雨が降り始めたのは、深夜のことだった。
最初はパラパラという、乾いた土を叩くような小さな音だった。それが徐々に密度を増し、ザーッという連続音へと変わっていく。
三号は、ソナーの反応よりも先に、自分の耳でその音に気づいていた。
ブルーシートの上で身体を起こす。
廃工場の高い天井を見上げた。
暗闇の中で、一箇所だけ色が違う部分がある。屋根のスレートが剥がれ、大きな穴が開いている場所だ。
そこから、容赦なく雨が降り注いでいた。
幸い、三号が寝床にしている場所は穴の真下から数メートル離れている。直接雨を被ることはない。
だが、風が吹くたびに、細かい雨粒が霧のように舞い込んできた。
顔に当たる。
薄い手術衣の生地が、じわじわと湿っていく。
嫌だな、と思った。
単純に、濡れるのが嫌だった。
皮膚と一体化した装甲には、もちろん防水性がある。内部の電子機器も完全にシーリングされており、水に濡れたくらいでショートすることはない。背鰭の冷却機能と体内エンジンのおかげで、急激な体温低下を招くこともない。
身体機能としては、何の問題もない。
それでも、布が肌に張り付く不快感や、濡れた髪が額にまとわりつく感触は、確実に「不快な情報」として脳に送られてくる。
──そういえば。
前世でも、雨は嫌いだった。
天気予報を見ずに家を出て、帰り道で降られるのが一番最悪だった。傘がないまま走って帰り、服が重くなり、靴の中がぐちょぐちょになる。あのどうしようもない不快感。そして、翌日には大抵風邪を引いていた。
今は風邪など引かない身体になった。服の重さも、三百キロの体重に比べれば誤差の範囲だ。
状況は前世よりはるかにマシになっているはずなのに、雨に濡れることへの「嫌だ」という感情の質は、前世と全く同じだった。
それが、少しだけおかしかった。
身体が鋼になっても、こういう細かい感覚は変わらないらしい。
前世の自分と今の自分が、不快感という一点で繋がった気がした。
三号は立ち上がり、雨の落ちてこない壁際へと移動した。
壁に寄りかかろうとして、やはり背鰭が当たって止まる。少し斜めに姿勢を崩し、腕を組んで外の様子を窺った。
風に煽られた雨粒が、時折、三号の身体に直接当たる。
ポツ、ポツ。
胸の装甲に。腕の篭手に。
カン、コン、と硬い音が鳴る。
続いて、背鰭の隙間にも雨粒が落ちる。
タン、タタン。
金属に当たる雨の音が、骨を伝って直接鼓膜に響いてくる。
最初は不規則だったその音が、雨脚が強まるにつれて、一定のリズムを持ち始めた。
コンコン、タンタン、カン。
まるで、誰かが小さなドラムを叩いているような音。
──そういえば。
前世で雨音を聴くとき、音はいつも「外側」から来た。
部屋の窓ガラスを叩く音。傘の生地に当たる音。車のルーフに落ちる音。
それは、自分が安全な場所にいて、外の現象を傍観しているときに感じる、どこか遠くて落ち着く音だった。
今、聴いている雨音は違う。
装甲越しとはいえ、自分の身体で直接受け止めている。内側から響いてくる音だ。
受け取り方がまるで違うのに、不思議と「落ち着く」という感覚は似ていた。
規則的なリズム。一定のホワイトノイズ。
それが、高ぶりやすいDNAコンピュータの演算を、静かにクールダウンさせてくれるような気がした。
「思ったより、面白い音だ」
三号は、一人ごちた。
前世と今で、また一つ、同じ「良いもの」を見つけた気がした。
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翌朝。
雨は上がっていなかった。むしろ、昨日より激しく降っている。
廃工場の中は薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。
食料を探しに行かなければならないが、この雨の中を素足で歩き回るのは気が進まなかった。
しかし、エネルギー残量は確実に減っている。
三号は、入り口に立てかけておいた鉄骨を退かし、外へ出た。
瞬間、容赦ない雨が全身を叩きつける。
冷たい。
手術衣は一瞬で水を吸い、重く肌に張り付いた。
それでも、走るしかなかった。
水たまりを避けながら、泥濘んだ土の上を駆け抜ける。
ソナーで周囲を警戒しながら、いつものコンビニの裏手へと向かう。
ゴミ捨て場には、新しい黒いビニール袋が置かれていた。
急いで中身を漁る。
今日は、消費期限切れのメロンパンと、幕の内弁当の残りがあった。
袋の口を縛り直し、それを小脇に抱えて、再び雨の中を走る。
廃工場に戻る途中、雨がさらに激しさを増した。
視界が白く霞むほどの土砂降り。
たまらず、道沿いにあった別のコンビニの軒先に滑り込んだ。
ここは営業中の店舗だ。店内には客が数人いるのがガラス越しに見える。
三号は、店舗の入り口から少し離れた、死角になる壁の影に身を潜めた。
息を整える。
髪からは水滴がしたたり落ち、足元には小さな水たまりができている。
ふと、壁に設置された外向けのデジタルサイネージ(電子看板)が目に入った。
ニュース番組が流れている。
音声は小さくて聞き取りにくいが、ソナーの機能を使ってスピーカーの振動を直接拾い、脳内で音声データに変換する。
『──続いては、昨夜未明に発生したヴィランによる銀行強盗事件の続報です。逃走していた犯人グループは、今朝早く、プロヒーロー「シンリンカムイ」と「デステゴロ」の連携により、全員逮捕されました』
画面に、ニュース映像が映し出された。
