いつもより少し早く、目が覚めた。
アラームが鳴る三十分前だった。
室温、二十一度。湿度、五十パーセント。
環境データの処理に続いて、今日が「雄英高校の入学式」であるというスケジュールが脳内に展開される。
冬機はベッドから静かに身を起こした。
心拍数は平常。手の震えもない。
緊張しているわけではないのだろう。ただ、システムがスリープ状態を維持する理由を見失い、早めに起動したというだけだ。
ベッドから降りて、カーテンを開ける。
春の朝の光が、部屋に差し込んできた。
今日は晴れだ。雨天用シールドを展開する必要はない。
洗面所へ向かい、顔を洗う。
鏡に映る自分を見る。
白銀の髪。金色の目。首筋から覗く銀灰色の装甲。
十五歳になった冬機は、施設を出たばかりの頃の華奢な「子供」のシルエットからは抜け出していた。鋼城機巧による骨格強化と装甲の恩恵もあるが、中学の三年間で適切な栄養と訓練を受けたことで、身体全体が厚みと力強さを増している。
まだ成長期だが、すでに同年代の平均的な体格を大きく上回っていた。
制服を着る。
雄英高校の、グレーのジャケットと深緑のネクタイ。
これも、中学のときと同様に伊都が手配してくれた特注品だ。
鋼の篭手を通すための太い袖。背鰭を逃がすための背中のスリット。そして、尻尾を通すためのズボンの開口部。
機能的に全く問題ない。
ちなみに、本来ヒーロー科の生徒が提出する「ヒーロースーツの要望書」は、冬機は白紙で出していた。
理由は簡単だ。冬機のスーツは、発目明が学校の設備を使って一から設計・開発することになっているからだ。既存のサポート会社に発注するよりも、彼女に任せた方が自分のスペックを限界まで引き出せると、冬機は確信している。
準備を整え、カバンを持ってリビングへ向かう。
キッチンから、トースターの焼ける匂いと、コーヒーの香りが漂ってきた。
冬機の足が、少しだけ止まる。
普段、伊都が泊まり込みで不在の朝は、公安の別のスタッフが事務的に朝食を用意するか、あらかじめ用意された軽食を自分で食べるのがルールだった。
しかし、キッチンの前に立っていたのは、伊都だった。
彼女はいつものカチッとしたスーツ姿ではなく、少しラフなノーカラージャケットを着て、コーヒーカップを手にしていた。
「……おはよう」
伊都が振り返り、冬機を見た。
「おはようございます。……まだ仕事中ではなかったのですか」
「ええ。でも、一度戻ってきたのよ。着替えも必要だし」
伊都はそう言って、テーブルの上の皿を指差した。
「食べなさい。今日は少し時間があるから、トーストを焼いたわ。目玉焼きもある」
「……どうしてですか」
冬機は席に座りながら、素直に疑問を口にした。
彼女がわざわざ忙しい合間を縫って帰宅し、朝食を用意する合理的理由が見当たらなかったからだ。
「なんとなくよ」
伊都は自分のコーヒーを飲みながら、視線を逸らして言った。
「あなたの節目(ふしめ)の日だから。保護者として、それくらいはしてもいいかと思ったの」
「……」
冬機は黙ってトーストを手に取った。
表面は少し焦げている。完璧に温度管理されたトースターで焼かれたものとは違う、手作業のムラがある焼き加減。
かじる。
サクッという音と共に、バターの塩気が口に広がる。
いつもと同じ、普通のトーストの味だった。
──そういえば。
前世にも、こういう朝があったかもしれない。
入学式や、大切なテストの日の朝。
親がいつもより少しだけ早く起きて、特別なものではないけれど、温かい朝食を用意してくれた。
「しっかり食べなさい」と言われて、少し面倒くさいと思いながらも、口に運んだ。
あのときの食事は、栄養を補給するためだけのものではなかった。
「今日という日を頑張ってこい」という、無言のエールのようなものだった。
今、伊都が用意してくれたこの少し焦げたトーストも、同じ味がした。
理由は「なんとなく」らしい。
でも、それでいいと思った。
合理性や機能性だけで動いていると思っていた自分たちの関係に、そういう「なんとなく」の余白が存在していることが、嬉しかった。
「……美味しいです」
冬機は言い直すことなく、最初からそう言った。
伊都は少し驚いたように冬機を見つめ、それから口元を緩めた。
「そう。よかったわ」
朝食を終え、冬機は玄関に向かった。
真新しいローファーに足を入れる。
靴紐を結ぶ必要はない。伊都が用意してくれたのは、サイドゴアのスリッポンタイプだ。これも「不便さの排除」の一環である。
カバンを持ち、ドアノブに手をかける。
背後で、伊都が立って見ているのを感じた。
「行ってきます」
冬機は振り返らずに言った。
少しの、間があった。
「行ってらっしゃい」
伊都の声が、静かに背中に落ちた。
昨夜、電話越しに聞いたのと同じ言葉だ。
でも、こうして直接面と向かって、玄関で見送られながら言われると、響き方が少し違った。
