鋼鉄の龍はヒーローとなる   作:カラミナト

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居場所

 面談室を出た後、冬機は別の車に乗せられた。

 今度は窓にスモークこそ貼られていたが、光の入る黒いセダンだった。運転席には先ほどの統道伊都が座り、冬機は後部座席に一人で乗った。

 車は深夜の都内を静かに走った。雨上がりの濡れたアスファルトに、街灯や信号機の光が滲んで反射している。窓ガラスに額を近づけて、流れていく景色をぼんやりと眺めた。

 施設から逃げ出した夜、遠くに見えた光の集まり。あのときは、ただそこへ向かうことしか考えられなかった。一ヶ月間、廃工場で身を潜めながら、この街の端っこに辛うじてぶら下がっているような感覚だった。

 今は、車のシートの柔らかい沈み込みを感じながら、街の中心部を走っている。

 行き先がある。

 それがどういう場所であれ、野ざらしの廃墟ではないことは確かだった。その事実が、張り詰めていた冬機の内側を少しだけ緩ませていた。

 

「着いたわよ。降りて」

 

 車が停まったのは、閑静な住宅街にある中層マンションの地下駐車場だった。

 伊都の後に続いてエレベーターに乗る。最上階の角部屋。伊都がカードキーと暗証番号でドアを開けた。

 中に入ると、生活感のない、しかし整然とした空間が広がっていた。

 「公安の管理するセーフハウスの一つよ」と、伊都が玄関の明かりをつけながら言った。「今日からここが、あなたの部屋になる」

 

 リビングを抜け、奥の個室に案内された。

 壁紙は淡いクリーム色。窓には遮光カーテンが引かれている。木目のデスクと椅子、小さなクローゼット。そして、部屋の隅にシングルベッドが置かれていた。

 ベッドを見た瞬間、冬機の足が止まった。

 

 ──そういえば。

 

 前世では、ベッドがあるのは当たり前のことだった。

 毎晩、風呂に入ってパジャマに着替え、柔らかい布団に潜り込む。一日の終わりにそこへ帰ることが、どれほど恵まれたことだったか。あの頃は考えたこともなかった。

 施設にいた八年間も、一応ベッドはあった。だがそれは、身体を拘束するためのベルトが付き、バイタルを測るケーブルが這い回る、無機質な「機能の延長」でしかなかった。

 そして、この一ヶ月間。

 廃工場の硬く冷たいコンクリートの床。拾ってきたブルーシートと、薄い布の切れ端だけが敷かれた寝床。隙間風に震え、雨漏りの音に怯えながら、いつ襲われるかわからない緊張の中で浅い眠りを繰り返していた。

 

「……使っていいんですか」

 冬機は、確認するように聞いた。

「あなたの部屋だと言ったでしょう。好きに使いなさい」

 伊都はそう言うと、「ゆっくり休むといいわ」とだけ残してドアを閉めた。

 

 一人になった部屋で、冬機はゆっくりとベッドに近づいた。

 そっと手を伸ばし、白いシーツに触れる。

 布の柔らかい感触が、鋼の篭手に覆われていない指先から伝わってきた。

 ベッドの端に腰を下ろす。スプリングが体重を受け止め、静かに沈み込んだ。

 そのまま、横になった。

 背鰭があるため、やはり仰向けには眠れない。いつものように身体を斜めに傾け、重い尻尾をベッドの縁に沿わせるようにして丸まった。

 それでも、コンクリートとは比べ物にならなかった。

 下から伝わってくるのは、刺すような冷気ではなく、布と綿の温もりだ。体重が分散され、常にどこかに入っていた無意識の力が、ゆっくりと抜けていくのがわかった。

 一ヶ月ぶりの、まともな寝床。

 柔らかいところで眠れるということが、こんなに大きなことだったのか。

 安全な場所で、清潔な布団にくるまる。ただそれだけのことが、今の冬機にとっては途方もない贅沢に感じられた。

 意識が急速に落ちていく。泥のような眠りが、すぐに冬機を飲み込んだ。

 