木のような身体を持つヒーローと、筋骨隆々のヒーローが、拘束されたヴィランたちをパトカーに押し込んでいる様子。
『これで今月の個性犯罪発生率は、前年同月比で微減となりました。しかし、依然として……』
キャスターの解説が続く。
グラフが表示された。
「個性犯罪発生件数の推移」。
三号は、その画面をじっと見つめた。
シンリンカムイ。デステゴロ。
知っている。前世の記憶にある名前だ。
そして、画面が切り替わり、街頭インタビューの映像になった。
道を歩く人々の姿が映る。
スーツを着たサラリーマン。学生服の高校生。
その中に、ごく自然に、異形の姿をした人間たちが混ざっていた。
頭が鳥の形をした人。肌が真っ赤な人。背中に小さな羽が生えている人。
誰も彼らを特別視していない。風景の一部として、当たり前に存在している。
確信が、完全なものになった。
ここは、僕のヒーローアカデミアの世界だ。
個性という超常能力が人口の八割に浸透し、ヒーローが職業として確立された社会。
自分が前世でアニメとして見ていた、あのフィクションの世界。
「ここだ」
三号は、心の中で呟いた。
不思議なほど、感慨は薄かった。
「すごい」とか「信じられない」といった驚きは、施設で目覚めた瞬間に、自分の異常な身体と能力を処理した段階でとっくに消費し尽くしていた。
今さら「ここはあの世界だった」と確認しても、気持ちが大きく揺さぶられることはなかった。
緑谷出久はすでに個性を継承しているのか、それともまだ無個性のままなのか。
そんなことを思ったが、そもそも自分はそんなにあの物語を知らなかった。
そもそも、今年が何年なのかも知らない。
そして何より、自分がこの世界のどの座標にいるのかがわからない。
知識という名の地図は持っている。しかし、自分が立っている現在地(現在位置)が空白なのだ。
知識を使って、物語に干渉しよう、未来を変えよう。
そんな大それた考えは、微塵も湧かなかった。
自分は主人公ではない。特別な運命を背負った転生者でもない。
ただの、逃亡した生体兵器の失敗作だ。
今日食べるものに困り、雨に濡れて震えている子供が、世界を救うなどと考えるのは滑稽でしかない。
壮大な使命感よりも、「自分がこの世界に居場所を見つけられるのか」という不安の方が、ずっと大きかった。
雨が小降りになってきた。
三号は、抱えていた食料の袋を握り直し、軒先から出た。
再び廃工場へ向かって歩き出す。
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廃工場に戻り、ブルーシートの上に座った。
買ってきた──いや、拾ってきたメロンパンの袋を開ける。
甘い匂いが広がる。
雨で冷えた身体に、糖分が染み渡る。
美味しい。
昨日のおにぎりよりも、明確に「美味しい」と感じた。
前世で好きだった味だからか。それとも、疲労しているせいか。
ふと、視界の端に、昨日拾ってきたチラシの裏紙と、折れた鉛筆の芯があるのが見えた。
三号は、それを手に取った。
書く、という行為は久しぶりだった。
施設では端末でデータを入力するだけで、物理的な文字を書いた記憶がない。
鋼の指先で、小さな芯を不器用につまむ。
そして、紙に文字を書き出した。
『知っていること』
『USJ』『ステイン』『神野』
『知らないこと』
『現在地』『時間』
書き出しながら、自分の頭の中が整理されていくのを感じた。
そして、ふと手が止まる。
自分のことについても、書いてみようと思った。
『名前:なし(仮称・三号)』
『年齢:不明(推定八〜九歳)』
『戸籍:なし』
『家族:なし』
『行く場所:なし』
箇条書きにして並べられた「なし」の羅列。
書き終えて、少し眺めた。
暗い気持ちになるかといえば、特にそうでもなかった。ただ事実を並べただけだからだ。
ただ、「なし」が多いな、とは素直に思った。
前世の自分が同じことを書いたら、全部「あり」だった。
名前もあった。年齢もわかっていた。戸籍があった。家族がいた。住む家があった。明日行く学校があった。
全部あったのに、それがあることに気づきもしなかった。
当たり前すぎて、特別だと思っていなかった。
失って、今のこの何もない状態になって、ようやくわかる。
前世の自分はずいぶんと恵まれていたのだと。
それに気づかなかった前世の自分を、責める気にはなれない。気づきようがなかったのだから。
でも、もし気づいていたら、少しくらい大事にしていたかもしれない、と思う。
チラシを折りたたみ、ブルーシートの下に隠した。
どうするか、の答えは出ていない。
食料を確保して、廃工場を整備して、雨をしのぐ。
それで毎日が終わっていく。
「次」が見えていない。
ただ、ぼんやりと思っていることはある。
このままではいられない。
具体的な理由はない。ただ、このまま廃工場で廃棄食料を食べ続ける生活が、何ヶ月も何年も続くとは到底思えなかった。
どこかで、何かが変わる。変えなければならない。
この身体で、この個性で、この「知っている世界」で、どう立つかを決める必要がある。
それがいつで、どういう形になるのかは、まだわからなかった。
雨の音が、再び強くなってきた。
屋根を叩く音。コンクリートを打つ音。
一定のリズム。
三号は、膝を抱えたまま、その音を聴き続けた。
何もない自分。
何者でもない自分。
でも、この雨音を「悪くない」と思える感覚だけは、確かに自分のものだ。
それだけを抱えて、今日という日を終える。