非常口の扉の向こうは、雑木林だった。
三号は、素足のまま冷たい土と草を踏みしめて歩き出した。
施設は山の斜面を切り開いたような場所に建っていたらしい。木々の間を縫うように、なだらかな下り坂が続いている。
月明かりが枝葉に遮られ、足元はひどく暗かった。
しかし、視覚の不利はソナーが補ってくれる。木々の幹の位置、張り出した根の形状、地面の起伏。それらが音波の反射として脳内に三次元のワイヤーフレームを描き出す。
三号は、障害物を正確に避けながら、静かに、そして速やかに歩を進めた。
施設から五百メートルほど離れたときだった。
ソナーの端が、背後からの異変を捉えた。
複数の人間の足音。ざわめき。そして、木々を照らす強い人工の光。
追手だ。
予想よりも早かった。カメラの映像をループさせたのが不自然だったか、あるいは生体反応の消失を検知する別のシステムがあったのか。
『あっちだ! 足跡がある!』
『急げ! 遠くへは行けないはずだ!』
怒号が響く。施設の警備員たちだろう。
見つかれば、連れ戻される。
あの白い部屋に。そして、感情を消去する第八施術が待っている。
三号は、走った。
──そういえば。
前世では、走るという行為はもっと直感的で、身軽なものだった。
腕を振り、足を前に出す。ただそれだけで、身体は自然に風を切って進んでいった。体育の授業や、部活のランニング。息が切れるのは苦しかったが、走ること自体に思考を割く必要はなかった。
今の走り方は、全然違う。
まず、重い。
三百キロ近い体重。特に、腰から伸びる鋼の尻尾が、慣性モーメントを狂わせる。少しでもバランスを崩せば、自重で前のめりに倒れ込むか、遠心力で身体が振り回される。
背鰭が空気を切る抵抗。素足が地面を蹴る衝撃の吸収。
走るという行為そのものが、高度な姿勢制御の演算を要求するタスクだった。
速くは走れる。脚部の人工筋肉とブースターの出力を使えば、大人の全力疾走など容易に引き離せる。
だが、今のこの複雑な走り方が「気持ちいい」のかどうかは、わからなかった。
ただ、機能として「移動」を実行しているだけだ。
背後から、四輪駆動車のエンジン音が聞こえてきた。
施設にはオフロード用の車両があったはずだ。林道のような荒れた道でも、車を使われれば距離を詰められる。
ソナーで距離を測る。
二百メートル。近い。
三号は走りながら、意識の糸を後方へ伸ばした。
追手たちが持っている無線機。その周波数を瞬時に割り出す。
妨害電波(ジャミング)を流し込む。
『……ザザッ! 対象を見つけ……ガァッ!』
無線越しの連携を断った。
次に、近づいてくる車両。
エンジンコントロールユニット(ECU)の回路に侵入する。
燃料噴射のタイミングを狂わせ、点火プラグの信号を遮断した。
プスン、という情けない音と共に、車のエンジンが沈黙したのがソナー越しにわかった。
『クソッ、エンストか!? 動け!』
運転手がステアリングを叩く音。
追手の足が止まった。
三号は立ち止まらずに走り続けた。
これで完全に撒けたわけではないが、猶予はできた。
三十分ほど林を抜けると、急に視界が開けた。
舗装された道路に出たのだ。
アスファルトが、素足の裏に硬く、冷たく当たった。土の上の不安定さとは違う、平坦で人工的な感触。
道路の先には、遠く都市の光が海のように広がっていた。
ビルの窓明かり、街灯の帯、点滅するネオンサイン。
施設にいた頃、小さな窓から、あれは別の世界の絵のように見ていた。
今、自分はその絵の中に入ろうとしている。
三号は、光の集まりに向かって歩き始めた。
都市の外縁部、深夜の住宅街に差し掛かった。
時刻は午前三時を回っているはずだ。人通りはない。
等間隔に並ぶ街灯が、手術衣を着た異形の子供の影を、アスファルトの上に長く伸ばしては縮める。
静かだった。
でも、施設の中の「音が消された静けさ」とは違う。
