全じゃない。すぐに拠点へ移動しよう」

「あ、ハイ。そうですね」

 

 黒井が慌てて頷く。

 理子はまだ「妾の話を無視するなァ!」と悟に食って掛かっていたが、悟がヒョイと理子の頭に手を置いて「はいはい、移動すんぞガキ」とあしらった。

 

「おっしゃ、ほな俺らも仕事といくか」

 

 直哉がニヤリと笑い、足元に転がっていたコークンの襟首を乱暴に掴み上げる。

 悟もまた、デカブツのバイエルを引きずり起こした。

 

「……直哉くん。その呪詛師たち、どうするつもりだい?」

 

 傑が、少しだけ声を硬くして尋ねた。

 本来であれば、捕らえた呪詛師は高専を通じて総監部へと引き渡し、然るべき処罰を受けさせるのが正規のルートである。

 

 直哉は、心底不思議そうな顔で傑を振り返った。

 

「どうするも何も、俺の獲物やで? 当然、禪院の家へ持ち帰って当主サマに献上するに決まっとるやろ」

「彼らは今回の事件の重要参考人だ。総監部に引き渡すべきだと思うが」

「アホ言うな」

 

 直哉は鼻で笑い、傑を小馬鹿にするように首を傾げた。

 

「総監部のジジイどもに引き渡したって、どうせ裏で禪院家に横流しされるのがオチや。今の呪術界、どいつもこいつも当主サマのご機嫌取りで必死やからな。……そんな二度手間踏むくらいなら、俺が直接持って帰って手柄にした方がよっぽど合理的やんけ」

 

 その言葉は、傑にとって重い現実の宣告だった。

 禪院全の『術式売買』と『寿命の再分配』という強烈なビジネスは、すでに呪術界の司法のプロセスすらも形骸化させ、すべてを禪院家という巨大な胃袋へと直結させてしまっているのだ。

 

「……悟。バイエルの方はどうする?」

 

 傑は、もう一人の捕虜を持つ親友へ視線を向けた。

 

「あー? こいつ?」

 

 悟はぶら下げたバイエルを軽く揺らし、サングラス越しに直哉を一瞥した。

 

「まあ、総監部に渡すのもめんどくせーしな。おい直哉、こっちのロン毛もお前のとこの当主サマに売ってやるよ。これで貸し一つな」

「……ええで。当主サマも喜ぶわ」

 

 直哉がニタニタと笑い、悟も気楽な調子で商談を成立させてしまう。

 

「悟……!」

「いいじゃんか傑。どうせ死刑になるような連中だ、誰がどう処理しようが結果は同じだろ」

 

 悟にとっては、もはや細かいルールなどどうでもよかった。

 傑は強く拳を握りしめ、何かを言いかけたが――結局、それ以上反論することはできなかった。

 理子の命を守るための時間が優先であり、今は組織の腐敗を正している場合ではないからだ。

 

「……行こう。車の手配は終わっているはずだ」

 

 傑は背を向け、理子と黒井を先導するように歩き出した。

 その背中には彼自身も気づかぬほどの重く暗い「歪み」の影が落ち始めていた。

 

 

 

 

「しっかし、俺と傑で十分だろうに」

 

 確保した呪詛師二人を後始末のために駆けつけた補助監督の運転する車へと乱暴に放り込みトランクをバンッと閉めながら、悟はあからさまに不満そうな顔でボヤいた。

 彼の視線は、隣で飄々と腕を組んでいる直哉へと向けられている。

 

「俺と傑は特級で、お前は一級だろ? 一人だけ格落ちじゃね? 足引っ張んなよー?」

 

 ニシシと意地悪な笑みを浮かべ、丸いサングラスをわずかにずらして、悟は悪意なく直哉を煽り立てた。

 今や、呪術界全体が全の『術式提供と寿命の再分配』という強烈なビジネスに骨抜きにされ、総監部も加茂家も禪院家にはほとんど頭が上がらない状態にある。

 

 しかし、五条家だけはその傾向が薄かった。

 彼らには五条悟という『六眼』と『無下限呪術』を併せ持つ、数百年ぶりの完全無欠な神童がいる。どれだけ禪院の若き当主が他者の術式をかき集めて一族を武装させようとも、()()()()()の前では烏合に過ぎない。

 そんな家の絶対的な自信と、何より悟自身が他人の家の事情など微塵も考慮しない奔放な性格をしているからこその、遠慮のない発言であった。

 