 翌朝、目を覚ましたのは午前七時過ぎだった。

 アラームの音も、施設の「起床」という無機質なアナウンスもない。カーテンの隙間から漏れる朝の光で、自然に目が覚めた。

 身体を起こし、ぼんやりと周囲を見渡す。

 白い壁。木目の机。柔らかいベッド。

 夢ではなかった。

 リビングの方から、微かな物音と、何かが煮えるような匂いが漂ってきた。

 部屋を出てリビングに向かうと、システムキッチンの前に伊都が立っていた。スーツではなく、シンプルなブラウス姿だった。

「おはよう。よく眠れた?」

「……はい」

「顔を洗ってきなさい。朝食にするから」

 

 洗面所で顔を洗い、ダイニングテーブルの席に着く。

 目の前に、お盆に乗せられた食事が置かれた。

 白いご飯。豆腐とわかめの味噌汁。出汁巻き卵。そして、焼き魚。

 湯気が立っている。

 冬機は、出された食事をじっと見つめた。

 

 ──そういえば。

 

 温かい「普通の食事」を食べるのは、どれくらいぶりだろうか。

 施設での食事は、全てが最適化された栄養ペーストやブロック状の固形食だった。温度は常に一定に管理されており、こういう「作りたての温かさ」ではなかった。

 廃工場での一ヶ月は、コンビニの廃棄食料だ。冷たくなったおにぎりや、パンの耳。食べることは、ただ腹を満たし、生命活動を維持するための作業だった。

「いただきます」

 箸を手に取り、まず味噌汁を一口すする。

 温かい。

 熱いくらいの温度が、喉を通って胃へと落ちていく。出汁の香りが鼻に抜け、味噌の塩分と旨味が舌に広がった。

 美味しいか、美味しくないか。

 それを判断する前に、冬機は無心で箸を動かしていた。

 ご飯を食べ、卵焼きをかじり、また味噌汁を飲む。食べるペースが、自分でも驚くほど速くなっていた。

 一ヶ月間、まともな食事をしていなかった飢餓感が、温かい食べ物という刺激によって一気に解放されたようだった。判断する前に身体が動いている。気づけば、お盆の上の器は全て空になっていた。

「……ごちそうさまでした」

 箸を置き、少し恥ずかしくなってうつむいた。がっつきすぎたかもしれない。

 向かいの席でコーヒーを飲んでいた伊都は、そんな冬機の様子を静かに見ていた。

「足りなかったら、まだあるわよ」

「……いえ、十分です。美味しかったです」

 素直に言った。

 美味しい、という感覚がようやく追いついてきた。栄養補給ではなく、食事としての満足感。それを言葉にすることができた。

 

 食後、伊都はコーヒーカップを置き、改まったトーンで口を開いた。

「さて、これからの生活の決まり事について説明しておくわ」

 冬機は背筋を伸ばし、視線を合わせた。

「まず、このセーフハウスは基本的にあなたが自由に使っていい。自室はもちろん、リビングや浴室もね。ただし、ベランダには出ないこと。外から見られるリスクは最小限にしたい」

「はい」

「食事は一日三回。私が用意するか、出前やレトルトの手配をする。時間は決まっているから、それに合わせなさい」

「はい」

「外出するときは、必ず私に連絡すること。勝手な行動は絶対に許さない。あなたは戸籍がない以上、普通の人間と同じようには街を歩けない。必要なときは、私が同行するわ」

「はい」

「最後に、仕事について。あなたには公安の非公式な情報収集を手伝ってもらうけれど、指示は全て私が出す。あなたの判断で勝手にシステムに侵入したり、工作を行ったりしないこと。いいわね」

「はい、わかりました」

 

 冬機は、伊都の言葉に一つ一つ頷いた。

 感情はなかった。ただ、ルールを覚えた。

 課せられたルールは、決して緩いものではない。自由を制限され、監視下に置かれる生活だ。

 しかし、不思議と窮屈さは感じなかった。

 むしろ、明確なルールがあることが心地よかった。

 施設では「命令」しかなかった。廃工場では「何も決まっていない」という自由の海に放り出され、溺れそうになっていた。

 今は違う。

 「してはいけないこと」と「すべきこと」が明確に提示されている。それはつまり、この枠の中にいる限り、自分の生存と居場所が完全に保障されるということだ。

 雨に濡れることもなく、飢えることもない。自分の機能を提供すれば、この安全な空間にいられる。

 それが、冬機にとっては何よりの安心材料だった。

 

 ルールを一通り説明し終えると、伊都はタブレットを取り出し、スケジュールの確認を始めた。

 冬機はそれを見ながら、これから自分が何をすべきか思考を巡らせていた。

 そのときだった。

 

