第十話:硝子の仮面
あのマスカレードから翌日、目を覚ました私の心は嘘のように落ち着いていた。
いつもと同じように顔を洗い、制服に着替える。最後に机の上に置かれた銀のネックレスを手に取る。
あの日、一度は失い、そしてオブリビオニス──いや、祥子の手から戻ってきた「私の半分」。それを強く握りしめてから、首にかけた。
鏡の中の自分と目が合う。
昨日まで頼りなく揺れていた瞳は今、一夜を越えて、光さえ吸い込むような底知れない静寂を湛えている。じっと見つめ続けるうちに、視界がわずかに歪み始めた。網膜に焼き付いた昨夜の残像。あのステージの上で傲慢なまでの光を放っていた祥子と、自分の輪郭が重なっていく。
(気持ち悪い……)
肌の裏側を這い回るような不快感が背筋を駆け抜けた。
ブラシを手に取り、いつもなら軽く梳かすだけで済ませる髪を一束にまとめる。指先で毛束を掬い上げ、逃げ場を塞ぐようにきつく結び、うなじのあたりで固定した。自分という個を、規律と意志の檻に閉じ込めていくように。
「……よし」
今の私は、もう屋敷で泣いているだけの「妹」ではない。
たとえ祥子と同じ血が流れていようとも、私は私のやり方で、あの光の渦へと食らいついていく。
結び目をもう一度強く引き締め、私は重い扉に手をかけた。
学校へ向かう道すがら、街角の大型ビジョンには『Ave Mujica』の断片が映し出され、行き交う人々はその正体についての噂話に花を咲かせている。
そんな景色を疎ましく見ているといつの間にか学校に着いていた。いつもより早めに着いた学校は、まだ人影もまばらだった。靴を履き替えて教室へ向かうため、階段に足を掛けたその時だった。
「ハルちゃん……だよね?」
背後から届いたその声に、私の心臓が小さく跳ねた。振り返るとそこには初華が立っていた。
「おはよう、初華ちゃん」
いつもと変わらない、静かな微笑みを貼り付けて挨拶をする。まるで、昨夜の狂乱も、あの舞台に落ちた仮面の乾いた音も、すべてが質の悪い夢だったと言い張るかのように。
「ハルちゃん、髪……。今日は、まとめているんだね」
初華の視線が私のうなじで結ばれた黒髪に向けられる。
「ええ。少し、気分を変えたくて。……似合わないかな?」
「ううん、そんなことないよ。すごく似合ってる。……なんだか、大人っぽく見える」
「そう? ありがとう」
初華の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、スカートの裾を一度だけ強く握りしめてから言葉を継いだ。
「まだ予鈴まで時間があるし、少し……いいかな?」
私たちは廊下の突き当たりにある空き教室へと足を踏み入れた。早朝の教室には冷たい空気と埃の匂いが充満し、窓から差し込む斜光が、私たちの間に明確な境界線を引いている。
「……ごめんね、ハルちゃん。ずっと、黙っていて」
昨日の事を何て言ったらいいのか。悩んでいると初華が沈黙を破った。その声は、ステージ上のドロリスとしての絶唱が嘘のように、いつもの穏やかで、けれどどこか実体のない悲しみを帯びた響きだった。
「守秘義務だから仕方ないよね。仕事でしょう? アーティストとしての『設定』を守るためだもの。でも──」
「そうじゃないの!ハルちゃん」
あれは、あのアモーリスという少女が引き起こした不測の事故だったのではないか。そう続けようとした瞬間、初華は弾かれたように顔を上げ、私の言葉を鋭く遮った。
「私、最初から知っていた」
「知っていた?いったい何を知っていたの?」
「ハルちゃんが、祥ちゃんの妹だってこと」
「……え?」
教室の広い空間が、急激に酸素を失ったかのように息苦しくなる。私は喉元に手をやり、呼吸を整えようとした。
「はは……悪い冗談だよね。初華ちゃんも人が悪い」
乾いた笑い声が、誰もいない教室に虚しく響くが、初華は笑わなかった。それどころか、その瞳には逃げ場のない真実が、鋭い痛みを伴って宿っていた。
「冗談じゃないんだね。姉様と初華ちゃんはどういう関係なの?」
「私と祥ちゃんは幼馴染。観光地とは呼べない小さな島で。私が昔住んでいた場所の近くに、豊川の別荘があったの。そこへ遊びに来ていた祥ちゃんと出会って……。たぶん、ハルちゃんも来たことがあると思う」
初華の言葉が、記憶の底にある断片的な夏の風景を呼び起こす。冷たい麦茶の味。潮騒の音。そして、別荘の窓から見えた、祥子が誰かと楽しそうに笑いながら駆け回っていた、あの眩い光。
