楽屋の鏡に映る私は、群青色のドレスに包まれていた。
光を吸い込む深い色合いが、肩から胸元にかけて静かに落ちている。装飾を削ぎ落としたその意匠は、布の重みと縫い目の確かさだけで、否応なく「舞台に立つ者」の覚悟を強いてきた。
(……髪はまとめなくていいか)
あえて結わずに下ろした黒髪が、ドレスの群青に溶け込む。鏡の中の私は、かつてこの場所とは違うステージで誰よりも眩しく輝いていた「あの人」に、残酷なほど似通っていた。
カチ、カチ、と時計が刻む音が、私の鼓動と冷酷に同期していく。
私は指の体操を終えると、鏡の前に置かれたネックレスを静かに手に取った。
少しの光だけでも輝こうとする、小さなペンダントトップ。かつて、不安に押し潰されそうなとき、この冷たい金属に触れるだけで、彼女がどこかで私の幸せを祈ってくれているのだと信じていた。
この数日間、私は狂ったようにAve Mujicaの旋律を聴き、その一音一音に潜む祥子の意図を解体し、自分の指に移植しようと試みてきた。
彼女が私を「空っぽ」だと切り捨てたのなら、その空洞を彼女の音ですべて埋め尽くしてしまえばいい。なのに、どれだけ音を重ねても、私の奏でる音には不純物が混ざる。
(……今は、それでもいい)
ネックレスの留め金を指先で弄り、首元に冷たい感触が走る。
鏡の中にいる「私」は、まるで死んだ魚のように凪いだ目をしていた。感情を殺し、音楽というシステムに身を捧げるための部品。それでいい。それこそが、今の私が祥子に見せてやれる唯一の誠実さなのだから。
コンコン、と控えめだが逃れようのないノイズが楽屋の静寂を切り裂いた。
「豊川ハルさん。準備お願いします」
スタッフの事務的な声が、静寂を切り裂く。
深く、一度だけ肺の奥まで空気を吸い込み、ヴァイオリンケースから愛器を取り出した。飴色の木目が、楽屋の無機質な蛍光灯の下で怪しく光った。
舞台袖へ続く薄暗い廊下を歩きながら、私はふと数え上げた。
大きなコンクールに出るのはこれが八回目。その中で、祥子や両親が見に来てくれたのは半分ぐらいだったはず。
舞台袖まで来て「ハル、大丈夫ですわ」と私の冷たい手を握ってくれた時の、彼女の瞳の輝き。一音一音を慈しむように、最前列で私の音を受け止めてくれたあの姿。
残りの半分は、この一年間の彼女が不在のステージで、私はその残影だけを追い求め、ネックレスを壊れんばかりに握りしめていた。客席に空いた「彼女がいるはずだった空白」を埋めるために、必死で音を紡いでいた。
(もう、二度とあのような光景は戻らない)
舞台の扉が開くと溢れ出す照明の光に目が眩み、私は一瞬だけ足が竦みそうになった。
出番を告げるアナウンスが響くと、客席のざわめきが波のように押し寄せてきた。一歩、また一歩と光の中へ足を踏み出す。
静まり返ったホール。数千の視線が、私のドレスの裾を、そして手にしたヴァイオリンを舐めるように這う。
「……あの子よ。オブリビオニスの妹」
「例の騒動の……。どんな音を出すのかしらね」
最前列から漏れ聞こえた無責任な囁き。
やはり、世界にとっての私は「AveMujicaの豊川祥子の付随品」でしかない。彼女という太陽が沈んだ後の、薄暗い残光。
私はピアノの傍らに立ち、深く頭を下げた。
顔を上げた瞬間、私の脳裏を支配したのは、あの日、武道館のステージで仮面を剥ぎ取られた姉の姿だった。
我儘な裏切りに遭い、素顔を晒され、数万人の嘲笑と驚愕の渦に叩き落とされてもなお。彼女は、氷のような気高さを失わなかった。崩れ落ちることなく、むしろその屈辱さえも「表現」の一部であるかのように、鋭く、美しく立っていた。
私はヴァイオリンを顎に乗せ、目を閉じた。
ホールの豪華な装飾も、品定めをする観客の視線も、すべてが闇の向こうへと遠ざかっていく。
隣にいるはずの祖父が用意した伴奏者はもはやただのピアニストではない。私の想像力が作り上げた、鍵盤奏者――オブリビオニス。
(……あの日、私は間違えた)
脳裏に蘇るのは、港北アトリウムスタジオの冷たい空気。祥子の前で、子供のように泣きじゃくる音を撒き散らした情けない自分。
『浅くて醜い、粗雑な音』
彼女が下した判決が、今も耳の奥で鋭く鳴り響いている。私は、愛器の木肌を通じて伝わる自分の鼓動を鎮めた。
(……やり直しましょう、姉様)
最初の一音。
