重いカーテンに遮られた睦の家のリビングに一筋の光が差し込んできた。
私はソファーの上で体を縮めたまま、ゆっくりと瞼を持ち上げた。慣れない革の匂いと借りたケットの肌触りで、自分がどこにいるのかを思い出しながら、時計を見ると針は午前八時を回ったところだった。
「おはよう、ハル」
階段の方から、聞き慣れた静かな声がした。
顔を上げるとそこには昨夜に見たモーティスではなく、いつもの「睦」が立っていた。
「え、あぁ……おはよう、睦」
体を起こして、食卓を見てみると、お手伝いさんが用意してくれた二人分の朝食が並べられていた。
睦は私の正面に座り、小さく「いただきます」と呟いて手を合わせる。パンをちぎる仕草、スープを啜る音。すべてが、私の知る日常の睦だった。
「昨夜のこと、覚えているの?」
彼女は小さく首を横に振った。
「……ううん。気づいたら、ベッドの中で朝になっていた」
睦は視線を自分の手元へと落とし、白く細い指先をそっと握りしめた。
「覚えているのは……夕方、スタッフの人に腕を掴まれて、動けなくなっていたこと。それを、ハルが助けてくれたこと……だけ」
「そう、なのね……」
「……私のせいで、ハルにも……祥にも、迷惑をかけた」
睦がぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
「昔、私が倒れた時に睦が助けてくれたから、お互い様」
私は平静を装い、昨夜の「モーティス」の存在を心の奥底に押し込めた。睦が覚えていないのなら、今はそれでいい。安易に触れてしまえば、彼女を繋ぎ止めている細い日常が崩れてしまうような予感がした。
「睦。しばらく学校もAve Mujicaの練習も休んだ方がいいと思う」
私の言葉に、睦はパンを口に運ぼうとした手を止めて、首を横に振った。
「……休めない」
「どうして? 倒れてからでは遅い。姉様には私から話す。あの人だって、睦が動けなくなれば困るはず」
「ダメ……。もうすぐ、ライブツアーが始まる。私が休めば、祥に迷惑になる」
「それでも……」
「ムジカが壊れたら、祥も壊れる……祥にはもうムジカしかないから」
(どうして……睦)
説得しようと言葉を重ねるほど、睦はより深く殻に閉じこもっていく。彼女を救いたいと願う私の言葉さえも、彼女にとっては「祥子の世界を壊そうとするノイズ」に過ぎないのかもしれない。
「わかった。無理に止めはしない。でも、せめて、何かあったら連絡をして」
私の譲歩に、睦は小さく頷いた。
その時、スマートフォンが短い振動を刻んだ。それは事務所からのメッセージだった。
『本日午前十一時より、都内スタジオにて雑誌のタイアップ撮影を行います。共演されるアーティストの方が先に現場に入られますので、遅れぬようお越しください』
「……ハル?」
私の顔色が変わったのを察したのか、睦がスープのカップを置いた。
「仕事の連絡。昨日、事務所と契約を結んだの。……姉様と同じ世界に、私も行くことにした」
「ハル、辞めて。今なら、まだ間に合う。お願いだから」
睦がテーブルを掴むようにして身を乗り出し、喉の奥から絞り出すような声を上げた。
「睦。姉様は私の音を『空っぽ』だと言った。私はその答えを見つけようとしている」
「違う……。二人のためにならない……ハルまであっち側に行ったら、もう戻れなくなる。祥も……ハルのことを、巻き込みたくないはず。祥にとって、ハルは……」
睦は言葉を飲み込んだ。その先にある真実を言うことを、目に見えない何かに禁じられているかのように。
「それじゃあ、私は家に帰る。今日は一日ゆっくり休んで」
「……ハル!」
背後から、私を引き留めるような睦の悲痛な声が響く。だが、振り返らなかった。
「睦。時間はもう、進んでいる」
ドアノブに手をかけたまま、低い声で彼女に告げた。
「私はもう、望まれた音を、望まれたままに演奏するだけの人形じゃない。それ以上の音を弾かないと、あの人は二度と振り向いてくれないから」
睦の家を後にした私は、一度屋敷に帰って身なりを整えてから、指定されたビルへと向かった。
十一時少し前。ガラス張りのオフィスの一角で、今日から私のマネジメントを担当するという若い女性のマネージャーと短い顔合わせを済ませた。
彼女は事務的な笑みを浮かべ、私のプロフィールが書かれた書類に目を落としながら「よろしくお願いしますね、ハルさん」とだけ言った。
「早速ですが、スタジオへ向かいましょう。今日の対談相手のアーティストも、もう入られています」
