廃工場から連行される際、三号は抵抗しなかった。
黒い戦闘服の大人たちに囲まれ、促されるままに指揮車両とは別の、窓にスモークが貼られた黒いバンの後部座席に乗った。手錠はかけられなかった。危険度を低く見積もられたのか、あるいは怪我をした子供として扱われたのかはわからない。
車内で、一人の職員がバスタオルを渡してくれた。雨と泥で汚れた手術衣の上からそれを被り、じっと前を見ていた。
ソナーで車の電子機器に接続すれば、どこへ向かっているのか、彼らがどこに所属しているのかをハッキングすることは可能だった。だが、しなかった。
接続する意味を感じなかった。どこへ連れて行かれようと、今の自分には帰る場所がない。廃工場は一時的な雨露をしのぐ場所であって、「帰る場所」ではなかったからだ。
車は三十分ほど走り、地下駐車場へと滑り込んだ。
エレベーターに乗せられ、窓のない廊下を歩かされた。すれ違う人間は数人いたが、誰もが足早で、三号の姿を見ても立ち止まらなかった。視線は向けてくるが、すぐに前を向く。訓練された無関心だった。
通されたのは、清潔な部屋だった。
壁は薄いグレー。天井には埋め込み式のLED照明。長方形のテーブルが中央にあり、パイプ椅子がいくつか並んでいる。
「座って待て」と職員に言われ、三号は入り口に一番近い椅子に向かった。
テーブルの向こう側には、すでに一人の女性が座っていた。
濃紺のスーツを着た、細身の女性だった。年齢は三十代前半くらいだろうか。短い髪はきっちりとまとめられ、縁なしの眼鏡の奥の目は、感情の揺れを一切感じさせない。テーブルの上にはタブレット端末と、紙のファイルが一つだけ置かれている。
三号はパイプ椅子を引いて、腰を下ろした。
その瞬間、背中から鈍い音がした。
首から腰にかけて連なる鋼の背鰭が、椅子の背もたれのパイプ部分に当たった音だ。
三号は浅く座り直し、身体を少し斜めに向けた。尻尾の置き場がないため、椅子の右側からだらりと床に垂らす形になる。
──そういえば。
椅子に座る、という行為。前世では、もっと無防備なものだった。
教室の木の椅子でも、リビングのソファでも、座るときは体重を後ろに預けることができた。背もたれに寄りかかり、だらっと力を抜く。それが「座って休む」ということだった。
今の身体には、背もたれが機能しない。背鰭があるせいで、深く腰掛けると先端が当たってしまい、背中を面で預けることができない。
結局、常に少し前傾姿勢になるか、斜めに構えるしかない。椅子の上に「座っている」というより、椅子という台座の上に「乗っている」という感覚だった。重心のバランスを取るために、腹筋と背筋のどこかに常に微かな力が入っている。
落ち着かない。
施設にいた頃は、自分の部屋のベッドの端に座るか、食堂の決められた専用の椅子に座るかだったから、あまり意識しなかった。こうして普通の規格で作られた家具に触れると、自分の身体が「一般的な人間」の形状から外れているという事実が、データではなく物理的な違和感として押し寄せてくる。
それが悲しいことなのかどうかは、わからなかった。ただ、「不便だ」という情報として処理した。
「……落ち着いたかしら」
向かいの女性が、静かな声で言った。
三号は視線を上げた。
「はい」
「私は公安委員会の特殊事案課、統道伊都(とうどう・いと)と言うわ。いくつか質問をする」
統道と名乗った女性は、手元のタブレットに目を落としたまま、淡々と話し始めた。
声に抑揚がない。同情も、威圧感もない。ただ、必要な情報を取得するための音声出力のようだった。
三号にとっては、そのトーンは聞きやすかった。施設のスタッフが発していた「指示」のトーンに近い。どう反応すべきか、最適解を出しやすい。
「名前は」
「……三号。俺自身の名前は、ありません」
統道の指が画面をタップする。
「年齢は」
「わかりません。施設の記録では製造開始から八年経過、とありました」
「戸籍は」
「ないと思います」
「どこから来たの」
「施設。名前も場所も知りません」
「個性は」
「機械を操作できます。繋がって、動かしたり、情報を取ったり」
「保護者は」
「いません」
一問一答が続く。統道は三号の答えに驚く様子も見せず、ただ記録していく。
「施設」や「製造」という言葉が出たときも、追及してこなかった。まるで、最初からある程度の予測がついていたかのような反応だった。
三号は、統道の目を観察した。
前世の記憶にある「警察の取り調べ」とは違う。威圧して真実を引き出そうとする目ではない。
かといって、施設を出てから街のビジョン越しに人々が向けていた視線とも違った。彼らが異形の存在に向けていたのは「物珍しさ」や無意識の「恐れ」だった。
統道の目は、そのどれでもない。
ただ、目の前の物体がどれだけの機能を有しているか、どれほどの価値があるかを測る目。値踏みをしている目だった。
