夏の夜気は、湿り気を帯びた重いヴェールとなって肌にまとわりついていた。
耳を打つのは、狂ったように鳴き続ける蝉の断末魔のような残響と激しい鼓動だけ。ようやく辿り着いた公園の入り口で立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。
(……どうして、ここに来てしまったのかな)
地図を見たわけでも、約束をしたわけでもない。ただ、胸の奥で何かが、細く、けれど決して切れない銀色の糸のようなものが体を引っ張り続けていた。
顔を上げて暗闇の向こう側、かつて二人で星を数えたあの高台を見上げた。彼女が――豊川祥子が立っている。根拠のない確信が、震える足を一歩ずつ前へと進ませていた。
ブラウスの上から、ネックレスを強く握りしめる。手のひらに食い込む冷たく硬い金属の感触が、高鳴る鼓動を無理やり押さえつけていく。
(落ち着きなさい、ハル。もしもそこに彼女がいたとしても、今は感情に呑まれるな。冷徹に、完璧に。彼女が愛した、あの理想の妹を演じきる)
背筋を伸ばし、顎を引いた。乱れた後れ毛を指先で耳にかけ、汗ばんだ掌をハンカチで丁寧に拭う。これまで何度も鏡の前で練習してきた、気高く、一分の隙もない「豊川の令嬢」としての所作。それを鎧のように身に纏う。
公園から街を見下ろせる高台へと続く、残り僅かな石段を一段、また一段と踏み締めながら登る。
最後の一段を上りきった先は視界が開けた展望広場。街の灯りが海のように眼下に広がるその縁に、月光を背負った予感通りの人影が佇んでいた。
「……姉様」
ボソッと呟いた声は夜の静寂を震わせることなく、真っ直ぐに届いた。
手すりに身を預け、夜景を見下ろしていた人影が、ゆっくりとこちらを振り向く。
月光に照らされたその姿は『Ave Mujica』のドレスでも、オブリビオニスの仮面でもない、屋敷で何度も目にした、ただの少女の姿だった。
「……ハル。どうしてここが分かったのかしら?」
祥子の声は、あの頃のように穏やかだった。けれど、その瞳に宿る光だけは、かつて私を射抜いたあの冷徹な星の輝きを失っていない。
近づくほどに、彼女の周囲だけ温度が数度下がっているような錯覚に陥る。
「なんとなく……って、言うのは、冗談。目に見えない何かに、導かれたような気がした」
「そう……もしかしたら、お母様がわたくしたちを導いたのかもしれませんわね」
彼女の横に立ち、同じように街を見下ろした。眼下に広がる街の灯りは、まるで底の見えない深い海のように揺らめいている。
互いに何も語らない沈黙だけが、夜の帳に深く沈殿していく。かつては言葉などなくても、肩を並べているだけで心臓の鼓動が重なり合うような気がしていた。
けれど今、手が当たりそうなほど、近くにいるのに私達の間には、銀河ほどの隔たりがあるように感じた。
「……何も、聞かないのかしら」
祥子がポツリと言葉を漏らした。その呟きは、微かな「救い」を求めているようにも聞こえて、心を揺さぶった。
「私が聞いても、今の姉様は本当のことを何も言わないでしょう?」
(だから、私も教えない。この胸に渦巻く汚泥のような本音も、あなたを屈服させたいという欲望も)
私の静かな問いかけに、祥子は少しだけ口角を上げた。
「賢い妹を持つのも、考えものですわね」
彼女は手すりから手を離し、隣のベンチに深く腰を下ろした。私も誘われるようにその隣に座った。
「貴女の考えている事は分かりますわ。解散の件ですわね」
祥子は夜景のかなたを見つめたまま、淡々と事務報告でもするかのようなトーンで言葉を紡ぐ。
「睦があのような事を口にしたのは、わたくしのマネジメント不足。わたくしの真意を、正しく共有できていなかった結果。……ですが、安心しなさい。Ave Mujicaは解散させませんわ。わたくしが、させない」
彼女の横顔を見つめて、ふっと唇に笑みを浮かべた。
「それならよかった。ネットではバカみたいに騒いでいるから、変な心配をしちゃった。そうだよね。解散なんてあり得ないよね」
