月末の金曜日の夜。
伊都が帰宅し、いつものように夕食を終えた後のことだった。
彼女は自分のカバンから、茶色い事務用の封筒を取り出し、テーブルを挟んで向かいに座る冬機の前に差し出した。
「今月分の報酬よ」
冬機は差し出された封筒を、鋼の指でそっと受け取った。
薄いが、中身が入っている確かな重みと厚みがあった。
「……食費と家賃代わり、という話ではなかったんですか」
「それはそれ。これはあなたの働きに対する純粋な対価よ。正式な公安職員ではないから給与とは呼べないけれど、特例の協力費、あるいは成果報酬だと思ってちょうだい」
冬機は封筒の糊付けを開き、中を確認した。
福沢諭吉の肖像が印刷された紙幣が三枚。三万円だった。
九歳という実年齢(と推定される年齢)の子供の小遣いにしては、破格の大金だ。しかし、情報収集や通信傍受といった、高度な専門技術を要する労働の対価として考えれば、驚くほど安い気もする。
相場がわからない。だが、伊都が不当に搾取しているとは考えにくかった。彼女の性格上、規定の予算から算出できる正当な額を割り出した結果なのだろう。
「好きに使いなさい。貯金してもいいし、何か買ってもいい。必要なものがあれば、ネット通販で頼んであげるわ」
伊都はそれだけ言うと、立ち上がって洗面所へ向かった。
冬機はリビングのテーブルに封筒を置いたまま、じっとそれを見つめていた。
三万円。
お金を自分の手にするのは、この世界に来て初めてのことだった。施設には通貨という概念そのものが存在しなかったし、廃工場でサバイバルしていた一ヶ月間は、文字通り無一文だった。
自分の手で、労働をして稼いだ金だ。
──そういえば。
前世の記憶が、静かに波打った。
前世では、お金の使い道を熟知していた。
お年玉をもらったとき。お手伝いをして小遣いをもらったとき。
あのときは、お金をもらうと嬉しくてたまらなかった。「あれを買おう」「これを買おう」と、頭の中で即座に皮算用が始まった。
新しいゲームソフト、読みたかった漫画の全巻セット、少し高価なスポーツシューズ。
お金は「欲しいものを手に入れるためのチケット」であり、常に「欲しいものが多すぎて、お金が足りない」という状態だった気がする。
しかし、今、目の前にある三枚の紙幣を見つめてみる。
自分の内側を探っても、あの頃のような「ワクワク」や「嬉しさ」は湧いてこない。
感情の代わりに浮上してきたのは、純粋な「困惑」だった。
どう使えばいいのか、全く見当がつかないのだ。
欲しいものがない。
外出は厳しく制限されているため、街に出て店を巡り、ウインドウショッピングを楽しむようなことはできない。
ならばネット通販だが、何を買う?
服か。
いや、この背鰭と尻尾が通る服は、伊都が手配してくれる特注品でなければ着られない。市販の服を買っても無駄になるだけだ。
食べ物か。
三食、栄養バランスの取れた食事が提供されている。前世の子供のように「お菓子を腹いっぱい食べたい」というような、ジャンクな食欲は湧いてこない。
ゲームや娯楽品か。
鋼の分厚い指で、コントローラーの小さなボタンや、スマートフォンの繊細なフリック入力を正確に行えるか怪しい。そもそも「遊びたい」「時間を潰したい」という欲求自体が、今の冬機には欠落している。
何も、思い浮かばない。
欲しいものがない、という事実に、冬機は改めて直面していた。
それは仏僧のような無欲や達観などではない。ただ、生きるための「機能」以外の部分が、削ぎ落とされているだけだ。
空っぽだ、と思った。
自分の内側には、何かを「消費」して楽しむための器が、まだ形成されていない。
冬機は紙幣を封筒に戻し、そのまま自室の机の引き出しにしまった。
それから三日間、冬機は「好きに使いなさい」という伊都の言葉について、バックグラウンド処理で考え続けていた。
使わずにそのまま引き出しに眠らせておく、という選択肢もあった。
だが、伊都は「好きに使いなさい」と明確に指示(という名のアドバイス)をした。彼女の言葉には、いつも何らかの意図がある。
これは、「自分の意志で何かを選び、欲求を行動に移してみろ」という、リハビリのような課題なのかもしれない。
だとすれば、何かを選ばなければならない。
冬機は夜の自由時間にパソコンを開き、大手の通販サイトを巡回した。
おもちゃ、文房具、インテリア、電子機器。
画面をスクロールしても、指が止まらない。どれも自分には関係のない、遠い世界の物品に見える。
機能的で、実用的で、今の自分にとって意味のあるもの。
検索条件を絞り込み、二時間ほど彷徨って、ようやく一つの商品ページで手が止まった。