「そのとき、祥ちゃんが言ってたの。ヴァイオリンの上手な妹がいるって。だから……入学したとき、すぐに分かった。立ち振る舞いや、ふとした瞬間の視線の動かし方が、あの頃の祥ちゃんにそっくりだったから」
言葉を失い、ただ彼女の唇の動きを凝視することしかできなかった。
「ハルちゃんが祥ちゃんを探しているのも、ずっと知っていた。ごめんなさい」
初華は頭を下げた。私は一歩、また一歩とそんな彼女に近づく。
「それで、初華ちゃんは私に近づいたの? 姉様の『代わり』として、私を観察……いや、監視するために?」
私の問いに初華は頭を上げて、首を横に振った。
「それは違う!監視なんてそんなつもりは……」
初華の瞳をじっと見つめると、彼女は目を反らした。だが、窓から差し込む光が私の影だけが濃く彼女を逃がさないように足元に伸びる。
「じゃあ、初華ちゃん教えて、君が私の隣で笑っていた時。楽器店で一緒に演奏をしていた時。……その時、初華ちゃんの頭の中にいたのは誰?」
「え……?」
「私を見ていたの? それとも、私の向こう側にいる『姉様の面影』を、あるいは姉様から聞かされていた『理想の妹像』を見ていたの?」
初華の肩がびくりと震えた。彼女の大きな瞳が揺れ、言葉を探して彷徨う。
「私……私は……」
「答えて。あの時、私の話を聞いていたのは、豊川ハルという個人への友情? それとも、姉様から『壊れやすいから守ってあげて』とでも頼まれていた義務感?」
「違う……祥ちゃんに頼まれたことなんて、一度も、一度だってない!」
初華の叫びが、無人の教室に白く弾けた。その瞳からは、これまで見たこともないほど生々しい感情が溢れ出していた。
「……祥ちゃんに言われたからじゃない。私は、自分の意志でハルちゃんの隣にいた」
初華は震える手で、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「最初は、確かに好奇心だったかもしれない。祥ちゃんがずっと誇りに……大事に思っていた『妹』に会ってみたいって。でも……。一緒に過ごして、ハルちゃんの奏でるヴァイオリンを聴いて。ハルちゃんが時折見せる、不器用な優しさに触れて……」
彼女は一歩、また一歩と歩み寄る。境界線なんて最初からなかったかのように。
「祥ちゃんの妹じゃなくて、一人の友達としてハルちゃんが大好きになった。だから……嘘じゃない。一緒に笑った時間も、あの楽器店で音を重ねた瞬間も。私の心の中にいたのはハルちゃんだけ」
初華の瞳から溢れた涙が、床に小さな染みを作っていく。その一滴一滴が、昨日までの穏やかな日常が二度と戻らないことを証明しているようだった。
しかし、それは今の初華。昨日のあのステージの上で、
「初華ちゃん。君は客席で何も知らずに貴女たちの『悲劇』を見ていた私の姿を見下ろしながら……ドロリスとしての君は、何を思っていたの?」
その言葉を聞いた初華は両手で顔を覆い、絞り出すような声で答えた。
「……怖かった」
「怖い?」
「昨日、あのステージでハルちゃんがいるなんて思わなかった。隠していたことも、守りたかったことも……全部。ハルちゃんのあの絶望したような瞳を見た時、自分がどれだけ残酷なことをしているのか、初めて突きつけられた気がした」
彼女はそこまで言い切ると、肩を上下させて激しく呼吸をした。
「……私のこと、許してなんて言わない。でも、信じてほしい。ハルちゃんと過ごした時間に、嘘偽りも一つもなかい『本物』だってことは……」
呼吸を乱しながら泣き崩れる初華を、ただ無機質な眼差しで見下ろした。
以前の私なら、きっと彼女の肩を抱き寄せ、共に涙を流して「大丈夫だよ」と微笑んでいたかもしれない。
「ずるいね、初華ちゃん。君は私のことをすべて知っていて、私は君のことを何ひとつ知らなかった。姉様の隣に立ちながら、私の隣にも立っていた。……本当に、欲張りなのね」
私の言葉に初華は息を呑んで立ち尽くした。
「でも、そんな風に真っ直ぐ言われたら、私はもう、君を疑うことさえできなくなる。……姉様を隠し通していた君を、嫌いになることすら、許してもらえないのね」
「ハルちゃん……」
「今は、その言葉を信じてみる。だって、そうじゃないと、私は今日からの授業をどんな顔をして受ければいいか分からないもの」
校庭からは、登校してきた生徒たちの賑やかな声が聞こえ始めている。日常が、すぐそこまで戻ってきていた。
「行こう、初華ちゃん。もうすぐ予鈴が鳴る」
彼女の横を通り過ぎ、教室の扉へと歩き出す。
「待って、ハルちゃん!」
