廃工場での生活が始まって、およそ一ヶ月が経過した。
三号の日常は、ある種の安定したルーティンの中にあった。
早朝、日が昇る前にソナーで周囲の安全を確認し、外へ出る。
いつものコンビニやスーパーの裏手で廃棄食料を確保し、ついでに自動販売機から水を得る(相変わらず「後で返す」と思いながら)。
日中は廃工場の環境整備と、個性の制御練習。
夜は、遠くの街の光を眺めながら、拾ってきた新聞の切れ端や雑誌でこの世界の情報収集を行う。
一ヶ月で、廃工場は少しだけ「住処」らしくなった。
雨漏りのする屋根の穴は、近くの工事現場から夜陰に乗じて拝借してきたトタン板と廃材で塞いだ。三号の個性で金属板をある程度変形させ、穴の形状に合わせて隙間を埋めたのだ。完全な防水ではないが、少なくともブルーシートが直接濡れることはなくなった。
入り口の電子錠も改良した。
最初は単純に電流を流すだけのオンオフ式だったが、それでは不意のショートや雷などで開いてしまう危険性がある。そこで、廃棄されたパソコンの基盤を組み込み、暗号化された特定のパルス信号を受信したときのみラッチが外れるようにした。
パスワードは数字ではなく、三号の脳波の特定のパターンだ。
自分以外の人間には絶対に開けられない扉。
それが完成したとき、三号は静かな満足感を覚えた。
誰に命令されたわけでもなく、自分の生存のために、自分の頭と手で作ったもの。
それがきちんと機能しているという事実が、この心細い世界で唯一の、確かな足場のように感じられた。
──そういえば。
前世でも、何かを作って完成させたときの喜びはあった。
プラモデルを説明書通りに組み上げたとき。プログラムのバグを取って意図通りに動かしたとき。
あのときの「やった」という感覚と、今の電子錠が作動したときの「よかった」という感覚は、同じ根っこから来ている気がした。
生きるために必死な状況でも、こういう小さな達成感は味わえるらしい。
そのことが、少しだけおかしかった。
食料の調達にも慣れてきた。
最初はただカロリーを摂取できれば何でもいいと思っていたが、徐々に「選ぶ」という行為ができるようになってきた。
廃棄されるタイミングのパターンを掴み、複数の店舗を効率よく回る。
今日はツナマヨのおにぎりがある。昨日はコロッケ弁当があった。
施設で出されていた最適化ペーストに比べれば、このジャンクな廃棄食料の方がはるかに豊かだった。
味覚が刺激され、「食べることが少し楽しみになる」という、前世の感覚が微かに戻りつつあった。
しかし、解決できない問題もある。
「靴」だ。
施設を出てからずっと、三号は素足のままだ。
足の裏の皮膚は少し厚くなり、アスファルトの感触や小石を踏む痛みには慣れてきた。
だが、廃工場から少し離れた場所にある商業区画の歩道に、タイルが割れて尖ったままになっている箇所があった。そこを通るたびに、足の裏を切らないように慎重に避けなければならない。
面倒だった。
──そういえば。
前世では、靴を履くのは当たり前だった。
外出するときに靴を忘れるなんてことはあり得ないし、靴があれば、地面の小さな危険など意識しなくて済んだ。
靴というものが、足を守るだけでなく、「歩く」という行為から無駄な注意力を削ぎ落とし、思考を自由にするための重要なツールだったのだと、失って初めて気づいた。
靴が欲しい。
でも、どうやって手に入れる?
