『一番』
春日一番にとって、神田強という同房の男と過ごした二年間は、その後のムショ暮らしを支える大切な思い出だった。
オヤジのためならと肚をくくったものの、過酷な刑務所での生活に心が摩耗して暴れてしまい、さらに刑期が延長された事で絶望。差し入れられた手紙で多少持ち直しはしたが、ムショ暮らしの現実は変わらない。房の中でも孤立し、鬱々とした気持ちで刑務を時間潰しに利用するだけの、腐り果てた毎日。
そんな代わり映えのしない日々が転機を迎えたのは、刑務を終えて夕食を待つ、ある晴れた日の事だった。
「ワシ、神田強や。よろしくな」
でっぷりと肥えた図体に天女の入れ墨を背負ったスキンヘッドと、見るからにチンピラヤクザといった風体の男だが、話してみれば陽気で気安いおっさんだった。噂で聞いたような暴力男とは似ても似つかず、誰かの間違いではないかと疑ってしまう。
それでもムショに入るきっかけについては肩を落とし、強姦罪であるという。その様子は心底罪を悔やんでいるとしか思えなかった。自分と同様、何かわけがあるのだろうと一番は察して、以後は触れないように決めた。
翌日から神田は精力的に働き出した。刑務所という限られた空間でも自分磨きは出来るのだと、誰もが嫌がる重労働に自ら立候補し、本の虫とまであだ名が付くほど勤勉に励み、軽運動の時間では可能な限り身体を動かす。ここまで真面目な囚人は一番も初めてだった。
どうしてそんなにストイックなんだ、と聞かれた神田は、悩むような素振りを見せてから、
「生きるのを諦めたくないんや」
そう答える口調が、あまりにも悲壮感に溢れていたものだから、一番も黙って付き合う事にした。
始めてみれば楽しいもので、一番はどんどん吸収していった。図書室にある本は片っ端から読み漁り、新刊の希望届の常連になる。シャバに戻っても働けるように身体を鍛え、神田と同じく肉体労働に従事した。たまに見るテレビでコミュニケーションのネタを蓄え、同房達との仲も改善できた。
純粋に楽しかったのだ。ムショの中でも人は腐らずに生きられるのだと、一番は神田から教わった。その恩を返したくて、競うように資格の勉強に勤めた。一度に詰め込み過ぎて知恵熱を出した時には、やり過ぎや、と呆れた様子の神田からツッコミをもらう始末。それも嬉しくて、笑いながら治るのを待つ。
月日はあっという間に過ぎ去った。ふたりで喜び、怒り、悲しみ、すべてを楽しんだ二年間だった。本当の親を知らず、ソープで育てられて不良になり、疑問も持たずにヤクザの一員になった一番にとって、それは心の底から欲しかった、かけがえのない記憶である。
だから、誓ったのだ。共に過ごした友人の旅立ちの日に、生きてまた会おうと。務めを果たし、シャバで笑ってメシを食うのだと、この胸に刻んだのだ。
どんなに苦しい目に遭おうとも、俺は───。
◇
2019年12月。
あれから騒ぎを起こす事なく刑期を務めた一番が出所し、すっかり様変わりした神室町にて渡世のオヤジこと荒川真澄に撃たれ、まったく縁のない横浜伊勢佐木異人町に流れ着いてから、様々な出会いと別れがあった。
ホームレスとの交流、どん底からカタギとして生きるための苦難、拾ってくれた風俗店から始まった異人三とのトラブル⋯⋯それらを乗り越えた先で知った、荒川真澄の想い。
名前を変え、姿も変え、他人の戸籍まで乗っ取り、東京都知事・青木遼として総理大臣になろうとする息子、荒川真斗を止めるために力を貸してほしい。真澄の頼みを快く聞き入れて、春日一番はいま。
300万円ビタ一文欠けずに持ってこい、という無理難題に頭を悩ませていた。
「そりゃ知恵を貸してくださいっつったのは俺だけどよ⋯⋯元ホームレスのフリーターには難易度が高すぎるぜ」
異人三のひとり、趙天佑の中華飯店を出てから浜北公園で仲間達と合流した一番は、手すりに肘を乗せてボヤく。ただでさえ物入りの身で懐が寒い中、七桁のまとまった資金を用意するあてが思いつかないのだ。
「でも、やるっていっちまったんだろ?」
