美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~   作:月城 友麻

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119. 限りなくにぎやかな未来

 舌の上で、魚の旨味とシャリの甘味が溶け合った。

 

 中トロの脂が体温でとろりと溶けていく。舌を包み込むようなまろやかさ。その奥から、魚本来の旨味がじわりと広がっていく。シャリの酢飯がわずかな酸味を添え、全体を引き締める。口の中で全ての要素が溶け合い、一つの完璧な味覚を形成する。

 

 おほぉ……。

 

 リーシェは恍惚の表情を浮かべ、思わず宙を仰いだ。

 

 凄い――。火を通したら、この味は絶対に出ない。

 

 生だからこそ。素材のままだからこそ。余計なことをしないからこそ生まれる、究極の味。

 

「なにこれ……ありえないわ……」

 

 声が震えていた。美味しいという一言では足りなかった。これは味覚の革命だった。五千年間「生魚は野蛮」と教えられてきた常識が、一貫の寿司で木っ端微塵に砕かれた。

 

「ふふっ、これもうちの多様性よ?」

 

 美奈がドヤ顔でリーシェを見た。琥珀色の瞳が、先ほどの剣呑さとは打って変わって、誇らしげに輝いている。

 

「日本に来て……良かった……」

 

 リーシェは白身魚にも手を伸ばした。ひらめの透明な身を口に含んだ瞬間、淡泊だが奥深い旨味が舌の上でほどけていく。中トロの鮮烈さとは対照的な、静かな美味しさ。同じ「生の魚」なのに、全く違う味わい。

 

 うっとりとした。

 

 それに寿司は美味しいだけではなかった。

 

 美しいのだ。

 

 こんなにも小さな食べ物の中に、こんなにも多くの技術と美意識が詰まっている。シャリの握り加減。一貫に使う米粒の数。ネタの切り付けの角度。山葵のわずかな量。醤油の塗り方。温度。湿度。タイミング。一つ一つに、職人が何十年もかけて磨き上げた魂が宿っている。

 

 まさに芸術品だった。

 

 食べてしまえば消えていく美。繰り返せない美。一瞬だけ完璧に輝いて、舌の上で溶けて消える美。

 

 レテは残る美を追い求めてきた。完璧な旋律。完璧な建築。完璧な芸術。それらは確かに美しい。だが、食べたら消えてしまう食べ物には、ここまでの美を追求しようとまでは至らなかった。

 

 日本の寿司は、消えることを恐れない。

 

 それもまた、「多様性」だった。

 

 リーシェは銀座の寿司屋のカウンターで、静かに目を閉じた。

 

 口の中に、ひらめの余韻がまだ残っている。

 

 日本に来て、良かった。

 

 心の底から、そう思った。

 

 

      ◇

 

 

 レテの神殿――。

 

 始原の星は、何も変わっていなかった。

 

 鬱蒼とした原生林が丘を覆い、鳥が鳴き、風が木の葉を揺らしている。小高い丘の上に白亜の神殿が佇み、五万年の孤独を纏ったまま、静かに息をしている。

 

 その最奥、執務スペースで、カルヴィンは今日も本を読んでいた。

 

 丸い眼鏡。白髪交じりの髪。着古した神官服。使い込まれた机の上には茶器と、食べかけのビスケットの皿。壁にかかった暦は――何か月も前のまま。

 

 今日のカルヴィンは、本のページをめくる手が何度も止まっていた。

 

 同じ行を三度読んで、それでも内容が頭に入らない。目は文字を追っているが、心はここにない。

 

 リーシェのことを、考えていた。

 

 あの日、この神殿から宇宙を越えて飛び立った少女。レテの未来を一身に背負い、未知の世界へ飛び込んでいった、次期女神最有力候補。

 

 黒い瞳が、燃えていた。恐怖はあった。迷いもあった。だがそれ以上に、停滞した世界を変えたいという意志が、瞳の奥で燃えていた。「QAT借りてでも帰ってくるわ」と、強がりの笑みで突っ込んでいった。

 

 あれから、どれほどの時が経っただろう。

 

 QATの画面には何の変化もない。応答なし。信号なし。リーシェの消息を示すものは、何一つ返ってきていない。

 

 カルヴィンは本を閉じ、眼鏡を外し、目頭を押さえた。

 

「やはり……戻ってくることは無理だったかもしれんな……」

 

 深い、深いため息。

 

 五万年の管理者の血を引く男が、一人の少女の帰りを待ち続けている。あの少女に菓子をやった頃から、もう何年になるだろう。大きくなったな、と思ったのがつい昨日のことのようで。

 

 カルヴィンはため息の残りを吐き出し、再び本を開こうとした。

 

 その時だった。

 

 

 バシューーーッ!!

