美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~   作:月城 友麻

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60. 公爵家の別荘

『じゃあ、うちの別荘においでよ』

 

 沈黙を破ったのは、リリカの声だった。眠っていたはずなのに、いつの間にか起きている。その声は、いつものおちゃらけた調子ではなく、どこか優しかった。

 

「え?」

 

『うちは腐っても公爵家だからね。あちこち無駄に不動産持ってんのよ。キャハッ!』

 

「それは……助かるわ」

 

『いいってことよ。リカルド商会の上、四階ね』

 

「えっ? あそこなの? 一等地じゃない……」

 

 リカルド商会と言えば、王都の目抜き通りに面した一等商業地だ。その上階に、アステリア公爵家の別荘がある。

 

『まぁ、使い道が決まらないまま浮いてんのよ。しばらくそこにいるといいわ。広いし、静かだし、大きなキッチンもあるから料理人くんも腕を振るえるんじゃない?』

 

「……ありがとう」

 

 リーシェは小さく呟いた。いつもの気怠さではなく感謝の念が込められている。

 

 リーシェはトトに別荘の話を伝えた。トトの目に明るさがもどる。大きなキッチンがあると聞いた瞬間に。料理人はどんな状況でも厨房の話になると瞳が輝くのだ。

 

「公爵家の別荘なんて夢みたいっす!」

 

「リリカには感謝だわ……。トトは荷物をまとめるの大変でしょ? 私はすぐに終わるから先に行ってるわ」

 

「はいっす。じゃ、後で向かいます!」

 

 トトは小走りで駆けていった。

 

 

         ◇

 

 

 二階の自室に戻ったリーシェ。

 

 小さな部屋だった。ベッドと机と椅子。窓辺にはカモミールの乾燥花が入った瓶。トトが置いてくれたもの。

 

 リーシェは瓶を手に取り、蓋を開けた。甘い香りが、微かに鼻腔をくすぐる。薄い。もうほとんど香りが飛んでしまっている。それでも、この瓶にはとても助けられた。

 

 瓶を優しく収納空間にしまう。

 

 荷物は少なかった。

 

 替えの服がすこし。洗面用具などの日用品。それくらいだ。記憶喪失で目覚めた時、何も持っていなかった。一年経っても、持ち物はほとんど増えていない。

 

 一年。

 

 その多くをこの狭い部屋で暮らしてきた。

 

 安物のベッドで眠り、窓から作り物みたいな月を眺め、何もわからないまま。自分が何者かもわからないまま。ただ、静かに生きていた。

 

 だが、トトに出会って少しずつ生活に色が加わってくる。

 

 リーシェは部屋を見回した。

 

 壁のシミ。床板の軋み。窓の(さん)に溜まった埃。全部、見慣れた景色だ。愛着があるかと問われれば、たぶん、ない。この世界の全てがそうであるように、この部屋もリーシェにとっては「砂の味」のする場所だった。

 

 でも。

 

 ここの食堂で初めてトトのシチューを食べた夜のことは、覚えている。視界が白く弾けて、懐かしい温もりが胸に広がった、あの瞬間。その晩、温かい気持ちを抱えてここの壁のシミを眺めていたのは、なぜか忘れられない。

 

 トトが「部屋でも香りがあった方がいいっすよ」と言って、窓辺に瓶を置いてくれた夜のことも。

 

 ここで、この世界に来て初めて、「味方」と呼べる人間ができた。

 

 それがギリギリのところで、この作り物のような世界にリーシェをつなぎとめている。

 

 リーシェは机と椅子を元の位置に戻し、ベッドのシーツを整えた。箒を借りてきて、床を掃き。窓を開けて空気を入れ替え、(さん)の埃を拭く――。

 

 最後に、部屋を出ていくとき、ふと振り返った。

 

 何もない部屋。最初と同じ、何もない部屋。

 

 リーシェは部屋に向かって一礼した。

 

 深く。静かに。誰に見せるためでもない、ただ自分のための礼。

 

 リーシェは扉を閉め、階段を降りる。

 

 一階のカウンターで、ゲオルグが手を止めてこちらを見ていた。何か言いかけて、やめた顔。リーシェは軽く頭を下げ、ゲオルグは無言で頷いた。

 

 月桂樹亭の扉が、背中で閉まった。

 

 夕日が石畳に影を落としている。

 

 リーシェは振り返り、看板を見上げた。月桂樹の葉を模した、色褪せた木の看板。

 

 ぺこりと頭を下げる。

 

「……お世話になりました」

 

 小さな声が、風に吸い込まれて消えた。

 

 リーシェは前を向き、歩き出す。

 

 新しい居場所へ。ようやくたどり着いた静かな暮らしを感じるために。

 

 夕方の風が、リーシェの黒髪を優しく揺らしていた。

 

 

       ◇

 

 

 リカルド商会の四階。

 

 アステリア公爵家の別荘は、リーシェの想像を遥かに超えていた。

 

 重厚な樫の扉を開けた先に広がっていたのは、天井の高い広々とした空間だった。磨き上げられた寄木張りの床。窓辺に垂れる深紅のカーテン。壁には油彩の風景画が掛けられ、暖炉の上には銀の燭台が並んでいる。応接間にはふかふかのソファが、硝子のテーブルを囲むように配置され、奥にはダイニングとキッチン、さらにその先にベッドルームが三室。

 

 公爵家の別荘というだけあって、調度品の一つ一つが目を疑うほど豪奢だった。暖炉の縁飾(ふちかざ)りには金の唐草模様。ソファの張り地は最高級の絹織。窓の外には王都の街並みが一望でき、遠くに王宮の尖塔が夕方の光に輝いている。

 

 

 

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