電話のときは「安心感」だった。
今は、「責任」のようなものを感じた。
彼女が用意してくれたこの場所から出て、また必ずここへ帰ってくるという責任。
それを果たすために、今日一日を機能し尽くす。
冬機は無言で頷き、ドアを開けて外へ出た。
背中に、伊都の視線をずっと感じていた。気のせいかもしれない。でも、エレベーターの扉が閉まるまで、その温かいプレッシャーは消えなかった。
最寄り駅から、電車に乗る。
通勤通学のラッシュに揉まれながら、冬機はドアの横のスペースを陣取っていた。
雄英の制服を着ているせいか、周囲の視線は中学の入学式のときほど刺さるようなものではなかった。
「あ、雄英の生徒だ」「すごい個性っぽいな」
畏敬と羨望が混じった視線。
この世界において、雄英の制服はそれ自体が強力なステータスなのだ。
冬機はスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
メッセージアプリに、未読の通知が二件入っている。
一つは、発目明からだ。
送信時刻は今朝の六時。
『おはよー!!! 今日からよろしく!!! 雄英のサポート科の設備がどれだけすごいか、入学式そっちのけで確かめてくるわ!!! 装備の調整は放課後に技術室(予定)でやるから、絶対顔出してね!!!』
朝から全開のテンションに、冬機は小さく息を吐いた。
彼女は高校に入っても、何も変わらないらしい。
『了解した。設備の把握を急いでくれ。よろしくお願いします』
短い返信を打つ。
もう一つは、相川奏多からだった。
『おう、鋼城。今日から雄英だな! 俺も新しい高校初日だ。てか、お前と一緒に勉強したおかげで、英語科のクラスで上位の成績だったらしいぜ。これ奇跡では?』
相川は、冬機との勉強会の成果を発揮し、見事に第一志望の高校に合格していた。
『奇跡ではなく、お前の努力と俺の効率的な学習支援プロトコルの結果だ。おめでとうございます』
『だから言い方! まあいいや。お互い頑張ろうぜ。落ち着いたらまたゲーセンな!』
『善処する』
メッセージを送り終え、冬機はスマートフォンをポケットにしまった。
──そういえば。
前世でも、新しい学校に行く日の朝、友達とこうして連絡を取り合った記憶がある。
「何組だった?」「一緒のクラスになれるかな」。
不安を紛らわすための、他愛のないやり取り。
今、電車の中で二人の友人からメッセージが来ている。
発目は「バディ」として、相川は別の学校の「友達」として。
種類も関係性も、前世の友人とは違うかもしれない。
でも、同じように新しい場所に向かい、同じように今日という日を特別なものとして迎えている人間が、自分以外にもいる。
自分と繋がっている人間が、この世界に存在している。
それだけで、心の底に澱んでいた微かな不安が、さっと晴れていくのを感じた。
電車を降り、指定の駅の改札を抜ける。
通学路には、同じグレーの制服を着た生徒たちが列をなして歩いていた。
彼らの歩く先。
坂を登り切ったところに、巨大な建造物が見えてきた。
国立雄英高等学校。
H型の巨大な校舎群。堅牢なゲート。
そして、その圧倒的なスケール感。
冬機は立ち止まり、その威容を見上げた。
知っている。
前世の記憶の中で、何度も見た場所だ。
テレビの画面を通して、アニメの舞台として。
緑谷出久が転びそうになり、麗日お茶子に助けられた正門。
爆豪勝己がふんぞり返って歩いていたアプローチ。
その知識は、DNAコンピュータの記憶領域に完全に保存されている。
だが。
ここから先は、まだ「知らない」。
記憶の中にあるのは、あくまで「他人が経験した物語の映像」だ。
自分がその場所に立ち、その空気を吸い、そこの住人たちと関わることは、全く別の経験だった。
「知らない場所に来た」
冬機は、心の中でそう認識した。
知識があっても、経験は別物なのだ。
施設を出た夜、初めて外の空気を感じたときと同じ、新鮮な情報が流れ込んでくる。
風の匂い。周囲の生徒たちの足音。巨大な建物の質量。
「なるほど」
冬機は短く呟いた。
感慨は、それだけだった。
感動して立ちすくむこともない。恐れをなして後退することもない。
ただ、新しいデータを収集し、最適化するためのフィールドが目の前に広がっている。
「おい、見ろよあれ」「すげえ個性……」
周囲の生徒たちが、冬機の姿を見て道を空ける。
冬機は彼らを気にする様子もなく、一定のペースで歩き出した。
鋼のブーツが、雄英のアプローチのタイルを規則正しく叩く。
背鰭が朝の光を反射し、銀色に輝く。
尻尾が、悠然と後ろをついてくる。
鋼城冬機、十五歳。
戸籍なき生体兵器の失敗作から、公安の影の協力者を経て、今、彼は光の当たる舞台へと足を踏み入れた。
彼が知る「物語」と、彼自身が紡ぐ「現実」が、ここから交差していく。
自分の機能を誰かのために使う。
その目的を果たすために、冬機は静かに正門をくぐった。