AIのおかげで作成できました。
自分が読みたかっただけだけど、せっかくだからと公開しました。
読みたい方が少しでもいれば公開する価値があったということで。
白い天井
目覚めるより先に、処理が始まる。
室温、二十二・三度。湿度、四十八パーセント。気流の乱れ、なし。
換気扇のファンが、一分間に一千二百回転という一定のペースで空気を切り裂いている。壁の向こう側を走る配管の中を、冷却水が規則的な脈動を伴って流れていく。頭上の蛍光灯が放つ微弱な高周波ノイズ。部屋の隅に置かれたモニター付きの生命維持装置が、低い待機音を立てている。
それらの細かな環境データが、意識が完全に浮上するよりも早く、脳内に直接流れ込んでくる。耳で聞いているというより、空間そのものと自分の知覚が直結しているような感覚だ。
データが来て、処理される。
処理が終わったところで、ようやく「自分が目覚めた」という自己の存在認識が追いついてくる。
目を開ける。
白い天井が視界に入った。
染みひとつない、清潔で、どこまでも無機質な白。凹凸のない平面に、長方形の照明が均等に並んでいる。
ああ、今日もここにいる。
その事実を、ただ事実として確認した。目覚めのたびに、毎回、寸分違わぬ同じ順番で同じことが起きる。
──そういえば。
前世の記憶が、寝起きの思考の端を静かによぎる。
前世で目が覚めるとき、最初に来るのはこんなデータ処理ではなかった。
身体にのしかかる布団の重さだったり、乾燥した喉の渇きだったり、カーテンの隙間から差し込んでくる朝日の眩しさだったりした。あるいは、アラームの音に対する「まだ眠っていたい」という怠惰な感情が、思考よりも先に心を占めていた。
感覚が先にあって、思考は後からゆっくりとついてきた。
今は逆だ。
世界を構成する数値情報が先にインストールされ、その中心に自分の意識が配置される。どちらが正しい目覚めなのかは、わからない。比べる術がない。
ただ、違う、ということだけがわかる。
身体を起こした。
スプリングの沈む音よりも先に、重い質量が動く鈍い音が耳に届いた。シーツが擦れる音に混じって、硬いものがベッドの枠に当たる。
右手を目の前に持ち上げた。
肘から先を覆う、銀灰色の鋼。蛍光灯の白い光を、滑らかな曲面が鈍く反射している。
指を曲げる。
幾重にも重なった超高張力鋼のプレートが、精密な歯車のようにスライドし、拳が握られた。
自分の手だ。
違和感はない。鋼は皮膚と完全に同化しており、神経も通っている。布に触れれば布の感触があり、冷たいものに触れれば冷たさを感じる。
馴染んでいる。馴染みすぎていて、これが「普通ではない」という認識が薄れていくときがある。前世の記憶という比較対象がなければ、人間の腕とはこういうものだと信じて疑わなかったかもしれない。
ベッドの端に移動し、床に足を下ろす。
素足の裏が、ひんやりとしたリノリウムの床に触れた。
それと同時に、腰から伸びる太く長い尻尾が、だらりと床に落ちて重い音を立てた。長さ百四十センチメートルほどの鋼の尾。先端にかけて細くなるそれは、打撃武器としての質量を十分に備えている。
立ち上がると、後ろに引っ張られる重心を補正するために、自然と前傾姿勢になった。
これも無意識の調整だ。身体が勝手にバランスの最適解を選んでいる。
廊下から、規則的な足音が近づいてくるのがわかった。ソナーが、ドアの向こうに二つの生体反応を捉えている。
一日は、いつも決まった順番で動いていく。
---
電子ロックが解除される短い電子音が鳴り、部屋のドアが開いた。
白衣を着た人間が二人、中に入ってきた。
毎朝、この時間にやってくるスタッフだ。彼らは名前を名乗らない。こちらから名前を聞いたこともない。
そして彼らも、こちらのことを名前では呼ばない。
「三号、起立」
白衣の一人が、手元のタブレット端末に目を落としたまま言った。
「はい」
言われた通りに直立する。床に触れていた尻尾を少しだけ持ち上げ、姿勢を正した。
「こちらへ」
促されるままに、部屋の中央に設置された冷たいステンレス製の検査台に向かう。
スタッフの態度に、暴力的な気配はない。声が荒くなることもない。不必要な接触も、威圧的な行動もない。
ただ、徹底的に情緒がない。
彼らにとって目の前にいるのは、観察すべき対象であり、データを取るための検体であり、維持管理すべき機能的な資産だ。「子供」に対する配慮や同情は、この部屋には一切持ち込まれていない。
検査台の端に腰掛ける。
