季節が巡り、冬機が伊都に引き取られてから一年近くが経とうとしていた。
年齢は、推定で十歳。
この一年で、冬機の生活は完全に安定した軌道に乗っていた。午前中の学習、午後の仕事、夜の自由時間。そのサイクルが身体に馴染み、それが当たり前の日常になっていた。
身長が少し伸びた。
それに伴い、皮膚と融合している装甲の継ぎ目に痛みが出たことがあった。成長痛のようなものだが、骨ではなく金属との摩擦による痛みだ。伊都がすぐに手配し、公安の協力医による調整手術が行われた。麻酔で眠り、目が覚めると痛みは消えていた。
自分の身体が、成長する生身の部分と、不変の機械の部分のチグハグな継ぎ接ぎであることを再認識させられた出来事だった。
そして、仕事の内容も変わりつつあった。
これまではセーフハウスからの遠隔情報支援のみだったが、伊都は段階的に冬機を外へ連れ出すようになった。
もちろん、直接戦闘に参加させるわけではない。
現場のすぐ近くに停めた、防弾仕様の指揮車両の中。そこからドローンや現地の監視カメラを操作し、よりリアルタイムで精密なサポートを行う。それが新しい任務だった。
セーフハウスから数キロ離れた機器を操作するよりも、現場の近くで直接電波を飛ばす方が、ラグもなく、より複雑なハッキングが可能になるからだ。
その日、冬機は港湾地区の倉庫街にいた。
深夜の岸壁。冷たい海風が吹き荒れている。冬機がいるのは、公安の黒いバンの後部座席だ。
目の前には複数のモニターが並び、膝の上には操作用の端末がある。
今回のターゲットは、海外から密輸された爆発物の取引現場だった。
「爆発物処理」の現場に立ち会うのは、あの日、勝手な判断でハッキングを行って叱られて以来、数回目になる。
だが、今日は少し状況が違った。
爆弾がすでに起動している可能性がある。そして、現場には取引に巻き込まれたと思われる人質がいる。
『冬機、ドローンの展開準備は?』
運転席にいる伊都の声。
「完了しています。いつでも飛ばせます」
『よし。突入班が動く前に、内部の状況を確定させたい。行って』
「はい」
冬機は意識を切り替えた。
バンの屋根に取り付けられた発射台から、小型の偵察用ドローンが射出される。
ブゥン、という低いローター音が風に混じって遠ざかっていく。
冬機の視界が、モニターの映像と同期した。
自分の目が、空を飛んでいる感覚。
風の抵抗、気圧の変化、プロペラの回転数。それらが身体感覚として伝わってくる。自分の肉体はバンの中にありながら、意識だけが夜の闇を滑空していた。
倉庫の換気口を見つけた。
ドローンを慎重に操作し、狭い隙間から内部へと侵入させる。
暗視モードに切り替える。緑がかった映像の中に、倉庫内の様子が浮かび上がった。
積まれた木箱の山。銃を持った男たちが四人。そして、奥の柱に縛り付けられている人影が二人。
人質だ。大人の男性と、子供。
そして、その足元に置かれたアタッシュケース。赤いランプが点滅している。
爆弾だ。
「……確認しました。人質二名、生存。爆弾は設置済みです」
冬機は冷静に報告した。
『構造はわかる?』
伊都の問いに、冬機はドローンを飛ばしたまま、意識の糸をさらに伸ばした。
ドローンを中継機として、爆弾から漏れる微弱な電磁波を拾う。
回路図が脳内に構築される。
前回の失敗──いや、結果としては成功だったが、プロセスとして否定されたあの経験が、冬機の慎重さを底上げしていた。
即座にハッキングはしない。まずは観測。罠がないか、遠隔起爆の回線が生きていないか、振動センサーの有無。
数秒で解析を終える。
「……プラスチック爆薬。起爆システムはデジタルタイマーと、携帯電話による遠隔操作の二系統です。罠はありません」
『無力化できる?』
「可能です。でも、遠隔操作の信号を遮断してからでないと、ハッキングを検知されて起爆される恐れがあります」
『手順は任せるわ。こちらの突入に合わせて、爆弾を沈黙させなさい。タイミングは私が指示する。それまでは絶対に動かないこと』
「了解」
冬機は待った。
意識を爆弾の回路と、周囲の通信網の両方に張り巡らせたまま、静止する。
緊張感はあった。だが、手は震えていない。
この一年で学んだことだ。
自分は「待つ」ことができる。
前回の失敗は、焦りから来る独断だった。自分一人で解決しようとして、全体の指揮系統を無視した。
今は違う。
自分は公安というチームの一部だ。伊都がいて、突入班がいて、その中で自分が果たすべき役割がある。
その歯車の一つとして機能することに、冬機は奇妙な心地よさを感じていた。
『突入、五秒前』
インカムからカウントダウンが聞こえる。
『四、三、二、一……今!』
合図と同時だった。
冬機は思考速度を最大まで加速させた。
まず、倉庫周辺の携帯電話の電波帯域をジャミングで埋め尽くす。これで遠隔起爆は封じられた。
そのコンマ一秒後、爆弾の内部システムに侵入。
起爆コードを書き換える。信管への電圧をゼロにする。
処理完了。
「爆弾、無力化しました」
冬機が告げると同時に、モニターの中で倉庫の壁が爆破され、閃光弾が投げ込まれた。
突入班が雪崩れ込む。
「動くな! 公安だ!」
怒号。銃声。個性の光。
ヴィランたちが応戦しようとするが、虚を突かれた彼らに勝ち目はなかった。数分と経たずに制圧され、地面に伏せさせられる。
人質が確保された。
隊員がナイフで縄を切り、二人を解放する。