遠くを走るトラックの音、どこかの家で回る室外機の音、風が電線を揺らす音。
生活のノイズが、そこかしこに満ちていた。
少し歩くと、煌々と光を放つ自動販売機が並んでいる場所があった。
三号は足を止めた。
喉が渇いていることに、気づいた。
走ったからだ。背鰭の冷却機能が働いて体温の上昇は抑えられているが、水分の消費は起きている。
自販機のショーケースの中に、ペットボトルの水が並んでいる。
お金はない。
ポケットすらない手術衣一枚なのだから当然だ。
三号は、自販機の電子制御パネルに意識を向けた。
硬貨の投入信号を偽装する。ネットワークを通じて、販売管理のサーバーに「決済完了」のダミーデータを送る。
ガコン、と音を立てて、水のペットボトルが取り出し口に落ちてきた。
それを拾い上げる。
「後で返す」
頭の中で、そう思った。
返す当ても、手段もない。誰にどうやって返すのかもわからない。
それでも、そう思わないと何かが済まなかった。
前世の記憶にある「泥棒はいけないことだ」という倫理観が、警告を出しているのかもしれない。
今の自分にとって、生き延びるためには必要な行為だ。論理的には正当化できる。でも、その小さな「済まなさ」の感覚は、消えなかった。
キャップを開け、水を飲む。
冷たい水が、食道を通って胃に落ちていく。
施設の、温度管理された水とは違う。
鋭い冷たさが、喉の渇きを心地よく癒やしてくれた。
美味しい、と思った。
純粋な機能の補給ではなく、感覚としての美味しさ。
それを感じられたことが、少しだけ嬉しかった。
自販機の横に立ったまま、少し休む。
そのとき、道路の反対側にあるコンビニエンスストアの、ガラス張りのショーウィンドウに目が留まった。
店内に設置されたテレビモニターが外に向けられており、深夜のニュース番組を流している。
画面には、見覚えのある人物が映っていた。
筋骨隆々の巨体。金色の前髪。青い瞳。
そして、画面越しにでも伝わってくる、圧倒的な安心感を与えるあの笑顔。
オールマイト。
三号の思考が、一瞬だけ停止した。
知っている。
前世の記憶で、何度も見たことがある。アニメの画面の中で、いつも「私が来た!」と笑っていた、No.1ヒーロー。
テロップには「オールマイト、本日もヴィランを瞬殺。平和の象徴健在」という文字が躍っている。
ここが、あの世界だ。
前世で見ていたフィクションの舞台。個性と呼ばれる超常能力が当たり前に存在し、ヒーローとヴィランが戦う社会。
それが、確信に変わった。
自分が「機械操作」という異常な能力を持っていることも、身体が鋼でできていることも、この世界なら「そういう個性」として存在し得る。
納得した。
と同時に、強烈な疎外感が襲ってきた。
前世では、あのヒーローは画面の向こう側の、輝かしい存在だった。
今、彼は同じ空の下にいる。現実の存在として。
でも、自分はヒーローになる主人公ではない。彼らに救われる市民でもない。
名もなき研究施設で作られた、用途不明の生体兵器。
オールマイトは、みんなに向かって笑っている。でも、この暗い路地の片隅にいる自分のことなど、知る由もない。
知っている世界なのに、自分だけが迷子になっているような感覚。
寂しい、というよりは、途方もなく「遠い」と感じた。
三号は、空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、再び歩き出した。
考えても仕方がない。今は、安全な場所を探すのが先だ。
都市の外縁部から、さらに少し外れた工業地帯の跡地。
使われなくなった倉庫や工場が並ぶ区画に、三号は足を踏み入れていた。
ソナーで周囲を探る。
人の気配はない。電力の供給が止まっている建物が多い。
その中で、比較的構造が保たれている、二階建ての古い廃工場を見つけた。
