廃墟
目が覚めたとき、視界に入ったのは染みひとつない純白ではなく、剥き出しの鉄骨と黒ずんだスレート屋根だった。
数秒のラグのあと、自分がもう施設にはいないことを思い出す。
ここは廃工場だ。昨夜、自分で見つけて寝床に決めた場所。
三号はブルーシートの上でゆっくりと身体を起こした。背鰭がシートの皺に擦れて、ガサリと音を立てる。
静かだった。
「三号、起立」という無機質なアナウンスはない。規則正しい換気扇の音も、隣の部屋で鳴る点滴ポンプの待機音もない。
あるのは、遠くの道路を走る車の微かな摩擦音と、風が建物の隙間を吹き抜けるヒューという低い音だけ。
自由だ。
だが、その自由は同時に「何も決まっていない」という空白でもあった。
起きる時間、食べるもの、やるべきこと。全てが管理されていた施設とは違い、ここでは全てを自分で決めなければならない。
とりあえず、現状の把握から始めることにした。
三号は立ち上がり、廃工場の内部を歩き回った。
広さは学校の体育館ほど。かつては町工場として稼働していたのか、奥の方には大型のプレス機や旋盤の残骸が赤茶色に錆びついて放置されている。
足元にはガラスの破片や正体不明の金属くずが散乱しており、素足で歩くには注意が必要だった。鋼の尻尾が床のゴミを弾き、時折高い音を響かせる。
電力系統の確認。
壁の配線に意識を向ける。施設全体の配電盤は生きているようだが、外部からの送電はとっくに止められている。ただ、電線自体は切断されておらず、ネットワークとしては機能していた。
試しに、自分の体内エネルギーを電力に変換し、壁の配線に流し込んでみる。
ジジッ……という微かなショート音の後、天井近くにある古びた換気扇が、悲鳴のような金属音を立てながらゆっくりと回り始めた。
動く。
電力さえ供給すれば、この廃工場の設備はまだ使える。
とはいえ、自分の体力を使ってまで換気扇を回す意味はない。すぐに接続を切り、他の設備の確認に移る。
水道。
隅にある手洗い場の蛇口を捻ってみる。最初は赤茶色の濁った水が出たが、しばらく出しっぱなしにしていると透明になった。飲料水として安全かどうかは怪しいが、顔を洗ったり、傷口を流したりする程度なら問題ないだろう。
これで、雨露をしのぐ屋根と、最低限の水は確保できた。
次は、食料だ。
昨夜飲んだペットボトルの水以外、何も口にしていない。空腹感というより、エネルギー残量の低下を告げるアラートが脳内で鳴り始めていた。
外に出る。
朝の光が眩しい。春先なのか、風にはまだ冷たさが混じっていた。
薄い手術衣一枚では肌寒い気温だが、皮膚の下の装甲と、循環する冷却水のおかげで、体温の低下は感じない。
三号は、昨夜見つけたコンビニエンスストアの方へ向かった。
店の中に入るつもりはない。こんな異形の姿で入れば、一発で通報される。
狙いは、店の裏にあるゴミ捨て場だった。
大型のダストボックスがいくつか並んでいる。そのうちの一つ、プラスチックごみ用の箱の横に、黒いビニール袋がいくつか積まれていた。
中を開ける。
消費期限が数時間前に切れた弁当やサンドイッチ、惣菜パンが大量に詰め込まれていた。
「廃棄食料」というやつだ。
三号は、その中から比較的状態の良さそうなツナマヨネーズのおにぎりを二つと、卵サンドを一つ取り出した。
密封されているし、気温も低い。腐敗は始まっていないと判断した。
──そういえば。
前世では、賞味期限というものをひどく気にしていた。
「一日過ぎたからもう食べられない」と、まだ食べられそうなものを捨てることに、少しの罪悪感と「もったいない」という気持ちを抱きながら、それでも捨てていた。
安全な食べ物が、いつでも手に入る環境だったからだ。
今は違う。
