その書類は、薄いクリアファイルに入れられた状態で渡された。
夜、セーフハウスのリビング。帰宅したばかりの伊都が、スーツ姿のままカバンから取り出したものだ。
「読んでみなさい」
冬機は受け取り、中身を引き出した。
一枚の硬いカードのような紙だった。特殊な透かしが入っており、公的な証明書特有のインクの匂いが微かにする。
そこには、冬機の顔写真と、「個性行使許可証」という文字が明朝体で印字されていた。
写真は、先日この部屋の白い壁を背景にして撮ったものだ。十一歳になったばかりの少年としては、ひどく無表情で、金色の目はレンズの奥をただの観測対象として見透かしているように静まり返っている。
写真の下には、小さく「特例措置・第四種」という見慣れない区分が書かれていた。
「……これは」
「本来なら、プロヒーローの仮免許を取得した者か、警察や自衛隊といった特定の公的機関に所属する成人にしか発行されないものよ」
伊都はキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。グラスに注ぐ音が、静かな空間に響く。
「あなたの年齢で、しかも戸籍の裏付けが弱い人間にこれが出ることは、通常あり得ない。委員会の上層部でもかなり揉めたわ。前例がない、リスクが高すぎる、倫理的に問題がある。反対意見を並べれば本が一冊書けるくらいね」
伊都は水を一口飲み、ふう、と小さく息を吐いた。その横顔には、長い会議を乗り切った疲労が微かに滲んでいた。
冬機はカードを見つめたまま、鋼の指でその縁をなぞった。
この一枚のカードが、自分という存在を公的に──裏のルートにおいてではあるが──認める初めての書類だった。
「……そういうものが、必要なんですか」
冬機は聞いた。
今までのように、非公式の協力者という形でも仕事は回っていた。ハッキングや情報収集なら、影の中にいれば済む。
「必要なの」
伊都はグラスを置き、冬機の方を向いた。眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに向けられる。
「これまでは後方支援がメインだったけれど、これからは現場での直接行動の機会が増える。現場で個性を使う際、法的な後ろ盾がないと、あなたを守れない」
守るため。
その言葉に、冬機は少しだけ目を伏せた。
「……俺を守るためですか。組織を守るためではなく」
「両方よ」伊都は即答した。「あなたが現場で個性を使い、ヴィランを制圧したとする。もし許可証がなければ、それは『無資格者による個性使用』であり、過剰防衛や傷害に問われる可能性がある。最悪の場合、あなたがヴィランとして認定され、ヒーローに排除される対象になりかねない」
冬機は頷いた。
自分がヴィランとして認定されるリスク。それは常に頭の片隅にあった。法の外側にいる以上、いつ狩られる側に回ってもおかしくない。
「でも、これを持っていれば」伊都は指先で許可証をトントンと叩いた。「あなたは現場で『公安の管理下にある協力者』として扱われる。ヴィランとして拘束されることはない。警察も、ヒーローも、このカードを見せれば手出しはできない」
最強の盾だ、と冬機は思った。
同時に、強固な首輪でもある。
伊都は続ける。
「ただし、これは公式記録には残らないグレーゾーンの書類よ。一般の警察のデータベースには照会できない。あくまで公安の内部的な許可証。紛失すればただの紙切れだし、あなたが暴走すれば即座に失効する」
「わかりました」
冬機はカードをファイルに戻した。
これは信頼の証などではない。契約書だ。公安という巨大なシステムの一部として、より深く機能することを条件に、生存権を保証する契約。
冬機はそれを重荷だとは思わなかった。役割が明確になるのは、むしろ歓迎すべきことだった。
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数日後、冬機は初めての「直接行動」の現場に立っていた。
これまでの遠隔操作とは違う。自分の足で、ターゲットのいる空間に踏み込むのだ。
場所は、郊外の工業団地跡にある廃倉庫。
小規模なヴィラン組織が、ここを一時的なアジトとして利用しているという情報が入った。構成員は五名。全員が個性を持ち、違法な銃器で武装している。
冬機の装備は、この一年で大きく変わっていた。
素足は卒業し、グリップ力の高い特注のコンバットブーツを履いている。黒いコンバットパンツに、防刃素材のタクティカルベスト。背中側は大きく開いており、背鰭が干渉しないように作られていた。
耳元には高性能インカム。そして、腰には小型のドローンを四機格納したポーチが備え付けられている。
『目標は二階、奥の管理室。五名ともそこにいる。熱源反応から見て間違いない』
インカムから伊都の指示が飛ぶ。彼女は少し離れた位置に停めた指揮車両の中で、全体の指揮を執っている。
『今回のあなたの役割は、捕縛補助よ。先行して環境を掌握し、彼らの無力化を図りなさい。突入班とヒーローチームが続くわ』
「了解」
冬機は短く答えた。声は震えていない。心拍数も一定だ。
恐怖よりも、これから行うタスクの手順を計算する処理の方が上回っていた。
冬機は動き出した。
錆びついた外階段を、音もなく駆け上がる。ブーツのゴム底が鉄板を捉える。重い尻尾を持ち上げ、手すりに当たらないよう制御する。三百キロ近い体重があるが、脚部のブースターを微弱に吹かして慣性を相殺すれば、猫のように静かに動くことができた。
二階の踊り場に到着する。
ポーチから二機のドローンを射出した。
ブゥン、と低い音を立てて手のひらサイズのドローンが飛び立ち、廊下の奥へと先行する。
冬機の視界が分割され、自分の肉眼の映像と、二機のドローンからの映像が同時に脳内に流れ込む。
DNAコンピュータが並列処理を行う。
管理室のドアが見えた。
ソナーが室内の五人の位置を正確に割り出す。心音、話し声、銃をいじる金属音。
冬機はドアの横に張り付き、意識の糸を伸ばした。
まずは、彼らの武装を封じる。
室内の男たちが持っているアサルトライフルの電子制御部分に侵入。安全装置を強制的にオンにし、トリガーの回路をロックする。
次に、環境の掌握。
部屋の照明システムと、スプリンクラーの制御盤に接続する。
準備完了。
「環境掌握、完了。制圧を開始します」
インカムに告げると同時に、冬機は指を鳴らした。
バチン!