 だが、その煽りを受けた直哉の顔に怒りの色はなかった。

 むしろ、獲物を前にした肉食獣のように口角を深く吊り上げ、ギラギラとした好戦的な視線を悟へと向け返した。

 

「まあ、そう言わんと」

 

 直哉は余裕たっぷりに肩をすくめる。

 

「特級なんて、単独で国家転覆できるかどうかが尺度やろ? 被害の規模がデカいだけで、一対一で直接やったら……わからんで?」

 

 直哉のギラギラとした視線が、まずは隣に立つ傑へと鋭く突き刺さった。

 「広範囲の制圧」には特級であるお前たちに分があるかもしれないが、純粋なタイマンでの殺傷能力――投射呪法の『速さ』においては、一級の自分の方が上だと暗に宣戦布告しているのだ。

 その視線を受けても傑は表情を変えず、ただ静かに溜め息を吐いた。

 

「それに加え、悟クンにも言っとくわ」

 

 直哉の視線が、今度は不敵に笑う悟へと移る。

 

()()言うけどな……うちのご当主サマも、文字通りのバケモンやで? いくら悟クンでも、あの人に勝つのは厳しいと思うけどなー」

 

 直哉の脳裏には、幼き日に見た全の圧倒的な暴力――複数の術式を同時に操り、一族最速の父を赤子のように捻り潰したあの光景が未だに鮮烈に焼き付いている。

 だからこそ、目の前の神童に対しても一歩も引く気はなかった。

 

「ハッ」

 

 その言葉を聞いた瞬間に悟は鼻で笑い、心底馬鹿にしたように肩を揺らした。

 

「最強は、一番強いから最強なんだよ」

 

 悟の蒼天の瞳が、サングラスの奥から直哉の瞳を真っ向から射抜く。

 天上天下唯我独尊。世界でただ一人の、選ばれし者だけが持つ絶対的な自信。

 

「塵を積み上げて山にしたって、星には届かねーの。……お前のとこの当主サマがどれだけ他人のゴミを拾い集めたって、俺の無限にはかすりもしねえよ」

 

 傲岸不遜な悟の断言。

 直哉はピキリとこめかみに青筋を浮かべたが、すぐに「へぇ、言うやんけ」とさらに闘志を燃やして笑みを深めた。

 彼にとって、全も悟も「いずれ超えるべき壁」である。この最強の同年代との舌戦は、直哉のプライドを心地よく刺激するだけだった。

 

「……はぁ」

 

 そんな、一触即発の御三家のバチバチとした睨み合いを前にして。

 傑は、額を押さえて本日何度目か分からない深いため息をついていた。

 

 天元との同化という、少女の命を犠牲にする残酷なシステム。呪詛師とはいえ、人間の命や術式を資源として消費し、貪り食う禪院家の当主。

 そして己の力だけを信じ、弱き者の痛みや呪術界の秩序など意に介さない親友と、血の気の多い御曹司。

 

 呪術界に身を置き始めて数年。

 幼少期、自分を救ってくれたあの呪術師に憧れて「弱きを助けるヒーロー」を夢見ていた傑の心は、このドロドロとした血と呪いと政治が渦巻く現実を前に、少しずつ、確実に曇り始めていた。

 どこを見渡しても、自分の信じる「正義」や「優しさ」は、この狂った世界ではあまりにも無力で、場違いにすら思えてくる。

 

(……しかし、だからこそ)

 

 傑は視線を悟と直哉から外し、少し離れた場所で不安げに黒井の手を握っている理子へと向けた。

 こんな狂った世界だからこそ、自分くらいはあの日の呪術師のような「理想」を体現していたい。

 

 弱きを助け、不安を取り除き、そして命を守る。

 それがどんなに綺麗事で、どんなに矛盾に満ちていようとも。せめて、この少女が自らの運命を受け入れるその瞬間まで、自分は彼女のヒーローであり続けよう。

 

「……悟、直哉。無駄口を叩いている暇はないよ。理子ちゃんを安全な拠点へ移すのが最優先だ。移動するぞ」

 

 傑は、己の内に巣食い始めた黒い感情を無理やり押し殺し、努めて冷静な声で二人を促した。

 

「チッ、わーかってるよ優等生」

「しゃーないな。ほな、さっさとこのガキのお守りを終わらせよか」

 

 二人の問題児も、不満げに舌打ちしながらも傑の言葉には従い、歩き出した。

 理子の護衛という重すぎる任務は、まだ始まったばかり。

 そして、この時はまだ誰も――彼ら特級呪術師でさえも、気付いてはいなかったのだ。

 この護衛任務の裏で、何が動いているのかと言うことを。

 

