週二ペースで投稿していましたが諸事情の為、週一に落ちそうです。
第十六話:もう一人の彼女
「本当に静かな部屋……」
睦の部屋を支配しているのは、都会の喧騒を完全に遮断し、まるで本人を表現したような静寂だった。
カーテンの隙間から差し込む月光が、おとぎ話が入った本棚やぬいぐるみを青白く浮き上がらせている。
私は睦の眠るベッドの傍にある椅子に深く腰掛け、マグカップから立ち上る湯気をぼんやりと見つめた。
膝の上には、睦のカバンから零れ落ちていた、AveMujicaの新曲の譜面を広げていた。
「これが姉様の思い描く世界」
それは一つ一つの音が、神話の断片を繋ぎ合わせる様に配置されている。
気が付くと、空いていた左手が無意識に膝の上でトントンと、正確なリズムを刻んでいた。
頭の中で鳴り響く、仮想のオーケストレーション。睦がギターを奏でる際に刻むであろう、内省的な拍動。私の指先は、吸い寄せられるように譜面に記された歪なコード進行をなぞっていく。
ふと、視線を横に向ける。
ベッドの上では、睦が深い眠りに落ちていた。小さく規則正しい寝息を立てており、その寝顔は武道館で仮面を剥ぎ取られた時の絶望とは無縁でただ疲れ果てた一人の少女の姿。
眠る睦の傍らに寄り、その白く細い指先にそっと触れた。
「姉様を支えて、なんて、今の貴女には言えないね」
彼女を刺激しないよう、リビングに戻ろうとそっと立ち上がり、ドアに手をかけた瞬間。
「待って、ハルちゃん」
背中に落ちてきた声は、眠りの底から無理に引き上げられたみたいに低く、ひどく掠れていた。
「あ、ごめん……起こしちゃった?」
ベッドの上の睦は目元を擦りながら、体を起こしていた。
「ううん。睦ちゃんは、まだ眠っているよ」
言葉のどこか噛み合わない。それは「寝ぼけている」のとは違う。もっとはっきりとした、根源的な違和感があった。
「何を言ってるの、睦?」
問いかけると睦はゆっくりと首を横に振った。その動きは普段の彼女のものではなく、まるで別の何かがその体を動かしているような、ぎこちなくも丁寧な所作。
「私は睦ちゃんじゃない。私は……モーティス」
彼女が手探りで点けたスタンドライトの淡い光は、さっきまでと何一つ変わらないはずなのに。睦――いや、“モーティス”を名乗った影だけが、他の影とは異なる方向へ伸びているように見えた。
「モーティス?」
その名前を口にした瞬間、喉の奥がわずかに凍りつく。
同時に深海に引きずり込まれたかのように、肺の奥がひどく冷たくなり、圧迫された。
(また、これ。治ったはずなのに……)
ドクン、と心臓がひどく歪な拍動を刻み始めた。私は右手を胸に当て、薄いブラウス越しに暴れる心臓を必死に宥めようとした。
「ゆっくり、呼吸を……」
自分に言い聞かせ、肺の奥に溜まった冷たい空気を吐き出し、ゆっくりと新しい酸素を吸い込む。
一度、二度。服の上からネックレスを強く握りしめ、痛みが退くのをじっと待った。
「ハルちゃん、苦しいの?」
ベッドの上に座る彼女が、首を傾げた。その仕草は睦のものだ。けれど、何かが違う。
「大丈夫……少し、驚いただけよ」
ようやく整い始めた呼吸を震わせながら、私は言葉を絞り出した。
「モーティス。今の貴女はそう呼べばいいのね」
私は椅子に座り直し、指先で自分の心音をなだめながら、彼女を見据えた。
「うん。睦ちゃんがそう呼ぶからね」
彼女は、ベッドから音もなく降りると、私が胸を押さえていた右手に、自分の手をそっと重ねる。
十数年前。まだ私たちが幼かった頃、豊川の屋敷の片隅にある花壇で、二人でしゃがみ込んでいた時のこと。
今と同じ、不意に襲ってきた痛みに、幼い私は呼吸の仕方を忘れ、冷たい地面に崩れ落ちそうになった。その時、睦は何も言わず、ただ無表情で私の胸の上にそっと手を重ねた。
今のモーティスと、全く同じ角度で。全く同じ、温度のない手で。
それなのに、今の私の肌を撫でているのは、言いようのない「恐怖」だった。
「そんな怖い顔をしないでよ、ハルちゃん」
ライトに照らされた睦の顔を見つめる。その眼差しは、あの日の花壇にいた幼い少女と同じだった。
(あの時から、ずっと、貴女の中にいたの……?)