彼女に促されるまま、廊下を歩き、防音扉の向こうにある撮影スタジオへと足を踏み入れた。
剥き出しの機材と強烈なレフ板の白光が支配する空間。その中央、深紅のベロアが敷かれたセットの上に「彼女」はいた。
街頭ビジョンや雑誌で飽きる程見た衣装を身に纏った姉の姿が。
「……ハル?」
彼女が私に気づき、涼やかな双眸を見開いた。
スタッフが「豊川ハルさんですね。本日の対談相手です」と紹介した瞬間、祥子の顔から一切の感情が消え失せ、氷のような無機質さがその素顔を覆った。
「……失礼、少し席を外しますわ」
祥子は短く告げると、私の腕を強引に掴み、スタジオの隅にある機材の影へと引きずり込んだ。
周囲から見れば、仲の良い姉妹の密談に見えたかもしれない。けれど、私の腕に食い込む彼女の指先は、震えていた。
「どういうつもりですの。何故、貴女がここに……」
「仕事ですよ姉様。昨日、事務所と契約を交わした」
「契約……? 何を言っていますの、ハル」
祥子は吐き捨てるように言い、私の肩を掴んだ。
「あの夜、姉様は言ったじゃない。『貴女自身の意志で選び、進むべき道』を見つけなさいって……」
「そ、それは……だからと言って、わたくしの背中を追って来なくても……!」
祥子の声が機材の影で低く鋭く響く。その瞳には、私への怒り以上に、何か巨大な恐怖に追い詰められているような焦燥が滲んでいた。
「追ってないよ、姉様」
私は掴まれた祥子の手をゆっくりと、しかし確実に払いのけた。
「私は私自身の意志で、豊川ハルとしての表現を始めにきた。これは姉様を追いかけるためではなく、私自身の戦い」
「……っ」
祥子は息を呑み、何かを言いかけようとしたが、スタジオの奥から「お二方、セッティング完了しました!」というスタッフの能天気な声が響き、言葉は虚空へと消えた。
その瞬間、祥子の顔から「姉」としての動揺が完全に霧散した。彼女は乱れた衣装の肩を整え、一呼吸で完璧な『オブリビオニス』へと回帰していく。私を一瞥もせず、彼女は冷徹な声で囁いた。
「分かりました。いいですかハル。ここから先は『仕事』です。わたくしが何を言おうと、何をしようと、貴女はそれに合わせなさい」
「ええ、もちろん。オブリビオニス様」
その背中を追い、眩いスポットライトの中へと足を踏み入れた。
深紅のソファに背中合わせに座る私たち。
祥子は、その涼やかな美貌に憂いを帯びた笑みを浮かべ、カメラの向こう側にある「大衆」を魅了する虚像を完璧に演じている。
「それでは、インタビューの方も進めさせていただきますね」
ライターの女性が、手元のタブレットに視線を落としながら問いかけた。
「今回のタイアップは『血縁と宿命』がテーマです。祥子さん、貴女には同じく音楽の道を志す妹のハルさんがいらっしゃいますが、やはり、お互いの存在は刺激になりますか?」
祥子はふっと優雅に唇の端を上げた。けれど、その瞳には光の一片も宿っていない。
「妹? 何のお話ですの」
ライターが「えっ」と声を詰まらせる。スタジオの空気が一瞬で凍りついた。
「わたくしは人形。血の通った家族も……わたくしに、妹など存在しませんわ」
淀みのない、完成された「台詞」。
(……あぁ、そういうことね)
一瞬、足元の床が抜け落ちるような感覚に襲われたが、次の瞬間には私の内側にある「歪んだ鏡」が、その冷酷な拒絶を完璧に理解し、受理していた。
これはAve Mujicaの『オブリビオニス』という完璧な偶像を維持するための芝居なのだと。
ライターの困惑した視線が、私へと向けられる。
「え、ええと、ハルさんは……」
膝の上で握りしめていた拳を解いた。そして、隣に座る姉に、この上なく穏やかな微笑みを向けた。
「そうですね。私個人としては、同じ音楽の世界に身を置く者として、Ave Mujicaという存在には常に圧倒されると同時に、深く尊敬してます」
私は戸惑うライターの視線を優しく受け止め、一点の曇りもない微笑みを浮かべた。
「あの方々の音楽は、私のようなクラシックの狭い世界で生きてきた人間にとって、全く新しい、けれど完璧な美しさを持ったひとつの理想郷とでも言った方がいいかもしれませんね」
感情を排した、しかし情熱を孕んだ声音で、私は語り続けた。
「特に、中心にいらっしゃるオブリビオニス様の表現力。この方の紡ぐ世界に触れるたび、己の未熟さを痛感すると同時に、強く焦がれてしまう。……私もいつか、あのような圧倒的な世界を創り出せる表現者になりたい。そう、心から思います」