感情を交えず、損得と有用性だけで対象を切り分ける、冷徹な視線。
そのことに気づいた瞬間、三号の中で何かが静かに落ち着いた。
ほっとしたのだ。
なぜほっとしたのか、処理が追いつくのに数秒かかった。
「可哀想な子供」として扱われると、どう返せばいいかわからないからだ。同情されても、泣き方も甘え方も知らない。「恐ろしい化け物」として扱われれば、排除される。
だが、「使えるか使えないか」という機能で評価されるなら、話は簡単だ。
自分は機械として作られた。機能を果たすことはできる。機能を提供すれば、対価が得られる。それは施設で受けてきた訓練と同じ、極めてシンプルな論理だった。
恐れの目や同情の目より、この種類の目の方が慣れていた。
「……質問は以上よ」
統道がタブレットから顔を上げた。
「あなたの身体の特徴と、先ほどの現場での証言から、ある程度の事情は推測できるわ。違法な個性研究の被害者であり、戸籍を持たない存在。本来なら、然るべき福祉機関へ保護を要請し……」
「ここに居場所がほしい。働かせてほしい。」
三号の口から、自分でも予想していなかった言葉が出た。
統道の言葉を遮ってまで、音声を発していた。
統道がぴたりと口を閉じ、三号を見た。
部屋の中に、換気扇の低い稼働音だけが響いた。
三号自身も、少し驚いていた。
何を言うつもりだったのか。
「働く」。
そうだ。この一ヶ月、廃工場で廃棄された食料を食べ、雨風をしのぐことだけで精一杯だった。生き延びることはできた。でも、それはただ「機能が停止していない」というだけで、何かに繋がっているわけではなかった。
あの雨の夜、遠くから聞こえた笑い声。「あそこにはいられない」という遠さの感覚。
チラシの裏に書いた「なし」の連続。
自分は、居場所が欲しかったのだ。
この世界に、物理的な空間としてではなく、社会的な座標としての立つ場所が。
そして、同情や福祉ではなく、自分の機能を提供すること──「働くこと」でそれを獲得するのが、自分にとって最も理にかなっていると感じたのだ。
言ってから、こんなことが言いたかったのかと、自分自身で納得した。
統道は、数秒の間、沈黙した。
眼鏡の奥の目が、再び三号をじっと見据える。先ほどまでの値踏みよりも、もう少し深いところまでスキャンしようとするような視線だった。
「……あなたに戸籍はない」
統道が、ゆっくりと口を開いた。
「法的には、あなたはこの国に存在していない。保護する義務も、権利を保障する法律も、あなたには適用されない。だから、極論を言えば、私たちはあなたを好きにできる。地下の独房に一生閉じ込めることも、兵器として解体することもね」
脅しではない。事実の提示だった。
三号は頷いた。「わかります」
「それでも、ここで働くと言うの?」
「俺の個性は、たぶん役に立ちます」
「……」
統道は短く息を吐いた。それは、呆れなのか、感心なのか、読み取れなかった。
「いいわ。こちらの仕事を手伝ってもらう。情報収集や、電脳空間での工作。あなたなら得意でしょう?」
「はい」
「報酬を出す。住む場所も与える。食事も用意する。ただし、外に出るときは必ず監視をつけるし、勝手な行動は許さない」
淡々と提示される条件。それは、三号が求めていた「取引」そのものだった。
「……それだけでいいの?」
統道が、確認するように聞いた。
「それだけよ。それ以外に、何か欲しいものがある?」
「いいえ」三号は答えた。「わかりました」
統道伊都は、目の前の特異な存在──自らを三号と名乗った子供を、冷静な頭の片隅で分析し続けていた。
公安委員会の特殊事案課という立場上、これまで数え切れないほどの「逸脱した人間」を見てきた。凶悪なヴィラン、個性が暴走した人間、裏社会の実験体。
この子供が、どこかの違法な研究施設で生み出された「作品」であることは明白だった。
身体中に刻まれた無数の手術跡。生体と完全に融合した超高張力鋼の装甲。そして、先ほどの現場で部下から報告された、異常なまでの電子制御能力。
倫理的・法的に言えば、直ちに一般の児童福祉機関へ引き渡し、心のケアと社会復帰へのプログラムを受けさせるのが正解だ。伊都も、子供を働かせることへの法的な問題や、道義的な責任は十分に承知している。
だが、伊都の経験則が、それを「悪手」だと警鐘を鳴らしていた。
戸籍を持たず、これほどの異形であり、しかも高度な殺傷能力を持つ可能性のある子供を、一般の福祉施設が扱いきれるはずがない。
彼らは「普通の子供」に対するアプローチしか持っていない。この子供が施設でパニックを起こせば、大惨事になる。あるいは、その特異な外見から周囲の恐怖と排斥を買い、結果として彼をヴィランの側へと押しやることになるかもしれない。
一般社会の枠組みでは、この子供は守れない。
だからこそ、公安という「グレーゾーン」で抱え込む方が、社会にとっても、この子供にとっても安全だ。伊都はそう判断した。
