忘却と不忘のアンサンブル   作:川葉

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第十三話:目覚め

放課後の柔らかな陽光が、ライブハウス『RiNG』へと続くアスファルトを濃いオレンジ色に染め上げていた。その建物の前を通り過ぎようとした、その時――。

 

「ハルちゃん」

 

背後から聞き覚えのある声が聞こえた。振り返るとそこにはそよが立っていた。

 

「そよさん。奇遇ですね。今から練習ですか?」

 

穏やかに問いかけるとそよは一瞬、何かを言いよどむように視線を伏せた。

 

「ええ……。それよりも……。ねえ、ハルちゃん。あの日、あなたが言っていた『新しい道』って、どういう意味なの?」

 

彼女の質問に答えようとしたその時、彼女の背後に見覚えのある二人が姿を現した。

 

「ハル…なんでここにいるわけ」

 

「偶然通りかかっただけですよ。立希さん」

 

苛立ちを隠そうともしない立希の視線を受け流し、その隣で俯いている少女へと歩み寄った。

 

「燈ちゃん、久しぶり。元気そうだね。活躍は聞いているよ」

 

穏やかな笑みを浮かべて挨拶をした。燈は一瞬、戸惑ったように瞳を瞬かせ、それから消え入りそうな声で「……うん。ハルちゃんも……バイオリン、頑張ってる……?」と短く返した。

 

私は頷きながら、踵を返そうとすると、そよが私の腕を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで引き止めた。

 

「せっかく会えたのだから、ハルちゃんの演奏、聴かせてもらえないかな?」

 

その言葉に、その場にいた全員の空気が凍りついた。立希さんが「はあ!? 何言ってんの、そよ」と声を荒らげ、燈も不安そうに私たちを交互に見つめている。

 

「でも、これから練習ですよね?」

 

「聴きたい。ハルちゃんの音」

 

予期せぬ援護射撃は、燈からだった。彼女の純粋な、一点の曇りもない瞳が、迷いなく私の本質を射抜こうとしている。

 

私はふと、彼女たちの前で一度もヴァイオリンを奏でたことがない事実に思い至った。私にとって、彼女たちは祥子が「かつて」愛し、そして「今は」断絶した過去の残像に過ぎない。その過去に向けて、私の音を聞かせることに、一体何の意味があるというのか。

 

拒絶する理由はいくらでもあった。だが、燈のあの真っ直ぐな瞳を前にすると、私の喉元まで出かかった断りの言葉は、静かに霧散していった。

 

「……燈がそう言うなら、別に止めないけど」

 

立希が心底面白くなさそうに顔を背けた。スクールバックを肩にかけ直し、『RiNG』の自動ドアへと歩き出す。

 

「行きましょう、ハルちゃん」

 

そよは満足そうに微笑み、私の腕を解くとエスコートするように促した。

 

 

スタジオは、吸音材の独特な匂いと、無機質な機材の熱気に満ちていた。

私は促されるまま、部屋の中央に立った。弓に松脂を塗り込む乾いた音だけが、沈黙の中で妙に大きく響く。

 

「それで、何を弾けばいいのですか?」

 

その問いかけに、そよは一瞬だけ視線を泳がせた後、「あ、えっと……」と、彼女にしては珍しく言葉を濁しながら、指先をいじっていた。

 

「ハル、あんたが今、一番自信がある曲は?」

 

ドラムセットの椅子に座りながら、立希が問いかけた。

 

私は顎に楽器を添え、指先で軽く弦を弾きながら思考を巡らせた。ここでバッハやパガニーニを弾いても、彼女たちの心には届かない。練習中のAveMujicaのカバーは……。少し違うような気がした。

 

数分後、導かれたようにあの曲を思い出した。

 

「春日影……」

 

その名前を口にした瞬間、スタジオの空気が凍り付いた気がした。

立希がスティックを床に落とし、高い音が反響する。燈は両手を胸の前で握りしめ、顔を青ざめさせた。

 

二人の視線が、一斉にそよへと突き刺さる。

そよは私達に背中を向けながらケースからベースを取り出していた。スタジオには彼女がベースをセッティングする音しか聞こえなかった。

 

「……いいよ」

 

そよの唇から漏れたのは、意外なほど柔らかな肯定だった。

 

「弾いてみて、ハルちゃんの『春日影』を」

 

スタジオの空気が、じりじりと肌を焼くような緊張感に支配される。

立希は無言で床に落ちたスティックを拾い上げ、ドラムセットの椅子に深く座り直した。燈はマイクスタンドの前に立ち、まるで祈るようにマイクを両手で包み込んでいる。

 