それは嘘偽りのない、私の本心。そして、この「仕事」において私が演じるべき、完璧な後輩としての役割。
私の完璧な返答を受け、スタジオの張り詰めた空気がわずかに緩む。ライターの女性もホッとしたように、再び祥子へと視線を戻した。
「なるほど、素晴らしいリスペクトですね。祥子さん――いえ、オブリビオニスさん。今のお言葉を受けて、いかがですか?」
祥子は微動だにせず、深紅のソファの背もたれに身を預けたまま、形の良い唇を僅かに動かした。
「光栄ですわ。クラシックという歴史ある世界に身を置く方にそう言っていただけるのなら、わたくしたちの創り出す世界にも、それなりの価値があるということなのでしょう」
それは、先ほどの痛烈な拒絶を覆い隠すための、あまりにも差し障りのない、事務的なコメント。賞賛するでもなく、かと言ってこれ以上の波風を立てるでもない、完璧な大人の対応。
「お互いに異なるアプローチで美を追求するお二人、今後のご活躍がますます楽しみになりますね」
ライターがペンを走らせる。
カメラのフラッシュが、再び激しく焚かれる。私は隣に座る彼女に憧れと敬愛に満ちた眼差しを向ける。
「いいですね、惹かれ合うような緊張感があります」
カメラマンが興奮気味に身を乗り出す。
「もう少し……こう、ドラマチックなインパクトが欲しい! 互いの運命を呪い、執着し合うような、破滅的な美しさが!」
大衆が求める残酷なドラマ。祥子が作り上げたこのマスカレードで、最も効果的な「画」は何か。頭の中で閃いた。
私は隣に座る彼女の細い腰を、迷いなく引き寄せた。
「っ……ハル!?」
彼女の驚愕を無視し、私はそのまま背後のベロアのソファへと引き倒した。
「ハル、貴女――!」
「合わせて、姉様。これが『仕事』でしょう?」
上に重なった祥子の体温が、衣装越しに伝わってくる。彼女の長い髪が、カーテンのように私の視界を遮った。
顔と顔の距離は、わずか数センチ。レンズの向こう側からスタッフたちの息を呑む音が聞こえたが、今の私には、目の前の「姉」の瞳しか見えなかった。
祥子の双眸が困惑により激しく揺れていた。けれど、彼女はプロだった。私の意図を察した彼女は、拒絶する代わりに、震える右手をそっと私の頬に添えた。
「……愚かな子」
台詞とも、本音ともつかない呟きが、唇の隙間から零れる。私はゆっくりと目を閉じた。彼女の指先にある冷たさを、救いのように受け入れる。
シャッター音が狂ったように連射され、真っ白なフラッシュの光が瞼の裏側に焼き付いた。
「はい、オッケーです! 素晴らしい、最高の一枚が撮れました!」
カメラマンの声がスタジオの魔法を解いた。
その瞬間、重なっていた私たちの身体が、示し合わせたように離れた。祥子は衣装の皺を一本たりとも許さない手つきで整えた。
「及第点ですわ、ハル」
祥子は乾いたタオルで首筋を拭いながら感情を排した声で言った。
「貴女が現場の空気を読み、要求された『役割』を瞬時に演じ切った。いつの間に身に着けたのかしら?」
スタッフたちが機材の片付けで遠ざかったのを見計らい、私はいつもの、妹としての柔らかな微笑みに戻った。
「これでも姉様の妹だからね。その場の空気の読み方も分かる。……でも、びっくりした。姉様に押し倒されるなんて、夢にも思わなかった」
「貴女が引き倒したのでしょう!」
祥子は一瞬、素の表情を見せて顔を赤らめたが、すぐにその表情を引き締め、私の顔をじっと見つめる。
「ハル。本当に後悔しませんわね?」
「うん、私の意志で選んだ道だから」
私の淡々とした言葉に、祥子は複雑そうな表情を浮かべて視線を逸らした。
彼女は近くのテーブルにあったミネラルウォーターを手に取り、喉を潤してから、再び冷徹な「オブリビオニス」としての顔で問いかけてきた。
「それで。睦は、どうしていますの?」
「憔悴していたけれど、今朝は少し落ち着いていた。……でも、彼女、相当無理をしている」
私の報告に、祥子の持つペットボトルが微かに軋んだ。
「ハル。貴女は貴女の、彼女は彼女の道がありますわ」
「それも分かっている。私はただ、姉様が壊したくないものを隣で見守っているだけ」
私はカバンを肩にかけ、スタジオの出口へと歩き出した。
「明日の練習、睦は行かせる。それが彼女の望みだから。……でも、姉様。鏡は、あまりに強い光を当てすぎると、いつか割れてしまうものよ」
最後に一度だけ振り返って微笑む。照明の逆光の中に立つ祥子の顔は、影になっていて、よく見えなかった。