十二歳の冬が来た。
この世界に来てから、四度目の冬だ。
公安の黒いバンの窓ガラスが、外の冷気で白く曇っている。
だが、冬機の身体は寒さを感じていなかった。背鰭の冷却機能が、逆に今の気温を「適温」だと判断している。DNAコンピュータと機械化された身体が発する熱を、冷たい外気が効率よく逃がしてくれるからだ。
冬機はモニターの明かりに照らされた狭い車内で、静かに息を吸い込んだ。
今日の任務は、過去最大規模の掃討作戦だった。
ターゲットは、複数のアジトを持つ武闘派ヴィラン組織「赤鉄(せきてつ)」。銃器の密造と流通をシノギにしている集団で、構成員は五十名を超える。
警察の特殊部隊と複数のヒーロー事務所が合同で包囲網を敷き、一斉に拠点を叩く。
冬機の役割は、作戦全体における「情報支援の統括」だった。
直接現場には出ない。この指揮車両の中から、上空に展開した六機のドローンと、地域の監視カメラ網、そして通信傍受システムを同時に操作し、敵の動きをリアルタイムで味方に伝える。
司令塔に近い、極めて重要なポジションだ。
伊都は、冬機の「現場適応力」と「直接行動の能力」を高く評価しつつも、今回のような大規模かつ混沌とした作戦では彼を安全圏に置くことを選んだ。許可証があるとはいえ、十二歳の子供を最前線の銃撃戦に放り込むリスクを避けたのだ。
それは組織の管理者として正しい判断だと、冬機も論理的に理解していた。
今の自分には、全体を見渡す目が必要だ。
「……C地点、敵影三名。地下通路からの逃走を図っています。誘導します」
冬機はインカムに向かって淡々と告げた。
同時に、意識の糸を伸ばしてC地点にある工場の電動シャッターをハッキングし、彼らの逃走ルートを強制的に遮断する。
モニターの中で、慌てて進路を変えるヴィランたちの姿が映る。その先には、すでにプロヒーローのチームが網を張って待機している。
『確保! ナイス誘導だ、本部!』
ヒーローからの威勢の良い声が届く。
冬機は返事をせず、すぐに次のエリアへ意識を移した。
指先が手元のキーボードの上を滑るように動く。以前購入した高純度のオイルのおかげで、鋼の関節は恐ろしいほど滑らかに、遅延なく稼働していた。
脳内には、半径三キロメートル圏内の全ての電子機器のネットワーク図が立体的に構築されている。
敵の使う暗号化無線。逃走用車両のエンジン制御。周囲の信号機や照明のシステム。
それら全てが、冬機の指先一つで操れる盤面の駒だった。
空間を完全に支配している感覚。
しかし、冬機はその全能感に酔うことはなかった。ただ淡々と、入力されるタスクを処理し、最適解を出力し続けるだけだ。
作戦は順調だった。
開始から二時間が経過し、主要な拠点は粗方制圧された。残るは散り散りになった一部の残党狩りのみとなっていた。
このまま終わる。そう思っていた。
その時だった。
『──くそっ、こっちは行き止まりだ!』
『援護を頼む! 敵の増援だ、数が合わない!』
通信機から、焦燥に満ちた声が飛び込んできた。
冬機は瞬時に反応した。声の主の識別コードを確認する。
「エリアF」を担当していた中堅ヒーローと、そのサイドキックたちだ。
エリアFは、当初の予測ではただの物資保管庫だと推測されていた場所だ。敵の戦力は少ないと見積もられ、少人数のチームが配置されていた。
情報が間違っていたのか、あるいは敵が地下ルートを使ってそこに集結したのか。
冬機はエリアFの上空にあるドローンを急行させた。
モニターの映像が切り替わる。
古い雑居ビルに挟まれた、薄暗い路地裏。
そこに、想定外の絶望的な光景があった。
三人のヒーローたちが、完全に追い詰められていた。相手は、隠し通路から湧き出てきた十数名のヴィラン。しかも、そのうちの一人が強力な「衝撃増幅」の個性を持っていた。
ドォン!!
映像越しでもカメラが揺れるほどの衝撃波が、ヒーローたちを吹き飛ばす。
盾役として前に出ていたサイドキックがコンクリートの壁に叩きつけられ、ぐったりと動かなくなった。
リーダー格のヒーローが、頭から血を流しながら立ち上がろうとしている。だが、足の骨が折れているのか、体勢が崩れる。
『本部! 誰か、誰か近くにいないか! 重傷者が出た!』
『退路がない! 囲まれた!』
悲痛な叫び声。
それは業務上の報告ではなかった。「助けてくれ」という、生身の人間の悲鳴だった。
冬機の手が、キーボードの上で一瞬だけ止まった。
エリアFの近くに、即応できる味方はいない。他の部隊もそれぞれの残党処理で手一杯で、急行には時間がかかる。
伊都が無線で叫ぶ声が聞こえる。
『エリアFへ急行できる班は!? クソ、どいつも遠すぎるわ!』
間に合わない。
物理的な距離という絶対的な壁が、彼らの命を削り落とそうとしていた。
モニターの中で、ヴィランの一人が倒れたサイドキックに近づいていく。手には凶悪な刃物が握られている。
殺される。
その未来が、確定的な事実として冬機の脳内に計算された。
──嫌だ。
反射的に、感情が来た。
人が死ぬのを見たくない。自分が関わっている作戦で、救えるはずの命が失われるのは嫌だ。
冬機は思考を最大まで加速させた。
自分はここにいる。車の中だ。現場までは二キロメートル以上ある。
駆けつけることはできない。ブースターを全開にしても数分かかる。それではあの刃物が振り下ろされるのに間に合わない。
じゃあ、何ができる?
