忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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序章
第一話:虚構の朝、あるいは約束の残響


 窓の外は、静かな青に満ちていた。

 遮光カーテンの隙間から差し込む陽光が、寝室の床に一筋の道を作っている。私はゆっくりと身を起こし、まだ熱を持った身体をひきずりながら姿見の前に立った。

 

 鏡の中には、肩まで伸びた黒髪を乱した一人の少女がいた。熱のせいで少し潤んだ青い瞳が、ぼんやりと私を突き返してくる。

 私はブラシを手に取り、丁寧に一房ずつ寝癖を直していった。髪が整うにつれて、ぼやけていた意識の輪郭がはっきりとしてくる。

 

 ふと、視界の隅に四角いシルエットが映り込んだ。

 

 部屋の特等席、陽光を避けるように置かれたヴァイオリンケース。

 私は鏡から目を逸らし、吸い寄せられるようにそのケースへ指を伸ばした。

 ひんやりとした表面の感触が、掌を通じて心臓を叩く。ケースを開ければ、そこには完璧に調律された、私の分身が横たわっていた。

 

 琥珀色の木肌は、この薄暗い部屋の中でも鈍い光を放っている。

 私はヴァイオリンを手に取り、顎当てに頬を寄せた。松脂の香りが鼻腔をくすぐり、弓を弦に置く。

 

 響いたのは、透明な一音。

 静寂を切り裂くようなその旋律は、私の肺に残る熱い空気を、音楽へと変えて外の世界へ解き放ってくれる。一曲弾き終える頃には、部屋の空気は私の音で満たされ、重たかった頭も少しだけ軽くなったような気がした。

 

「素晴らしい演奏ですわ。やっぱり、あなたの音は綺麗ね。どんな想いがあっても、歪まない」

 

 背後から届いた、凛とした鈴の鳴るような声。

 振り返ると、そこには私の自慢の姉──豊川祥子が立っていた。

 

「姉様……」

 

 彼女は静かな、衣擦れの音さえ立てない優雅な足取りで私に歩み寄った。伸ばした白くて節の通った綺麗な手が、私の額をそっと覆う。ひんやりとした掌の温度が、火照った皮膚に染み渡り、心地よくて、けれど触れれば消えてしまいそうなほど切ない。

 

「まだ少し、熱がありますわね。昨日は一日中寝込んでいたのですから。あまり無理をしてはいけませんわ」

 

 その声には、厳格さの裏に隠しきれない慈愛が滲んでいた。私がこの身体に鞭打ってまで無理をする理由を、彼女は誰よりも、痛いほどに知っている。

 

「大丈夫だよ、姉様。今日はコンクールの本選だから、少しだけでも指を慣らしておかないと……」

 

 私はヴァイオリンのネックを強く握りしめ、胸の内に巣食う不安を押し殺すように祥子の琥珀のような色の瞳を見つめた。

 

 彼女はふっと表情を和らげると、私の手からヴァイオリンを優しく取り上げ、丁寧にケースへと収めた。

 

「焦ってはいけませんわ、ハル。音楽は逃げたりいたしません。本番までまだ時間はありますし。少し、外の空気を吸いに行きましょう」

 

「でも、練習をしないと……」

 

「今の貴女に必要なのは、音を重ねることではなく、心を静めることですわ」

 

 有無を言わせぬ優雅な動作で私の手を取り、部屋の外へと誘った。

 

 長い回廊を抜け、重厚な扉を開くと、そこには鮮やかな緑が広がる中庭があった。手入れの行き届いたバラの香りが、朝露を含んだ冷ややかな空気と共に鼻腔をくすぐる。

 

 私たちは、白い石畳の道をゆっくりと並んで歩いた。私の少しおぼつかない足取りに、さりげない動作で支えてくれる。

 

「見てごらんなさい、ハル。あそこの噴水、陽の光を受けて小さな虹が架かっていますわ」

 

 視線の先では、水飛沫が宝石のようにキラキラと輝いていた。

 私はその光景を眩しく見つめた。彼女と一緒にいると、この閉ざされた屋敷の世界さえも、どこか神聖で、選ばれた者だけが享受できる楽園のように思えてくる。

 

「綺麗……。でも、虹はすぐに消えてしまうわ」

 

「ええ。だからこそ、今この瞬間を心に刻むのですわ。音楽も同じ。消えてしまうからこそ、尊いのです」

 

「姉様。もし、今日失敗してしまったら……」

 

 ふいに零れ落ちた弱音に、ピタリと足を止めると、愛おしむように私の両頬を包み込んだ。

 

