冬機が十三歳の誕生日──施設に記録されていた「製造開始日」を仮の誕生日として設定した日──を迎えてから、数日が経った頃。
その夜、伊都はいつになく神妙な面持ちで帰宅した。
夕食を終え、冬機が自室に戻ろうとしたところで、リビングのソファに座るように促された。
「座りなさい。少し、大事な話があるわ」
テーブルにはタブレットではなく、一通の白い封筒が置かれていた。
分厚く、上質な紙。表面には何も書かれていないが、封の部分に金色の丸いシールが貼られている。
冬機は向かいの席に座り、背鰭を逃がすように少し前傾姿勢になった。
「以前、あなたが言ったこと。覚えているかしら」
伊都が静かに切り出した。
「現場に行きたい、という話ですか」
「ええ。ドローン越しの遠隔支援ではなく、最前線でヒーローたちと直接連携したい。あのときは『検討する』と答えたわね」
冬機は小さく頷いた。
あの日、路地裏でヒーローがヴィランに追い詰められ、自分は何もできずただ「環境を操作する」ことしかできなかったあの日。
『そこにいたい』と願った。
あれから半年近くが経過している。その間、冬機は与えられた任務を完璧にこなし続けてきた。
「結論から言うと、今のあなたの立場のままでは、あれ以上の直接行動は許可できない」
伊都は封筒に片手を置きながら、冷徹な事実を告げた。
「特例の許可証があるとはいえ、あなたはあくまで『非公式の協力者』よ。しかも未成年で、戸籍も不完全。そんなあなたを、公式のヒーロー活動の最前線に出すことは、法的なリスクが大きすぎる。万が一、あなたがメディアに露出したり、ヴィランに過剰なダメージを与えたりすれば、公安委員会への致命的なスキャンダルになる」
冬機は黙って聞いていた。
予測できたことだ。組織の論理として、当然の帰結である。
「……そうですか」
「でも」
伊都はそこで言葉を区切り、白い封筒を冬機の方へ滑らせた。
「あなたが望む『現場』に立つための、正規のルート(道)を用意したわ」
冬機は封筒を手に取った。
中から一枚の書類を引き出す。
そこには、見覚えのあるロゴマークと、太い明朝体で書かれた文字があった。
『国立雄英高等学校 推薦入学枠に関する事前協議書』
冬機の手が、ピタリと止まった。
知っている。
前世の記憶にある、あの学校の名前だ。主人公たちが通い、数々のドラマが生まれた場所。ヒーローを目指す者にとっての最高峰。
「……どういうことですか」
冬機は書類から顔を上げ、伊都を見た。
「文字通りの意味よ。雄英高校ヒーロー科への、公安推薦枠。それをあなたに与える準備がある」
伊都は背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。
「あなたが現場に出たいなら、プロヒーローの免許を取るしかない。雄英に入り、正規の教育を受け、仮免を取得すれば、誰に遠慮することなく現場に立てる。公安の影に隠れた非合法な存在から、光の当たる場所の『正義』になれるわ」
正規のヒーロー。
それは、今の冬機の「便利で危険な道具」という立場とは対極にあるものだ。
「公安としても、あなたのような逸材をいつまでも裏で飼い殺しにするより、表のヒーローとして活動させつつ、必要に応じて裏で連携を取る方がメリットが大きいと判断したの。あなたの『機械操作』と並列処理能力は、災害救助や対テロ活動において絶大な効果を発揮するから」
伊都の説明は、どこまでも合理的だった。
冬機のためでもあり、組織のためでもある。
「……俺に、ヒーローになれと?」
「なりたいかどうかは、あなたが決めなさい。私はあくまで、選択肢を提示しているだけ」
伊都はそう言うと、テーブルの上に置かれていた自分のマグカップを手に取った。
「このまま裏の仕事だけを続けて、一生日陰で生きるか。それとも、表舞台に出て、自分の足で立つか。……一週間あげるわ。よく考えなさい」
その夜、冬機はベッドの中で横になりながら、ずっと考えていた。
雄英高校。
前世のアニメファンとしての自分が、心の奥底で小さく騒いでいるのがわかった。
「すごいことだ」「あの雄英に行けるなんて」「オールマイトがいる場所だ」。
単純な興奮のシグナルが、DNAコンピュータの片隅で明滅している。
だが、今の冬機のメインプロセスは、それを冷静にフィルタリングしていた。
ファンとしての憧れやミーハーな感情で決めていいことではない。これは自分の生存戦略であり、今後の生き方の岐路だ。
「行きたいか、行きたくないか」という感情論では考えなかった。
「自分の目的を達成するために、何が必要か」という計算で考えた。
今の生活に、大きな不満はない。
伊都がいて、仕事があって、安全なベッドと温かい食事が保証されている。
でも、「遠い」という感覚は消えていない。
モニター越しの安全圏から、誰かの生死を操作するだけの自分への苛立ち。
それを解消し、「その場にいる」ためには、伊都の言う通り、資格が必要なのだ。
プロヒーローになれば、堂々と現場に行ける。誰かの悲鳴が聞こえたら、すぐに駆けつけられる。
自分の手で、直接、掴むことができる。
どうせ人を助ける仕事をするなら、より効率的で、より権限の大きい立場にいた方がいい。
答えは、考えるまでもなく出ていた。
自分の性能をフルスペックで活かせるのは、間違いなく後者だ。