数日後、セーフハウスに宅配便が届いた。
伊都が受け取り、リビングにいた冬機に小さな段ボール箱を渡した。
「届いたわよ。……随分と早かったわね、決めるのが」
「はい。必要なものだったので」
冬機は箱を受け取り、鋼の爪でテープを切って開けた。
中から出てきたのは、小さな瓶だった。
以前、伊都に買ってもらったものと同じ、潤滑オイルだ。
しかし、ラベルが違う。さらに高純度の、精密電子機器や航空宇宙産業の部品メンテナンスに使われるという、かなり高価な特殊オイルだった。
三万円の報酬の半分以上が、この小瓶一つに消えていた。
伊都が、呆れたような、しかしどこか納得したような目でそれを見ていた。
「……また、オイル?」
「前のは背鰭と膝の大きな関節用でした。今回は、指の細かい関節用です」
冬機は自分の右手を目の前に持ち上げ、グーパーと開閉してみせた。
「最近、クラッキングの速度が上がってきました。今のままだと、キーボードを打つときに鋼の装甲同士が擦れて、微細な金属粉が出ます。もっと滑らかに動くようにしないと、端末の寿命を縮めるかもしれないので」
それは嘘ではなかった。
DNAコンピュータの演算速度に、物理的な指の動きが追いつかなくなりつつあるのを感じていたのだ。
だから、これを買った。
自分という「機械」の機能を維持し、さらに向上させるための投資。
それが、今の冬機にとって唯一「欲しい」と論理的に思える理由だった。
伊都は短く息を吐いた。
「……そう。あなたがそれでいいなら、いいわ」
何も言わなかった。
おもちゃでも買えばいいのに、といった一般的な大人の小言は言わない。ただ、その目が「本当にそれでいいのか」と、少しだけ哀れむように問いかけているように見えた。
冬機には答えられなかった。それ以外の答えを持ち合わせていなかったからだ。
でも、自分の意志で選んで、手に入れた。
そのプロセス自体は、悪くない達成感があった。
初めての「失敗」をしたのは、その数日後のことだった。
その日の午後の任務は、爆発物の捜索と解除支援だった。
過激派のヴィラン組織が、市内の雑居ビルの一室に手製の爆弾を仕掛けたという情報が入った。公安の突入班が現場に向かう中、冬機はセーフハウスのリビングから遠隔で電子支援を行っていた。
『現場到着。対象の部屋は三階、302号室だ』
インカムから、現場の捜査官の緊迫した声が聞こえる。
冬機は端末を操作し、ビルのセキュリティシステムと監視カメラを瞬時に掌握した。
「カメラ映像、クリア。廊下に人影なし。……部屋の中に熱源反応、一つ。人ではありません。おそらく熱を発する機器……爆弾の起爆装置の基盤です」
冬機は冷静に報告した。
さらに意識を集中させ、部屋の中に置かれているであろう爆弾の電子回路に接続を試みる。
Wi-FiもBluetoothも飛んでいない。スタンドアローンの機器だ。だが、時限式の起爆装置には微弱な電磁波が漏れている。冬機の「機械操作」は、それを媒体にして強制的にリンクを繋ぐことができた。
繋がった。
回路図が脳内に展開される。
単純な構造だ。デジタルタイマーと、信管。遠隔操作用の受信機はない。純粋な時限爆弾だ。
タイマーの数字が見えた。
『残り時間、四十五秒』
冬機は息を呑んだ。
「統道さん、時間がありません。起爆まで一分を切っています」
通信機に向かって、少し早口で伝える。
伊都の声がすぐに返ってきた。
『捜査官を退避させなさい。爆発物処理班は間に合わないわ』
「でも、この威力の爆薬だと、ビルの構造体ごと崩れます。下の階にはまだ避難していない一般人が──」
『退避よ! あなたの仕事は情報の提供まで。現場の判断に任せなさい』
鋭く、強い命令だった。
これまでの冬機なら、迷わず従っていたはずだ。指示通りにする。それが自分の役割であり、安全な居場所を守るための絶対のルールだから。
だが、そのときは違った。
脳内のDNAコンピュータが、瞬時に損益計算を弾き出した。
退避にかかる時間、三十秒。爆発範囲、半径五十メートル。予想される死傷者数、十数名。
対して、冬機がここからハッキングで起爆装置を無効化するのにかかる時間、五秒。
成功率は九十九パーセント。
リスクとリターンが釣り合っていない。止めるべきだ。俺なら、止められる。
指が動いた。
伊都の「退避」という命令の余韻が消えるより早く、冬機はキーボードを叩き、意識の糸を起爆装置のコアへと突き刺していた。
プログラムを強引に書き換える。カウントダウンの信号を遮断する。
回路をショートさせ、信管への電力供給を物理的に断つ。
『……ゼロ』
冬機が呟いた瞬間、脳内のタイマーが停止した。