そして何より、伊都の気を引いたのは、この子供の内面だった。
酷い人体実験を受け、文字通り身体を改造された被害者。
普通なら、心が完全に壊れているか、世界に対する激しい憎悪に支配されているか、あるいは恐怖で縮こまっているかのどれかだ。
しかし、目の前の子供には、それがない。
泣いてもいない。怒ってもいない。怯えてもいない。
金色の目は、まるで高性能なカメラのレンズのように、ただ現状のデータを収集し、最適解を出力しているだけに見える。
「ここに居場所がほしい。働かせてほしい。」
八歳かそこらの子供が、大人に対して「取引」を持ちかけてきたのだ。自分の生存を担保するために、最も確実なカードを切ってきた。
どこか致命的に欠けている。
人間の感情として本来あるべきパーツが、ごっそりと抜け落ちている。
でも、壊れてはいない。
論理的思考は正常に機能し、自己保存の欲求もある。ただ、それを駆動させるエンジンが「感情」ではなく「処理」になっている。
危うい、と伊都は思った。
このまま放置すれば、誰かの都合のいい道具として使われるか、純粋な機能として世界を破壊するかのどちらかだ。
ならば、自分が手綱を握るしかない。
「私が管理する」という決断は、公安の主任としての冷徹な計算と、ほんのわずかな、本人も自覚したくない「放っておけない」という感情の混ざり合ったものだった。
「面談はこれで終わりよ」
統道がタブレットの電源を落とし、立ち上がった。
三号もそれに倣って立ち上がろうとした。背鰭が再びパイプ椅子に当たり、カチャリと金属音が鳴る。
「……名前、どうするの」
統道が、ふと思い出したように言った。
「え?」
「三号、なんて呼び方で生活させるわけにはいかないわ。戸籍がないから法的な手続きは後回しになるけれど、呼び名くらいはないと不便でしょう」
三号は少し考えた。
名前。
前世では持っていたもの。でも、今の自分にはないもの。
自分で名乗るべき名前が、思い浮かばなかった。
「……わかりません」
統道は少し間を置いた。
そして、窓の外を見た。ブラインドの隙間から、深夜の冷たい雨が降っているのが見えた。季節は冬の終わり。まだ寒さは厳しい。
「冬機(ふゆき)」
統道が、ぽつりと言った。
「……冬機?」
「ええ。今は冬だし冬の機械で、冬機。……ちょうどいいわ」
その理由付けは、あまりにも即物的で、安直に聞こえた。
三号──いや、冬機は、その名前を頭の中で反芻した。
今が冬で、自分が機械の身体だから。
論理的だ。わかりやすい。
「……わかりました。それでいいです」
冬機は頷いた。
統道伊都は、タブレットの裏に「冬機」とメモをした。
「冬の機械だから」。それは表向きの理由だ。
本当は違う。
厳しい冬がいつか明けて春になるように、この氷のように冷たく削れた子供の心が、いつか少しでも解けて、人間らしくなってほしい。
そんな感傷的な願いが込められていた。
だが、伊都はそれを絶対に口には出さない。この子に言うようなことではないし、言ったところで今の彼には理解できないだろうからだ。
ただ、そう願った。
伊都はドアに向かって歩き出し、ノブに手をかけたところで、ふと立ち止まった。
振り返らずに、背中越しのまま、静かに言った。
「……怒らないの。あなたを実験台にした人間に」
それは、業務上の質問ではなかった。
統道伊都という人間が、どうしても確認しておきたかったことのように聞こえた。
冬機は、その言葉を受け取った。
実験台にした人間。鋼城機巧という名前。あの施設の主。
彼に対して、自分は怒っているだろうか。
胸の内側を探ってみる。
身体を切り刻まれたこと。重い装甲を埋め込まれたこと。普通の生活を奪われたこと。
前世の感覚なら、理不尽に対する激しい怒りが湧き上がって当然の事象だ。壁を殴りつけ、叫び声を上げ、復讐を誓う。それが「正解」の反応なのだろう。
だが、何も来ない。
凪いだ水面のように、ただ静かだった。
自分が誰かの設計に基づいて作られたという事実は、あくまで「事実」として保存されているだけだ。それを不当だと感じるための比較対象が、今の自分にはない。前世の記憶はあっても、それは「前の自分」のことであって、今の自分と直接リンクしていない。
冬機は、少しだけ考えてから、正直に答えた。
「怒り方が、わかりません」
部屋に、再び静寂が降りた。
伊都の背中が、わずかに硬直したように見えた。
しかし、彼女は振り返らなかった。何も言わず、ただ静かにドアを開け、廊下へと出て行った。
冬機は一人、部屋に取り残された。
怒り方がわからない。それは嘘ではない。
ただ、それが「異常」なことであるという認識だけは、伊都の沈黙から読み取ることができた。
それでも、自分の居場所が決まった。
そして、名前をもらった。冬機という名前。
明日からは、廃工場ではなく、用意された場所で、用意された仕事をする。
それが生きるということの、新しい形だった。