「機械操作」の個性。その射程距離。
約二キロメートル。
ギリギリだ。届くか?
いや、届かせる。
冬機はドローンの出力を最大に上げた。飛んでいるドローンを中継機(リピーター)として利用し、自身の意識の糸を無理やり延長する。
脳が焼き切れるような負荷がかかった。視界が白く明滅し、耳鳴りがする。
それでも、意識を伸ばした。
エリアF。路地裏。
そこにある「使えるもの」を全て探せ。
ヴィランが武器を振り上げた瞬間。
キィィン!!
路地裏に停まっていた放置車両の防犯アラームと、ビルの外壁のスピーカーから、鼓膜をつんざくようなハウリング音が鳴り響いた。
「ぐあぁっ!?」
ヴィランたちが不意の激音に耳を押さえてうずくまる。
冬機は止まらない。
路地に面したビルの配電盤に侵入。過電流を流し込み、外壁に取り付けられたネオンサインと街灯の電球を次々と爆発させる。
バヂィッ、バシュゥッ!
火花とガラス片が雨のように降り注ぐ。
さらに、地下に埋設された水道管の制御バルブにアクセス。老朽化した管の圧力を限界まで高める。
ドパンッ!
マンホールの蓋が吹き飛び、強烈な水柱が噴き上がった。
水と、音と、光の暴力。
自然現象ではない。明確な意思を持ったポルターガイストのような現象が、ヴィランたちを襲った。
「な、なんだ!?」
「何が起きてる!?」
ヴィランたちが混乱の極みに達し、パニックを起こす。
冬機はその隙を見逃さなかった。
倒れているヒーローの近くにある自動販売機。その排出機構のモーターを暴走させる。
ガガガガガッ!
缶ジュースやペットボトルが、弾丸のような勢いで連続して射出された。それはヴィランへの直接的な攻撃ではなく、視界を遮る物理的な煙幕代わりの撹乱だ。
『……今だ! 逃げろ!』
冬機は、ヒーローの持つ通信機に直接ハッキングし、自分の声を送り込んだ。
『西側の路地から大通りへ抜けろ。ロックは俺が開ける』
ヒーローがはっと顔を上げた。何が起きたのか完全には理解できていないようだったが、目の前に生じた一瞬の活路は見逃さなかった。
彼は痛みをこらえて立ち上がり、重傷のサイドキックを抱え上げ、水柱と飛んでくる空き缶の向こう側へと走った。
冬機は、彼らの退路にある電子ロックを次々と解除し、逆に追ってくるヴィランに対しては防火シャッターを落として道を塞いだ。
『エリアF、離脱成功! ……助かった、のか?』
ヒーローの荒い息遣いと、信じられないというような声が聞こえた。
冬機は、キーボードから手を離し、深く息を吐いた。
全身から汗が噴き出していた。
脳の奥が熱い。頭痛がする。
やった。助けた。
誰も死ななかった。
モニターの中で、ヒーローたちが安全圏へ退避し、到着した救急部隊に引き継がれるのが見える。ヴィランたちは水浸しの路地裏で完全に孤立し、後から来た増援部隊に囲まれていた。
完璧な遠隔支援だった。
誰が見ても賞賛されるべき、神業のような危機対応と空間掌握能力。
けれど。
冬機は自分の手を見つめていた。
熱を持っているだけだ。
しかし、胸の中には、安堵や「報われた」という達成感とは違う、ざらりとした何かが残っていた。
──遠い。
その感覚が、強烈に来た。
助けた。確かに助けた。
でも、自分はここにいる。
暖房の効いた安全な車の中で、モニター越しに彼らの生死の確率を操作しただけだ。
あのヒーローが上げた悲鳴。「誰かいないか」という叫び。
あれは、通信機の向こうのオペレーターを呼ぶ声ではなかった。
自分の隣で、背中を預けて一緒に戦ってくれる「誰か」を求める声だった。
冬機はその声に応えたつもりだが、本当の意味では応えていない気がした。
ただ、機械的に環境を操作して、死なないように調整しただけだ。
そこに「体温」はなかった。
──そういえば。
前世の記憶が、ふと蘇る。
テレビのニュースで、悲惨な事故や災害の映像を見たときの感覚。
「かわいそうに」「助かればいいのに」と思った。胸を痛めた。
でも、テレビの前の自分には何もできなかった。現場は遠く、自分は安全な場所にいる傍観者でしかなかった。
あのときの無力感と、今の感覚は似ているようで、決定的に違っていた。
今は力がある。助けることができる。
実際に助けた。
それでも、「その場にいない」という事実が、こんなにも歯がゆいとは思わなかった。
もし、自分がそこにいたら。