残り時間、三秒。
爆発は、起きなかった。
モニターの中で、捜査官たちが恐る恐る部屋に踏み込み、無力化された爆弾を確認しているのが見えた。
『……爆弾、停止しています! カウントが止まってる。誰がやったんだ?』
現場の困惑した声。
冬機は端末から手を離し、深く息を吐いた。
成功した。
誰も死ななかった。
先日買った新しい潤滑オイルのおかげで、指の動きは滑らかで、遅れはなかった。自分の判断は正しかった。
そう思った。
「……冬機」
背後から、低く、静かな声がした。
振り返ると、いつの間にか伊都がリビングに立っていた。今日は昼から自宅でリモート作業をしていたのだ。
怒鳴り声ではなかった。表情も、激昂しているわけではない。
だが、その目は、冬機が今まで見たどの彼女の目よりも、冷たく、鋭く光っていた。
「通信、切って」
言われるままに、冬機はインカムの通信を切断した。
リビングに、重く冷たい沈黙が落ちた。
「なぜ、勝手に動いたの」
伊都が問うた。
「時間がありませんでした」冬機は事実を述べた。「退避していたら間に合いませんでした。俺なら止められると計算できました。成功率も高かった」
「結果として成功した。それは認めるわ」
伊都は一歩近づいた。
「でも、もし失敗していたら? もしあの爆弾に、遠隔操作の罠(トラップ)が仕掛けられていたら? あなたのハッキングを感知して即時起爆するタイプだったら?」
「……それは」
「現場の人間が巻き込まれていたわ。あなたの判断ミスで、死人が出ていた」
伊都の言葉には、反論を許さない重圧があった。
「いい? あなたは優秀よ。能力も高い。でも、万能じゃない。現場の状況を全て把握しているわけじゃない。だから組織があり、命令系統があるの」
伊都は冬機の目の前まで来て、膝を折って視線の高さを合わせた。
「勝手に動く道具は、どんなに高性能でも『不良品』よ。使い手だけでなく、周りも傷つける」
不良品。
その言葉が、冬機の内側に刺さった。
「今回は不問にする。でも次は許さない。私の指示がない限り、指一本動かすな。……わかった?」
「……はい」
冬機は小さく頷いた。
伊都は立ち上がり、そのまま自室へと戻っていった。
ドアが閉まる音が、いつもより大きく響いた気がした。
冬機は一人、リビングに残された。
自分の手を見る。まだ微かに熱を持っている指先。
怒られた。
それは事実として認識できた。
──そういえば。
前世で怒られたときのことを思い出した。
宿題を忘れたとき。門限を破ったとき。友達と喧嘩をして手を出してしまったとき。
親や先生に怒られると、胸が苦しくなった。胃が縮こまるような感覚。顔が熱くなり、目頭が熱くなり、申し訳なさと情けなさでいっぱいになった。「ごめんなさい」と言いながら、泣きそうになったこともある。
今の自分に、その感覚があるか?
確認してみた。
心拍数、正常。体温、変化なし。涙腺、反応なし。
悲しくも、苦しくもなかった。
ただ、「次からは勝手に動かない」という学習データが、行動プログラムに上書きされただけだ。
伊都の言う通りだ。組織の中で動くなら、勝手な判断はリスクになる。効率的ではない。だから次は従う。
それだけの話だ。
感情が乗らなかった。
前世の自分が感じていたような、「嫌われたくない」とか「失望させたくない」という人間的な揺らぎが、すっぽりと抜け落ちていた。
自分が「不良品」だと言われたことに対してさえ、怒りも悲しみも湧かなかった。「機能的な欠陥を指摘された」としか受け取れなかった。
それが、少しだけ空しかった。
自分は本当に、ただの機械になってしまったのかもしれない。
人を助けた。爆弾を止めた。それなのに、達成感もなければ、怒られたことへの反省(という名の感情的動揺)もない。
ただ、淡々と事実を処理して、明日に備えるだけ。
ふと、伊都が閉じたドアの方を見た。
怒った後、伊都は少しだけ冬機を見ていた。
その目は、怒りだけではなかった気がする。
何を考えているのか読みにくい、複雑な色をしていた。
彼女には、この子供が何で動いているのかがわからなかったのかもしれない。怒っても響かない。悲しんでもいない。言い訳もしない。
それがかえって、どこか危うく見えたのかもしれない。
冬機は、机の上の新しいオイルの瓶に触れた。
冷たかった。
このオイルがあれば、次はもっと速く動けるだろうか。
それとも、動かない方がいいのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、今日一日が終わったことだけは確かだった。
冬機は端末の電源を落とし、静かに目を閉じた。