管理室の照明が一斉に破裂音を立てて消え、直後にスプリンクラーが作動した。
大量の水が室内に降り注ぐ。
「うわぁっ!?」
「なんだ!? 停電か!?」
男たちのパニックに陥る声が響く。
冬機は電子ロックを解除し、ドアを蹴り開けた。
暗闇と水しぶきの中へ踏み込む。
彼らには何も見えないだろうが、冬機にはソナーと暗視ドローンの映像がある。昼間のように明るく、明確に状況が把握できていた。
「敵襲だ! 撃て!」
リーダー格の男が叫び、引き金を引こうとする。
だが、ロックされた銃は沈黙したままだ。
「クソッ、銃が壊れてやがる!」
冬機はその男の懐に滑り込んだ。
鋼の篭手を握りしめ、鳩尾に掌底を叩き込む。
ドッ、と重く鈍い音がして、男がくの字に折れ曲がった。
骨を砕かないギリギリの力加減。だが、人間の腹筋で耐えられる衝撃ではない。男は呼吸を止め、水浸しの床に崩れ落ちた。
二人目、三人目。
混乱して逃げ惑う彼らの足を払い、あるいは背後から首筋に手刀を落として、次々と意識を刈り取っていく。
無駄な動きは一切ない。最短距離で、最小の力で、最大の効果を出す。
機械的な効率の良さだった。
「このガキィッ!」
四人目と五人目が、状況を理解して反撃に出た。
銃を捨て、個性を使ってくる。
一人は両腕を刃物のように鋭く変化させ、もう一人は腕から強烈な突風を放ってきた。
突風が水しぶきを巻き上げ、冬機の身体を押し返そうとする。
冬機は脚部のブースターを点火し、地面に踏み止まった。
青い炎が水を蒸発させ、白い蒸気が立ち込める。
その蒸気に紛れて、刃物の個性を持つ男が斬りかかってきた。
狙いは首元。
避けるのは容易だったが、後ろにはドローンが飛んでいる。
冬機は一歩前に出て、左腕の鋼の装甲でその刃を受け止めた。
ガギィン!!
火花が散る。
超高張力鋼の篭手は、男の刃を完全に弾き返した。
「なっ、硬ぇ……!」
男が驚愕に目を見張った瞬間、冬機は右の拳を男の顔面の寸前で止め、そのまま手のひらで押し飛ばした。
男は吹き飛び、壁に激突して動かなくなる。
だが、刃を受け止めた衝撃で冬機の姿勢がわずかに崩れた隙を、最後の五人目が突いてきた。
「死ねぇ!」
男が鉄パイプを振り回し、冬機の脇腹を強打した。
装甲の隙間、黒いインナーに覆われた生身の皮膚の部分に、鈍い打撃が直撃する。
ズキッ、と鋭い痛みが走った。
インナーの生地が裂け、皮膚が擦り剥ける感触。
しかし、冬機は顔色一つ変えなかった。
痛みを「ダメージ情報」として即座に処理し、反撃の動作に繋げる。
身体を回転させ、遠心力を乗せた鋼の尻尾で男の足を薙ぎ払う。
ドゴォッ!