期限が切れていようが、ゴミ袋に入っていようが、エネルギーに変換できる有機物であることに変わりはない。
「食べられればいい」
その判断が、驚くほど自然に、そして冷徹に下された。
躊躇いはなかった。
前世の豊かな記憶と、現在のギリギリの生存戦略。そのギャップに対して「惨めだ」と思う余裕すら、今の三号にはなかった。
面倒だとか嫌だとかいう感情の前に、ただ「生きるためにやることが増えた」という事実だけがある。
廃工場に戻り、ブルーシートの上に座って食事をとる。
おにぎりの包装フィルムを開け、一口かじる。
冷たい。ご飯が少し硬くなっている。
でも、施設の無味乾燥なペーストよりは、はるかに「食べ物」の味がした。
海苔の風味、ツナの塩気とマヨネーズの油分。
味覚が刺激され、脳が「美味しい」という信号を処理する。
前世で食べた温かい食事には遠く及ばない。それでも、自分の足で探し、自分の意思で選んだ初めての食事だった。
昼過ぎ、三号は自分の個性の限界を確かめることにした。
施設では、限られた部屋の中の機器しか操作したことがない。外の世界で、この「機械操作」の能力がどこまで通用するのか、把握しておく必要があった。
ブルーシートの上に胡座をかき、目を閉じる。
ソナーの出力を上げ、意識を外側へと広げていく。
まず、廃工場から数十メートル離れた道路の信号機。
制御盤のマイコンに接続。青から赤への切り替えタイミングを、一秒だけ遅らせてみる。
成功。
さらに遠くへ。
約五百メートル先、コンビニの監視カメラ。
映像データを傍受する。店内の客の動き、レジの金額表示までクリアに読み取れる。
さらに遠くへ。
一キロ、一・五キロ。
意識の糸を、都市のインフラ網という巨大な神経系に這わせていく。
距離が離れるほど、接続の感覚は細く、頼りなくなっていく。ノイズが増え、データの転送速度が落ちる。
約二キロメートル先。
駅前の大型ビジョンの電力系に繋がったところで、限界が来た。
これ以上先は、糸が千切れてしまう。
「半径二キロメートル」
施設のデータに書かれていた数値は、正確だった。
目視できない距離にある機械を、ただそこに座っているだけで掌握できる。
それがどれほど異常な能力なのか、三号には判断がつかなかった。
比較対象がないからだ。
他の個性持ちがどれほどの力を持っているのか知らない。オールマイトのような規格外の存在がいる世界だ。二キロ先の機械を動かせる程度のこと、驚くべきことではないのかもしれない。
ただ、この力があれば、生きていくための情報を得ることはできる。
追手が近づけば事前に察知できるし、必要なら信号を操作して足止めすることもできる。
自分を守るための、最強の「盾」。
鋼城機巧の言っていたことは、ある意味で正しかった。
午後からは、廃工場の環境改善に着手した。
入り口のシャッターは壊れていて完全に閉まらない。これでは誰でも入ってこられる。
三号は、奥に転がっていた鉄骨の残骸を運んできた。
数百キロはあるだろうH鋼を、両腕のブースターを微弱に噴射して持ち上げ、シャッターの内側に立てかける。物理的なつっかえ棒だ。
次に、廃材の山から使えそうな電子部品を漁る。
モーターのコイル、古びた基盤、断線したケーブル。
それらを自分の個性で通電させ、生きているパーツだけを選別する。
即席の電子錠を作るためだ。
入り口の横にある通用口のドア。ここに、選別した部品を組み込んでいく。
前世で電子工作の経験などなかった。せいぜい、理科の授業で豆電球を光らせた程度だ。
しかし、今は機械と直接「対話」ができる。
『ここに電流を流せば、このラッチが動くか?』
『電圧が足りない。ショートする』
そんなやり取りを脳内で行いながら、配線を繋いでいく。
数時間の作業の末、不格好な電子錠が完成した。
