中学入学まであと二ヶ月と迫った、十三歳になる年の冬。
その夜、伊都は分厚いファイルを持って帰宅した。
夕食を終え、冬機がテーブルを拭き終わるのを待ってから、彼女はそのファイルを冬機の前に置いた。
「座りなさい。入学のための書類よ。戸籍を作る準備が整ったわ」
伊都の言葉に、冬機は椅子に斜めに腰を下ろした。
ファイルの中には、役所に提出するための見慣れない書類が何枚も挟まれていた。そこには、伊都が公安のルートを使って構築した「冬機」という人間の架空のバックボーンが記載されている。
両親は幼い頃に事故で他界。親戚をたらい回しにされた後、公安の保護下に入った……という、少し強引だが辻褄の合う設定だった。
「ここに、名前を書きなさい。それがあなたの正式な戸籍上の名前になる」
伊都は書類の「氏名」欄を指差した。
冬機はペンを受け取り、迷うことなく「冬機」と書き込んだ。
この一年間、伊都からそう呼ばれ続け、自分でもそう名乗ってきた名前だ。すっかり定着している。
だが、その手前の「姓」の欄で、ペンが止まった。
「……苗字がないので、どうすればいいですか」
冬機は伊都を見上げた。
施設では「三号」や「T-01」と呼ばれていた。外に出てからは「冬機」だった。苗字を必要とする場面がなかったのだ。
「好きなものを決めていいわ。あなたがこれから、一生名乗っていくものだから」
伊都はコーヒーをすすりながら、あっさりと言った。
「私の『統道』を名乗ってもいいし、全く新しいものを考えてもいい」
冬機は少し考えた。
「統道」という苗字は、嫌ではなかった。だが、彼女は自分を養子として引き取るわけではない。あくまで「仕事上の保護者」という一線を引いている。その距離感に甘えるのは、少し違う気がした。
ならば、自分で決めるしかない。
どんな苗字がいいか。
前世の記憶にある苗字を引っ張り出してみる。佐藤、鈴木、高橋。あるいは、前世の自分の本当の苗字。
どれも、今の自分には「他人の名前」のように感じられた。
今の自分。
鋼の身体を持ち、機械と対話する個性を持つ自分。
それにふさわしい、しっくりくる言葉は何か。
ふと、頭の奥に、ある文字列が浮かび上がった。
記憶というよりは、もっと根源的な、細胞に刻み込まれたような情報。
かつて施設の端末で盗み見た、あのファイルに記されていた名前。
『鋼城機巧』
自分を作り出したマッドサイエンティストの名前。
彼に対して、親愛の情はもちろんない。憎しみすらない。
ただ、自分の存在の起点にある名前だということだけは確かだった。
「鋼(はがね)の城」。
この重く、硬い、鉄壁のような身体に、不思議と似合っている気がした。
「……『鋼城』、でいいですか」
冬機はぽつりと言った。
伊都がコーヒーカップを置く手が、ピタリと止まった。
彼女は一瞬だけ目を見開き、それからゆっくりと冬機を見た。
「……それにした理由は?」
伊都の声は、いつもより少しだけ低く、慎重だった。
「……しっくり来ました。鋼の身体ですし」
冬機は素直に答えた。
それ以上の理由はなかった。「鋼城機巧と同じだから」という事実には気づいていたが、それが重要だとは思わなかった。ただ、音の響きと意味が、今の自分に合っていると感じただけだ。
伊都は、書類に目を落としたまま、内心で小さく息を飲んでいた。
「鋼城」。
公安のデータベースにある、危険人物のリスト。その中でも特A級に分類される、行方不明の生体工学の天才、鋼城機巧。
冬機が彼の研究施設から逃げ出してきたことは、調査によってほぼ確定していた。
だが、冬機自身がその名前を口にするとは思わなかった。
偶然か? 「鋼の身体だから」という連想からたまたま行き着いただけか?