スタッフの一人が近づき、右腕を取った。装甲の縁、人間の皮膚と金属が縫合されている境目のあたりに、冷たい消毒液が塗られる。
チクリと細い針が刺さり、採血が行われる。
温かい手だった。生身の人間だから当然だ。でも、その手つきは無機質で、実験器具を扱うような正確さしかなかった。
「癒着部位、炎症反応なし。神経伝達速度、基準値内」
もう一人のスタッフが、読み上げられた数値をタブレットに入力していく。
血圧測定、体温測定、瞳孔の対光反射テスト。
一連のバイタルチェックが終わると、スタッフは背後に回った。
「背鰭、展開して」
指示に合わせて、背中に意識を集中させる。
首元から背骨に沿って、腰のあたりまで連なる七枚の鋼の背鰭。
カシャン、と小さな金属音を連続して立てながら、背鰭がわずかに立ち上がり、内部の放熱スリットが開いた。
スタッフがノギスのような計測器を当てて、開き具合と角度を一枚ずつ確認していく。
「第一から第七まで、可動域良好。異音、変形なし」
最後に、腰から伸びる尻尾の付け根を確認される。
金属と肉体が複雑に絡み合った接合部。触れられると、くすぐったいような奇妙な感覚がある。神経が確実に通っている証拠だった。
尻尾の先端を持ち上げられ、左右に振られる。関節の動きに引っかかりがないか、横方向への力に対する耐性はどの程度か。慎重なチェックが続く。
「異常なし」
スタッフが短く告げた。
それで朝の検査は終わりだった。
彼らはすぐに手元の機材を片付け始め、こちらのことを見もしない。用が済めば、それ以上の関心は向けられない。
検査台の端から、尻尾がはみ出ていた。
白衣の一人が通り際、邪魔そうにその位置を足で軽く直した。モノを動かすような、無造作な扱いだった。
その行動に対して、怒る気持ちが来るかどうか、自分の内側を確認してみた。
来なかった。
自分が人間として扱われていないことに対する憤り。それは、本来なら湧き上がって然るべき感情なのかもしれない。
しかし、この施設ではこれが「普通」だった。
他に比べられる子供はいない。外の世界での扱われ方を知らない。
だから、自分が可哀想な存在なのか、特別な実験体なのか、それともただの便利な道具なのか、判断がつかなかった。
彼らにとって自分が「三号」という被験体であるなら、そのように扱われるのは当然の論理的帰結だ。そこに感情を挟む余地はない。
ただ、事実として受け入れるだけだった。
---
検査の後は、食事の時間だ。
白い廊下を歩いて、食堂へ向かう。
すれ違う警備員や研究員たちは、誰も声をかけてこない。壁の一部が移動しているかのように、視線を滑らせて通り過ぎていく。
食堂もまた、完璧なまでに白かった。
白い壁、白い床。白いテーブルが二つに、椅子が四つ。
座る場所は決まっている。
椅子に腰を下ろす。
背もたれには寄りかかれない。深く座ろうとすると、背鰭の鋭い先端がプラスチックの背もたれに当たってしまうからだ。
だから、椅子に対して斜めに身体を向け、前傾姿勢を保つ。長い尻尾は、椅子の右側の空間から床にだらりと降ろしておく。
これが、この身体における「座る」という行為の最適解だった。
スタッフが、無言で白いトレーを運んできた。
いくつかの区画に仕切られたプレートの上に、灰色のペースト状のものや、無着色のブロック状の固形食が乗っている。
タンパク質、炭水化物、脂質、ビタミン。量と比率が完全に最適化されているという説明を、随分前に一度だけ聞いたことがある。それ以来、誰も食事の内容について説明しない。
毎日同じような形状のものが出てくるから、どれが何グラムでどれが何カロリーかは、見ただけで大体覚えた。
「いただきます」
小声で呟いた。
誰も聞いていない。スタッフは少し離れた場所で、クリップボードを持ちながらこちらの様子を監視している。それでも、この言葉を口にするのは、前世からの習慣として深く根付いていたからだ。
スプーンを手に取る。
鋼の指先が、プラスチックの柄をしっかりとホールドする。人間の指のような柔らかさはないが、指先に埋め込まれた圧力センサーが繊細な力加減を可能にしている。折ることもなく、落とすこともなく、正確にペーストをすくい上げる。
口に運ぶ。
舌の上に広がる味。
甘み。酸味。わずかな塩気。
味覚は正常に機能している。味はある。不味くはない。ただ、栄養を効率よく摂取するためだけに作られた、機能的な味だ。
温度は常に一定に管理されており、温かいとも冷たいとも感じない。