入り口のシャッターは錆びついて半分開いたままになっている。
中に入る。
カビと埃の匂いがした。
広い空間。コンクリートの床。古い工作機械の残骸が、影絵のように佇んでいる。
天井を見上げる。
所々スレートが剥がれ、空が見えている箇所があった。
ここなら、雨風はしのげる。人目につくこともない。
「ここに居られる」と、三号は判断した。
工場の隅、壁に囲まれた比較的きれいなスペースを見つける。
床に落ちていたボロボロのブルーシートを拾い、埃を払って敷いた。
その上に、横になる。
──そういえば。
前世では、眠る場所といえばベッドか布団だった。
柔らかいマットレス、清潔なシーツ、暖かい掛け布団。それが当たり前だった。
施設でも、無機質とはいえベッドは与えられていた。
今あるのは、冷たく硬いコンクリートの床と、薄汚れたブルーシート一枚。そして自分の鋼の装甲だけだ。
硬い。冷たい。
身体を丸め、尻尾を抱え込むようにして体温を逃がさないようにする。
それでも、施設に連れ戻されるよりは、外で野ざらしになるよりはマシだった。
「マシだ」と思えている自分が、少し奇妙だった。
前世の自分がこの状況に置かれたら、泣き言を言って絶望していただろう。
今の自分は、ただの「環境の変化」として受け入れている。
目を閉じた。
ソナーの感度を下げ、休眠状態に移行しようとする。
しかし、眠れなかった。
施設では、消灯のアナウンスと共に、強制的に眠りにつくサイクルができていた。
ここでは、誰も「就寝」と言ってくれない。
いつ眠ればいいのか、そのタイミングが自分で決められない。
頭の中で、今日の出来事がぐるぐると処理され続ける。
端末で見たデータ。「嫌だ」という感情。夜の森。オールマイトの笑顔。
情報が多すぎた。
処理が追いつかない。
しばらく、そのまま丸まっていた。
ふと、頬に冷たいものが流れるのを感じた。
目から、水が出ていた。
泣いている。
その事実に、自分が一番驚いた。
なぜ泣いているのか、理由がわからない。
施設から逃げ出せて安心したのか。
一人ぼっちで廃墟にいることが寂しいのか。
これからのことが不安で怖いのか。
たぶん、全部だった。
前世の記憶と、今置かれている状況の落差が、処理能力の限界を超えて、物理的なエラーとして表出している。
──そういえば。
前世では、泣くという行為には続きがあった。
悲しい映画を見て泣いた。悔しくて泣いた。
あのときは、声を上げて、しゃくりあげて、涙を流しきって。そうして疲れ果てて、少しスッキリして眠りにつくことができた。
泣くことには、感情を浄化する機能があった。
しかし今は、ただ目から水がこぼれ落ちるだけだ。
声は出ない。嗚咽も漏れない。
感情の波が、ある一定のラインで分厚い装甲に阻まれて、それ以上大きくならない。
泣き方がわからない。
泣き切れない。
感情の出し方を忘れてしまったのか、それとも最初からその機能が削られているのか。
涙は、少しの間だけ流れて、すぐに止まってしまった。
スッキリすることはなく、ただ濡れた頬の不快感だけが残った。
泣くための何かが、自分には足りない気がした。
窓の隙間から、外の様子がかすかに見える。
空が、薄っすらと白み始めていた。
夜が明ける。
施設の中では、照明のオンオフでしか時間を知ることができなかった。
こうして、世界が自分の意思とは関係なく、ゆっくりと色を変えていくのを見るのは初めてだった。
黒から、濃い青へ。そして灰色の雲が、朝焼けのオレンジ色に染まっていく。
これが、外の夜明けか。
三号は、その光景をデータとして処理するのをやめた。
ただ、ぼんやりと見ていた。
きれいだ。
それだけで十分だった。
空が完全に明るくなった頃、ようやく重い眠気が訪れた。
硬いコンクリートの上で、鋼の身体を丸めたまま。
三号は、自由という名の、孤独な最初の夜を越えた。