あのヴィランの前に立ち塞がり、自分の鋼の装甲で衝撃波を受け止め、サイドキックを守ることができていたら。
そうすれば、あのヒーローはあんなに絶望的な声を上げずに済んだのではないか。
もっと直接、もっと確実に、安心させることができたのではないか。
「いればよかった」という後悔よりも、「次はそこにいたい」という強い欲求の方が勝っていた。
『……状況終了。全エリア、制圧完了』
無線の向こうで、作戦終了のアナウンスが流れた。
冬機は静かにドローンの接続を切り、回収モードに移行させた。
視界が現実の車内に戻ってくる。
モニターの光。自分の呼吸音。
ここには、戦場の熱気も、血の匂いも、助かった人々の安堵の息遣いもない。
ただ、データとしての「成功」があるだけだ。
ドアが開き、伊都が乗り込んできた。
外の冷たい空気と一緒に、彼女の鋭い視線が入ってくる。
「……見たわよ、今の」
伊都はシートに座り、ため息交じりに言った。
「無茶をしたわね。あんな距離からの強制介入、脳への負荷が危険域を超えていたはずよ。下手すればシナプスが焼き切れていたわ」
「すみません」
冬機は謝った。だが、反省はしていなかった。必要だったからやった。それだけだ。
「でも」
伊都の声が和らいだ。
「あなたの機転がなければ、二人のヒーローが殉職していた。……よくやったわ、冬機」
よくやった。
また、その言葉だ。
以前、初めて現場で成果を上げたとき、その言葉は自分の存在意義を肯定してくれる、温かい「報酬」の味がした。
今も、その温かさはある。伊都が自分を認めてくれていることはわかる。
だが、それだけでは足りない気がした。
今回は、似たような「よくやったわ」の下に、小さく別の感情が動いているのを感じた。
「よくやった」と言われることよりも、「そこにいてくれてよかった」と言われたい。
いや、誰かに言われたいわけではない。評価が欲しいわけではない。
自分が、「そこにいたい」のだ。
画面の向こう側ではなく、悲鳴が聞こえるその場所に。手が届く距離に。
自分の足で立ち、自分の手で掴みたい。
何かが、自分の中で決定的に変わり始めているのがわかった。
「……統道さん」
冬機は顔を上げた。
「はい?」
「次は、俺を現場に行かせてください」
伊都が眉を上げた。
「行っているじゃない。今日も現場のすぐ近くまで……」
「違います。車両の中ではなく、ヒーローたちがいる最前線に」
冬機の目は真剣だった。金色の瞳に、これまでにない強い光が宿っていた。
「ドローン越しじゃ、遅いんです。声が聞こえてから環境を操作するんじゃ、間に合わないことがある。俺がその場にいれば、もっと速く、もっと直接的に守れます」
それは自分の能力の効率化を主張する論理的な説明のように聞こえたが、その奥にあるのは「そこにいたい」という純粋な欲求だった。
伊都は、しばらく冬機を見つめていた。
やがて、小さく苦笑した。
「……欲が出てきたわね」
「欲、ですか」
「ええ。ただ言われたことを安全圏でこなすだけじゃ満足できない。もっと上手くやりたい、もっと直接結果を出したい。それは職業人としての健全な欲よ」
伊都はそう解釈したようだった。
半分は当たりで、半分は違う気がした。
でも、冬機は否定しなかった。
「……そうかもしれません」
「いいわ。検討しましょう。ただし、今のままでは無理よ。許可証のランクの問題もあるし、何よりあなたの立場が特殊すぎる。公に出るなら、それなりの準備が必要になる」
「はい」
却下されなかった。
検討するということは、可能性がゼロではないということだ。
車が動き出した。
冬機は窓の外を見た。夜が明け始めていた。
東の空が白み、街の輪郭が浮かび上がってくる。
前世で、何度も見た夜明けの色だ。
廃工場で一人、膝を抱えて見ていたあの空とも同じだ。
でも、今の心境は、そのどちらとも違っていた。
「その場にいたい」という思い。
それは、この世界に来て初めて冬機が抱いた、自分自身に向けた明確な「未来への意思」だった。
生き延びるためでも、居場所を守るためでもない。
自分がどうありたいか、という問いへの、最初の答えの欠片。
冬機は胸の装甲に手を当てた。
その下で、心臓が力強く脈打っている。
この鼓動を、次は遠くの誰かのためではなく、すぐ隣にいる誰かのために直接響かせたい。
そう思った。