噛んで、飲み込む。食道を通って胃に落ちていく。空腹というアラートが解除され、エネルギーが充填されていくのがわかる。
──そういえば。
ペーストを咀嚼しながら、前世の記憶を探る。
前世では、食べることが好きだった気がする。
記憶の中の食卓は、もっと色鮮やかで、温度があった。
茶色いハンバーグから溢れる肉汁。黄色い卵焼きの甘い匂い。炊きたての白いご飯から立ち昇る湯気。
「今日は何を食べようか」と迷う楽しみがあった。空腹のときに好きなものを思い浮かべ、それが目の前に出されたときの高揚感があった。
今の食事には、それがない。
自分で食べたいものを選ぶという行為が、ここには存在しない。選択肢がないのだから、迷うこともない。
「美味しい」という感覚がどこにあるのか、まだよくわからなかった。
美味しいというのは、ただ空腹を満たし、栄養を摂取する以上の、もっと豊かな何かの基準のはずだ。
今の自分には、それを判断するための基準が足りないのかもしれない。あるいは、この食事がその基準を満たしていないだけなのかもしれない。
どちらにせよ、考えるだけ無駄だった。
淡々とスプーンを動かし続ける。
十五分ほどで、プレートは完全に空になった。
「ごちそうさまでした」
また小声で呟いて、スプーンを置いた。
スタッフが無言でトレーを下げていく。
食堂にいる間、スタッフはずっとメモをとっていた。どのくらいのペースで食べたか、咀嚼の回数は適切か、残さず食べたか。
自分の食事風景が記録されていることは知っている。気にしたことはなかった。
---
午前の訓練は、個性の制御だった。
訓練室と呼ばれる広い部屋の中央に、様々な機器が整然と並べられている。
端末が三台。モーターが六基。圧力ポンプ、熱センサー、照明ユニット。
それぞれが別の電力系統に繋がれており、独立して稼働するようになっている。
ガラス張りの観察室の向こうから、マイク越しに指示が飛ぶ。
『三号。モーターを同時に三基、動かして』
「はい」
指定された位置に立ち、機械たちに意識を向ける。
目に見えない何かが、自分の身体から空間へ向かって伸びていく感覚。
耳元に埋め込まれた送受信装置が、微かに熱を持つ。
繋がる。
まるで、誰かと手を繋いだような、あるいは目と目が合ったような、確かな感触が脳内に生まれる。
目の前の三基のモーターに、意識が接続された。
構造が手に取るようにわかる。コイルの巻き数、磁石の配置、軸の摩擦係数、現在の通電状態。
念じるのではなく、論理的な信号を送る。
体内にあるエネルギーが微弱な電力と指令に変換され、モーターへと供給される。
ウィィン……という低い駆動音を立てて、三つのモーターが同時に、そして完全に同じ速度で回転を始めた。
『出力を下げて。一基ずつ、段階的に。右から』
新しい指示。
右端のモーターの出力を六十パーセントに落とす。次を四十パーセント、最後を二十パーセント。
その間、他のモーターの回転は一切乱さない。
『よし。次は電力の経路を変更。ポンプを端末経由で動かして』
繋がっている経路を脳内で書き換える。
直接の接続からいったん切り離し、中央の端末のシステムに侵入する。セキュリティを瞬時に突破し、システムを経由させてポンプに繋ぎ直す。
ズズズ……とポンプが動き始め、水を吸い上げる音が響いた。
できた。
できないことが、あまりない。
これが得意なのか、それとも毎日繰り返される訓練が的確なのか、判断する基準がなかった。
どこかと比べたことがない。他の誰かがこれをやったとき、どのくらいできるのかを見たことがない。
ただ、要求されたことを正確に実行できる、ということだけがわかった。
機械と繋がっているとき、不思議と孤独感はなかった。
彼らは呼びかけに必ず応えてくれる。
動けと言えば動き、止まれと言えば止まる。情報を求めたら、隠さずに全てを開示してくれる。
嘘をつかない。裏切らない。感情的な揺らぎもない。
その正直で一直線な関係性が、人間相手のコミュニケーションよりもずっと楽だった。
言葉の通じない、情緒の存在しない大人たちの中で、機械だけが自分の言葉を正確に理解してくれる。
指示が来るたびに実行する。
複数の機器を同時に動かす。特定の機器だけに電力を送る。外部から鍵のかかったシステムに接続する。
一つずつ、淡々とこなしていく。
ガラスの向こうで、スタッフが何かを書き留めていた。何を書いているのかは聞いたことがない。聞く必要を感じなかった。