 

***

 

 

「――ハア!? 学校に行きたい!?」

 

 さあ高専へとっとと向かおうと準備を整えた間際になって、悟の耳をつんざくようなデカい声が響き渡った。

 

「馬鹿じゃねーの!? とっとと高専の結界の中に向かった方が安全だろ!」

 

 悟は丸いサングラスをわずかにずらし、目の前で仁王立ちしている理子を信じられないものを見るような目で見下ろした。

 二日後には天元との同化が控えており、今もなおQの残党や盤星教の刺客が彼女の命を狙って血眼になっているというのに。

 よりにもよって、この状況で「中学校に行きたい」と言い出したのだ。

 

「うるさい! 行くったら行くのじゃ!」

 

 理子は悟の剣幕に一切ひるむことなく、ダンダンッと床を強く踏み鳴らして地団太を踏んだ。

 

「妾は今日、大切な合唱コンクールの練習があるのじゃ! 友と約束した大事な用事! 呪術師どもの都合で休めるか!」

「がっしょうこんくーるぅ!? 出る訳でもねーもんの練習してどうすんだよ!」

「う、ぐぅぅ……! で、出る出ないの問題ではないわ!!」

 

 そのあまりに子供じみた、しかし必死な主張。

 悟は完全に呆れ返り、「はぁ……」と深いため息をついて天井を仰いだ。

 その傍らで、理子の世話係である黒井はハンカチを握りしめ、痛ましげな目で理子を見つめている。彼女の我が儘の裏にある、あまりにも悲痛な「理由」を誰よりも理解しているからだ。

 

 傑もまた、悟をたしなめるように前に出た。

 

「悟、落ち着いて。……今、夜蛾先生に電話で確認を取ったところだ」

 

 傑は手元のガラケーを閉じながら、どこか重苦しい声で告げた。

 

「『天元様は、天内理子の要望には全て応えよとご命令された』……だそうだ。彼女が望むなら、学校への登校も許可する、と」

 

 その言葉に、理子の顔がパッと明るくなった。

 対照的に、悟は「マジかよ天元のジジイ」と心底嫌そうに顔をしかめたが、上層部――それも天元直々の命令とあっては、さすがの彼もこれ以上反対することはできなかった。

 

「……ま、ええやろ」

 

 そんな緊迫感のない空気をぶち壊すように、部屋の隅でソファにふんぞり返っていた直哉が、鼻で笑いながら口を挟んだ。

 

「学校に行きたい言うんやったら、行かせたったらええやん。むしろ好都合や」

 

 直哉は、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべ、まるで獲物を見つけた肉食獣のように目を細める。

 

「高専の結界に引きこもってたら、刺客も手ぇ出せんから退屈やんけ。……学校とかいうクソみたいに分かりやすい場所にお嬢サマを放り込んでおけば、アホな呪詛師どもが勝手に釣られてワンサカ湧いてくるやろ? 俺らからしたら、()()()()()()()()やで、なあ傑クン?」

 

 その言葉の裏にあるのは、理子の安全など二の次という、冷酷なまでの実利主義だった。

 彼にとって、この護衛任務は「理子を守る」ことよりも、「理子を撒き餌にして呪詛師をおびき寄せ、全へ献上するスコアを稼ぐ」ための絶好の狩場に過ぎないのだ。

 

「……直哉」

 

 傑が、そのあまりにも人の命を軽んじる発言に、怒りを滲ませた低い声で名前を呼んだ。

 だが、直哉は「なんや、図星突かれて怒んなや」と肩をすくめ、全く悪びれる様子もない。

 理子は直哉の言葉の意味を完全には理解していないようだったが、それでも「行けるのならそれでいい」とばかりに、ツンッとそっぽを向いてしまった。

 

 

***

 

 

 理子が通う、由緒あるお嬢様学校――廉直女学院。

 その広大な敷地の隅、木陰に作られたベンチで、悟はだらしなく座り込みながら空を仰いでいた。

 

「ゆとり極まれりだな、マジで」

 

 悟は校舎の窓から微かに聞こえてくる、生徒たちの賑やかな声を聞きながらぼやいた。

 

「いつ刺客が来るか分かんねーってのに、のんきに合唱の練習かよ。馬鹿じゃねぇの」

「そう言うな、悟」

 