「ところで」

 

 伊都がタブレットから視線を上げ、ふと思いついたように言った。

「何か、ほしいものはある?」

「……え?」

 予想外の問いに、冬機は聞き返した。

「ほしいものよ。衣服や生活用品は一通り揃えてあるけれど、個人的に必要なものや、好きなものがあれば言いなさい。経費で落とせる範囲なら用意するわ」

 好きなものを、言いなさい。

 

 冬機の思考回路が、ピタリと停止した。

 処理できなかった。

 「必要なもの」ならわかる。水、食料、安全な場所。それはすでに与えられた。

 だが、「ほしいもの」「好きなもの」と問われても、答えが見つからなかった。

 前世では、ほしいものはたくさんあった。新しいゲームソフト、読みたい漫画、かっこいい自転車。

 しかし、今の自分にそれが適用できるのか。

 そもそも、この一ヶ月、生き延びることだけで頭がいっぱいで、「何が好きか」などと考える余裕すら持ったことがなかった。

 自分が何を欲しているのか、何が好きなのかがわからない。

 「……好きなもの」

 冬機は呟きながら、視線を落とした。

 自分の身体を見る。白いシャツの下から覗く、銀灰色の装甲。

「そう。何でもいいわ。本でも、おもちゃでも」

 伊都が促す。彼女は、八歳の子供に対する一般的な回答を想定しているのだろう。

 冬機はしばらく考えた。

 今の自分にとって、意味のあるもの。自分のこの身体に、少しでも役に立つもの。

 そして、一つの答えに行き着いた。

 

「……潤滑オイルがほしいです」

「え?」

「背鰭の付け根と、膝の関節部分の動きが、少し引っかかる感じがするので。金属用の、できれば粘度の低い潤滑オイルがあると助かります」

 実用性だけを求めた、極めて機能的な回答だった。

 伊都は少し呆気にとられたような顔をした。おもちゃや菓子をねだる年齢の子供が、真顔で工業用オイルを要求してきたのだから無理もない。

 しかし、彼女はすぐに表情を戻し、手元のタブレットに何かを打ち込んだ。

「……わかったわ。用意しておく」

 理由は聞かれなかった。ただ、それだけだった。

 

 翌日の夕方、伊都が仕事から帰宅すると、リビングの机の上に小さな紙袋が置かれていた。

 「頼まれていたものよ」

 伊都はそう言って、自室へ着替えに入っていった。

 冬機は紙袋の中を覗き込んだ。

 中には、ノズル付きの小瓶が二つ入っていた。ラベルには、工業用の高精度潤滑油と書かれている。

 

 ──そういえば。

 

 前世では、誕生日やクリスマスにプレゼントをもらった。

 自分が欲しかったものが入っていたときの嬉しさ。色鮮やかな包装紙に包まれた箱を開けるときのワクワクした気持ち。

 今もらったのは、ただの茶色い紙袋と、無骨なオイルの瓶だ。

 嬉しいかどうかよりも先に、「使ってみよう」という実用的な気持ちが来た。

 冬機は自室に戻り、シャツを脱いだ。

 首の後ろに手を回し、背鰭と皮膚の接合部分に、オイルを数滴垂らす。

 ノズルを使って、肩や肘、膝の装甲の隙間にも丁寧にオイルを差していく。

 腕を回し、身体を捻ってみる。

 カチャリ、という微かな金属音とともに、関節の動きが驚くほど滑らかになった。つっかえが取れ、身体が軽くなったような錯覚すら覚える。

「よかった」

 ぽつりと、声に出していた。

 よかった。快適だ。

 それと同時に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。

 快適さから来る満足感だけではない。誰かから物を受け取るという行為そのものが、冬機の内側に微かな波紋を起こしたのだ。

 これが「嬉しい」という感情なのだろうか。

 前世でプレゼントをもらったときのような、飛び上がるような興奮ではない。もっと静かで、ささやかな温度。

 でも、それが嬉しいというものかもしれないと思った。

 

 冬機は、小瓶を机の上に丁寧に置いた。

 公安委員会という巨大な組織の末端。統道伊都という大人の管理下。

 決して普通の子供の生活とは言えない。

 それでも、ベッドがあり、温かい食事があり、自分の声を聞いてくれる人がいる。

 ここが、自分の新しい「居場所」だった。

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