弓が弦を捉えた瞬間、空気の色が変わった気がした。
意識の糸を一本ずつ断ち切っていく。
ホールの高い天井も、審査員の品定めするような眼差しも、ドレスの擦れる音さえも。すべてを思考の淵へ追いやり、ただ一点、あの日のアトリウムスタジオで感じた「冷気」だけを心の鏡に呼び戻す。
今の私の指先に迷いはない。私は思考を麻痺させ、内側の感情をすべて外側へ追い出した。
(……空になれ。ただの、透明な筒にそして、流し込め、彼女の音を)
私は深く、深くイメージする。
目の前で冷ややかに私を見つめる、赤と黒の鍵盤奏者。彼女が紡ぎ出す、一分の隙もない、凍てつくような旋律。私はその音の粒ひとつひとつを、網膜に焼き付いた彼女の動きを、その呼吸の溜めを、自分の身体の中に流し込んでいく。
それは、演奏というよりは、祈りに近かった。
神への祈りではない。私を捨てた、あの絶対的な存在への、狂信的なまでの同調。
(……反射して見せる。彼女が求めた、私を拒絶した、あの完成された「音」を)
指先が自分の意志とは無関係に動き始める。かつてのような、「甘え」はもうどこにもない。
弦を擦る音は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、聴く者の鼓膜を裂く。木製の楽器から出ているとは思えないほど、硬質で、冷酷で、一切の体温を排した響き。
客席のざわめきが、潮が引くように消えていった。
数千人の視線が、驚愕と共に私に釘付けになる。けれど、私には何も見えない。
(……もっと。もっと深く。彼女の影に、入り込んで)
あのアトリウムや武道館で祥子が見せた、あの残酷なまでの「気高さ」を自分の血肉へと変えていく。
音が、私の内側の空洞を満たしていく。私は今、四本の弦の上で、彼女が描き出した物に形に復元する。
最後の一音が、ホールの高い天井に吸い込まれて消えた。
弓を降ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は自分の指が氷のように冷え切っていることに気づいた。
静寂。鼓膜の奥で、自分の早鐘のような鼓動だけがうるさく鳴り響いている。
客席は、深海のような闇に沈んでいた。照明の逆光のせいで、そこに誰がいるのか、彼らがどんな顔をしているのかさえも判別できない。
「……やり直せましたか。姉様」
誰にも聞こえない声で独りごちた。深い礼を済ませると、逃げるように舞台袖の闇へと足を踏み出した。
私は自分の輪郭をどこかに置き忘れてきたような、奇妙な浮遊感の中にいた。楽屋に戻り、重い扉を閉めると、ようやく肺が酸素を拒絶するような呼吸を再開した。
鏡の前に座り込み、ヴァイオリンを机に置いた。鏡に映る自分の顔は、群青色のドレスの色に負けるほど蒼白で、唇だけが不自然に赤く浮いている。
達成感とはまた違う、内側を刃物で削り取られたような空虚さ。その時、背後の扉が音もなく開いた。
「すごい演奏だったよ。ハルちゃん」
私は振り返らず、鏡の中の彼女を見つめたまま問いかけた。
「初華ちゃん。どうしてここに?」
初華は静かに歩み寄り、私の隣に立った。学校で見せる制服姿ではなく、街に馴染むための控えめな私服。けれど、その瞳に宿る星のような光は隠せていない。
彼女は何も言わず、持っていた小さなレジ袋から一缶のコーヒーを取り出し、私の頬にそっと押し当てた。
「っ……つめたい」
思わず首を竦める。それは私がいつも好んで飲んでいる、微糖の缶コーヒーだった。結露した滴がドレスの肩に一滴落ちる。
「はい、お疲れ様。手が震えてるよ、ハルちゃん」
初華に促されるまま、私は受け取った缶のプルタブを引き抜いた。カチリ、という小気味よい音が楽屋に響く。
一口流し込むと、人工的な甘さと冷たさが、熱を帯びていた喉の奥を鎮めていく。少しだけ、自分の中に血が通う感覚が戻ってきた。
「さっきの答えだけど、私がここにいるのはこれを貰ったから……」
彼女が細い指先で取り出したのは、一枚のチケット。それは祥子に渡したはずの関係者用の招待席。
「祥ちゃんが『AveMujicaのツアーの打ち合わせで行けなくなったから、私に確かめて来てほしい』って……」
初華の言葉が、冷え切った楽屋の空気に波紋を広げる。
「そう。姉様は来なかったのね」
コーヒーをもう一口含み、鏡の中の自分を見つめる。
