中学二年生の夏。
体育の授業が始まる前の更衣室は、男子生徒たちの熱気と騒がしさで満ちていた。
汗の匂い、制服が擦れる音、「早くしろよ!」という急かす声。
その喧騒の隅で、冬機は一人、壁に向かって格闘していた。
制服から体操着への着替えだ。
腕を通すまではいい。だが、この体操着──これも伊都が用意した特注品だが──の背中側にある、背鰭を逃がすためのスリットに、どうしても引っかかってしまうのだ。
背鰭の先端が布の縁を噛み込み、無理に引っ張れば破れてしまう。
鋼の篭手で背中に手を回し、不器用な指先で布の端をちまちまと外していく。関節の可動域が限られているため、肩が攣りそうになる。
「鋼城、まだかよー。置いてくぞ」
着替えを終えた相川が、ドアのところで声をかけてきた。
「……先に行ってくれ。物理的干渉の解除に手間取っている」
「またそれか。手伝おうか?」
「いや、他人の手を借りるほどのタスクではない。自分で処理する」
冬機は頑なに断った。
給食のエプロンのときは手伝ってもらったが、毎回の着替えで頼るのは、自分の「自立した機能」を否定するような気がして嫌だったのだ。
「頑固だなー」と相川は笑い、他の生徒たちと一緒にグラウンドへ向かっていった。
結局、冬機が着替えを終えてグラウンドに到着したのは、準備体操が始まる直前だった。
体育教師に「鋼城、遅いぞ!」と注意され、「善処します」と答えてまた変な顔をされる。
日常の、些細なバグ。
でも、それが毎日続くとなると、無視できないストレスになっていた。
その日の昼休み。
いつものように技術室を訪れた冬機は、作業台に向かっている発目明にその悩みを口にした。
「……というわけで、更衣のたびに平均して百二十秒のタイムロスが発生している。これを短縮したい」
発目はハンダゴテを置き、ゴーグルを額に押し上げて冬機を見た。
「なんで毎回そんなに手間取ってるの。布を背鰭に引っ掛けないように、スリットの縁にガイドをつければいいじゃない」
「特注の服すべてにガイドを縫い付けるのはコストがかかる。伊都……保護者の負担を増やしたくない」
「ふーん。まあ、服の方を改造するより、着脱のアプローチを変えた方がスマートね」
発目は手帳を取り出し、何かをさらさらと書き始めた。
「あなたの背中の可動域と、背鰭の角度。そして篭手の指先の太さ。……よし、わかったわ」
「……何がわかったんだ」
「明日、いいものを持ってきてあげる。私の新しいベイビーをね!」
彼女はニヤリと笑った。
翌日。
発目が持ってきたのは、黒いプラスチック製の、不思議な形をした小さな棒だった。
長さは二十センチほど。先端がU字型に曲がっており、持ち手の部分には鋼の篭手でも握りやすいように深い溝が掘られている。
「はい、これ。着替え用補助治具、通称『スライダー・ベイビー』よ!」
発目は誇らしげにそれを冬機に手渡した。
「……これは、どう使うんだ」
「試してみて」
冬機は技術室の隅で、制服の上着を脱ぎ、再び着ようとしてみた。
「背鰭が引っかかりそうになったら、そのU字の部分をスリットの端に引っ掛けて、滑らせるように下ろすの」
発目の指示通りにやってみる。
プラスチックの滑らかな表面が布をガイドし、背鰭の鋭い先端を避けるようにして、するりと服が背中を通った。
カチャリという音もなく、一瞬で着替えが完了した。
「……!」
冬機は目を丸くした。
百二十秒かかっていたタスクが、わずか五秒に短縮された。
「どう!? 最高でしょ!」
「……確かに、劇的に効率が上がった。素晴らしい」
「ふふん、当然よ! あなたの指の太さと関節の角度から、一番力が入りやすくて操作しやすい形状を計算したんだから!」
発目は腕を組んで胸を張った。
「……本当に必要なやつですか、と聞こうと思ったが、必要だった。助かりました。ありがとうございます」
冬機は素直に頭を下げた。
自分の不便さを、これほど見事に解決してくれた技術に対する純粋な敬意だった。