背後から伸びてきた手が私の手を強く掴んだ。振り返ると、初華が目を赤く腫れさせながら、それでいて必死に何かを繋ぎ止めようとする形相で見つめていた。
「ハルちゃん……私たち、まだ……友達、だよね?」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、脳内に鋭いハウリングのようなノイズが走った。繋がれた手の熱が、そこだけ皮膚を焼き焦がすかのように熱い。
(友達?どの口がその言葉を……)
心の中で、その言葉を冷酷に咀嚼する。
目の前の彼女は「すべて」を隠したまま、孤独に寄り添うふりをして、安全な場所から私を観察していた。裏切者。
どす黒い感情が喉元までせり上がるが、口より先に体の方が真っ先に動いた。
「……っ!」
私は縋り付く初華の手を思い切り振り払った。静まり返った教室に、肌と肌が激しく弾ける鋭い音が響き渡る。
勢い余ってよろめいた初華が、信じられないものを見たという表情で私を見つめた。弾かれた彼女の手は、空中で行き場をなくしたまま震えていた。
そして、この行為が何を意味するのか――。
それを理解した瞬間、彼女の瞳から光が消え、底知れない絶望の色が広がっていった。
「ハル、ちゃん……?」
震える声が、私の罪悪感を鋭く突き刺す。
(……いけない。ここで揺らいだら、私は一生あの人の影さえ踏めない)
溢れ出しそうになる嫌悪感と動揺を、冷徹な意志で檻に押し込んだ。
怒りに身を任せて拒絶するのは、あまりにも幼く、芸がない。祥子と同じ世界に立つのなら、私も彼女たちのように、完璧な偶像を演じなければ。
私は一度深く目を閉じ、澱んだ空気を吐き出した。そして目を開け、いつもと変わらない微笑みを浮かべた。
「……ごめんなさい、初華ちゃん。少し、驚いてしまって」
突き放したはずの手を再びそっと伸ばし、初華の震える肩を包み込んだ。その時、彼女の身体がビクリと硬直するのが伝わった。
「急にそんなことを聞くから……。私、昨日の今日で、少し神経質になっていたみたい」
「え、あ……」
困惑する彼女の瞳を、微笑みながら受け止めた。昨夜のオブリビオニスが、観客を欺き通したあの神々しいまでの嘘と同じ純度の微笑みをうかべて。
「私たち、ずっと友達よ? 初華ちゃんが私のことを想ってくれていたことも、今の話でよく分かった」
「本当に……? 私のこと、嫌いになったんじゃ、ない……?」
「まさか。隠し事をされていたのは少し悲しいけれど、それだけ初華ちゃんが『Ave Mujica』を大切にしていた証拠だもの。尊敬こそすれ、嫌いになるなんてありえない」
「うん……! ありがとう、ハルちゃん。本当に、大好きだよ」
初華の震える手が私の背中に回る。その体から熱が伝わるたびに、心は反比例するように冷え切っていく感覚があった。
「ねえ、初華ちゃん」
「なに?」
初華は忠実な仔犬のような眼差しを向けた。私は彼女の耳元に顔を寄せ、甘く低い声で囁いた。
「もし……もしもね。いつか私が、姉様と真っ向からぶつかるようなことがあったら、その時、初華ちゃんは
初華の身体が、ピクリと強張った。
彼女にとっての「運命」であり「幼馴染」の祥子。そしてハルという、彼女が「本物」だと信じた「親友」のハル。
「……私は」
初華の声は掠れ、途方に暮れた響きを湛えていた。彼女にとって、その二者択一は自分自身の魂を二つに引き裂くのと同義なのだろう。
その葛藤を見て、満足感と共にふっと肩の力を抜いて声を立てて笑った。
「ふふっ、冗談よ。そんなに深刻な顔をしないで、初華ちゃん」
「え……?」
「そんな日が来るはずないじゃない。姉様はあんなに立派なステージにいて、私はまだ、クラッシックの世界でも、ただのヴァイオリン弾きの卵なんだから」
初華の手を優しく解き、何事もなかったかのように彼女の制服の襟元を整えた。
「ごめんね、困らせちゃって。……さあ、本当に行かないと。先生に怒られちゃう」
「……うん、そうだね。行こう、ハルちゃん」
教室を出て廊下を歩く間、初華は何度も私の横顔を伺っていた。
先ほどまでの涙の跡を拭い、彼女は必死に「いつもの初華」を演じようとしているが、その足取りはどこか危うく、私の影を踏まないように細心の注意を払っているのが分かった。
(初華ちゃん。君はそのまま、何も知らないで私の隣で踊り続けて)
私は前を見据えたまま、密かにネックレスに触れたながら、心の中で呟いた。
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