(ええ、そうよ。勝手に終わらせるなんて、許さない。私が「本当の音」をあなたの喉元に突きつけ、あなたが私を切り捨てたことを、その身が震えるほどの後悔で塗り潰し、屈服まで。その残酷な舞台は、続いていなければならない)
私は祥子がかつて『停滞の象徴』と吐き捨てた胸元のネックレスを、壊れ物を扱うように愛おしそうに撫でながら、湿り気を帯びた瞳で彼女を見つめ返した。
「あの四人は、わたくしが選んだメンバーであり、同時にわたくしが人生のすべてを預かると決めた人達。生半可な覚悟でステージには立っていませんわ」
その言葉はあまりにも重く、排他的だった。その強固な円環の中に、私という存在が入り込む隙間など、最初から一ミクロンも用意されていないことを残酷に突きつけていた。
(……ああ、やっぱり。姉様は、私のことなんて見ていない)
この一年間、私がどんな思いで、主が消えた屋敷の静寂に耐えてきたか。どれほどの夜、届かない音を追いかけて指先を震わせていたか。彼女は想像したことさえないのだろう。
膝の上で拳を握りしめ、爪が掌の肉に食い込む程の痛みで、溢れ出しそうな叫びを喉の奥へ押し戻した。
「……ええ、そうね。姉様がそう言うなら、きっと大丈夫。信じている」
ゆっくりと息を吐き出す。肺の中の澱をすべて吐ききったとき、顔を上げた。
「だって、姉様はいつだって完璧だったもの。昔から、私の一歩先を歩いて、誰も見たことのない景色を見せてくれた。……今回も、きっとそう。睦ちゃんやみんなも、最後には必ず姉様に付いてくる」
「ハル……貴女は、昔から変わりませんわね。わたくしの勝手な理屈を、いつもそうやって肯定する所も」
「私は姉様の味方。世界中の人が姉様を責めても、私だけは、姉様の選んだ道を信じているから」
祥子は自身の髪を払うと、再び夜景に目を戻した。
「ありがとう。今回のツアーが勝負。解散疑惑を完全に払拭し、世間からの信用を取り戻さなくてはなりません。Ave Mujicaが、何者にも壊せぬ『本物』であることを証明する。……それだけが、今のわたくしのすべてですわ」
彼女は自分に言い聞かせるように声をあげた。そんな彼女の姿を尻目に私はバッグの中から、一枚の封筒を取り出した。
「姉様。これ……受け取ってほしいのだけど」
差し出したのは、来週に開催されるヴァイオリンコンクールの招待状。
「これは……?」
「コンクール本選のチケット。……おじい様にも渡したけれど、きっとあの人は来ない。いつものように『豊川の名を汚さぬよう励め』とだけ言って、書斎に籠もるだけでしょうから」
祥子の指先が、チケットの縁をそっとなぞる。かつて、私が初めてコンクールに出た時、客席の最前列で誰よりも強く拍手を送ってくれたのは彼女だった。
「ハル……」
「もちろん、無理に来てとは言わない。姉様もツアーの準備とかで忙しいでしょうし。……でも、もし、ほんの一瞬でも時間が空いたら。今の私の『音』を、聴きに来てほしいの」
祥子はチケットを視界から外すように、ゆっくりとスカートのポケットへと滑り込ませた。
「……約束はできませんわ。ですが、もし時間が許せば、足を運びますわ」
「ありがとう。それなら、精一杯頑張らないとね」
私は努めて明るく、気合を入れるように微笑んだ。
「ねえ、姉様。最後にひとつだけ、聞いてもいい」
ベンチから立ち上がろうとする祥子の腕を弱々しく、掴みながら言葉を続けた。
「もし……もしも私が、いつか道を間違えてしまったら。……その時は、姉様が昔みたいに私の手を引いて、引き留めてくれる?」
心臓が自分でも驚くほど激しく脈打つ。それは、わずかに残った「妹」としての最後の抵抗。
「いいえ。それは貴女自身の意志で選び、進むべき道」
祥子は迷いのない瞳で、私を真っ直ぐに射抜いた。
「今のわたくしが貴女を導くことは、もう二度とありませんわ。貴女が選び、貴女が奏でる音。その結果を引き受けるのは、姉であるわたくしではなく、演奏者である貴女自身。そこにわたくしを含めて他人が口を挟む領域ではありませんわ」
それは、姉妹としての情愛に縋る最後の一本の糸を、彼女自らが断ち切った瞬間だった。
「そう……そうだよね。分かったわ、姉様」
喉の奥が震えるのを、鉄の意志で抑え込んだ。
