中学に入学して、一週間が経った。
新しい環境、新しい人間関係、そして毎日決められた時間割に従って動くという「普通の中学生」としてのルーティン。
冬機にとっては全てが新鮮であり、同時に、膨大な情報の処理を要求される日々だった。
学業の面では全く問題はなかった。家庭教師との学習と、自身のDNAコンピュータによる演算能力のおかげで、授業の内容はむしろ退屈なくらいだ。
問題は、「学校生活」というシステムそのものだった。
そして今日、冬機にとって最初の大きな試練がやってきた。
「給食当番」だ。
四時間目のチャイムが鳴ると同時に、クラスの空気が一気に弛緩し、そして慌ただしくなる。
当番に当たっている生徒たちは、教室の後ろのロッカーから白い割烹着のようなエプロンと帽子を取り出し、着替え始める。
冬機も今週は当番の班だった。
自分のロッカーから、伊都が用意してくれた特注の給食エプロンを取り出す。
前開きのボタン式ではなく、背中でマジックテープを留めるタイプだ。背鰭を逃がすために、背中の部分が大きく開いている。
腕を通す。篭手の太さでも通るように、袖口にはゴムが入っておらず、ゆったりとした作りになっている。
ここまではいい。
問題は、背中のマジックテープを留めることだった。
鋼の腕は人間ほどの柔軟性がない。背中に手を回して、上下二箇所にあるテープを正確に合わせるという動作は、関節の可動域ギリギリの、かなり困難なタスクだった。
「……」
冬機は無言で、背中に手を回したまま格闘していた。
カチャカチャと、装甲が擦れる音がする。
テープの端は掴める。だが、それをもう一方の端に引き寄せて、ズレないように押し付けるという微細なコントロールがうまくいかない。
焦りはない。ただ、時間を無駄に消費しているという事実が、機能的ではないと感じて苛立たしかった。
誰かに頼むべきか。
しかし、クラスメイトたちは自分の着替えや配膳の準備で忙しそうに動いている。それに、こんな些細なことで「助けてくれ」と声をかけるのは、なんだか負けたような気がした。何に負けたのかは自分でもわからないが。
「おっ、苦戦してるな、鋼城」
ふいに、背後から声がした。
相川だった。彼も同じ給食当番の班だ。すでにエプロンを着て、帽子を被っている。
「……少し、可動域の制限が」
冬機が言い訳のように答えるより早く、相川の手が冬機の背中に伸びてきた。
「こういう感じ?」
相川は、冬機の手からマジックテープの端を奪い取ると、チャッ、チャッと手際よく二箇所を留めてしまった。
「はい、完了。お前、手首から先はごついけど、肩周りは意外と普通なんだな」
「……ありがとうございます」
冬機は、少しだけ肩の力を抜いて礼を言った。
──そういえば。
前世でも、誰かに手伝ってもらったことはあった。
消しゴムを拾ってもらったり、重い荷物を一緒に持ってもらったり。
でも、それは「すいません、手伝って」と頼んだから、手伝ってもらえたのだ。
今、相川は頼む前に動いてくれた。
冬機が困っているのを見て、当たり前のように手を差し伸べてくれた。
頼み方を知らなかったから、彼が来てくれなかったら、あと数分は一人で格闘していただろう。
「ありがとう」という言葉が、前世の記憶から引き出された定型文ではなく、今の自分が感じた事実として自然に口から出た。
助けられる、というのは、こういう感覚だったか。
「おう。じゃあ、配膳室行くぞー。俺、牛乳係だから。鋼城はご飯な」
「了解した」
冬機は相川の後に続いて、廊下に出た。
ご飯の入った重い食缶。他の生徒なら二人で運ぶところを、冬機は片手で軽々と持ち上げた。
「うおっ、すげえ。やっぱパワーあるな」
「質量と出力の計算上、この程度の負荷は問題ない」
「またそういう言い方! もっと『余裕ッスよ!』とか言えよ」
「……余裕ッスよ」
「棒読み!」
相川が笑う。
冬機も、顔には出さないが、不快ではなかった。
自分の「異常な力」が、ここでは「便利な能力」として肯定的に受け入れられている。公安の仕事でヴィランを殴り飛ばすのとは違う、平和な使い方。
こういうのも、悪くない。
配膳が終わり、全員が自分の席に戻る。
机を向かい合わせにして、いくつかの班に分かれて食べるのが、このクラスのルールだった。
冬機の班は、相川と、あと二人の女子生徒だ。
机をくっつける。
冬機の机だけ、少し離して置かれた。背鰭と尻尾が、向かいの生徒の邪魔にならないようにするためだ。
少しだけ輪から外れたような形になるが、冬機は気にならなかった。物理的な制約なのだから仕方がない。
「いただきます!」
日直の号令で、一斉に食事が始まる。
今日のメニューは、温かいご飯、ワカメと豆腐の味噌汁、サバの味噌煮、そして小松菜のお浸しだった。
トレーに乗せられた、全員が同じものを食べる食事。
冬機は箸を持ち、サバの味噌煮を口に運んだ。
温かい。
甘辛い味噌の味が、舌の上に広がる。
美味しい。
──そういえば。
給食というものは、みんなで同じものを食べる時間だった。
前世でも、毎日そうしていた。同じ時間に、同じメニューを、同じ空間で食べる。
今日、この世界に来て初めて、それをした。
