美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~   作:月城 友麻

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59. 魔王ゼノヴィアス

 その騒乱の渦から遠く離れた場所で、笑っている男がいた。

 

 王都から千キロ以上。人間の領域が終わり、魔の森の奥――瘴気に満ちた暗黒の大地の中心に、漆黒の城塞がそびえている。

 

 魔王城。

 

 その最上階、玉座の間。

 

 窓のない広大な空間を、無数の魔法灯が青白い光で照らしている。壁には大陸の地図が彫り込まれ、人間の領域と魔族の領域を分ける境界線が、赤い線で刻まれていた。玉座は黒曜石を削り出した巨大な椅子で、そこに一人の男が腰掛けている。

 

 長身。銀の髪。切れ長の碧眼。一見すれば人間の貴族のようにも見えるが、その瞳の奥に灯る光は、人間のそれではなかった。冷たく、深く、底が見えない。五百年の歳月を生きた者だけが持つ、途方もない虚無と野心が同居した目。

 

 魔王ゼノヴィアス。

 

 大陸の半分を支配し、人類を喰らい尽くそうとする魔王軍の頂点。数百万の魔物を統べ、数千年続く戦争をさらに激化させてきた人類最大の脅威。

 

 その手に、一枚の報告書が握られていた。

 

 水晶球に映し出された映像の残像が、まだ玉座の間に漂っている。王宮を単身で突破する黒髪の少女。右手を伸ばすだけで兵士が消える光景。

 

 ゼノヴィアスは報告書を指先でパチンとはじき、口元を歪めた。

 

「ほう?」

 

 低い声が、広大な玉座の間に響き。魔法灯の輝きがちらちらと揺れる。

 

「面白い」

 

 銀の髪の隙間から覗く碧眼が、愉悦に細められた。

 

「この少女が、覇権の鍵になる……」

 

 五百年間、慎重に、緻密に、一歩ずつ版図を広げてきた男の目が、久しぶりに輝いていた。

 

 それは脅威であると同時に、千載一遇の好機でもあった。

 

「間違いない」

 

 ゼノヴィアスは立ち上がった。

 

 黒い長衣の裾が床を掃き、銀の髪が揺れる。壁面に彫られた大陸の地図を、碧眼が見つめた。人間の領域と魔族の領域を分ける赤い線。五百年かけて少しずつ押し広げてきた、その境界線。

 

 境界線の人間側に、一つの点がある。王都。

 

 そこに、世界の均衡を壊し得る少女がいる。

 

 ゼノヴィアスの口元が、三日月のように歪んだ。

 

「どんな声で――鳴くのかな……。くっくっく……」

 

 『ただ静かに暮らしたい』――そう願うだけの少女が今、大陸全土を揺るがしていた。

 

 

         ◇

 

 

 リーシェが月桂樹亭の中に入った時、最初に目に入ったのは、壁に残った爪痕だった。

 

 あの夜、リーシェの精神が決壊し、収納空間から溢れ出した魔物たちが暴れた痕跡。階段の下の柱にはゴブリンの爪で抉られた傷。吹き抜けの天井からは大蜘蛛の糸の残りがぶら下がっていた。

 

 その壁に梯子をかけ、傷んだ板を剥がしている大きな背中があった。

 

 大将のゲオルグだった。

 

 革の前掛けをつけ、日に焼けた太い腕で金槌を振るっている。額に汗が光り、口には釘を咥えていた。

 

「大将、すんません!」

 

 トトが小走りで駆け寄り、頭を下げた。深々と。腰が直角に折れるほどに。

 

 ゲオルグは金槌を止め、口から釘を出して、トトを見下ろし――リーシェを見た。

 

 リーシェは、真っ直ぐにゲオルグを見上げた。

 

「ゲオルグさん! 今回のことは、全て私の責任です。ご迷惑をおかけしました」

 

 頭を下げた。いつもの気怠い態度ではなく、きちんと。背筋を伸ばしてから、深く。

 

「王国から補償が出ることになりました。修繕費と、営業損失の分です」

 

 ゲオルグはしばらく黙っていた。

 

 金槌を梯子の段にかけ、額の汗を腕で拭い、二人を交互に見た。

 

 その目は、怒ってはいなかった。悲しんでもいなかった。ただ、困っていた。

 

「……あぁ、そう。補償はありがたいよ」

 

 ゲオルグは言った。低い、太い声。

 

「でもね」

 

 ゲオルグは視線を落とし、爪痕の残った壁板を撫でた。

 

「悪いけど、もう出ていってくれないか。うちも客商売なんでね……」

 

 その声に、悪意はなかった。

 

 ただ、事実を述べているだけだった。化け物じみた魔物が宿の中を走り回り、客が怯えて逃げ出し、壁が壊れ、食器が割れた。そんな宿に、もう客は来ない。リーシェとトトがいる限り、月桂樹亭の評判は戻らない。

 

 ゲオルグは頭を下げた。元冒険者の大きな身体が、申し訳なさそうに縮こまる。

 

「あんたたちが悪いわけじゃないのはわかってる。でも……すまねぇな」

 

「……わかりました」

 

 トトの声が、掠れた。

 

 月桂樹亭は、トトが冒険者の夢を追いながら働いてきた場所だった。厨房に立ち、賄いを作り、リーシェに初めて「味のわかる」料理を食べさせた場所。この宿があったから、二人は出会えた。

 

 その場所を、失う。

 

 トトは何かを言いかけて、口を噤んだ。唇を噛み、ぐっとこらえた顔。涙は出ていない。出すまいとしている目。

 

 リーシェはトトの背中にそっと手を添えた。何も言わなかった。ただ、触れただけ。

 

 多分こうなると思っていたし、もし、『居ていいよ』と言われたとしても出ていくつもりではいた。それでも実際出ていくとなると、心臓をつかまれたような苦しさがこみあげてくる。

 

 

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