そよはベースのストラップを肩にかけ、チューニングを確認しながら、一度も私から視線を外さなかった。

 

「ハルちゃん。ヴァイオリンで合わせるなら、ギターのパート? それとも……」

 

そよの言葉が途切れる。その先にある「キーボード」という単語を、彼女はあえて飲み込んだようだった。私は顎にヴァイオリンを固定し、弓を静かに構えた。

 

「キーボードのパートを、弾かせてください」

 

立希の眉がぴくりと跳ねた。燈の呼吸が、一瞬だけ止まる。

かつて、この曲は豊川祥子という少女の指先から色を得た時、そこには眩いばかりの希望が、あるいは救いがあったはずだ。初華から聞いた言葉を思い出す。

 

(笑っていたよ。……本当に、幸せそうに)

 

私は目を閉じ、祥子が姿を消す直前まで、屋敷の自室で何度も、何度も繰り返していたあの滑らかな運指を思い出す。音の立ち上がり、鍵盤を叩く瞬間の体重の乗せ方、そして、フレーズの終わりに残される、彼女特有の僅かな「熱」。彼女ならどう奏でるか思考を巡らせる。

 

カウントが刻まれ、旋律が指先から滑り出した。

 

ピアノやキーボードの打鍵音とは違う、弦楽器特有の長く震えるような持続音。それが祥子の綴った音の粒を、一つずつ丁寧に繋いでいく。

 

祥子のピアノが持っていた凛とした静謐さではなく、どこか泣き叫ぶようなヴァイオリンの鋭利さが混ざり合った、歪な旋律だった。

 

音同士が重なり合い、そこに燈の歌声が混ざり、一つの景色が蘇る。

 

スタジオの防音壁が消え、目の前には眩いステージのライトが、そしてその向こう側には、息を呑んで自分たちを見つめる「誰か」の気配が広がる。

 

ヴァイオリンの音が鳴り響くたびに、瞼の裏に鮮烈な光景が広がっていく。

それは彼女が立っていたステージではない。祥子が去る前の古い屋敷の片隅にある記憶。

 

母を亡くし、屋敷に重苦しい喪失が漂っていたあの頃。祥子は、泣くことでしか出来なかった私を抱きしめる代わりに、ピアノの前に座った。悲しみを逃がすように、けれど誰かに届けと願うように、指先を踊らせていた。

 

燈の歌と、私のヴァイオリンが重なり合う。

その瞬間、意識は「今」を離れ、祥子の部屋へと飛んでいた。

 

隣で微笑む、穏やかな祥子の横顔。

二人で楽譜を囲み、二人で見た彼女達の練習風景。指が触れ合うたびに通い合った体温。もう二度と戻ることのない、陽だまりのような日々。

 

祥子が見ていた景色は、これだったのだろうか。

信じた仲間に背中を預け、自分の心の叫びが誰かの声と共鳴する、奇跡のような時間。けれど、彼女はそれを自らの手で壊し、光の届かない場所へと消えていった

 

奏でる音に泣き出しそうなほど深い悲哀が混じる。

意識をもっと深く深く沈める。彼女ならこうするのではないか。思考を巡らせながら指を動かす。

 

最後の一音を引き切り、弦を指ではじく。水滴が落ちたような、短くて軽い響きがスタジオの壁に吸い込まれていった。

 

私の肩は激しく上下し、額にはうっすらと汗が滲んでいた。ヴァイオリンを降ろし、うっすらと目を開けると、そこには言葉を失い、信じられないものを見たというような目で私を凝視している三人の姿があった。

 

「……あ」

 

燈の口から、小さな、けれど確かな感触を伴った吐息が漏れた。

彼女の瞳は、私の背後に誰かの影を探すように彷徨っている。

 

「祥……ちゃん……?」

 

震える声で紡がれたその名前。それは、かつてこの場所で、この曲で結ばれていた絆の残骸のようだった。

 

「やっぱり、燈ちゃんたちみたいに完璧にはいかないみたい。……少し、走りすぎてしまったし」

 

私は無理やり微笑みを作ってみせたが、頭の中が少し痺れたような感覚があった。

 

「なんで……」

 

立希がスティックを握りしめたまま、絞り出すような声を出した。

 

「なんでお前が、あいつと同じ音を出せる? ヴァイオリンなのに……まるであいつがそこで弾いてるみたいで……」

 

立希の言葉は、拒絶というよりも、理解できない現象に対する恐怖に近いものだった。彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、私の手元にあるヴァイオリンを、呪いでも見るかのような目で見つめている。

 

