美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~ 作:月城 友麻
リーシェは治安局の壁に開けた穴をくぐり、外に出ると、振り返って右手を壁に向けた。
「出ろ」
消した壁が、元通りに出現した。四角い穴が塞がり、白い石壁が修復される。
――痕跡はゼロ。のはず。
壁は元通り。守衛も元通り。牢の鉄格子も元通り。トトがいないことを除けば、治安局の内部には何の変化もない。
リーシェは壁に背をつけ、夕空を見上げた。
茜色が薄れかけた空に、作り物めいた月が白くぼんやりと浮かんでいる。まだ明るい。だが、長くはない。
もう宿には戻れない。
治安局にマークされ、すでに調査員が入ってしまっているだろう。
大将には迷惑をかけてしまった。落ち着いたらちゃんとツケ含めて補償をしなくては――。
さて――どうしよう?
どこへ行けばいいの?
リーシェは小さくため息をついた。ふぅという音が夕暮れの空気に溶けていく。
収納空間の中で、トトが眠っている。傷ついた身体のまま、時を止められて。あの人を安全な場所に出してやらなければならない。傷の手当てをしなければ。温かい場所で、横にならせてやらなければ。
だが「安全な場所」が、今のリーシェにはどこにもなかった。
こんなことギルドにだって相談できないのだ。
くぅぅぅ……。
――まだ明るいうちに、夜露を
どっちにしても街にはいられないわ。
リーシェは壁から背を離し、駆け出した。
頭の中はトトのことでいっぱいだった。あの腫れ上がった顔。裂けた唇。それでも「秘密は守りました」と笑った、あの血まみれの笑顔。
だから――気づかなかった。
修復した壁が、ほんの一センチほど
元の石壁の目地と、復元された石壁の目地が、微妙に噛み合っていない。日中なら見過ごす程度の、ごくわずかな痕跡。けれどそれは確かに、「ここに穴が開けられた」という動かぬ証拠だった。
夕暮れの路地を、黒髪の少女が駆けていく。
茜色の残照が石畳を染め、リーシェの長い影が建物の壁を這うように伸びていた。収納空間の中にトトの温もりを抱えて。右手の震えを握りしめて。行くあてもないまま、ただ一つの願いだけを胸に。
――トトを、安全な場所へ。
それだけを考えて、リーシェは走った。
◇
しばらくして――。
狩人は治安局の地下牢を訪れた。
日課のようなものだった。トトの様子を見て
地下への階段を降りる。守衛に軽く頷き、鉄格子の通路を進む。
突き当たりの牢の前で、足が止まった。
空だった。
冷たい石の床に、乾いた血の痕が残っている。だが、トトの姿はどこにもない。
鉄格子の扉は閉まっている。鍵もかかっている。外から見る限り、何一つ異常はない。
なのに、中は空だ。
狩人は無言で牢の中を見回した。
窓はない。床にも壁にも穴はない。通気口すら人が通れる大きさではない。鉄格子は歪んでおらず、錠前にも
物理的に、ここから出る方法が存在しない。
にもかかわらず、囚人が消えた。
狩人はゆっくりと口元を歪めた。
笑っていた。
いやらしく、冷たく、獲物の足跡を見つけた狩人だけが浮かべる種類の笑み。
「……来たか」
低い声が、空の牢に落ちた。
右手の甲に刻んだ
鉄格子の向こうの空っぽの牢を見つめながら、狩人は外套の襟を正した。
「痕跡を残さず、鍵を開けず、守衛にも気づかせず……囚人だけを消す」
それは脱獄とかそんな既存の概念では説明のつかない、もっと根本的な「消失」。
「――面白い。実に、面白い」
くっくっく……と、喉の奥で笑いが弾けた。
闇の中で、狩人の目だけが鋭く光っていた。
牢の床に残された乾いた血痕。その上に、カモミールの花弁が落ちていた。
狩人はそれを拾い上げ、鼻先に近づける。甘い香りが、黴と鉄錆の匂いに混じって微かに漂う。
「……カモミール、か」
こんなエレガントな奪還を図れる少女……最高の獲物じゃないか!
狩人は外套の内側に手を入れ、小さな水晶盤を取り出した。
水晶盤の表面に、淡い光の点が一つ、灯っていた。
点は、ゆっくりと移動している。南東の方角へ。街の外れに向かって。
「連れて行ってくれよ、料理人」
狩人は水晶盤を外套にしまい、踵を返した。
「お前の大切な『攻略者』のところへ、な」
急ぐ必要はない。獲物は逃げられない。どこへ行っても、刻印が導いてくれる。
むしろ泳がせた方がいい。泳がせて、力の全容を見極める。そして、最も効果的な瞬間に――網を投じる。
「くっくっく……はぁっはっはっは!」
狩人の笑い声が、石の廊下に響きわたった。
地下牢には再び、静寂が戻る。
空になった牢の石床の上で、カモミールの花弁だけが薄い灯りに照らされ、小さな白い光を放っていた。