セーフハウスでの生活が始まってから数日が経過した頃。
朝食を終えたリビングのテーブルの上に、一台の分厚いノートパソコンが置かれていた。
伊都が用意したものだった。市販の薄型モデルではなく、公安委員会で使用されている、堅牢な装甲と高度な暗号化チップを搭載した特殊な機種だ。つや消しの黒いボディが、静かな存在感を放っていた。
「座りなさい、冬機」
出勤前のスーツ姿のまま、伊都が言った。
冬機は指示された通り、端末の前に置かれた椅子に座った。背鰭が背もたれに当たらないよう、身体を少し斜めにし、前傾姿勢をとる。この座り方にも、すっかり慣れていた。
「今日から、少しずつ『仕事』をしてもらうわ」
伊都は手元のタブレットを操作し、冬機の目の前にあるパソコンの画面に一つの画像を表示させた。
中年男の顔写真だった。無精髭を生やし、目つきが悪い。
「ターゲットは現在、港区のホテルに滞在している。あなたはこの端末を使って、彼の周辺機器に接続しなさい。会話を傍受し、正確な位置情報を取得すること」
冬機は画面の男の顔を見た。
知らない顔だった。前世の記憶にある「物語の登場人物」ではない、この世界の裏側に潜む名もなき小悪党の一人だろう。
「……できますか、という確認ですか」
冬機は伊都を見上げて聞いた。
「確認よ。あなたの個性が、私の管理下で、こちらの意図通りに機能するかどうかのテスト」
伊都の声は平坦だった。子供に初めてのお使いを頼むような温かさは微塵もなく、新しい機器のスペックチェックをするような冷徹な口調だ。
「やってみます」
冬機は画面に向き直った。
意識を集中させる。
パソコンの画面を注視する必要はない。キーボードに触れる必要すらない。目の前にある端末そのものを「入り口」として、ネットワークの海へと意識を潜らせていく。
感覚としては、冷たい水の中に静かに沈んでいくのに似ている。
物理的な音や光が遠ざかり、代わりに電子のパルスとデータの奔流が知覚される。
端末が発しているWi-Fiの電波を掴む。そこからインターネット回線を経由し、伊都から提供されたターゲットの電話番号を鍵にして、基地局のログを検索する。
見つけた。
意識の糸を、光ファイバーの網の目を通して一気に伸ばし、ターゲットの持っているスマートフォンに接触する。
セキュリティの壁があった。パスワードと生体認証によるロック。
しかし、冬機にとっては、それは鍵のかかった分厚いドアですらなかった。せいぜい、ドアノブに貼られた薄いセロハンテープのようなものだ。
システム内部の論理回路に直接干渉し、認証プロセスを書き換えてスキップする。
繋がった。
マイクの起動権限を奪う。GPSの数値を吸い上げる。
それらの情報が、冬機の脳内のDNAコンピュータで即座に処理され、目の前のパソコンのスピーカーと画面に出力された。
「……接続しました」
冬機が口を開くと同時に、パソコンのスピーカーからノイズ交じりの男の声が流れた。
『──ああ、ブツは明日だ。時間はいつも通り……サツの動きには気をつけろ』
会話の内容がクリアに聞こえる。画面上の地図アプリには、ホテルの正確な位置を示す赤いマーカーが点灯していた。
かかった時間は、一分もなかった。
伊都が無言で手元のタブレットにメモを取った。
驚きも、賞賛もなかった。ただ「要求された機能が、想定通りに作動した」という事実を確認しただけの顔だった。
「解除していいわ。上出来よ」
「はい」
冬機は意識を引き戻した。デジタルの感覚が引き潮のように去り、リビングの静かな風景が戻ってくる。
疲労感はない。これくらいの単純な接続と情報の抜き取りなら、息をするのと変わらない。
これが、冬機の「仕事」の始まりだった。
セーフハウスでの生活には、明確なリズムが作られていった。
朝七時に起床し、伊都が用意した、あるいは出前で届いた朝食を二人でとる。
八時半に伊都が公安へ出勤すると、入れ替わりに家庭教師がやってくる。
午前中は勉強の時間だった。国語、数学、理科、社会、英語。基礎的な学力を補うため、中学校卒業程度までのカリキュラムが組まれていた。
派遣されてきた家庭教師は三十代の男性だったが、彼は明らかに冬機のことを恐れていた。
無理もない。普通の戸籍のない子供に勉強を教えに来いと言われ、指定された場所に行ってみれば、銀色の髪と金色の目を持ち、身体の半分が鋼の装甲で覆われた異形の少年が座っているのだ。