暗証番号や物理キーはない。三号が個性で特定の周波数の微弱電流を流し込んだときだけ、ロックが解除される仕組みだ。
外からドアノブを引いてみる。開かない。
意識を向け、ロック解除の信号を送る。カチャリと音がして、ドアが開いた。
──そういえば。
前世で、夏休みの宿題で工作をした記憶がある。
牛乳パックや割り箸を使って、貯金箱か何かを作った。
完成したとき、うまく動いて、少しだけ誇らしくて、嬉しかった。
今、この不格好な電子錠が動いたのを見て、それに近い感覚が来た。
自分の頭で考えて、自分の手で作り出したものが、機能する。
それは、施設で与えられた訓練を完璧にこなしたときとは違う、もっと血の通った達成感だった。
「よかった」
小さく呟いた。
前世の「嬉しい」と同じものかはわからない。でも、悪くない感覚だった。
夜が来た。
廃工場の中は、真の闇に包まれた。
ブルーシートの上に座り、膝を抱える。
一日が終わる。
生き延びた。水も飲めたし、食べ物も確保した。安全な寝床も(仮とはいえ)構築した。
だが、これからどうするのか。
その答えは、まだ出ていなかった。
ずっとこの廃工場で、ゴミを漁りながら生きていくのか。
それは「生存」であって「生活」ではない。
暗闇の中で、前世の記憶を一つずつ取り出してみる。
前世にあった「当たり前」の数。
暖かい布団。雨風を完全にしのげる家。家族の声。友達との会話。
選べる服。履き慣れた靴。
テレビのバラエティ番組。好きな音楽。
それらが、今の自分には一つもない。
「なし」というラベルが貼られた箱が、頭の中にどんどん積み上げられていく。
悲観しているわけではない。ただ、事実として、今の自分がどれだけ欠落しているかを数えているだけだ。
前世の自分は、なんて恵まれていたのだろう。
そのことに気づきもしなかったかつての自分を、責める気にはなれない。当たり前すぎて、見えなかったのだ。
不意に、ソナーが遠くの音を拾った。
風の音でも、車のエンジン音でもない。
人の声だ。
廃工場から少し離れた、大通りに近い場所。
複数の人間の笑い声が聞こえる。
若者たちのグループだろうか。酒でも飲んでいるのか、陽気で、無警戒な声。
「マジで? ウケるんだけど!」
「やめろよー!」
そんな、他愛のない会話。
三号は、その声をじっと聴いていた。
ただの音波の振動として処理するのではなく、その向こう側にある「人間の生活」を想像しようとした。
彼らは今、誰かと一緒にいる。
言葉を交わし、感情を共有し、笑い合っている。
──そういえば。
前世では、人の声が当たり前にあった。
家族が呼ぶ声。先生の怒る声。友達のふざけた声。
街を歩けば、見知らぬ人の会話が耳に入ってきた。
うるさいと思う日もあった。一人になりたいと思うこともあった。
でも今は。
遠くから聞こえるあの笑い声が、途方もなく「遠い」と感じられた。
物理的な距離の話ではない。
あの笑い声の輪の中に、今の自分はいない。
入る方法も、近づく理由も持っていない。
彼らは光の当たる世界を生きていて、自分は暗い廃工場で息を潜めるだけの異形だ。
その断絶が、胸の奥に冷たい隙間を作った。
寂しいのだろうか。
感情の名前は、まだつけられない。
ただ、この孤独は、施設で感じていた「一人の状態」とは違う。
世界には他者がいて、関わり合いがあるということを知ってしまった上での、明確な「孤立」だった。
笑い声は、やがて遠ざかり、消えていった。
再び、静寂が戻る。
三号は、冷たいコンクリートの床の上で、鋼の尻尾を抱え込むようにして丸くなった。
明日も、今日と同じように廃棄食料を探し、生き延びる作業をするだけだ。
その先に何があるのかは、まだわからない。
わからないまま、目を閉じた。