 

 

 轟音と共に、QATが勝手に起動した。

 

 絶対零度のタンクが唸りを上げ、端末の画面が青白く明滅する。神託の間から凄まじい光が漏れ出し、執務スペースの本棚が振動してビスケットの皿がカタカタと揺れた。

 

「な、なんじゃ!?」

 

 カルヴィンは椅子から飛び上がった。本が床に落ち、眼鏡が鼻からずり落ちる。

 

「こ、故障か?!」

 

 慌てて神託の間に駆け込むと、床の魔法陣が激しく輝き、タンクから白い靄がもうもうと噴き出していた。転送反応。QATが外部からの転送信号を受信し、自動起動したのだ。こんなことは前例がない。

 

 靄が、神託の間を満たしていく。白い靄が渦を巻き、その中心に人影が浮かび上がっていく。

 

「え……?」

 

 カルヴィンは息を止める。

 

 靄の中から――声が聞こえた。

 

「おじさま! ただいまぁ!」

 

 懐かしい声だった。

 

 あの声。あの響き。少し気怠くて、でもどこかに芯のある、あの声。

 

「ま、まさか……リーシェ?!」

 

 靄が晴れていく。白い霧の中から、一人の少女が姿を現した。

 

 黒い髪。黒い瞳。リーシェに間違いない。

 

 だが、服が違った。

 

 見たこともない奇妙な服を着こんでいる。黒い細身のズボンに、白い上衣、その上にカーキ色の羽織り物。足元は黒い厚底の靴。レテのどの文化にも存在しない、異世界のファッション。

 

 渋谷の古着屋で、ピンクの髪の店員に見立ててもらった服だった。

 

 リーシェは靄の中から一歩踏み出し、カルヴィンの顔を見上げて――にっと笑った。

 

 あの強がりの笑み。あの日と同じ。でも、どこか違う。あの時より少しだけ大人びて、少しだけ柔らかくなっている。

 

「帰ってきたわよ? 楽しかったわ。ふふっ」

 

 カルヴィンの丸い眼鏡の奥で、穏やかな目が大きく見開かれ――やがて、くしゃりと歪んだ。

 

「おじゃましまーす!」

 

 リーシェの後ろから、もう一つの声。靄の中から茶色い髪の青年が現れた。日焼けした顔に人懐こい笑みを浮かべ、きょろきょろと神殿の中を見回している。

 

「ほぇー、すごいところっすね。これが神殿かぁ……」

 

 トトはQATのタンクを見上げ、壁面の浮き彫りに目を丸くし、天井の高さに口を開けている。レテの白亜の神殿が放つ五万年の荘厳さに、素朴な感動を隠そうともしていなかった。

 

「リ、リーシェ……」

 

 カルヴィンはリーシェとトトを交互に見た。丸い眼鏡を押し上げ、白髪交じりの眉を上げ、口元がわなわなと震えている。

 

「彼氏連れ……なのか?」

 

「ち、違うわよ! 彼氏なんかじゃないわ!」

 

 リーシェは真っ赤になって否定する。

 

 耳の先まで赤い。銀座の寿司屋で見せたのと全く同じ赤さ。宇宙を渡ろうが、月を収納しようが、この話題だけは冷静でいられないらしい。

 

「専属のコック! ただの料理人よ!」

 

 口を尖らせて、プイッとそっぽを向いた。

 

「まだコックです! ぬははは」

 

 トトは楽しそうに笑った。頭を掻いて、いつものように。

 

「まだ?」

 

 カルヴィンの目が光った。「まだ」の二文字が持つ含みを、一瞬で見抜いたのだ。

 

「それはそれは……。ふははは」

 

 カルヴィンは声を上げて笑った。穏やかで、温かい笑い。あの渋い顔が崩れ、目尻が下がり、白髪交じりの眉が跳ね上がっている。

 

「そんなことより、忙しくなるわよ? まずは報告会を盛大にやるんだから!」

 

「ほう、かなりの収穫があったようじゃな」

 

 カルヴィンは渋谷のファッションをまじまじと眺めながらうなずいた。

 

「いやもう大漁だわ。おじさまも手伝ってくださる?」

 

「そりゃぁもちろん! 今から楽しみじゃ。ほっほっほ」

 

 カルヴィンは楽しそうに笑った。

 

 リーシェが宇宙を越えて帰ってきた。強がりの笑みと、真っ赤な顔と、奇妙な服と、「まだ」コックの青年を連れて。

 

 帰ってきたのだ。

 

 この子は、ちゃんと帰ってきた。

 

 カルヴィンの笑い声が、白亜の神殿に響き渡った。五万年の静寂を破って、温かな笑い声が、円柱の間を駆け抜けていく。

 

 あの日、リーシェの足音が破った静寂を、今度はカルヴィンの笑い声が破っていた。

 

 始原の星の原生林で、鳥たちが一斉に鳴き始めた。

 

 まるで、この美しい少女の帰還を祝うように――。

 

 

 

 

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