「あの場で無理っす、出来ません、なんていえるわけねぇだろ! 異人三のトップに囲まれてんだぞ!!」
異人町に流れ着いた日、死にかけていた一番を治療してくれた親友のナンバに言い訳めいた叫びを返してから、ああああ、と頭を抱える。シャバに戻って初日に爆誕したヘアスタイルはこれっぽっちも乱れず、ふわふわのもこもこである。
その横でタバコをふかす元刑事の足立が、そういえば、と口に出す。
「一番、お前たしか煎餅屋の社長だろ? 結構繁盛してるって評判の。そこから経費で引っ張れるんじゃないか?」
「えりちゃんに笑いながらダメ出しくらっちまったよ⋯⋯キギョーケンキンやら何やらって最近は厳しいんだと。あそこはただでさえ苦しいし、これ以上頼るわけにゃいかねぇんだ」
「一番ってそういうところは堅いわよねぇ」
ブランド物のバッグを提げたキャバクラのチーママこと紗栄子が、スマホの帳簿アプリを眺めて嘆息する。
「⋯⋯ダメ。うちの店もオーナーが亡くなってからドタバタしてて、余裕が無くなってる。今すぐってのは無理だわ」
「さっちゃんの店を金庫代わりになんてしねぇから安心してくれ。ていうか、金より恐ろしい未来が待ってる気がする」
「わかってるじゃないの」
この場の四人、全員に打つ手がない。後から合流するハンと趙のふたりも同じだろう。万策尽きた以上、ニック・尾形に頭を下げて借金するしかないか───一番がスマホに手を伸ばしかけたところで、妙な音が聞こえてきた。
『ーぃ⋯⋯おぉーぃ⋯⋯ばぁあー⋯⋯ん⋯⋯』
浜北公園一帯に響く声。発生源は方向からして表通りではなく、海からだろう。しかしフェリーの発車時刻はまだ先のはずだし、汽笛が鳴るようなタイミングでもない。誰かが船でも乗り回しているのか、と手すりから身を乗り出す。
それは水平線からまっすぐに、最大船速で突っ走っていた。日本とシンガポールの国旗を掲げたスポーツフィッシングボート、外洋でのカジキやマグロなどの大物釣りまで対応するクルーザーの先端に仁王立ちした人影が、両手を振りながら叫んでいる。
12月の海である。防寒具として着込んだコートにマフラー、頭部をすっぽりと隠す洒落たハットに隠れて顔は見えない。だが、遠くからでもわかるほどに恵まれた体躯をしているのが伝わってくる。力士かプロレスラーがプライベートを満喫しているといわれたら信じてしまいそうな、圧倒的な筋肉で覆われた肉体。
そんなマッスルボディの持ち主が、今の自分の格好では伝わらないと気づいたのか、ハットとマフラーを勢いよく脱ぎ捨てる。髪一本もないスキンヘッドが太陽に照らされて光り輝くのも構わず、男はたっぷりと息を吸ってから、大音量で叫んだ。
「いちばぁーん! ワシや! 神田強やぁ!! よぉ戻ってきたなぁー!! ワシゃあずっと、ずっと生きて、お前を待っとったんやぞぉー!!」
一度だけでは終わらず、何度も、何度も叫んでいる。やがて感情が昂ったのか、涙交じりのだみ声になって、それでも声を張り上げていた。
「⋯⋯なぁ、あいつ」
「気のせいじゃない、よな?」
「あの人、一番って呼んでない? 知り合いなの?」
見慣れない巨漢が船に乗って近づいてくる。その迫力に気圧された一行が仲間に目をやると、
「───ああ、そうだよな。また会うって、約束⋯⋯したもんなぁ⋯⋯!」
春日一番も泣いていた。
手に持っていたスマホがすべり落ちる。水平線を照らす夕陽の向こうから、かけがえのない友人が約束を果たしに来てくれたのだと、ようやく理解して。涙と、鼻水と、涎とで、ぐしゃぐしゃになった顔に、満面の笑みを浮かべながら、
真冬の海へとダイブするのだった。
神田.zipにはなりたくない 幕間 完
この後100kg超のクロマグロを一本釣りして300万円を調達した。なお、帰りにサメの大群が襲ってきた模様
Q:なんでシンガポール?
A:神室町クリーン作戦が行われるのを事前に察し、今後の活動場所をどうするか4で知り合った秋山に聞いたら誘われました。クルーザーの運転も秋山(セリフ無し・グラフィックだけカメオ出演)