それに、と冬機は暗い天井を見つめた。
雄英には、彼らがいる。
緑谷出久。飯田天哉。轟焦凍。麗日お茶子。
前世の記憶にある、彼らがこれから直面する困難を、俺は知っている。
もし、同じ場所にいられたら。
「会ってみたい」という純粋な好奇心。
そして、「あの世界の一部になってみたい」という、前世から引き継いだ微かな、でも確かな夢。
それが、冬機の背中を押していた。
一週間後。
夕食後のリビングで、冬機は伊都に向き合った。
「決まった?」
伊都が静かに問う。
「はい」
冬機は真っ直ぐに彼女の目を見た。
「雄英の推薦、受けます」
伊都は表情を変えなかったが、纏う空気がわずかに緩んだ気がした。
「わかったわ。賢明な判断ね。手続きは私が進めておく」
「ただし、条件があります」
冬機が言うと、伊都は「条件?」と少し眉を上げた。
彼女は、冬機が何か自由を求めるのだと思ったのかもしれない。仕事を減らしてほしいとか、お小遣いを上げてほしいとか。
だが、冬機が口にしたのは逆のことだった。
「入学するまでの二年間、そして入学してからも、今の公安の仕事は続けさせてください」
「……」
伊都が少しだけ目を丸くした。珍しい反応だった。
「どうして? 学生になれば、公安の裏仕事をする義務はないわよ。危険な任務からは外して、普通の学生生活を楽しめばいいじゃない」
「今の仕事は、俺のメンテナンスです」
冬機は自分の両手を開いて見せた。鋼の装甲が、リビングの照明を反射している。
「この身体は、使わなければ鈍ります。感覚も、処理速度も、情報収集の勘も。現場の空気を忘れたくありません。それに……」
冬機は少しだけ視線を落とした。
「報酬をもらって、ここで暮らすという契約を、一方的に破棄したくありません」
自分の居場所は、自分で稼いで維持したい。
ただ「養ってもらう」だけの存在になれば、いつか機能不全とみなされて捨てられるかもしれないという不安が、どうしても拭えなかった。
役に立ち続けること。それが冬機の精神安定剤だった。
伊都は、しばらく冬機を見つめていた。
やがて、小さくため息をつき、口元を緩めた。
「……本当に、可愛くない子供ね」
それは、呆れているようでもあり、最高の褒め言葉のようにも聞こえた。
「いいわ。仕事は継続しましょう。あなたの情報処理能力を手放すのは公安としても痛手だしね。ただし、学業優先よ。赤点を取ったり、学校生活に支障をきたしたりしたら、仕事は即座に禁止にするから。そのつもりで」
「善処します」
「それと」
伊都が付け加えた。
「雄英に行くためには、その前にもう一つ、クリアしなければならないミッションがあるわ」
「何ですか? 勉強なら遅れはありませんし、身体機能の訓練も……」
「そうじゃない」
伊都は首を横に振った。
「『学校』という場所に慣れておく必要があるの」
「学校……」
「あなたは、施設と廃工場と、このセーフハウスしか知らない。大人の世界と、裏の社会の空気しか吸っていない。同世代の子供たちとの集団生活の経験が、完全にゼロよ」
言われて、冬機はハッとした。
確かにそうだ。
──そういえば。
前世では、学校に通うのが当たり前だった。
朝、友達と待ち合わせて登校する。授業中にこっそり手紙を回す。休み時間にくだらない話で笑う。体育館の匂い、給食の配膳の音。
今まで、思い出したこともなかった。
前世の記憶には「学校生活」のデータがある。だが、それはあくまで「過去の他人の記録」だ。
今のこの異形の身体で、感情の出し方もよくわからない状態で、現代の子供たちの輪の中に入った経験はない。
これからそこへ行くのだ。
自分と同じ年頃の人間が何十人もいる場所に。
どんな顔をすればいいか、まったくわからなかった。
「戸籍の問題は、私が裏技を使ってクリアしたわ。公的な書類上は、あなたは『冬機』として実在する人間になる」
伊都は淡々と説明を続ける。
「来年の四月から、あなたは近所の公立中学校に通ってもらう。そこで二年間、普通の生徒として過ごしなさい。それが、雄英への準備期間よ」
「普通の中学校に、ですか」
冬機は自分の背鰭と尻尾を意識した。
「この見た目で、馴染めますか」
「今は個性社会よ。異形型の生徒なんて珍しくもないわ。多少目立つでしょうけど、それはあなたの態度次第ね」
伊都は少しだけ意地悪く笑った。
「それに、これはあなたが社会に適合できるかどうかを見るためのテストでもあるの。ヴィランを制圧するより、思春期の中学生と仲良くする方が、あなたにとっては難しいミッションかもしれないわよ?」
「……善処します」
冬機は、それしか言えなかった。
その夜、冬機はベッドの中で再び考え込んだ。
学校。
仕事の現場や、爆弾処理のカウントダウンよりも、その言葉の響きの方がずっと未知の緊張感を孕んでいた。
「三号」として管理され、「協力者」として兵器運用されてきた今の自分に、「中学生」という役が演じられるのか。
不安だった。
でも同時に、微かな期待もあった。
「同い年の人間がいる場所」。
自分と同じ高さの目線を持つ人間たち。
彼らの中に混ざることで、自分の中に欠けている何かが、埋まるかもしれない。
どちらにせよ、行ってみなければわからない。
冬機は、暗闇の中でそっと拳を握った。
鋼の指が、かすかにカチャリと音を立てる。
まだ見ぬ「普通」への挑戦が、始まろうとしていた。