「どういたしまして、じゃなくてデータ頂戴! どのくらい速くなった? 持ち手のグリップ感は? もっと改良できる?」
発目はノートを構えて迫ってきた。
この子は、「冬機を助けたい」という善意で動いているわけではない。「完璧な設計を完成させたい」というエゴで動いている。
でも、結果的に冬機は助けられている。
その事実が、冬機にとってはとても居心地が良かった。感情の押し付け合いがない、純粋な機能の提供とフィードバックの応酬。
「グリップの摩擦係数は適切だ。だが、少しだけ重量が軽すぎる。俺の筋力だと、無意識に力を入れすぎて折ってしまう可能性がある。素材をカーボンファイバーに変更するか、芯に金属を入れることを推奨する」
「なるほど! 耐久性のデータ不足ね。よし、バージョン2の設計に入るわ!」
──そういえば。
前世でも、誰かに「これ不便なんだよね」と愚痴をこぼすことはあった。
「わかるー」と共感してもらうだけで満足していた。
でも、ここでは違う。
不便さを言語化すれば、それが設計課題(タスク)として認識され、解決策(ソリューション)として出力される。
自分が抱えている問題が、ただの「悩み」ではなく、技術を向上させるための「データ」として価値を持つ。
それが、冬機の中の「役立たずかもしれない」という潜在的な不安を、少しずつ溶かしていった。
梅雨の時期に入った。
連日、冷たい雨が降り続いている。
冬機は、雨の日でも傘をささない。
理由は単純だ。背鰭があるため、傘の柄を背中に沿わせて真っ直ぐ差すことができない。斜めに差せば、前方が濡れるか、あるいは傘が風に煽られてしまう。そして何より、重い鋼の腕で細い傘の柄を持ち続けるのは、微妙な力加減を要求されて非常に疲れるのだ。
「装甲があるから濡れても問題ない」
そう自分に言い聞かせ、冬機はいつも濡れたまま登校し、教室の隅でタオルで身体を拭いていた。
その日も、冬機はずぶ濡れで技術室を訪れた。
「ちょっと鋼城くん、また傘さしてないの!?」
発目が呆れたような声を上げた。
「俺の構造上、市販の傘はデッドウェイト(死重)になりやすい。濡れることによる体温低下のリスクは、背鰭の排熱制御で相殺できる。つまり、傘は不要だ」
冬機はタオルで銀髪を拭きながら、論理的に反論した。
「でも、服が濡れてるじゃない。それ、気持ち悪いでしょ」
「……不快感はある。だが、許容範囲内だ」
「我慢してるだけじゃない」
発目はズバリと指摘した。
「……」
冬機は黙った。図星だったからだ。
廃工場で雨に濡れた夜の記憶。あのときの「濡れるのは嫌だ」という感情は、今も変わっていない。ただ、傘を差す不便さと天秤にかけて、濡れる方を選んでいるだけだ。
「作ってもいい?」
発目が、唐突に言った。
「……何を」
「傘の代わりになるベイビー」
彼女の目が、また十字に光っていた。新しい設計課題を見つけたときの目だ。
「必要とは思っていませんでした」
冬機は少し考えてから答えた。
「でも嫌いでしょ、雨」
「……嫌いではないです。雨音は、思考を安定させます」
「音の話じゃなくて、濡れることよ。今朝も、校門を入るときにすっごい嫌そうな顔してたけど」
「……」
冬機はハッとした。
嫌そうな顔。
自分では、完璧に無表情を保っているつもりだった。感情は顔に出さない、あるいは出せないのだと思っていた。
「俺が、顔に出していましたか」
「出てたわよ。眉間がほんの1ミリくらい寄ってて、口角が下がってた。ズームの個性を持つ私を甘く見ないでよね」
「……濡れるのは、嫌いです」
冬機はついに認めた。
発目が笑った。
「そこは素直なんだね。よし、任せなさい! 異形型専用・全天候型シールドベイビー、開発スタートよ!」
──そういえば。
前世でも、誰かに自分の顔色を読まれたことはあったかもしれない。
「今日、機嫌悪い?」と聞かれて、「別に」と答えながら、本当は嫌なことがあったりした。
今、発目に「嫌そうな顔してた」と言われた。