---
夕方になると、少しだけ指示のない時間があった。
「自由時間」という呼び方が正確かどうかはわからない。どこかへ行けるわけでも、何かを選んで遊べるわけでもない。
ただ、次のスケジュールまでの間、何も命令されない時間。
個室に戻った後、いつも部屋の窓の前に立った。
窓は高い場所にある。壁の上部、天井に近いところ。縦に細長い窓で、鉄格子がはまっている。
そこから、外の空の一部だけが見えた。
今日は薄い雲が出ていた。灰色の雲と、その端から覗くくすんだ青。
空を見るのが、嫌いではなかった。
──そういえば。
前世の記憶を探ると、空を見ていた場面がいくつか出てくる。
もっと広い空だった気がする。
学校のグラウンドから見上げた空。地平線まで見渡せる海辺で見た空。
風が吹いていて、それを当たり前のように眺めていた。
あの記憶の中の自分は、空を見ながら何かを考えていた。明日の予定とか、友達との会話とか、あるいはもっと漠然とした未来のこととか。
何を考えていたのか、具体的な内容は今は思い出せない。
今は細長い窓から、わずかな空が見えるだけだ。
でも、空の色は、前世で見た色と同じかもしれない。雲の動き方も、光の差し方も。
前世で感じていた何かが、今もわずかに来る気がした。
気がする、というくらいで、名前はつけられなかった。悲しいでも、寂しいでも、懐かしいでもない。それらの手前にある、ただ静かな確認のような何かだった。
壁に寄りかかろうとして、背鰭の先端がコンクリートに触れた。
カチリ、と音が鳴る。
立ち位置を少し変えた。壁から離れて、斜めに立ち直す。それで背鰭が当たらなくなった。
前世ではこうしなかった。壁に背中を預けて、だらっと寄りかかることができた。
今は背鰭があるから寄りかかれない。たった数枚の鋼の鰭が、立ち方を変える。
食事の座り方、歩くときの重心、眠るときの姿勢。
一つ一つは小さいことだが、前世の身体では不要だった調整が、今の身体では全部必要になった。
それが「不便だ」とか「嫌だ」とかいう感情に繋がるかと思えば、繋がらなかった。
ただ、そういうものとして処理して、対処して、終わっていく。
今の身体が嫌いか、と問われたら、嫌いとは思わない。これが今の自分だから。
でも前世の身体の方が好きだったか、と問われたら、答えがわからない。比べ方を知らないからだ。
夜になった。
部屋の照明が落ちる。
『三号、就寝』
スピーカーからの無機質なアナウンス。
ベッドに横になる。
仰向けは無理だ。ベッドに背中をつけると、背鰭の先端がマットレスに突き刺さる形になる。
だから横を向いて、身体を少し丸め、重い尻尾を腹側に引き寄せる。
これが、この身体での眠り方だった。
これが普通だと思っていた。他の眠り方を知らないから。
前世の記憶の中に、大の字になって仰向けで眠っている場面がある。柔らかいものに背中を預けて、両腕を横に投げ出して、天井を見ながら眠りについていた。
そういうことができた。背中に当たるものが何もなかった。
今の自分にはできない。
それが惜しいと思うかどうか試してみたが、よくわからなかった。
目を閉じる。
消灯した施設の中で、機器の低い稼働音が続いている。
換気扇、廊下の配管、遠くのサーバールームの冷却音。
その一つ一つが、まだ意識の端で繋がっていた。眠っている間も、ソナーとしての接続は完全に切れることはない。眠りながらデータが流れ続ける。
これも前世にはなかったことだ。前世の眠りは、もっと静かだった気がする。情報が止まる時間があった。今はそれがない。
夢を見た。
夢の中では、自分の手が違う形をしていた。
装甲がなかった。
柔らかくて、節があって、爪があって、冬の寒さでひびが入りそうな、そういう手だった。
その手で、何かを掴んでいた。
温かいもの。誰かの手か、あるいは大切にしていた物か。
何を掴んでいたのかは、目が覚めると消えていた。
毎回そうだった。毎朝、夢の続きが消えていた。
目が覚めた。
白い天井。
室温、二十二・三度。湿度、四十八パーセント。換気扇の回転数、一千二百回転。
またデータが先に来た。
起き上がる前に、今日の一日が頭の中で組み立てられる。
検査、食事、訓練、検査、自由時間、就寝。
昨日も一昨日も、きっと明日も、同じ順番で動いていく。
施設の一日には曜日がなかった。月曜も水曜も土曜も、区別がなかった。
何の感慨もなく、一日が始まる。
ただ機能を満たすための時間が、また動き出した。