武道館のあの夜から、世界はひび割れた鏡のように、歪んだまま加速していた。わずか三日の間に、『Ave Mujica』の正体暴露は瞬く間に情報の濁流となって飲み込んだ。
音楽雑誌の電子版やSNSには、彼女たちの素性が執拗なまでに暴かれ、晒されていた。芸能界のサラブレッドである睦、現役アイドルの初華。そして──豊川祥子の名もまた、その渦中にあった。
学校でも、相も変わらず初華の周りには興味本位の視線と人だかりが絶えなかった。彼女は困ったような、けれどどこか空虚な微笑みを絶やさずに対応していた。
そして、その火の粉は当然のように私にも降り注ぐ。
「ねえ、ハルちゃん。これ、本当なの?」
クラスメイトが突きつけてきたスマートフォンの画面には、『オブリビオニスは豊川グループの令嬢!?』という扇情的な見出しが躍っていた。真相を暴こうとする者たちの、卑俗で粘り気のある好奇心が私を取り囲む。
「ハルちゃんもこの豊川グループの関係者だよね?」
「さぁ?それは貴女方の想像にお任せします」
「ハルちゃん、冷たーい!」
「お嬢様だからって、隠し事しなくてもいいじゃない」
席を立ち、逃げるように廊下へ向かう。背後から投げかけられる、棘を含んだ笑い声。それを遠くの雑音として切り捨て、私は音を立てずに教室の扉を閉めた。
廊下を歩く間、窓ガラスに映る自分の顔が、まるで自分ではない誰かの石膏像のように見えた。
「豊川祥子の妹」
それだけで、私の言葉も、研鑽を積んできたはずの音も、すべてが「特別」というフィルターで歪められていく。
人混みを避け、迷い込むようにして辿り着いた中庭。初夏の湿り気を帯びた空気が、校舎の影に淀んでいた。
「あ……」
植え込みの縁に腰掛け、一人で紙パックのジュースを啜っている海鈴の姿があった。
彼女もまた、当事者の一人であるはずだった。それなのに、海鈴の周囲には暴露の余波など微塵も感じられず、ただ静止した透明な時間だけが流れていた。
「……豊川さん」
海鈴は紙パックのストローを咥えたまま、視線だけを私に向けた。感情の起伏が削ぎ落とされた、無機質な呼びかけ。それ故、彼女が何を考えているのか読み取れない。
「八幡さん。……こんなところで、何をしているの?」
「見ればわかるでしょう。休憩です。ここの方がまだ静かですし……」
彼女は校舎の二階――私たちがさっきまでいた教室の方を、顎で軽く指し示した。その淡々とした口調に少しだけ安堵を覚えた。
「確かに、今のあそこには正気な人間なんて一人もいないみたい」
彼女から少し距離を置きながら、腰を下ろした。
「豊川さん。貴女も大変ですね。あちらこちらで、貴女が彼女の『血縁』ではないかと囁かれています」
「知ってる。今さっき話しかけられたところだから……」
「それで。実際のところはどうなんですか?」
海鈴が何でもない世間話の続きのように問いかけてきた。その瞳には、クラスメイトたちが浮かべていた卑俗な好奇心も、執拗な追及の意志も見当たらない。ただ、確認すべき事実を整理するような、淡々とした響き。
「貴女は、オブリビオニスの正体……豊川祥子のことを、知っているんですか?」
風が湿った前髪を揺らす。私は海鈴の横顔をじっと見つめ、声を潜めた。
「八幡さん。それを聞いてどうするつもりですか? 本気で……『真実』が知りたいの?」
海鈴は少しだけ視線を泳がせ、それからまた私の方へと戻した。
「知りたいか、ですか。……正直に言えば、どちらでもいいんです。貴女と彼女に何の関係もなくても、私には何も影響もありませんので」
「そうね。みんなが八幡さんみたいに考えていれば、少し楽なんだけどね」
膝の上で指を絡め、視線を地面に落とした。コンクリートの隙間から生えた名もなき雑草が、震えていた。
「残念ながら、噂通り。私は……豊川祥子の妹。あの日、武道館のステージで仮面を脱いだオブリビオニスは、私の姉様」
