美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~ 作:月城 友麻
重い。重い。重い。
精神の底が
城一つ分の質量。その中にいた全ての存在。魔王も、兵士も、使用人も、石壁も、尖塔も。それら全てが一度に収納空間に流れ込み、精神の堤防を内側から押し上げている。今にも蓋が弾け飛びそうだった。
「深呼吸! 深呼吸して!」
リリカが小さな手で背中をさすりながら叫んでいる。
リーシェは歯を食いしばった。意識の奥底で、収納空間がごうごうと唸りを上げている。無数の魔族たちの気配が――人間とは異質な、冷たく鋭い生命の波動が――精神の堤防を叩いている。あの夜、魔物が溢れ出した時よりも遥かに重い。遥かに深い。
――持ちこたえなきゃ。
深く、深く息を吸った。
カモミールの香りはない。ここは魔王の領域だ。甘い香りなど、どこにもない。吸い込んだ空気は瘴気を含んで重く、肺の奥がひりつく。
だが――背中のリリカの手が温かい。
生きた人間の温もり。小さな手のひらが、円を描くようにリーシェの背中をさすり続けている。その温もりが、精神の水面にわずかな凪をもたらしていく。
その温もりだけを頼りに、リーシェはゆっくりと、精神の蓋を押し戻していった。
一ミリ。また一ミリ。唸りが少しずつ遠のいていく。堤防の軋みが和らいでいく。
しばらく動けなかった。
夕陽がいよいよ沈んでいく。空が茜色に変わっていく。その間ずっと、リリカが肩を支えてくれていた。何も言わずに。急かすこともなく。ただ、そばにいて。
やがて、リーシェは大きく息をついた。
長い、長い吐息。全身の強張りが、少しだけほどけていく。
「もう……大丈夫。ありがとう……」
「ふぅ、良かったわ……」
リリカもため息をつき、優しく微笑んだ。その微笑みには安堵が滲んでいた。緋色の瞳がわずかに潤んでいるのは、夕陽のせいだけではないだろう。
期せずして、二人の活躍で人類の存亡にかかわる脅威は消失してしまっていた。
数千年間にわたる人類と魔王軍の戦い。幾つもの国が滅び、無数の命が散った、終わりの見えない長い長い戦争。それに、たった今、一瞬で終止符が打たれたのだ。魔王城という心臓を失った魔王軍は、もはや組織として機能しない。大陸の半分を支配していた暴力装置が、十八歳の少女の右手一つで消え去った。
だが、当の二人にはその実感などなかった。
リーシェにとっては、トトを救い出すために城を消しただけだ。リリカにとっては、手枷を壊して友人を助けただけだ。人類の存亡だの、歴史の転換点だの、そんな大袈裟なことは考えてもいない。降りかかる火の粉を払っただけ。ただ、それだけのことだった。
「私たちって、いいコンビじゃないかしら? ふふっ」
リリカが杖を肩に担ぎ、嬉しそうに笑った。緋色の瞳がきらきらと輝いている。
「ぜーんぜん」
リーシェは肩をすくめた。
「えーーっ! 何よそれぇ!?」
リリカが頬を膨らませる。
「でも……」
リーシェはそっぽを向いたまま、ぼそっと言った。
「ありがとう、リリカ」
夕風が、二人の間を通り抜けた。
「え? 今なんて? もう一回言って?」
「一回しか言わないわ」
「えーーっ!」
「一回言えば十分だわ……」
「何よケチ!」
「ふふっ」「はははっ」
二人は顔を見合わせて笑った。
夕日が、二人の影を長く長く伸ばしている。城があった場所はただの更地で、その広大な空白の上に、二つの影が寄り添うように並んでいた。
◇
「……出ろ」
トトが現れた。
右手にフォークを握り、その先に肉の塊を刺したまま、もぐもぐと口を動かしている。頬袋がいっぱいに膨らんでいる。
「んぐ……あれ? 姐さん? あれ? 一体何が……?」
きょとんとした顔で辺りを見回すトト。城の応接室で食事をしていたはずが、気がつけばがらんどうの広場を目の前に立っている。
「何アンタ美味しそうなもの食べてんのよ!」
リリカがぱしっとトトの後頭部を叩いた。
「いてっ! 何すんすか!」
「こっちがどれだけ大変だったと思ってんの! リーシェなんか壊れかけたのよ!?」
「え、姐さん大丈夫っすか!?」
トトが慌てて振り返った。
その瞬間、リーシェがトトに抱きついた。
「あ……姐さん……?」
フォークが、ぽとりと地面に落ちた。肉がころんと転がっていく。
リーシェの腕がトトの背中に回された。細い腕。まだ震えが残っている。顔はトトの胸に押しつけられていて、表情は見えない。黒い髪が風に揺れ、トトのシャツにかかっている。
「巻き込んじゃって……ごめんなさい」
声が、小さかった。
いつもの気怠い声ではない。タルいと呟く無感情な声でもない。壊れそうな、硝子のような声。触れたら砕けてしまいそうな、そんな声だった。
「姐さん……」
トトは動けなかった。
胸に感じるリーシェの温もり。腕の震え。かすかに湿った吐息がシャツ越しに伝わってくる。