 隣で静かに立ち、周囲への警戒を怠らない傑が、静かな声で親友をたしなめた。

 彼の眼差しは、校舎の方角へ向けられたまま、どこかひどく悲しげに揺れている。

 

「彼女はああ言って強がっていたが……。同化してしまえば、天元様という存在の中に自我が混ざり合うことになってもならなくても。この学校の友人たちには、もう二度と会えないんだ」

 

 傑の言葉に、悟もわずかに口ごもった。

 それは、どう取り繕っても覆らない残酷な事実だ。

 天内理子という少女の人生は、二日後の満月をもって完全に終了する。今日が、彼女にとって「人間として」友人たちと過ごせる、文字通り最後の一日なのだ。

 

「理子様に、ご家族は居りません……。幼い頃に、事故で。それ以来、私がお世話して参りましたが……ですからせめて、ご友人とは——」

 

 黒井はそう言って深々と頭を下げる。

 

「それじゃあ、アナタが家族だ」

 

 傑が微笑んでそう言うと、彼女はハッとしたように顔を上げ「……はい」とはにかんだ。

 

「……精一杯寄り添って、好きにさせてあげよう。それが、これからすべてを奪われる彼女に対して、私たちができる唯一の、そして最後の()()()だ」

 

 傑のその言葉には、呪術界の理不尽なシステムに対する静かな憤りと、彼自身の「ヒーローでありたい」という願いの残滓が、色濃く滲み出ていた。

 悟は、そんな親友の横顔を一瞥し、「……チッ、優等生め」と小さく舌打ちをしただけで、それ以上は何も言わなかった。

 

 ――そして、彼らがそうして「最後の日常」を痛ましく見守っている間も。

 呪詛師たちの凶刃は容赦なく、そして確実に。理子の命を刈り取るためにこの女学院へと迫っており。

 

 

 ——ピクリ、と。傑の眉が、僅かに動いた。

 

「……来たね」

 

 その言葉は、穏やかな春の陽気を切り裂くような、冷徹な響きを持っていた。

 傑の視界には何も見えない。だが、彼の展開している『青嵐操術(せいらんそうじゅつ)』――かつて全から『呪霊操術』を抜き取る代わりに与えられた、風を操る生得術式が、彼の感覚を周囲数キロにまで拡張させていた。

 女学院を取り巻く一帯の空気の流れ、微かな風の揺らぎ。その「風読み」の網に、あからさまに異質な()()()()()()()()が引っかかったのだ。

 

「チッ、あのガキンチョ……!」

 

 傑の警告を受け、隣でだらしなく座っていた悟が忌々しげに舌打ちをした。

 

「だから目の届く所で護衛させろって言ったんだよ! 今アイツはどこに?」

「風を読むに、礼拝堂だね。お友達と楽しく歌っているようだ」

 

 傑は目を閉じ、風が運んでくる情報を脳内で処理していく。

 

「あと、敵は――東側の正門付近から何者かが侵入しようとしている。この呪力の質、呪霊じゃない。呪詛師だ」

 

 傑が敵の進行ルートを告げた、その瞬間。

 

「ほーん。そしたら、俺が先行くわ」

 

 ニッ、と三日月のように悪意のある笑みを浮かべた直哉が、一歩前へ出た。

 そして次の瞬間、彼の姿は文字通り「残像」だけ残して風のように掻き消える。

 禪院家相伝『投射呪法』。一秒を二十四分割し、あらかじめ作った軌跡を神速でトレースするその加速は、特級術師である悟や傑の目にもほんの一瞬見失うほどの初速を誇る。

 

「あっ、アイツ抜け駆けしやがって!」

 

 悟が「ずるいぞ!」と言わんばかりに叫ぶ間にも、直哉はすでに遥か彼方へと飛び去っていた。

 ほんの十数秒後、傑の風読みの範囲内で、正門付近の敵の反応と直哉の呪力が激突したのが確認される。

 

(……さすがは最速の術師、速い。だが、これで――)

 

 傑が安堵しかけたのも束の間。

 彼の拡張された感覚網に、もう一つ、全く別の方角――北側の通用口付近から、新たな呪力の反応が滑り込んできた。

 

「……悟。反応はもう一つある」

 

 傑の顔つきが、さらに一段階険しさを増す。

 

「黒井さんと二人で、礼拝堂へ行ってくれ。理子ちゃんを絶対に守るんだ」

 

 傑は、親友へと短く、だが絶対の信頼を込めて指示を出した。

 

「分かった。お前はどうすんだよ」

「私は、もう一人のアンノウンを排除する」

 

