美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~   作:月城 友麻

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35. 朽ちかけた小屋

 リーシェは駆ける――。

 

 足は自然と、人通りの少ない方角へ向かっていた。

 

 大通りを避け、裏路地を縫うように走る。やがて石畳が途切れ、足元が硬い土に変わった。

 

 倉庫街だ。

 

 王都を取り囲む巨大な円形城壁の内周に沿って、灰色の倉庫が隙間なく並んでいる。昼間は荷馬車と人夫で溢れかえるこの一帯も、日が暮れると嘘のように静まり返る。物流の大動脈(だいどうみゃく)は、夜には王都で最も人の気配が薄い場所になるのだ。

 

 見回りの兵士も、ここでは手薄になる。盗むほどの価値がある荷はとうに蔵の奥に仕舞われているし、夜の倉庫街を好んで歩くのは野良猫くらいのものだった。

 

 リーシェは倉庫と倉庫の隙間を抜け、城壁の根元にたどり着いた。

 

 はぁはぁと荒い息をつきながら見上げる。

 

 灰色の石壁が、黄昏の空を断ち切るように(そび)えている。こんな城壁を突破することは不可能だ。普通の人間にとっては――。

 

「……ナイナイ」

 

 小さな声。可愛らしいとすら言える、気怠い掛け声。

 

 城壁の一部が、音もなく消えた。

 

 人ひとりが屈んで通れるほどの穴が、分厚い石壁を貫通して向こう側の景色を覗かせている。夕闇に沈みかけた空と、その下に広がる暗い大地。

 

 リーシェは身を屈めて穴をくぐった。冷たい石の感触が肩を擦り、一瞬だけ闇に包まれる。そして――。

 

 風が、変わった。

 

 街の中の人いきれの匂いが消えて、代わりに土と青草の匂いが鼻腔を満たす。

 

 城壁の外に出たリーシェの目の前に広がっていたのは、月明かりに照らされた一面の麦畑だった。

 

 風が吹くたびに、まだ若い麦の海が大きくうねり、波のように揺れる。ざわざわ、ざわざわ、と。途切れることのない、柔らかな音。

 

 リーシェは足を止めた。

 

 ほんの数秒だけ、その音に耳を傾けた。

 

 風の音。麦の擦れる音。どこかで鳴く虫の声。

 

 それは街の喧騒とは違う。世界が、ただそこに在るだけの音。

 

 誰も傷つけず、誰にも傷つけられない、自然という名の安全地帯。

 

 リーシェの強張っていた肩が、ほんのわずかに下がった。

 

 ――少しだけ、楽だ。

 

 振り返り、城壁の穴を塞ぐ。これでもう追っては来れないだろう。

 

 リーシェはふぅと大きく息をついた。

 

 

       ◇

 

 

 麦畑の中を歩いた。

 

 穂先が腰のあたりを擦り、さわさわと囁くような音を立てる。月明かりは思いのほか明るく、足元の畝は見分けがつく。だが遠くの景色は淡い銀色の靄に沈んで、どこまでが畑でどこからが空なのか、その境界が曖昧だった。

 

 しばらく歩くと、麦畑の端に黒い影が見えた。

 

 小屋だ。

 

 朽ちかけた木造の小屋。収穫期に農夫たちが寝泊まりするために建てたのだろう。壁板は隙間だらけで、屋根の一部は苔に覆われている。扉は蝶番が錆びて半ば歪んでいたが、鍵はかかっていなかった。

 

 贅沢は言えない。夜露をしのげればまた明日につながるのだ。

 

「お邪魔します……。どなたかいますか?」

 

 声をかけながらそろそろとリーシェは中に入った。

 

 返事などない。

 

 干し草と麦藁の匂い。埃っぽいが、野宿よりはましだ。

 

 魔法のランプを取り出し、仄かな灯りをともすと中を照らしてみる。

 

 隅に古い麻袋が積まれ、壁には錆びた農具が数本掛かっている。

 

 隅の方には屋根裏へ続く梯子が見えた。

 

 登ってみると――屋根裏は狭かったが、板張りの床は思ったよりしっかりしていた。積み上げられた干し草が天然の寝床になっている。そして何より――壁の高い位置に小窓があった。そこから外の麦畑が一望できる。

 

 隠れながら、外を見張れる。

 

 ――ここにしよう。

 

 リーシェは干し草の上に座り込んだ。埃が舞い上がり、月明かりの中できらきらと光る。

 

 深呼吸を一つ。

 

 そして、慎重に右手を持ち上げた。

 

「……出て」

 

 光が淡く弾けて、トトの身体が干し草の上に現れた。

 

 丸まったままの姿勢。腫れ上がった顔。泥と血に汚れた服。収納空間の中で時間が凍結されていたから、傷の状態は地下牢で見た時のまま変わっていない。

 

 だが、収納から出た瞬間、時は再び動き出す。

 

「ぅ……っ、ゴホッ、ゴホッ……!」

 

 トトが咳き込んだ。身体を丸め、肋骨を押さえる。咳のたびに顔が歪み、腫れた目の端から涙が滲む。

 

「ぐっ……いっ、てぇ……」

 

「動かないで」

 

 リーシェはトトの傍にしゃがみ、その肩にそっと手を添えた。いつもの無表情。だが、その手つきはガラス細工に触れるように慎重だった。

 

「……肋骨が折れてるかも。深く息をして」

 

「はい……ぐっ……ちょっと……胸がキツいっす……すみません」

 

「謝らないで」

 

 リーシェは空中に画面を開くとアイテム一覧を眺める――。

 

 あの日。パーティを追放された日に返し損ねたもの。ガルドのパーティにいた頃の名残が、収納空間の片隅にまだ残っている。

 

「あった。良かった……」

 

 手をかざすと、小さなガラス瓶が現れた。

 

 回復ポーション。ラベルはくすんだギルド規格の安物。返すつもりだったが、そのままになっていた。

 

 

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