雄英高校の入学式を翌日に控えた夜。
冬機は自室の机で、明日の準備を終えていた。
指定のグレーの制服。指定の鞄。
そして、伊都が用意してくれた、雄英の制服に合わせた新しい靴。
すべてが完璧に整っている。忘れ物はない。データ上の確認は済んだ。
あとは寝るだけだったが、どうしてもベッドに向かう気になれなかった。
心拍数は平常。脳波も安定している。
体調に問題はないはずだが、意識のどこかが微かに明滅を繰り返し、スリープ状態への移行を阻害しているようだった。
冬機は椅子から立ち上がり、部屋の窓の前に立った。
遮光カーテンを少しだけ開け、外を眺める。
都市の夜景が広がっていた。
高層ビルの航空障害灯が赤く点滅し、幹線道路にはヘッドライトの光の帯が流れている。
静かで、冷たくて、美しい光。
この光景を見るのは、初めてではない。
八歳のとき。あの施設から逃げ出した夜、廃工場の窓の隙間から見た景色と、とてもよく似ていた。
暗い場所から、光り輝く街を見下ろしている構図。
──そういえば。
あの夜と今。
見ているものは同じなのに、立ち位置が全く違っていることに気づいた。
あの夜、俺には何もなかった。
帰る場所がない。行く場所もない。自分が何者なのか、これからどうすればいいのか、何一つわからなかった。
ただ雨に濡れ、硬いコンクリートの上で、泣き方がわからないまま涙を流した。
圧倒的な孤独と、底知れない不安。
この世界に、自分という存在を繋ぎ止めるアンカー(錨)がどこにもなかった。
今は違う。
仕事がある。公安という裏の顔だが、社会の一部として機能している。
伊都がいる。冷徹だが、確かな責任を持って俺を管理し、守ってくれる大人がいる。
相川がいる。俺の無機質な言葉を笑い飛ばし、「ダチ」と呼んでくれる友達がいる。
発目がいる。俺の身体を「最高の素材」と呼び、共に未来の設計図を描いてくれるバディがいる。
そして明日、行くべき学校がある。
雄英高校。
ここが俺の「居場所」と呼べるのかどうかは、まだ明確に定義できない。
公安との契約は続いているし、戸籍は仮初めのものだ。いつ崩れるかわからない、薄氷の上に立っているような危うさは常にある。
それでも、あの「何もない」夜とは決定的に違っていた。
俺はもう、迷子ではない。
──そういえば。
前世の、高校入学前夜のことも思い出した。
新しい制服をハンガーに掛け、何度も眺めた。
明日の朝、遅刻しないように目覚まし時計を三つセットした。
「どんな奴がいるんだろう」「友達できるかな」「部活どうしよう」。
期待と不安がないまぜになって、心臓がドキドキして、なかなか眠れなかった。
あのときの「緊張」という感覚と、今、自分の内側で起きているこの微かな明滅を比べてみる。
今の方が、「わからない」が少ない気がした。
あの頃は、自分を取り巻く世界の全てが不確定で、他人の評価や偶然の出会いに怯えていた。
でも今は、自分の能力(スペック)を理解している。やるべきことも明確だ。
そして何より、明日会う相手を知っている。
発目がいる。
相川は別の高校(驚くべきことに、彼は自力で進学校の英語科に合格した)に行くが、連絡は取れる。
新しい場所に行っても、完全にゼロからのスタートではない。
この「準備ができている」という安心感が、前世の緊張を緩和しているのだろう。
そして、その安心感の下に。
前世の自分と同じような、「楽しみ」というやつが、少しだけ、ある気がした。
冬機は窓から離れ、机の上のスマートフォンを手に取った。
画面を点灯させる。
深夜十一時を回っている。
ふと、連絡を取りたくなった。
誰に?