「姉様は、貴女がそこにいることを知っているの?」
椅子の肘掛けを強く握りしめ、声の震えを誤魔化す。モーティスは、無垢な笑みを浮かべて首を横に振った。
「ううん。ハルちゃんも秘密にしてね」
彼女は重ねていた手を離すと、再びベッドの縁に腰掛けた。
「ハルちゃんとこうしてお話しするのも久しぶりだね」
「久しぶり?一体いつの事を……」
「サンドイッチ、美味しかったんでしょう?」
モーティスの口から零れた言葉に、心臓が再び跳ねた。今度は痛みではなく、得体の知れない悪寒が背筋を駆け抜ける。
「何を……」
「あの大きな建物。ハルちゃんが一人で、悲しそうな顔をして座っていた」
あの日――あの華やかで空虚なパーティーの片隅で、無理やり私にサンドイッチを食べさせようとした、ぶっきらぼうな彼女なりの気遣い。
「そんなまさか……じゃあ、あの時の睦は貴女だったの?」
「うん。睦ちゃん、途中で眠っちゃったからね。あとは、ハルちゃんのお屋敷にノートを持っていったのも、私」
「ノート? もしかして、あの『春日影』の譜面が書かれたノートのこと……!?」
「そうだよ。祥子ちゃん。あのノート睦ちゃんに預けてから全然取りに来てくれなかったから」
モーティスは、まるで借りていた本を返しただけのような、あまりに軽い口調で言った。
「姉様に渡された?」
「うん。でも、祥子ちゃんにとってはもう『いらないもの』だったんだよ。忘れられないから、睦ちゃんに預けただけ。だから、私が祥子ちゃんの妹のハルちゃんにあげたの」
彼女はベッドの上で、膝を抱えて首を傾げる。その動作の一つひとつが、睦の皮を被った別の生き物のように見えた。
「……いつからなの?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、地這うような響きを帯びていた。
「睦の……その体の中に貴女がいるのは。いつから、そんなふうに彼女のふりをして笑っていたの?」
「元々、睦ちゃんなんていないんだよ。私たちは様々な人格を、必要に応じて身に纏っていたんだよ。この業界で、この家の娘として息をするためにね」
「じゃあ、他にもあなた以外の人格が、睦の中にいたっていうこと?」
問いかけると、モーティスは小さく首を横に振った。その視線は、部屋の隅に立てかけられたギターに注がれていた。
「ハルちゃんは、睦ちゃんが昔からお喋りが苦手って知っているよね?」
「ええ……知っている。初めて姉様の部屋で会った時も、彼女は何も話さなかった」
音に誘われるみたいに扉を開けたとき、そこにいた睦は、視線を伏せたまま、小さく呼吸をしていた。まるで、自分の存在を音の陰に隠すみたいに。
声をかけたその瞬間でさえ。指先が、ほんの僅かに震えただけで言葉は、最後まで形にならなかった。
社交性とは、最も遠い場所にいた少女。でも、その不器用で、剥き出しの静寂こそが、若葉睦という人間の本当の輪郭だった。
「睦ちゃんは何も言わなかったけど、本当はね。ハルちゃんのヴァイオリン。大好きだったんだよ」
モーティスの指先が、空中でヴァイオリンを弾くような仕草を見せる。
「ハルちゃんの音はね、自分の心にあるものを、そのまま弦に乗せている。不器用だけど……嘘がなくて、すごく綺麗。睦ちゃんは、そんなふうに自分を剥き出しにして演奏できるハルちゃんのことが、ずっと羨ましかった」
彼女はベッドからしなやかな動作で降りると、まるで踊るような足取りで私の周囲を回った。そして、唐突に足を止め、私の顔を覗き込むと──
「ねえ、ハルちゃん。私、ハルちゃんの音が聴きたいな。今、ここで弾いて?」
子供が玩具をねだるような無邪気さで、モーティスは私の袖を引いた。
「何を言っているの。私は今、ヴァイオリンなんて持っていない。それに、もう夜も遅いでしょう。こんな時間に演奏したら近所迷惑になるし……」
当然の正論を口にして断るが、彼女は納得しなかった。
「やだ。聴きたい。ハルちゃんの音が聴きたいー!」
モーティスは私の袖を掴んだまま、ぐいぐいと子供のように手を引っ張る。その表情は、普段の睦からは想像もつかないほど感情を剥き出しにしており、まるで駄々をこねる幼児そのものだった。
「モーティス、離して。駄目なものは駄目」
「持ってないなら、睦ちゃんのギターでいいよ。ほら、そこにあるから。ねえ、弾いてよ、ハルちゃん!」
「私がギターを弾けるわけないでしょう!?」