海鈴の表情には驚きの色ひとつ浮かばなかった。ただ、弄んでいた紙パックの動きが止まり、彼女の瞳がわずかに細められただけ。
「……やはり、そうでしたか。道理で」
「道理で?」
「立ち居振る舞いの端々に、何処か彼女と似たようなのもを感じていました」
「そう……ねえ、八幡さん。どうして貴方は、姉様の側にいるの?」
海鈴は遠くの鈍色の空を見上げ、淡々と語り始めた。
「理由は単純。彼女にスカウトされたからです。……そして、提示された条件が、私の求めているものと合致した。それだけです」
「条件?」
「はい。私は今も、いくつものバンドを掛け持ちをしています。私の目標は音楽で自立すること。メジャーで確実に成功し、ビジネスとして成立するバンド『Ave Mujica』は、私にとって最も魅力的な選択肢でした」
海鈴の言葉には、世間が夢想するような熱量はない。そこにあるのは、研ぎ澄まされたプロフェッショナリズムだけ。
「豊川さんはAveMujicaの事を前々から知っていましたか?」
「私は……あのバンドのことは、何も知らなかった。姉様が誰と出会い、どうしてあんな場所にいるのか。……何一つ」
海鈴は今日初めて、明確な違和感を抱いたように眉を寄せた。彼女はストローから口を外し、真横にいる私を真正面から見据えた。
「彼女は、貴女に何も話していなかったのですね」
その声は先ほどまでの他人事のような響きを捨て、重く、確かな実感を伴って聞こえた。
「えぇ、この一年間、私達は音信不通だった。ある時、彼女の影を見つけて追いかけたけど、彼女は何も言わずに逃げた」
「それは、貴女にだけは見られたくなかったのではないのでしょうか」
「見られたくない? 私に?」
「詳しい事は本人に聞いて下さい。それでは……」
「待って、八幡さん」
立ち去ろうとする彼女の背中に、私は衝動的に声をかけた。
「……何か?」
「今度……もし機会があったら。私と一緒に、演奏をしてみない?」
海鈴が足を止め、肩越しにこちらを振り返る。その無機質な瞳ははっきりと動いた。
その反応は驚きというよりは、計算外の変数が現れたことへの困惑に近かった。
「それはセッション、ということですか?」
「ええ。私は八幡さんのベースを、あのライブ会場の……『Ave Mujica』としての音しか知らない。けれど、姉様がその実力を認めて、選んだ一人なら。音楽家として、その音をもう少し近くで感じてみたい」
『Ave Mujica』を、祥子が作り上げた世界を理解するために。あるいは、その深淵に近づくために今は、彼女の関係者と音を重ねることが、唯一の道標に思えた。
彼女はしばらくの間、無言で私を見つめていた。蝉の鳴き声が遠くで響き、校舎の影がゆっくりと伸びていく。
「分かりました。前から貴女の演奏には興味があったので、また時間が空いたら連絡します」
彼女はそれだけ言い残すと、今度こそ迷いのない足取りで校舎の中へと消えていった。
一人取り残された中庭で、私は自分の指先をそっと見つめた。
****
放課後、校門を抜けても背中に突き刺さるような視線が止む事はなかった。
ポケットの中でスマートフォンが何度も震える。クラスメイトや、どこからか番号を嗅ぎつけた野次馬たちからの通知だろう。私はそれを取り出す気力もなく、ただ足元の影を見つめて歩き続けた。
見慣れた街並みさえも、今は色褪せて見える。街角のショップやコンビニの雑誌コーナーに並ぶ「仮面の少女たち」が、執拗に私を追いかけてくるような錯覚に陥った。
「……ただいま戻りました」
重厚な玄関を抜け、豊川の屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間、そこには外の熱狂とは無縁の冷徹なまでの静寂が支配していた。