それとも、無意識の深層に、彼を作り出した「父親」の記憶が刷り込まれているのか。
伊都は、それを冬機に問いただすべきか迷った。
「あなたを作った男と同じ名前だ」と告げることで、この子の精神にどんな影響を与えるか未知数だ。
言わないことにした。
冬機が「しっくり来た」と言うのなら、それが彼にとっての正解なのだ。
「……いいわ。鋼城冬機。それがあなたの名前よ」
伊都はそう言って、頷いた。
冬機はペンを動かし、書類の空欄を埋めた。
『鋼城冬機』。
書き終わった文字を見つめる。
初めて、フルネームを持った。
特別な感慨はなかった。「これが俺だ」と、ただ事実として認識しただけだ。
──そういえば。
前世でも、名前はあった。
生まれたときから親につけられ、当たり前のようにそこにあったもの。自分で選んだわけでもなく、気づいたときには自分のアイデンティティになっていた。
「名前を呼ばれる」という行為が、自分が世界に存在している証拠だった。
今、初めて自分で選び、自分で書いた名前がある。
当たり前ではない形で手に入れた名前。
それは、前世の名前よりも、少しだけ重たい感覚があった。
良い意味での重さだ。
自分という存在の輪郭が、少しだけはっきりとしたような気がした。
三月に入り、中学入学の準備が本格化した。
セーフハウスに、指定の制服が届いた。
黒い詰襟の学生服。金色のボタン。
伊都が事前に学校側と提携するテーラーに掛け合い、冬機の身体に合わせて特注したものだ。
両腕の鋼の篭手が通るように、袖は極端に太く作られ、内側に隠しジッパーが付けられている。背中は、背鰭を逃がすためのスリットが設計されており、ズボンも尻尾を通すための穴が補強されていた。
「着てみなさい」
伊都に言われ、冬機は自室で制服に袖を通した。
少し手間取ったが、ジッパーを活用することで一人でも着脱できた。
鏡の前に立つ。
黒い制服に身を包んだ、銀髪の少年。
異形のパーツが制服の隙間から覗いているが、それでも「中学生」という記号は機能していた。
そして、もう一つ。
伊都が用意してくれたものがあった。
「靴よ」
玄関で、彼女は大きな靴箱を差し出した。
冬機は箱を開けた。
中に入っていたのは、黒いローファーだった。これも特注品だ。冬機の足は装甲には覆われていないが、骨格が少し変形しており、市販の靴では幅が合わなかったのだ。
「履いてみて」
冬機は玄関に座り、靴下に足を通してから、ローファーを履いた。
ぴったりと吸い付くようなフィット感。
立ち上がり、数歩歩いてみる。
コツ、コツ、と硬い音が鳴る。
足の裏から伝わってくる感覚が、劇的に変わった。
床の冷たさも、微細な凹凸も感じない。クッションが体重を吸収し、守られている感覚がある。
──そういえば。
前世では、靴を履くのは当たり前のことだった。
家を出るときには必ず靴を履き、外の世界の危険から足を守っていた。
施設を出てからこの一年間、冬機はずっと素足だった。
廃工場の冷たいコンクリート。アスファルトのざらつき。雨の日の泥。そして、商業区画の尖ったタイル。
歩くたびに、地面の情報を足の裏で処理し、危険を避けるために無意識の演算を行わなければならなかった。
靴があれば、そんなことを気にする必要はない。
ただ前を見て、歩きたいところへ歩ける。
「靴」というものが、これほどまでに偉大な発明であり、自由を保障するツールだったのかと、失って初めて気づいた。
「……どう?」
伊都が聞いた。
「とてもいいです。足の裏の処理能力を、別の演算に回せます」
「そういう理屈っぽい感想じゃなくて。嬉しいとか、歩きやすいとかないの」
「歩きやすいです。ありがとうございます」
冬機は素直に頭を下げた。
靴を手に入れたことで、自分が一つ「人間」に近づいたような気がした。
四月。入学式の日。
冬機はいつもより少し早く目が覚めた。
緊張しているのだろうか、と自分の内側を探ってみたが、心拍数も体温も正常だった。
ただ、新しいデータが入力されるのを待っているような、アイドリング状態の微かな高揚感はあった。
制服を着る。
シャツのボタンを留め、詰襟のホックをかける。
篭手のジッパーを閉め、背鰭をスリットから出す。
鏡の前で、最終チェックをする。
よし。機能的に問題はない。
リビングに行くと、伊都がすでに朝食の準備を終えていた。
彼女も今日はスーツではなく、少し柔らかい色合いのセットアップを着ている。保護者として入学式に参列するためだ。
「おはよう。似合ってるわよ」
「おはようございます」
朝食を食べる。
メニューはいつもと同じ、ご飯と味噌汁と焼き魚だった。
味もいつもと同じ。
でも、食事をしながら、ふと不思議な感覚に陥った。
自分は今、中学生になろうとしている。
少し前まで、廃工場で廃棄食料を漁っていた名もなき化け物だった自分が。
食事を終え、玄関に向かう。
新しいローファーを履く。
カバンを持つ。
伊都がドアを開けた。
「行くわよ」
「はい」
外に出ると、春の柔らかい日差しが降り注いでいた。
マンションのエントランスを出て、駅へと向かう道。
並木道の桜が満開だった。
風が吹くたびに、薄紅色の花びらが舞い散る。
冬機は、その光景を静かに見上げた。
鋼城冬機。
それが、今日からの俺の名前だ。
この新しい靴で、新しい学校へ行く。
そこで何が待っているのかはわからない。
うまくやれるかどうかもわからない。
でも、もう「なし」だけの存在ではない。
冬機は、伊都の少し後ろを、確かな足取りで歩き始めた。