思わず声を荒らげると、モーティスはピタリと動きを止めた。
「ハルちゃんのケチ……」
掴まれていた袖が、不意に軽くなる。
モーティスは拗ねたように唇を尖らせると、そのまま這うような動作でベッドへと戻り、背中を向けてケットを頭から被ってしまった。
「モーティス……?」
ケットの塊に向かって声をかけたが返事はない。
終わったのだろうか。彼女の突発的な「子供の我が儘」は。
安度とも落胆ともつかない息を吐き出し、今度こそリビングに向かおうと踵を返した、その時だった。
「あ、そうだ。ハルちゃん。良いところに案内してあげる」
何かを思い出したかのように、モーティスが勢いよくベッドから飛び降りてきた。
彼女は私の腕を強い力で掴むと、引き留める間もなく、引きずられるようにして部屋を出て、廊下を進んでいく。
たどり着いたのは、一階の廊下の突き当たりにある、重厚な一枚扉の前だった。モーティスは迷いなくその扉を開け放つ。
扉の向こうに広がっていたのは、本格的なレコーディングスタジオのような一室だった。
見える範囲の部屋の隅には、ドラムセットと鍵盤を閉ざしたグランドピアノが静かに鎮座している。
「ほら、ここなら防音だから。誰も怒らないよ」
階段を一段ずつ降りると、死角になっていた場所の小さな椅子の上にそれは佇んでいた。窓から差し込む青白い月明かりに照らされて、静かに。
「ヴァイオリン?」
そこにあったのは、美しく磨き上げられた一挺のヴァイオリンだった。
「聴かせてくれるまで、寝かせてあげない」
睦の顔で、睦ではない甘ったるい声で繰り返される執拗な催促。
「はぁ……わかったわ。一曲だけ。でも、どうしてここにヴァイオリンがあるの?」
「さぁ?撮影に使う物かも」
私は躊躇いながら、それを手に取った。弦は新しく張り替えられたばかりで、本体の木肌は微細な手垢ひとつなく磨き上げられている。まるでつい数時間前まで、誰かが愛おしそうに奏でていたかのように、完璧な手入れが行き届いていた。
「一曲だけね」
私は小さく溜息をつきながら、ヴァイオリンを左肩に乗せた。顎をあて、弓を持った右手をそっと持ち上げる。
目を閉じ、深く息を吸い込む。
(あの頃の曲──)
それはまだ、何にも縛られず、ただ純粋に音を紡ぐことが許されていた幼い日々。祥子が弾くピアノの旋律に、睦が覚えたてのギターでそっと寄り添い、そして私がヴァイオリンで色を添えた、名前もない小さな三重奏。
弦に弓を当て、そっと一歩を踏み出すように最初の一音を紡ぎ出した。
切なく、どこか懐かしい旋律に楽譜などいらなかった。指先が記憶の底に眠っていた音符を正確になぞり、あの日、三人で笑い合っていた時間の景色を目の前に描き出していく。
私のヴァイオリンに重ねるように、頭の中で祥子の鮮やかなピアノの音が響く。そして、その二つの音を優しく包み込むような、睦のあたたかいギターの残響。
誰も傷ついていなかった。誰も仮面なんて被っていなかった。ただ音楽が好きで、一緒にいるだけで満たされていた、あの幸福な楽園の記憶。
私はゆっくりと弓を降ろし、肩からヴァイオリンを離した。
胸の奥から込み上げる切なさに耐えるように、小さく息を吐き出す。
「これで満足、モーティス?」
問いかけながら振り返ると、返事はなかった。
スタジオの隅、小さな椅子の上で、モーティスはすとんと力を抜いたように眠りに落ちていた。
私はそっとヴァイオリンをケースに戻し、彼女の元へ歩み寄った。
「おやすみ、睦。それとも……モーティス」
彼女を起こさないように細心の注意を払いながら、その身体をそっと抱き起こす。驚くほど軽い身体を支え、私は一歩一歩、静まり返った階段を上って彼女の部屋へと戻った。
ベッドに睦を横たえ、ケットを掛け直す。
ふと見上げると、いつの間にか窓の外の月は厚い雨雲に完全に隠れ、部屋を照らしていた青白い光は失われていた。均整の取れた暗闇が、再び部屋を支配していく。
それを見た私は、胸に手を当てた。
私の心臓は、今はもう静かに規則正しいリズムを刻んでいる。
(さっきの出来事は……月明かりが見せた、一瞬の偽りだったのかもしれない)
でなければ、あんな怪物のような、痛々しいほど無垢な少女が、睦の中に棲みついているはずがない。あれは過労とストレスが見せた、自分自身の幻覚だったのではないか。
私は逃げ込むように傍らの椅子へと深く身体を沈めた。
手のひらに残る、あの木肌の冷たい感触だけが、どうしても幻覚だとは思えなかった。