誰の話し声もしない、ただ時計の針の音だけが響く廊下。私は自室へ直行し、制服のままヴァイオリンのケースを開けた。
「練習、しなきゃ……」
譜面台に置かれた課題曲。数日後のコンクール。技巧の限りを尽くした難曲の数々、その中に、あの日、祥子の前で演奏した『タイスの瞑想曲』が含まれていた。今の私には、この楽譜という迷宮に潜り込むことでしか、現実のノイズを振り払う術はなかった。
弓を構え、最初の一音を放つ。
しかし、弦を擦る振動が腕から脳へと伝わった瞬間、激しい不快感に襲われた。
(……浅い)
どれほど弓を激しく動かしても、音は砂のように指の間から零れ落ちていく。
虚無感に耐えきれず、ヴァイオリンをベッドへ放り出し、自分もそのまま倒れ込むように突っ伏した。
(……浅い。醜い。中身がない)
シーツに顔を埋めても、脳裏にはあの夜の、青白い月光に照らされた祥子の冷徹な瞳が焼き付いて離れない。
「……空っぽなのは、わかってる」
くぐもった自分の声が部屋の隅へと消えていく。
重い鉛のような身体を動かし、ポケットの中でずっと震え続けていたスマートフォンを、恐る恐る取り出した。
通知の数は三桁を超えている。未読のメッセージ、不在着信、そして無数のSNSのタグ付け。
それらをすべて無視し、震える指でブラウザを開いた。
検索窓に入れるキーワードは決まっている──『Ave Mujica』
検索結果の最上部、数分前に更新されたばかりのネットニュースが目に飛び込んできた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「……え?」
画面に躍っていたのは、センセーショナルな赤文字の見出しだった。
『Ave Mujica、結成わずかでの解散危機か? メンバー間の致命的な不和、過密スケジュールの崩壊』
記事の内容は、あるインタビューでの「モーティス」——若葉睦の発言をソースとしたものだった。
『Ave Mujicaは、長くは続かない』
淡々と綴られたその言葉。記事自体は信憑性のない憶測の言葉ばかりが並べられていた。
溢れ出す焦燥感に耐えきれず、首から外したペンダントを力いっぱい握りしめた。その時――。
(……!)
暗い部屋の隅、カーテンの影に青白い月光に照らされた「何か」が揺れた。耽美なレース、赤と黒の衣装。そして、すべてを拒絶するあの黒い仮面。
「オブリ……ビオニス!?どうしてここに……」
喉の奥から乾いた声が漏れる。彼女は言葉を発せず、ただ流麗な手つきで、私の手の中にあるネックレスを指し示した。
『いつまで思い出という名の墓標に縋り、停滞し続けるつもりかしら』
幻聴だろうか。その声が脳を直接揺らす。仮面の奥の瞳が、侮蔑と期待の混ざった冷たい光で私を射抜いている。
「違う!私は……待って……!」
伸ばした指先が空を切り、冷たい夜気だけを掴む。
部屋の隅に立ち尽くしていた漆黒のドレスは、月光が雲に遮られる一瞬の隙に、最初から存在しなかったかのように消え去っていた。
残されたのは、心臓の早鐘と、手のひらに赤く食い込んだネックレスの鎖の跡だけ。
(いつまで、縋り続けるのか……)
脳裏にリフレインする冷徹な声は、祥子のものだったのか、それとも私が自分自身の弱さを責め立てる幻聴だったのか、もう判別がつかない。
けれど、消えゆく影が最後に残した指先の動き――。
それは、かつて私たちが「本当の姉妹」として並んで座っていた、あの場所を指し示していた。
「……あそこなの?」
吸い寄せられるように立ち上がり、自室の窓を大きく開いた。
外はもう、都会の不夜城が放つ光に塗りつぶされている。けれど、遠く離れたあの場所には、今も静謐な闇が守られているはずだった。
着替える間も惜しく、制服のまま部屋を飛び出した。玄関で使用人が呼び止める声も聞こえないふりをして、夜の静寂へと駆け出した。