自分では気づかなかった。自分の内側にある感情の揺らぎが、微細な筋肉の動きとして外に漏れ出ている。
完全に機械になりきれているわけではない。
その事実を、他人の観察によって知る。
こういう形で自分を知ることもあるのか、と冬機は少しだけ感心した。
数日後、発目が持ち込んできたのは、傘ではなかった。
「ランドセルみたいに背負うのよ。はい、着けてみて」
渡されたのは、薄い金属製のバックパックのような装置だった。
冬機の背鰭を避けるように、肩と腰で固定するハーネスが付いている。
「スイッチ、オン!」
発目が手元のリモコンのボタンを押すと、バックパックの上部から、シュルシュルと音を立てて透明なポリカーボネート製のシールドが扇状に展開された。
冬機の頭上から背中にかけて、すっぽりと覆う透明な屋根。
「……これは」
「ハンズフリーの傘よ! これなら鋼の腕で持つ必要もないし、背鰭にも干渉しない。おまけに風の抵抗を受け流す流線型設計!」
発目は誇らしげに胸を張った。
冬機はその「シールドベイビー」を背負ったまま、技術室を歩き回ってみた。
重さはほとんど感じない。視界もクリアだ。
「外で試してみます」
ちょうど雨が降っていた。冬機は校舎の外に出て、雨の中に立った。
雨粒が透明なシールドを叩き、弾かれていく。
顔も、肩も、背中も、全く濡れない。
そして何より、両手が自由だ。
「……完璧だ」
冬機は雨の中で呟いた。
雨音の心地よさだけを残し、濡れる不快感だけを排除した、完璧なソリューション。
「どう!? 私のベイビー、最高でしょ!」
窓から顔を出した発目が叫ぶ。
「ああ。評価を上方修正する。お前は天才かもしれない」
「『かもしれない』は余計よ!」
その日の帰り道、冬機はシールドを展開したまま、相川と一緒に歩いていた。
「お前、なんだその近未来的な装備! かっこよすぎだろ!」
相川が傘を差しながら、興奮気味に言ってくる。
「技術室の発目明が設計した。ハンズフリー雨天シールドだ」
「マジかよ、あいつ頭いいんだな! ちょっと俺も入れてくれよ」
相川がシールドの下に潜り込もうとするが、一人用のサイズなので肩がぶつかる。
「狭い。パーソナルスペースの侵害だ」
「ケチ! てか、お前最近、あいつとばっか一緒にいるよな。もしかして、付き合ってんの?」
相川がニヤニヤしながら聞いてきた。
冬機は全く動じずに答えた。
「交際という概念には該当しない。互いの利益に基づく、技術的なパートナーシップだ」
「出たよ、その理屈っぽい返し! まあいいや。お前が学校楽しんでるなら、それでいいしな」
相川は笑って、自分の傘をクルクルと回した。
冬機は、シールドを叩く雨音を聞きながら、相川の言葉を反芻した。
「学校楽しんでる」。
確かに、そうかもしれない。
施設では、ただ生きているだけだった。
今は、自分の不便さを解決し、新しいものを手に入れ、友達と歩いている。
──そういえば。
廃工場にいた頃、前世の「当たり前」の数を数えていた。
靴がない、傘がない、友達がいない。
「なし」ばかりだったリストに、今、少しずつ「あり」が書き加えられている。
靴をもらった。友達ができた。専用の椅子ができた。そして今、傘の代わりのシールドがある。
前世の「当たり前」と全く同じものではない。
特注の椅子や、近未来的なシールド。形は歪だ。
でも、「不便じゃない」「困らない」という状態が一つずつ増えていく感覚は、前世で当たり前のように享受していた安心感に似ていた。
この世界が、少しずつ、自分の形に合わせて最適化されていく。
あるいは、自分がこの世界に最適化していく。
そのプロセスが、冬機にとっては「生きる」ということの喜びになりつつあった。
「……相川」
「ん?」
「雨音は、やはり悪くない」
「なんだそれ、また作文の話かよ!」
二人の声が、雨の降る通学路に響いた。
冬機は、シールドの向こうに見える灰色の空が、少しだけ明るく見えた気がした。
続く──第1章 第20話「バディ」