お金はない。靴屋に入れば、この異形の姿は確実に通報される。
廃棄された靴を探すか? だが、この特殊な足の形状に合うサイズの靴が、そう都合よく捨てられているとは思えない。
いつか解決しなければならない課題として、三号はそれを頭の隅に保留した。
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ある日の昼下がり。
食料調達の帰り道、三号はいつものように人目を避けて路地裏を歩いていた。
大通りに出る交差点の角。
そこに設置された大型のビジョンから、音声が漏れ聞こえてきた。
ニュースではない。もっと明るく、熱を帯びた声。
三号は足を止め、壁の陰からビジョンの画面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、オールマイトだった。
先日の雨の夜に見たニュース映像ではない。おそらく、何かの特集番組か、過去の活躍をまとめた映像だろう。
崩れゆくビルを巨大な背中で支えながら、群衆に向かって笑いかけている。
『もう大丈夫! 何故って!? 私が来た!!』
その声が、スピーカーを通じて周囲の空気を震わせる。
道行く人々が、ビジョンを見上げて笑顔になる。
「オールマイトだ」「すげえな」「かっこいい」
そんな声が、そこかしこから聞こえてくる。
三号は、じっとその光景を見ていた。
一方的に、知っている。
彼がどれほど強くて、どれほど無理をしていて、結果どうなってしまったのか。
この世界に生きる人々の中で、自分だけが知っている「物語の裏側」。
でも、画面の中の彼は、俺のことなど知らない。
路地裏の影から見つめる、名前もない異形の子供のことなど。
当然だ。彼が向けている笑顔は、守るべき市民に向けられたものであって、自分に向けられたものではない。
その非対称さが、やはりむず痒かった。
前世では、オールマイトのことが好きだった。
強くて、絶対に諦めなくて、見ているだけで勇気をもらえるような存在。
今、こうして現実の存在として彼を見ても、その「悪くない」という感覚は残っていた。
ただ、画面の中のヒーローを応援する「ファン」としての目線ではなく、同じ世界に存在する圧倒的な「力」としての目線になっていた。
あの力があれば、何でもできるだろうか。
誰かに怯えることもなく、隠れて生きる必要もない。
でも、自分はオールマイトではない。
自分は、鋼城機巧に作られた「盾」だ。
三号はビジョンから目を逸らし、路地の奥へと足を踏み出した。
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その夜。
廃工場のブルーシートの上で、三号はまたチラシの裏に文字を書いていた。
前回書いた「自分についての整理」の続きだ。
少しだけ、状況が変わっている。
『名前:なし』
『年齢:不明』
『戸籍:なし』
『家族:なし』
『行く場所:なし』
『できること:食料調達、簡単な工作、ソナーによる警戒』
「できること」が一つ増えた。
生存能力は少しだけ上がっている。
だが、根本的な問題は何も解決していない。
「どうする」の答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。
一ヶ月間、ただ生き延びるためだけにエネルギーを消費してきた。
この生活が一年続くのか、十年続くのか。
大人になれば、少しは状況が変わるのだろうか。
戸籍のない異形型の人間が、この世界でどうやってまともな仕事に就き、家を借りるのか。
想像がつかない。
行き止まりの迷路にいるような感覚。
ふと、ソナーが「ノイズ」を拾った。
いつもの風の音や車の音とは違う。
人の気配だ。
大通りから聞こえる笑い声ではない。
もっと近く、もっと重く、もっと警戒心を含んだ足音。
三号は鉛筆を置き、意識を研ぎ澄ませた。
廃工場から二十メートルほど離れた、隣の廃倉庫。
そこに、複数の人間が近づいてきている。
一台、二台。車のエンジン音。
そして、低い話し声。
『……ブツは揃ってるか?』
『ああ。こっちの要求額は?』
深夜の廃倉庫での、密会。
前世の映画やドラマで見たような、典型的な「裏社会の取引」のシチュエーション。
それが、自分のすぐ隣で起きている。
三号は呼吸を潜めた。
彼らは今のところ、こちらの廃工場には気づいていない。隣の倉庫を一時的な取引場所として使っているだけだ。
しかし、距離が近すぎる。
もし、彼らが見回りに来たら。
もし、何かの拍子にこちらに踏み込んできたら。
手作りの電子錠など、本気になればすぐに壊される。
見つかればどうなる?
「何も見ていない」と弁明して見逃してもらえるだろうか。
この異常な外見の子供を、彼らがただの迷子として扱うはずがない。
捕まって、売られるか、殺されるか。
恐怖。
それは施設から逃げ出した夜に感じた追手への恐怖とは違う、もっと生々しい暴力の予感だった。
彼らはおそらくヴィランだ。個性を犯罪に使う連中。
三号は自分の右手の篭手を見つめた。
鋼の拳。
これで戦えるか?
個性の「機械操作」を使って、彼らの武器を封じることができるか?
訓練では完璧だった。でも、相手は的ではない。殺意を持った生きた人間だ。
試したことはない。
その夜の取引は、三十分ほどで終わり、彼らは車で去っていった。
三号は、彼らの気配が完全に消えるまで、ブルーシートの上で硬直していた。
安堵よりも、疲労感が強かった。
「まだ」気づかれていないだけだ。
これが明日も明後日も続くかもしれない。
この廃工場は、もう安全な場所ではない。
別の場所へ移動するべきか?
だが、どこへ?
当てはない。この街の地理もろくに知らない。
動けば見つかるリスクが高まる。
留まれば、いずれ巻き込まれる。
どうする。
どうすればいい。
答えの出ない問いが、頭の中を堂々巡りする。
前世の自分が「当たり前」に持っていた「安全」というものが、どれほどもろく、手に入れるのが難しいものか。
三号は膝を抱え、鋼の尻尾をきつく巻きつけた。
何もない。
自分を守るものは、この冷たい装甲だけだ。
夜の闇が、いつもより深く、重く感じられた。