歯牙にもかけられていない。私は独りで、彼女の影と踊っていただけ。舞台の上で晒したあの音も、彼女にとっては「確認」を他人に委ねる程度の、取るに足らない報告事項だった。
「ハルちゃん……」
初華が私の強張った肩にそっと手を置こうとしたが、私はその温もりを拒絶するように、群青色のドレスの裾を翻して立ち上がった。
「それで? 確かめてきてほしいと言われた『結果』は、どうだった。初華ちゃん」
問いかけながら、ヴァイオリンをケースに仕舞う。乱暴な手つきにならないよう、細心の注意を払うが内側の震えは止まらない。
初華は一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「技術とか、表現とか、そういう言葉じゃ追いつけないくらい……。でも、さっきのハルちゃんの演奏、何処か……祥ちゃんに、そっくりだった」
「……そう。そっくり、だったのね」
私はヴァイオリンケースの蓋を閉じ、パチンと金具を鳴らした。その無機質な音が、幻想の終わりを告げる弔鐘のように響く。
鏡の中に映る自分を見つめる。群青色のドレスを纏い、蒼白な肌をした少女。そこにはもう、姉の背中を追いかけて泣きじゃくっていた「妹」の姿はない。
「ありがとう、初華ちゃん。わざわざ来て、確かめてくれて。差し入れにコーヒーも貰っちゃったし」
ゆっくりと初華の方を向き、微笑を浮かべた。
「……ハルちゃん、そんな顔しないで」
「え、変な顔をしている?」
私は口角を吊り上げたまま、小首をかしげた。
「変な顔なんてしてないよ。ただ……」
初華は言葉を詰まらせ、痛々しいものを見るような眼差しを私に向けた。
「その笑顔、無理に貼り付けているみたいに見えるから……」
「そんなことない。納得のいく演奏ができたから充実感でいっぱい」
私はその視線を受け流し、楽屋のモニターに映し出された表彰式の準備を眺めた。
やがて、重苦しい静寂を破るように、結果が発表された。
一位、該当者なし。
二位、三位……。名前が呼ばれるたびに、私の鼓動は逆に静まり返っていく。
「──特別賞、豊川ハル」
司会者の声が、スピーカー越しに冷たく響いた。
ホールの空気が、困惑に揺れるのが手に取るように分かった。技術的には圧倒的、けれど音楽としての「生命」に欠け、ただ凄惨な美しさだけを撒き散らした異形の演奏。伝統を重んじる審査員たちが、評価を下しきれずにひねり出した、妥協の産物。
「へぇー特別賞……」
その言葉が私の口から小さくこぼれた。私は自分の名前が刻まれたその称号を、まるで他人の忘れ物のようにぼんやりと咀嚼した。
「ハルちゃん……」
初華ちゃんが心配そうに私を覗き込む。その瞳に映る私は、きっとひどく無機質な顔をしているのだろう。
「ねえ、初華ちゃん。私、コンクールで『特別賞』なんて頂いたのは、これが初めて」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
これまで私は、豊川の名に恥じぬよう、常に「金賞」か「一位」という、誰の目にも明らかな正解だけを積み上げてきた。しかし、今日のこの歪な評価こそが、私が初めて自らの意志で掴み取った、初めての「個」の証明のように感じられた。
「ハルちゃん、あの演奏……どこで覚えたの? 祥ちゃんに似ているけれど、あれはもっと、ずっと……」
「さぁ、なんでだろうね……ねえ、初華ちゃん」
彼女の追及を遮るように、私は椅子から立ち上がった。ドレスの群青が影を引いて床を滑る。
「姉様は私の音を『確かめてきて』と言ったのね」
「う、うん……」
「そう。だったら、そのまま伝えて」
私は飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱へ落とした。空っぽのアルミが立てる、乾いた音が楽屋に響く。
「『特別賞だった』と。……そして、私が今までで一番、静かな気持ちでこのステージを終えたことも」
「ハルちゃん!」
背後で初華が呼び止める。けれど、私は振り返らない。
彼女の動き、呼吸、そのすべてを自分の血肉へと注ぎ込んだこと。そんな種明かしをする必要はない。私の音を聴いた初華が「祥子にそっくりだった」と感じたのなら、それでいい。
これは私が初めて自らの意志で手に入れた、この歪んだ鏡が剥き出しの「個」の証明なのだから。