 傑は、己の内に渦巻く()()の呪力を高めながら、静かに踵を返した。

 彼ら二人が同時に動けば、どんな呪詛師だろうと瞬殺できる。だが、敵が分散して侵入してきている以上、誰かが彼女の傍にいなければ、万が一の隙を突かれる恐れがある。

 

「ヘマすんなよ、傑」

「悟こそ、油断するなよ」

 

 短いやり取りを交わし、悟は黒井を連れて礼拝堂の方角へと弾かれたように駆け出した。

 傑もまた風を纏って地を蹴り、もう一人の刺客が迫る北側へと一直線に向かう。

 

 それぞれが散り散りになり、迎撃へと向かう中。

 廉直女学院の静寂は、迫り来る呪詛師たちの凶刃によって、あっけなく破られようとしていた。

 

 

 

「ふうん……なるほどなあ」

 

 廉直女学院の正門付近。

 直哉が神速で辿り着いたその場所には、二体の不気味な式神を従え、不気味に佇む年を食った男――ベテランの呪詛師が現れていた。

 

 直哉は残像から実体を取り戻し、相手を舐め回すように観察した。筋肉のつき方、重心の置き方、そして隙のない佇まい。

 ――こいつは、殴り合うのに慣れとんな。

 

 直哉の脳裏で、これまでに『炳』の鍛錬で培ってきた観察眼が、瞬時に相手の戦術を分析していく。

 あの二体の式神は牽制用であり、おそらく相手が式神を抜けて接敵してきたところを、男自身が近接格闘で仕留めるのが得意なのだろう。

 この「禪院全」の敷いた体制によって呪詛師が資源として狩り尽くされている暗黒時代において、いまだに現役で生き延びているだけのことはありそうな、老獪な気配だった。

 

「……せやけど」

 

 直哉は、口角を深く歪めて嗤った。

 

「甘いで」

 

 直哉が踏み込んだ。

 男が目を見開き、二体の式神が吠えて迎撃態勢に入る。

 

 だが、その反応よりも、はるかに速く。

 

「ガァッ……!?」

 

 一秒を二十四分割する『投射呪法』の加速。

 直哉の拳が、式神の間を文字通り「すり抜け」、男の鳩尾を正確に、そして容赦なくぶち抜いた。

 男の口から、ゴフッ、と大量の血反吐が空中に撒き散らされる。

 

「ごふっ……ぐっ……!」

 

 抵抗する間もない。

 防御の構えをとる暇すら与えられない、圧倒的な暴力。

 直哉はそのまま加速を乗せた連撃を叩き込み、男の膝を砕き、腕の骨をへし折り、的確に打ち据えていく。

 

 バキッ、メキメキッ、という嫌な音が連続して響く。しかし、直哉のその打撃は、ただの「殺戮」ではなかった。

 

(……命にはかかわらんよーに、と)

 

 直哉は、緻密に計算された力加減で拳を振るい続けた。当主である全へ()()として最高級の状態で献上するために。

 的確に意識を消し飛ばし、戦闘能力を完全に再起不能にし――それでいて、生命の維持には問題がないように。

 徹底的で、悪辣で、完璧な——()()()()のための破壊作業。

 

「あ、が……あ……っ」

 

 ほんの数秒後。男はあっさりと白目を剥いて完全に沈黙し、ボロ雑巾のように地面へ崩れ落ちた。

 主人を失い、消え去っていく式神の残滓を冷ややかに見下ろしながら、直哉は拳の血糊を忌々しげに払った。

 

「なんや、一匹だけかいな」

 

 直哉は拳を解き、周囲の気配を探る。

 他に潜んでいる気配はない。どうやら正門側からの侵入者はこの老いぼれ一人だけだったらしい。

 

「つまんな。……まあええわ、こいつも当主サマに献上したら多少は評価の足しになるやろ」

 

 直哉は、完全に気絶している男の襟首を無造作に掴み上げ、まるで狩りの獲物を引きずるようにして、その場を悠々と立ち去っていった。

 

 

***

 

 

 同時刻、廉直女学院・礼拝堂。

 

 ステンドグラスから柔らかな光が差し込むその神聖な空間には、美しい賛美歌の合唱が響き渡っていた。

 理子もまた友人たちの中に混ざり、これが最後になるかもしれないという思いを胸に秘めながら、必死に声を張り上げて歌っていた。

 

 ――バァンッ!!