男は宙を舞い、床に叩きつけられて完全に沈黙した。
静寂が戻った。
スプリンクラーの水だけが、無情に降り注いでいる。
五人の男たちが床に伸びていた。全員、行動不能状態だ。
冬機は部屋の中央で立ち尽くし、息を整えた。
心拍数は少し上がっているが、乱れてはいない。
『……冬機、状況は?』
インカムから伊都の声。
「制圧完了。五名とも行動不能。武装解除済みです。突入班の受け入れ準備完了」
淡々と報告する。
『了解。突入班、入れ』
数秒後、階段を駆け上がってきた公安の捜査官とプロヒーローたちが部屋になだれ込んできた。
彼らは床に転がるヴィランたちと、その中心で濡れそぼって立つ冬機を見て、一瞬だけ息を呑んだ。
「……おいおい、全部一人でやったのかよ」
ヒーローの一人が呆れたように呟く。
冬機は彼らに場所を譲り、静かに部屋を出た。
自分の役割は「補助」だ。最終的な確保と連行は、彼ら大人の仕事である。
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現場を離れ、待機していた伊都の黒塗りのセダンに戻る。
雨に濡れたようにずぶ濡れになった冬機を見て、伊都は車のトランクからバスタオルを取り出して渡した。
「ご苦労さま。完璧な仕事だったわ」
「ありがとうございます」
冬機はタオルで頭を拭きながら、後部座席に座った。
暖房が効いた車内は暖かかった。
一息ついたとき、冬機は自分の左腕を見下ろした。
装甲の隙間、脇腹に近い部分の皮膚。インナーが破れ、擦り傷から薄っすらと血が滲んでいる。
痛みは引いていた。これくらいの傷、施設で行われた手術に比べれば無に等しい。
だが、ふと、その左腕が微かに震えていることに気がついた。
ガタガタと大きく揺れるものではない。筋肉の深層で、細かく痙攣しているような震えだ。
冬機は右の鋼の指で、左腕を強く掴んだ。
止まらない。
不思議だった。鋼で覆われた部分は完全に静止している。中の生身の腕だけが、勝手に反応しているのだ。
──そういえば。
前世の記憶が、静かに波を立てた。
緊張すると、身体が震えることがあった。
クラスの代表として全校生徒の前で発表する前。大事な部活の試合の直前。
頭では「大丈夫だ」と思っていても、足がすくみ、指先が勝手に震えた。あれは武者震いだったのか、それとも恐怖の遅延だったのか。
今のこれは、何だろう。
戦闘中は全く怖くなかった。全てがスローモーションのように見え、最適解を処理するだけで精一杯だった。
今になって、身体が「戦闘という非日常」に対する拒絶反応を示しているのだろうか。
機械の部分は冷徹に機能し終えたのに、人間の部分だけが「人を傷つけた」「傷つけられた」という事実に揺れている。
身体の中で、機械と人間が別々に反応しているような、奇妙でアンバランスな感覚だった。
「……」
運転席に座った伊都が、バックミラー越しに冬機の様子を見ていた。
震える腕を自ら押さえ込んでいる姿を、静かに見つめている。
何かを言うかと思った。
「大丈夫か」とか、「怖かったか」とか。普通の大人ならかけるであろう、気遣いの言葉。
だが、伊都は何も聞かなかった。
無言でエンジンを切り、シートベルトを外して後部座席の方へ身を乗り出した。
彼女の手には、車載の救急箱が握られていた。
「腕、見せなさい」
短い指示。
冬機はタオルを退け、震える左腕を差し出した。
伊都は慣れた手つきで破れたインナーの布地を避け、傷口を確認した。
鉄パイプによる打撲と擦過傷。
消毒液を含ませた綿で優しく拭き取り、軟膏を塗って、手際よくガーゼとテープで固定する。
その手つきは、事務的でありながら、どこか丁寧だった。
壊れた道具を修理する手つきではなく、傷ついた人間の手当てをする手つき。
その間、彼女は一言も発しなかった。
「痛い?」とも「我慢してね」とも言わない。
冬機も黙っていた。
伊都が何も聞かなかったことが、冬機にとっては救いだった。
もし「怖いのか」と聞かれたら、答えに詰まっていただろう。感情の名前がわからないまま、身体だけが反応しているこの状態を、言葉で説明することなどできないからだ。
彼女は、冬機の感情に無理やり名前をつけようとはしなかった。ただ、物理的な処置だけをした。
それが、「今はそのままでいい」と言われているようで、冬機は少しだけ息を吐くことができた。
処置が終わると、伊都は救急箱を片付けた。
「今日はよく寝なさい」
それだけ言って、彼女は運転席に戻り、エンジンをかけた。
車が走り出す。
冬機はガーゼを貼られた左腕を膝の上に置いた。
薬の清涼感が、じわじわと染みてくる。
震えは、いつの間にか止まっていた。
なぜ彼女は何も聞かなかったのか。
理由はわからない。
でも、あの無言の手当てと、「よく寝なさい」という短い言葉が、冬機の中に確かな「何か」として残った。
それは、同情よりもずっと温かく、命令よりもずっと優しい何かだった。
窓の外を流れる夜景を見ながら、冬機は胸のポケットに手を入れた。
そこには、あの「許可証」が入っている。
薄いカード一枚の厚み。
自分はまた一つ、前に進んだ。
直接行動。暴力の行使。怪我をするリスク。
普通の子供としての道は、もう完全に存在しない。
それでも、隣に座る伊都がいる限り、自分は一人ではない。
今はそれだけで十分だと、冬機は自分に言い聞かせた。