彼は授業中、極力冬機と目を合わせようとせず、事務的にテキストを進めるだけだった。冬機が質問をすると、ビクリと肩を震わせてから、早口で答えた。
冬機も、彼にそれ以上の愛想を求めなかった。必要なのは知識であって、教師との人間的な交流ではない。
勉強自体は、驚くほど簡単だった。
前世の記憶があるから、というだけではない。施設で行われた遺伝子操作によるDNAコンピュータ化された脳が、学習において圧倒的な効率を発揮していたのだ。
一度読んだページは完全に記憶領域に保存される。複雑な数式も、論理的な構造さえ理解すれば一瞬で計算が終わる。
「優秀すぎる。教えることがすぐになくなりそうです」
家庭教師が伊都への報告書にそう書いているのを、冬機は個性を介して盗み見て知っていた。
しかし、それを見ても特に誇らしいとは思わなかった。自分はそういう機能を持った特注品として作られたのだから、高い性能を発揮するのは当然だという認識しかなかった。
昼食を挟んで、午後は仕事の時間になる。
伊都から、専用回線を通じて指示が届く。
ターゲットの通信傍受、特定の組織のデータベースへの侵入、あるいは公安が追っているヴィランの位置情報の検索。
内容は多岐にわたったが、どれも冬機の個性を前提とした遠隔でのタスクだった。現場に出ることはない。安全な部屋の中で、端末に向き合い、淡々とデータを処理し続ける。
夕方、伊都が帰宅する。
夕食をとり、入浴を済ませる。
そして、就寝までの時間は「自由時間」として与えられていた。
──この「自由時間」が、冬機にとっては一番の難関だった。
夜の九時から十時半までの、約九十分間。
伊都は持ち帰った書類に目を通したり、ニュースを見たりして過ごしている。冬機は自室に戻ってもいいし、リビングにいてもいいと言われている。
しかし、何をすればいいのかがわからなかったのだ。
──そういえば。
前世では、自由時間に何をするかで困ったことなど一度もなかった。
学校から帰って、宿題を片付けて、さあ何をするか。
買ってきたばかりのゲームソフトを起動する。ネットの動画サイトで好きな配信者の動画を見る。お気に入りの漫画の新刊を読む。友達とメッセージアプリでくだらないやり取りをする。
やりたいことが多すぎて、いつも「時間が足りない」と感じていた。
あの頃の感覚は覚えている。没頭する楽しさや、ワクワクする気持ち。
だが、今の自分には、それを実行するための欲求そのものが欠落している。
セーフハウスにゲーム機はない。伊都に頼めば経費で買ってくれるだろうが、そもそもこの分厚い鋼の篭手で、コントローラーの小さなボタンを正確に操作できるとは思えなかった。
漫画や小説を読みたいという具体的なタイトルも思い浮かばない。前世で好きだった作品がこの世界にあるかどうかもわからないし、あったとしても、今の自分がそれを読んで前世と同じように楽しめるのか、自信がなかった。
「遊びたい」という回路が、すっぽりと抜け落ちている。
結局、冬機はリビングのソファの端に座り、ノートパソコンの画面を意味もなく眺めて時間を過ごすことが多かった。
ニュースサイトの文字をスクロールする。あるいは、窓の外の夜景を、ソナーの反応と共にただ観測する。
身体は休まっている。だが、心が休まっているのかどうかはわからない。
ただアイドリング状態で、次の「指示」が入力されるのを待っている機械。
これが休んでいるということなのだろうか。よくわからなかった。
「……暇そうね」
ある夜、テーブルで書類を読んでいた伊都が、顔を上げて言った。
冬機は画面から目を離した。
「別に。やるべきタスクがないだけです」
「それを暇と言うのよ」
伊都は眼鏡の位置を中指で直し、少しだけ口角を上げた。
「子供なんだから、もっと生産性のないことに時間を使ってもいいのよ」
「生産性のないこと」
「ええ。遊ぶとか、ぼーっとするとか、誰かと無駄話をするとか」
冬機は少し考えた。
「……統道さんは、俺と無駄話をしたいですか」
「いいえ。私は今、とても忙しいわ」
伊都は即答して、また書類に視線を落とした。
冬機は「そうですか」とだけ返した。
冷たい拒絶だったが、嫌な気分ではなかった。変に気を使って子供扱いされるより、このドライな距離感の方が、今の自分には一番楽だった。
放っておいてもらえる。それが「普通」でいられる時間だった。
そんなルーティン生活が数週間続いた頃。
仕事の「意味」に触れる出来事があった。
その日の午後の仕事は、いつもより切迫した空気を帯びていた。