祥子が立ち上がり、階段の方へと歩き出す。コツ、コツという規則正しい足音がどんどん遠くなっていく。数秒後、その音が止まった。
振り返ると、祥子は階段の前で立ち止まり、鋭い横顔をこちらに向けていた。
「夜風が冷えてきましたわ。ハル、貴女は昔から体が弱いのですから、あまり夜更かしをしてはいけませんわ。すぐに帰って、温かくして休みなさい」
彼女のそう言った瞬間、冷たくて湿った風が吹いた。その言葉に残る微かな「かつての姉様」の香りが、言葉が、心を惑わせる。私を突き放しておきながら、なぜそんな慈悲をかけるのか。
「ええ、気をつける。姉様、また会えるよね?」
その問いに、祥子はすぐに答えなかった。彼女は一度空を見上げ、漆黒の天に散らばる星々を、何かを数えるように見つめた。
やがて、彼女はゆっくりとこちらに視線を戻す。その瞳には、先ほどまでの慈悲深い姉の面影はなく、ただ一つの「正解」を追い求める表現者の峻厳さだけが宿っていた。
「ハル。今の貴女が奏でているのは、誰の為の音?」
「え……?」
「お祖父様の望む音? それとも、わたくしの背中を追うための音?……そんな『空っぽ』のままでは、わたくしのいる場所までは届きませんわ」
ほんの数メートル離れた彼女から漂うのは、華やかなステージの香りではなく、極限まで自分を削り、追い詰めた者だけが纏う、ひりつくような孤独の気配。
「貴女が今でも、音楽を極める『覚悟』があるのなら、その時は、また会えるかもしれませんわ」
それは、ただの再会の約束ではない。自分と同じ極地にまで這い上がってこいという、傲慢で残酷な招待状。
「……わかった、姉様。その言葉、魂に刻んでおく」
ゆっくりと祥子に近づきながら、最後に思い出したように、どこまでも無垢な、一点の曇りもない微笑みを浮かべた。
「姉様も体調に気を付けて、あぁ……それと。父様にも、私は元気でやっていると伝えておいて。あとは…そうだ!父様もお酒とか飲みすぎないように、体調に気を付けてって」
その言葉を聞いた瞬間、祥子の喉がひくりと震えた。
彼女は何かを耐え忍ぶように顔を歪め、逃げるように視線を逸らす。奥歯をギリリと噛み締めているのが、月光の下ではっきりと見えた。
「えぇ、伝えておきますわ……」
それだけを絞り出すように告げると、彼女は二度とこちらを振り返ることなく、暗い石段の先へと消えていった。
高台に残されたのは、湿った夜気と、狂ったように鳴き続ける蝉の声。
「『空っぽ』、ね……」
祥子が座っていたベンチの木肌を、指先でなぞった。そこにはまだ、彼女の微かな体温が残っていたが、夜風にさらされて、みるみるうちに冷たくなっていく。
誰もいない展望広場で声を上げて笑いそうになった。
今の私を突き動かしているのは、豊川の令嬢としての義務でも、音楽への純粋な情熱でもない。ただ、この静止した世界に置き去りにした彼女への、底知れない執着と、それを美しく飾り立てるための虚飾だけなのだから。
ベンチから立ち上がり、祥子が歩いていった暗い階段を見下ろした。
かつては、その背中を追いかけていれば、いつか同じ光の中に立てると信じていた。転びそうになれば、彼女が振り返って、その涼やかな手で私の指を絡めとってくれると疑わなかった。
けれど、今、理解した。祥子はもう、私の手を引く「姉」ではない。
彼女は自分の足で、血を流しながら修羅の道を歩む一人の表現者であり、私はその彼女に選ばれなかった「不要な過去」なのだ。
(道は、分かれた。……いいえ、最初から繋がってなんていなかったのね)
胸元のネックレスを、引きちぎらんばかりの力で握りしめる。
彼女がくれた慈悲。彼女が放った決別の言葉。
「覚悟ならあるよ。でも、姉様。……貴女は勘違いをしている」
私は、貴女に愛でられるために咲く、温室の柔らかな花ではない。
貴女が美しく手入れし、いつまでも変わらぬ香りを放つと信じているその花は、とっくに中から腐り落ち、自ら毒を孕んでいる。
暗闇の中、見上げた星空がまだ「本当の音」を見つけられていない、愚妹を、嘲笑っているかのように輝いていた。
姉妹らしい会話が出来ましたね(白目)