『現場制圧完了。人質保護。爆弾は完全に停止している』
隊長からの報告が入った。
成功だ。
伊都が小さく息を吐くのがわかった。
『よくやったわ、冬機。ドローンを回収して』
「はい」
冬機はドローンを帰還させようとした。
そのとき、カメラが解放された人質の顔を捉えた。
子供だった。
小学校低学年くらいの女の子だ。父親らしい男性に抱きついている。
女の子は、泣いていた。
恐怖から解放された安心感からか、顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流していた。父親もまた、娘を抱きしめながら安堵の表情を浮かべている。
ドローンのカメラ越しに、その泣き顔が冬機の網膜に焼き付いた。
その瞬間、何かが、ドスンと胸の奥に落ちてきた。
それは「嬉しい」という軽やかな感情ではなかった。
もっと重くて、静かで、腹の底に溜まるような感覚。
──報われた。
その言葉が、ふいに頭に浮かんだ。
──そういえば。
前世の記憶を探る。
この感覚を、知っている気がした。
文化祭の準備で遅くまで残って作業をしたとき。部活の練習で泥だらけになったとき。受験勉強で夜遅くまで机に向かったとき。
その過程はしんどかったり、面倒だったりした。
でも、結果が出たとき。誰かが喜んでくれたとき。目標を達成したとき。
「やってよかった」と思えた。
その瞬間に、それまでの苦労がチャラになるような、あるいは苦労が意味のあるものに変換されるような、あの感覚。
報われた、という感覚。
今、それが来た。
前世よりもずっと鮮烈に。
自分は今日、ただモニターの前で指を動かしていただけだ。泥にもまみれていないし、汗もかいていない。
でも、あの女の子は助かった。
もし自分が爆弾を止められなかったら、あの涙は永遠に失われていたかもしれない。
自分の能力が、機能が、結果として命を繋いだ。
その事実が、冬機の空っぽだった場所に、確かな質量を持って収まった。
「……」
冬機は無言でモニターを見つめ続けていた。
自分は泣いていない。表情も変わっていないはずだ。
それでも、内側では何かが満たされていた。
これまで仕事をこなしてきたのは、自分の居場所を守るためだった。自分がここにいていい理由を作るための、対価の支払いだった。
それは今も変わらない。
だが、それだけではない何かが、今、付け加えられた気がした。
これを「やりがい」と呼ぶのか、「正義感」と呼ぶのかはわからない。
ただ、悪くない気分だった。
この感覚を味わえるなら、また明日も仕事をしてもいい。そう思えた。
ドローンが戻ってきた。
冬機は接続を切り、端末を膝に置いた。
車のドアが開き、伊都が戻ってきた。現場の指揮官と少し話をしてから、運転席に乗り込む。
「終わりました」
冬機が言うと、伊都はバックミラー越しに目を合わせた。
「ええ。完璧な仕事だったわ。……よくやったわね」
「よくやった」という言葉。
以前にも言われたことがある言葉だ。あのときは、ただの「機能に対する評価」として受け取った。
今は、その言葉が少し温かく感じられた。
嬉しいかどうかは、まだわからない。でも、その言葉が胸に届いたことは確認できた。
「……はい」
冬機は短く答えた。
それからの日々は、ある種の「慣れ」の中にあった。
爆弾があれば無力化する。ヴィランがいれば通信を遮断して孤立させる。人質がいれば逃走ルートを確保する。
様々な現場を経験した。成功体験が積み重なっていった。
最初は毎回緊張していた作業も、次第に息をするように自然に行えるようになっていった。
人が死なずに済む。
それが当たり前の結果として出力される。
それを繰り返すうちに、冬機の中で「なぜそれをするのか」という問いが消えていった。
──そういえば。
前世にも習慣があった。
毎朝起きたら顔を洗う。ご飯を食べたら歯を磨く。外から帰ったら手を洗う。
「なぜ顔を洗うのか」といちいち考えたりはしない。清潔にするため、目を覚ますため、理由は後付けできるが、行動自体は無意識だ。
今の冬機にとって、「人を助けること」がそれになりつつあった。
目の前に危機があれば、介入して、解決する。
考えなくても手が動く。DNAコンピュータが最適解を弾き出し、身体がそれを実行する。
それが良いことなのかどうか、冬機には判断がつかなかった。
命に関わる重大な行為が、歯磨きと同じレベルの「習慣」になっていくことへの微かな違和感。
人の命を救うという行為が、あまりにも軽くなっていないか。
あるいは、それがプロフェッショナルになるということなのか。
ある夜、セーフハウスのリビングで、冬機は自分の手を眺めていた。
鋼の指先。
この指がキーを叩くだけで、人の運命が変わる。
その重さを感じながら、同時に慣れていく自分を感じる。
伊都は何も言わない。ただ、淡々と次の仕事を振ってくる。
彼女は気づいているのだろうか。この子供が、善意や熱い正義感ではなく、習慣と機能として人助けをしていることに。
たぶん、気づいている。
それでも彼女は、冬機を使い続ける。それが彼女の仕事であり、責任だからだ。
「……冬機、明日の予定よ」
伊都が声をかけてきた。
冬機は顔を上げた。
「はい」
考える必要はない。明日も仕事がある。誰かを助ける機会がある。
それだけで十分だった。
今はまだ、このサイクルの先にあるものを知る由もなかった。