「ハル。また悪い癖が出ていますわ。貴女は昔から、先に悪い事ばかり考えますわ」

 

 祥子は、いたずらを見つけた子供を見るような、慈しみに満ちた瞳で私を見つめた。

 

「私が愛しているのは、コンクールの賞状を手にする貴女ではなく、誰よりも真摯に音楽に向き合う『ハル』という一人の少女ですわ。だから、恐れることは何もないわ。貴女が奏でる全ての音が、私の誇りなのですから」

 

 その言葉は、冷え切った私の心臓に直接注がれる温かな雫のようだった。姉様に肯定されるだけで、世界から色が失われないような気がする。私が私であっていいのだと、許されたような心地になる。

 

「ありがとう。姉様。もちろん、今日のコンクールも見に来てくれるよね?」

 

 私は、期待と不安が混ざり合った視線を祥子に向けた。もし、客席に彼女の姿があれば、どんなに心強いだろう。私の音は空を突き抜け、もっと遠くまで届くはず。

 

 指先が一瞬、止まった。その瞳に一筋の影が差すのを私は見逃さなかった。

 

「……ごめんなさい、ハル。今日は、どうしても外せない約束が……」

 

「約束……?」

 

「ええ。以前、話をした『CRYCHIC』のライブがありますの」

 

 申し訳なさに眉をひそめながらも、その名前を口にした瞬間の声には、隠しようのない情熱の火が宿っていた。

 

 最愛の母を亡くし、世界から色が消えたようだった祥子を、もう一度光の中へと連れ戻してくれた特別な場所。幼馴染の睦や、新しく出会った友達の燈たちと作り上げた、彼女にとっての「新しい居場所」。

 

 私は、その温かな居場所を奪うことなんて、到底できなかった。むしろ、応援していた。

 

「……そうなんだ。うん、それなら仕方ないね。姉様の大切な場所だからね」

 

 私は無理に笑顔を作った。胸の奥に小さな棘が刺さったような気がしたけれど、それを彼女に悟られてはいけない。

 

 彼女は自分の首筋に手を伸ばした。その指先にかかったのは、一本のシルバーネックレス。それは、去年の誕生日に、私がなけなしのお小遣いをはたいて彼女に贈ったものだった。

 

「姉様、それは……」

 

「貴女がくれたこの温もりが、今の私を支えてくれていますわ。だから、今日はこれを貴女に私の魂の半分だと思って」

 

 ネックレスを外すと、私の背後に回り、そっと私の首にそれをかけた。ひんやりとした金属の感触が肌に触れ、続いて祥子の指先の体温が伝わってくる。

 

「これは、私の身代わりですわ。貴女が舞台に立つ時、このネックレスが私の心の鼓動を伝えてくれるはずよ。……ハル、貴女は一人ではありませんわ」

 

 鏡を見るまでもなく、胸元で揺れる小さな輝きが私に勇気をくれた。姉様の大切な時間が別の場所に向けられていても、この欠片が私に「繋がっている」と囁いてくれる。

 

 彼女の背中越しに吹いた風が、中庭のバラの香りを運んできた。私は首元のネックレスをそっと握りしめ、深く頷いた。

 

「さぁ、そろそろ戻りますわよ」

 

 屋敷の方へ優雅に翻ったその時、私はたまらず彼女の服の裾を掴んでいた。

 

「姉様! 私……いつか、一度だけでいいから。CRYCHICのみんなと一緒に演奏したい。お姉様の横で弾くのが、私の夢だから……迷惑かな?」

 

 幼い頃から、常にその背中を追い、影をトレースするように音を重ねてきた。

 けれど今、私は願わずにはいられない。いつか、彼女の“後ろ”ではなく、“等身大のパートナー”として、同じ光の中に立ちたいと。

 

 彼女は驚いたように目を見開いたが、やがて慈しむように、けれどどこか寂しげに微笑んだ。

 

「いいですわね。賛成ですわ。睦もきっと喜びます。燈もそよも、貴女の真摯な音を受け入れてくれますわ。立希は……少し、厳しいことを言うかもしれませんけれど」

 

「じゃあ……」

 

「ええ、約束ですわ。今日のライブが終わったら、わたくしから皆さんに話してみます。次は、一緒に奏でましょう」

 

「……うん、約束だよ」

 

 それが、崩壊へと向かうカウントダウンの始まりだとは知らず、私は祥子と結んだ指切りの感触だけを信じて、朝の光の中を歩き出した。

 

 




週一のペースで投稿していこうかと考えています。
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