 

 突然、礼拝堂の重厚な扉が乱暴に蹴破られるように開かれた。

 驚いて歌を止め、一斉に扉の方へと視線を向ける女学生たち。

 

「やっほー、お邪魔しまーす」

 

 そこに立っていたのは、長身に銀髪、丸いサングラスをかけ、無駄にスタイルの良いイケメン――悟と、その後ろで息を切らしている黒井の姿だった。

 

「きゃあああ! 誰あの人、超カッコいいー!」

「えっ、モデルさん!? なんでこんな所に!?」

 

 突然のイケメン来襲に、礼拝堂の中はパニックと黄色い歓声が入り混じった大騒ぎになった。

 悟は女学生たちの嬌声を「まあ俺くらいになると当然だよな」とばかりにドヤ顔で受け流しながら、人混みの中から理子の姿を瞬時に見つけ出した。

 

「おーい、ガキンチョ! 迎えに来てやったぞ!」

 

 悟がずかずかと踏み込んでいくと、理子は顔を真っ赤にして列から飛び出し、悟の胸倉に食って掛かった。

 

「お、お主ら! あれほど顔を出すなと……! 黒井まで、何をしておるんじゃ!?」

 

 キャンキャンと怒る理子。彼女は、友人たちに自分の「裏の顔」や、変な大人たちに付きまとわれていることを知られたくなかったのだ。

 しかし、悟はそんな理子の抗議を無視し、彼女の首根っこをヒョイッと猫のように掴み上げた。

 

「わっ!? 離せ無礼者!!」

「大人しくしろ。……お友達、巻き込みたくないだろ?」

 

 悟のその低く凄みの利いた声に、理子はビクッと体を強張らせた。

 

「呪詛師が来やがった。結界の中にまで入り込んでる」

 

 サングラス越しでも分かる、悟の真剣な――これまでのふざけた態度とは違う、冷徹な呪術師としての眼差し。

 理子はゴクリと唾を飲み込み、礼拝堂の奥でざわめいている友人たちを振り返った。もしここで自分が抵抗して時間を食えば、あの子たちにまで危険が及ぶかもしれない。

 

「……分かった」

 

 理子は小さく頷き、悟の手に大人しく従った。

 

「よし、いい子だ。行くぞ」

 

 悟は理子を抱え直し、黒井を促して礼拝堂を後にした。

 女学生たちの黄色い声と、友人たちの「理子ちゃん、どうしたの!?」という困惑の声が背中から追いかけてくるが、彼らは振り返ることなく、足早に廊下を駆け抜けていく。

 

 理子を安全な場所へ移すこと。それが最優先だ。

 そして、この学園に潜むもう一人の敵――傑が向かった先の刺客を排除するまで、絶対に気を抜くわけにはいかなかった。




■夏油傑
術式:青嵐操術を持つ若き特級術師
幼少期に全によって入れ替えられたそれは完全に肉体へ定着しているらしく、六眼から見ても違和感はない(全のストックや彼が術式を入れ替えたばかりの術師は六眼から見ると少し浮いて見えるらしい)
入念な準備をすれば強烈かつ移動しない局所的な台風を巻き起こす事すら可能。
広域レーダーとしての性能も単体戦闘能力も機動力も原作と比べて格段に上。
幼少期に全に助けられたことが原体験となり、高専にスカウトを受けて「あれば呪術師という存在だったのか」「呪術師とは呪霊や呪詛師から人々を護るヒーローである」という認識だったが、夜蛾に一応訂正されている。
呪術界のアレコレを見て「あっこれそんな綺麗な業界じゃないわ」って悟ってはいるものの、あの日助けてくれた呪術師のように、人を助けるヒーローでありたいという願いは未だに持ち続けている。
なお、あの日助けてくれた呪術師=禪院全とはまだ知らない。
禪院家当主の顔とかまだ見たことないため。顔見たら多分わかる。

■五条悟
傑が原作よりちょっと大人びてる中、原作同様のクソガキ。
現段階だとそんなに原作と差はない。

■禪院直哉
なんか合同依頼来てたし高専の特級を見物しておいで、と当主に仕事を振られた。
見ての通りまあまあドブカスだが、多分、おそらく……きっと原作よりはマシ。
いい感じに人体を破壊するドブカスラッシュにより不殺を貫く。
理由は当然当主サマへのポイント稼ぎ。

■天内理子
夏油にちょっとだけトゥンクしてるかもしれない。
意識があるまま颯爽と救われ「私がいる」なので。


と言う訳で、懐玉編開始です。
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