発目には、夕方に「明日はよろしく」とメッセージを送ってある(『任せとけ!!!』というスタンプが即座に返ってきた)。
相川にも、「そっちも頑張れ」と送った(『お互いな! テレビデビュー待ってるぜ!』と返ってきた)。
あと一人。
冬機は通話アプリを開き、ある番号をタップした。
コール音が数回鳴った後、電話が繋がった。
『……もしもし。冬機?』
伊都の声だった。
彼女は今日、公安の緊急会議で泊まり込みになっている。セーフハウスには帰ってこない。
「夜分に申し訳ありません。まだ仕事中ですか」
『ええ。でも構わないわ。どうしたの。何か緊急事態? システムに異常でも出た?』
彼女の声が、少しだけ警戒を帯びる。
夜中に冬機から電話をかけるのは、ハッキングの報告か、ヴィランとの遭遇など、業務上のトラブルがあるときだけだったからだ。
「いえ。システムは全て正常です」
『……じゃあ、何?』
冬機は少し間を置いた。
自分でも、なぜ電話をかけたのか、明確な理由が言語化できていなかった。
「明日から、雄英に行きます」
『知ってるわよ。私が手続きしたんだから』
伊都は呆れたように言った。電話の向こうで、書類をめくる音がする。
『何か、言いたいことでもあるの? 明日の段取りでわからないことがあるとか』
「……特には、ありません。スケジュールとルートは完全にインプットされています」
『じゃあ、何で連絡してきたのよ』
冬機はスマートフォンの画面を見つめたまま、自分の内側を探った。
何で連絡したのか。
不安だから、声を聞きたかった? 違う。
感謝を伝えたかった? それも違う。感謝は常にしている。
ただ。
「ここから出発する」ということを、この世界で自分を一番長く管理している人間に、報告しておきたかったのかもしれない。
「……わかりません」
冬機は正直に答えた。
電話の向こうで、伊都が小さく息を吐く音がした。
怒られるかと思った。忙しいときに意味のない電話をかけてくるな、と。
だが。
『……そう』
伊都の声は、怒っていなかった。
むしろ、少しだけ笑っているような、柔らかい響きがあった。
『まあ、いいわ。そういうこともあるでしょう。人間なんだから』
「俺は、人間ですか」
『戸籍上はね。それに、意味のない電話をかけてくるなんて、ずいぶんと人間らしくなった証拠よ』
伊都の言葉に、冬機は口を閉ざした。
人間らしくなった。
それは、機能の向上なのか、それともエラーの蓄積なのか。
どちらにせよ、伊都がそれを許容してくれていることがわかった。
『冬機』
伊都が、改まった声で名前を呼んだ。
『明日は、私はいけないけれど。……行ってらっしゃい』
行ってらっしゃい。
その言葉が、冬機の耳のデバイスを通じて、直接脳に響いた。
──そういえば。
前世では、毎朝言ってもらっていた言葉だった。
玄関を出るときに、親が背中に向けてかけてくれる言葉。
「行ってきます」に対して、当たり前のように返ってくる「行ってらっしゃい」。
それは、外の世界へ出ていく自分を、安全な場所から見送ってくれるという、絶対的な安心の儀式だった。
今日、伊都が言ってくれた「行ってらっしゃい」は、電話越しで、前世のときよりずっと短く、事務的なトーンだった。
親の愛情のような、分かりやすい感情も乗っていなかった。
でも、同じ言葉だった。
「ここから出て、そして帰ってきなさい」という、所属を肯定する言葉。
前世の記憶と、今この瞬間の現実が、一瞬だけ重なった。
胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
これは、嬉しいという感情だ。
間違いない。
「……はい」
冬機は、少しだけ声のトーンを上げて答えた。
「行ってきます。統道さん」
『ええ。……じゃあ、切るわよ。早く寝なさい』
通話が切れた。
ツーツーという電子音を聞きながら、冬機はスマートフォンを机に置いた。
もう、眠れそうな気がした。
ベッドに向かう。
横になり、背鰭を逃がすようにして、斜めに丸まる。
これが自分の眠り方だ。
最初は、仰向けになれないことに強い違和感があった。前世の記憶とのズレに苦しんだ。
でも今はもう、これが「普通」だ。
この鋼の身体で、この重い尻尾を抱えて眠るのが、一番安心できる。
自分は、この世界に最適化されつつある。
目を閉じる。
明日、学校に行く。
ヒーローになるための、最初のステップ。
そこに何が待っているのか、どんな困難があるのか。
それはわからないが、恐れはない。
自分には、機能があり、目的があり、帰る場所がある。
それだけが、今の全てだった。