「これが、祥ちゃんが言っていた『ハルちゃんの音』」

 

そよが独り言のように呟いた。その声には、どこか遠い日の残像を追いかけるような、湿った響きが混じっていた。

 

「い、いいえ、そよさん。それは違います。姉様ならどう弾くか考えただけで……」

 

私は即座に否定をした。本来なら、こんな演奏は出るはずがないのだ。

 

「鏡……みたい」

 

そよが掠れた声で呟いた。彼女の手はベースの弦の上に置かれたまま、微かに震えていた。

 

「貴女の音の中に、祥子がいた。……技術の問題じゃない。音の入り方や呼吸の置き所、強弱の付け方。ヴァイオリンなのに、私たちは確かにあの頃の祥ちゃんの気配を感じていた」

 

「まさか、私は……」

 

(あぁ、そうか……)

 

言い訳の言葉を探している内に初めて、自分が行ったことの異常性に気づき、背筋が凍るような感覚を覚えた。

 

私には、自分の音がなかった。祥子の言う通り、私という名の『器』は空っぽ、だからこそ、誰かの魂を、記憶を、指先の癖までも鏡のように反射が出来てしまった。

 

「ねえ、ハルちゃん。Ave Mujicaの解散の噂、知っているわよね? あれ、ハルちゃんが何か関係しているの?」

 

スタジオの空気が一気に張り詰める。立希が息を呑み、燈が不安げに私を見た。

 

「まさか。ネットの噂ぐらいは耳にしていますけれど、それ以上のことは何も」

 

私は静かに首を横に振り、胸元のネックレスにそっと触れた。

 

「でも、先日、話をしました。……解散の噂については、姉様ははっきりと否定した。『Ave Mujicaは解散させない。わたくしがさせない』と。……それだけです」

 

私はふっと笑い、そよの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。あえて、祥子との間にまだ「姉妹の繋がり」が残っているかのように語る。彼女に拒絶され、チケットを蔑ろにされた事実は、胸の奥底に沈めて。

 

「ハルちゃん、あなた。やっぱり祥ちゃんに似ているね」

 

そよが一歩、また一歩と私に歩み寄る。その指先が私のヴァイオリンケースの表面をなぞった。

 

「そよさん、それはいくらなんでも、買い被りすぎです。私には姉様のように人を導くことや束ねる力はない。私はただ、誰かの作ったものをなぞる事……いや、姉様の背中を追いかける事しかできない。外から舞台を眺めるだけの、取るに足りない道草に過ぎません」

 

燈は何かを伝えようとしたが、上手く言葉にできない様子だった。その唇が微かに震え、何か大切なものを落としてしまった子供のような顔で、私のことを見つめている。

 

「……ハルちゃんの音。寂しい……音がした」

 

ようやく絞り出されたその一言は、誰の分析よりも深く、私の心臓の薄皮を剥ぎ取った。

 

「寂しい? 私が?」

 

「うん。ハルちゃんの音……祥ちゃんの音に近いのに、どこにも祥ちゃんがいなくて。ハルちゃんも、いなくて。……空っぽの部屋で、風が鳴ってるみたいだった」

 

「燈ちゃんには、今の私の音はそんな風に聞こえたんだね」

 

燈の言葉を聞き、祥子に言われた「空っぽの器」という言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。

 

(燈も私の音が『空っぽ』だと思うのね)

 

ケースを掴む指先に、先ほどまでの震えがまだ僅かに残っている。私は彼女たちに背を向け、スタジオの重い扉へと手をかけた。

 

「それでは失礼します。大切な練習の時間を邪魔をしてしまって、ごめんなさい」

 

外に出るとひんやりとした空気が頬を撫でた。その瞬間、ピンク髪の少女が短髪の少女を手を引いて、私の横を駆けていった。

 

夜の街を歩きながら、ふと、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見つめた。

 

「……まだ、足りない」

 

私は呟き、夜の闇へと足を踏み出した。

『鏡』として、私にできる事は祥子を、Ave Mujicaを、そしてこの世界すべてを写し取り、彼女たちと同じ高みに立つまで。彼女に「自分」を認めさせるその日まで、私の指先は、弦の上で狂ったように躍り続けるしかない。

 

「これが、永遠の表現者への道……」

 

背後で、街頭ビジョンが不気味に明滅する。映し出されているのは、仮面を被ったオブリビオニスのすべてを見透かすような冷たい眼差し。

 

コンクールまで、あと数日。

最後に何を映し出すのか。それは私自身にも、まだ分からない。だけど、空っぽになった心に、冷たい月光が満ちていく感覚は、今、とても心地よかった。

 

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