施設では、一人ぼっちの白い部屋でペーストを食べていた。
廃工場では、冷たいコンクリートの上で廃棄食料を齧っていた。
伊都の家でも、基本的には彼女と二人か、出張で不在のときは一人で食べていた。
今、隣に相川がいて、同じサバの味噌煮を食べている。向かいの女子たちも、同じ味噌汁を飲んでいる。
「これ美味しいね」「今日の味噌汁、ちょっと薄くない?」
そんな他愛のない会話が飛び交う。
味がどうこうという前に、その「共有している」という事実が、冬機にとっては新鮮だった。
自分がこの輪の中に、社会の一部として組み込まれているという実感。
それが、この温かい食事の味を、さらに良いものにしている気がした。
「そういえばさ、鋼城」
向かいに座っていた女子生徒の一人、佐々木さんが話しかけてきた。
ショートカットの、活発そうな女の子だ。
「あの、その背中のやつ……触ってもいい?」
彼女は、少しおずおずと、冬機の背鰭を指差した。
冬機は箸を止めた。
自分の身体に触れたいと言われたのは、初めてだった。
施設のスタッフは計測のために触ったが、それは単なるデータ収集だ。発目明のように素材として愛でられたこともまだない。(※発目明との出会いはもう少し先)
「触っていいか」という純粋な興味。
「……構わないが。鋭利な部分もあるから、気をつけて」
冬機は身体を少し横に向け、背鰭を彼女の方へ近づけた。
佐々木さんは恐る恐る手を伸ばし、第一背鰭の側面に指先でそっと触れた。
「わっ……冷たい! 本当に金属なんだ」
「俺の体温は伝導しにくい構造になっている。冷却用の放熱フィンだからな」
「へええ。痛くないの?」
「神経は通っているが、装甲部分に痛覚はない。強く叩かれれば振動は感じる程度だ」
「すごいねー。なんか、サメとか恐竜みたいでかっこいいかも」
佐々木さんは目を輝かせた。
「すごい」「かっこいい」。
相川と同じ反応だ。
この年代の子供たち特有の、純粋な感嘆。
施設を出た直後、街のビジョン越しに向けられていた「恐れ」や「物珍しさ」とは違う。
ここでは、異形であることは「特徴」の一つとして処理され、受け入れられている。
その事実が、冬機の胸の奥に、また一つ温かいものを落としていった。
「俺も触らせて!」
相川が身を乗り出してきて、冬機の尻尾をガシッと掴んだ。
「おっ、重っ! これ何キロあんだよ!」
「……正確には計っていないが、尻尾単体で約四十キログラムと推測される」
「四十キロ!? 米俵より重いじゃん! お前、これ引きずって歩いてんの?」
「いや、歩行時は自力で持ち上げている。その方が摩擦抵抗が少なく、効率的だ」
「マジかよ、お前絶対筋トレいらないな」
相川がゲラゲラと笑う。
佐々木さんも、もう一人の女子生徒も笑っている。
冬機も、笑い方はわからないが、自分もその笑いの輪の中にいるのだと感じた。
「でもさ、鋼城」
相川が、ふと真面目な顔になって言った。
「お前、そんなすげえ身体と個性持ってて、なんでうちの中学に来たんだ? もっとエリートっぽい、ヒーロー科の付属中学とか行けたんじゃね?」
核心を突く質問だった。
戸籍がないこと。公安の保護下にあること。それらの事情を話すわけにはいかない。
「……俺は」
冬機は少し言葉を探した。
伊都に言われた「学校に慣れるため」という理由。それは本当だが、彼らに説明する言葉としては不適当だ。
「俺は、普通を知らないからだ」
冬機は、自分の素直な認識を口にした。
「今まで、こういう場所で、同年代の人間と過ごしたことがない。だから、ここで学ぶ必要があると思った」
相川はキョトンとした顔をした。
「普通を知らない? なんだそりゃ。お前、どこのお坊ちゃんだよ」
「坊ちゃんではない。ただ、環境が特殊だっただけだ」
「ふーん。まあ、よくわかんねえけど」
相川は再び箸を持ち、ご飯をかき込んだ。
「ここなら、俺たちが『普通』を教えてやるよ。ゲームとか、漫画とか、買い食いとか。そういうのが普通の中学生ってもんだろ?」
俺たちが、教えてやる。
その言葉は、どんな教科書よりも頼もしく響いた。
「……ああ。善処する」
冬機がいつもの言葉で返すと、相川が吹き出した。
「だから、そこは『よろしく!』とかだろ! お前、ホントおっさんくせえな!」
「言語野のアップデートを検討しておく」
「しなくていいよ、そのままが面白いから!」
給食の時間は、あっという間に過ぎていった。
食器を片付け、午後の授業に向かう。
冬機は自分の席に座り、ノートを開いた。
視線を窓の外に向ける。
春の空は青く、穏やかだった。
施設にいた頃は、あの空がどこまでも遠く、自分とは関係のない世界のものだと思っていた。
今は、自分もこの空の下で、同じ時間を生きている。
友達と話し、一緒にご飯を食べ、笑い合う。
そういう「普通の日常」が、自分にも適用されつつある。
それは、公安の仕事でヴィランを倒し、結果を出すことで得られる「有用性の証明」とは違う。
ただ存在しているだけで許される、温かい居場所。
伊都が用意してくれたこのテスト期間は、冬機にとって、人間としての機能を再インストールするための、かけがえのない時間になりそうだった。