ターゲットは、過激派のヴィラン組織。彼らが身代金目的で、とある企業役員の子供を誘拐したという情報が入った。
冬機の任務は、犯行グループが使用していると思われる盗難車の位置情報を特定し、リアルタイムで追跡することだった。
『──絶対に逃がすな。人質の命がかかっているわ』
通信越しの伊都の声は、普段の平坦なものとは違い、微かな緊張感が混じっていた。
冬機はリビングの端末前で、街中の監視カメラとNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)のネットワークに深く侵入していた。
膨大な映像データが、脳内に直接流れ込んでくる。
数千台の車。数万人の通行人。
その中から、特定の特徴を持つ一台を抽出する。
処理落ちしそうになるほどの圧倒的な情報量。脳が熱を持ち、背鰭の冷却機能がフル稼働して微かな駆動音を立てる。
見つけた。
市街地を抜け、廃倉庫街へと向かう一台の黒いワンボックスカー。
「特定しました。湾岸エリア、第十二倉庫群へ向かっています。ナンバー、偽造の形跡あり。現在の走行速度から、到着まで約三分」
座標データを送信する。
『確認した。現場待機のヒーローチームに座標を共有する。そのまま監視を継続しなさい』
「了解」
冬機は、近隣の防犯カメラに接続を切り替え、状況を見守った。
モニター越しに、プロヒーローたちが動くのが見えた。
対象の車が倉庫に到着し、男たちが降りてこようとした瞬間、空からヒーローが急降下してきた。
個性を使った奇襲。爆発。煙。
男たちが応戦しようとするが、完全に虚を突かれていた。数分後にはヴィランは全て取り押さえられ、車の中から小さな子供が保護される映像がカメラに映った。
『──確保完了。人質、無事保護。ご苦労さま、冬機』
通信機から聞こえた伊都の声に、冬機は深く息を吐いた。
終わった。
成功した。
その事実を確認したとき、冬機の胸の奥に、じわりと温かいものが広がった。
──そういえば。
前世で、誰かの役に立ったときのことを思い出した。
学校の係の仕事で、重いプリントの束を運んで配ったとき。クラスメイトから「ありがとう」と言われた。
落とし物の財布を交番に届けたとき。お巡りさんに「偉いな」と褒められた。
あれは、「よかった」というよりも、もう少し大きく、輪郭のはっきりした感情だった。
誰かの役に立ったという自己肯定感。自分が社会の中で意味のある存在になれたという、ささやかな誇り。
今、感じているのも、それに近い。
いや、もっと明確だ。
自分が指を動かし、情報を送った結果、一人の子供の命が助かった。
嬉しい、という軽やかな感情ではない。
「だから、やるのか」という、静かな納得に近かった。
自分がこの世界に存在し、この能力を使っている理由。
伊都との契約を守り、自分の居場所であるこのセーフハウスのベッドや食事を維持するための、ただの「労働の対価」だと思っていた。
動機は打算的だった。
それでも、結果として誰かが助かった。
これをやり続けることには、自分の生存を確保する以上の意味があるのかもしれない。
そのことに気づけたことが、少しだけ心地よかった。
その夜、伊都が帰宅すると、珍しく白い紙箱を持っていた。
「仕事の帰り道にあったから、ついね」
伊都は言い訳のようにそう言って、小さなショートケーキを二つ、テーブルに置いた。
「……俺、甘いものは」
「嫌い?」
「いえ、データ上はカロリー摂取として効率的だと認識しています」
「可愛くない言い方ね」
伊都は微かに苦笑した。その表情が、いつもより少しだけ柔らかいことに冬機は気づいた。
「今日はいい仕事だったわ。あの一件で救われた家族がいる。あなたの能力のおかげよ」
あなたのおかげ。
その言葉が、ケーキの甘い匂いと一緒に、冬機の内側に染み込んでいった。
「ありがとうございます」
冬機はフォークでケーキの角を切り取り、口に運ぶ。
生クリームの甘さと、苺の酸っぱさが広がる。
美味しい。
施設で食べた最適化ペーストとも、廃工場で食べた廃棄食料とも違う。
これは「報酬」の味がした。
自分が機能した結果として与えられた、確かな甘さ。
冬機は黙々とケーキを食べながら、今日という一日を記憶のフォルダに保存した。
自分はこの世界で、生きていけるかもしれない。
ただの異形の怪物としてではなく、意味のある機能として。
少しずつ、人間的な感覚を取り戻していくような気がした。