撮影後のミーティングを終え、マネージャーの女性が手元のタブレットを閉じた。
今後のプロモーション展開や、クラシック界からの反発を想定したイメージ戦略など、提示された事務的な決定事項に、私はただ淡々と頷くだけだった。
「ではハルさん、本日のスケジュールは以上となります。お疲れ様でした」
重い衣装から私服のブラウスへと着替え、楽屋を出た。
レフ板の熱気と強烈なフラッシュを浴び続けた身体は、自覚している以上に疲弊しており、一刻も早く屋敷に帰って眠りたい。そんな考えばかりが頭を過っていた。
その時、耳元に微かな違和感を覚えた。手を伸ばすと撮影用のイヤリングを外し忘れたことに気づいた。
そのまま持ち帰るわけにもいかず、私は溜息を吐いて踵を返した。
イヤリングをポケットに放り込み、先ほどのスタジオへと続く廊下を引き返すと、前方から数人のスタッフに紛れて歩いてくる、小柄な人影が見えた。
(……え?)
その少女は黒に近い私服に身を包み、うつむき加減に歩いてきた。特徴的な、色素の薄い淡い緑色の髪。間違えるはずがなかった。
「睦……?」
声に出したつもりはなかった。けれど、その名前は私の唇から零れ落ちていた。
視線に気づいたのか、睦がゆっくりと顔を上げた。
「睦……どうしてここにいるの? 今日は休むって……」
周囲に聞こえないよう、声を潜めて 問いかける。だが、睦は私の言葉に反応するよりも先に、私をすり抜けるようにして一歩 踏み出した。
「祥の為だから……」
ボソリと、感情の起伏が一切ない声が返ってきた。
「まだ体調が万全じゃないでしょう? 姉様には私から話した。今は──」
「ハル。邪魔しないで」
その瞬間、私の喉は完全に凍りついた。
今まで睦から感じたことのない、肌を刺すような鋭い威圧感が、防音壁に囲まれた狭い回廊に満ちていく。
言葉を失った私の横を、睦は視線すら合わせずに通り過ぎようとした。その横顔は、今朝テーブルを挟んで怯えていた少女のものとは完全に異なっていた。
「待って、睦……!」
咄嗟に彼女の手首を掴もうとしたが、私の指先が彼女のブラウスの袖に触れるより早く、睦は微かな、しかし決定的な拒絶の身のこなしでそれをかわした。
彼女はスタッフたちに促されるまま、廊下の奥にある一室へと吸い込まれていった。
睦が中に入った瞬間、厚い木製の扉が閉まる。その扉の横にはプレートが掲げられていた。
『Ave Mujica様 控室』
(……それでも、あの状態の睦を放っておけるわけがない)
私は踵を返し、先ほど別れたばかりのマネージャーの元へと走った。彼女は廊下で、次の現場との調整なのか、神妙な顔で電話をかけているところだった。
「あの、すみません!」
「あ、ハルさん? どうかしましたか?」
電話を切ったマネージャーが、怪訝そうな顔で私を見る。
「今、睦…若葉さんが入られたと思うのですが……彼女は今日、何の番組に出演されるのですか?」
「え? ああ、彼女たちなら、この後スタジオでみなさんと一緒にこれからのライブツアーについて、インタビューですよ。それが何か?」
「見学に行ってもいいでしょうか。同じ事務所の先輩として、勉強させて……」
「ダメです」
マネージャーの声が一瞬で冷徹なビジネスのトーンへと切り替わった。彼女は私の行く手を遮るように一歩前に出る。
「貴女の気持ちは分かりますが、いくら身内であっても、事前の許可なしに新人がふらふらと近づいていい場所ではありません」
「ですが、私は……!」
睦のあの虚ろな目が脳裏に焼き付いて離れない。今にも崩れ落ちそうな彼女があのステージに立とうとしている。
私の必死な表情を見て、マネージャーは小さくため息を吐いた。そして、自分のトートバッグから、黒い大きめのマスクと、ハイブランドのサングラスを取り出し、私の手に押し付けた。
「……これを着けて下さい」
「え……?」
「負けました。スタジオの後方、関係者席の暗がりにいるだけなら。ただし、絶対に声をかけたり、目立つ真似はしないこと。あなたの名前が変な形で広まったら、これからの計画が全て白紙になりますからね」
手渡された黒いマスクの不気味な重みが手のひらに伝わってくる。
「ありがとうございます」
「分かったなら急いで、もうすぐ始まります」
マスクを耳にかけ、サングラスで自分の視界を遮った。
ガラス越しに見る世界のように、急に色を失った廊下を、私はスタジオへと向かって走り出した。
サングラスで色彩を奪われたスタジオの隅、関係者席の暗がりに私は身を潜めた。
強烈なライトが照らし出すセットの中央には、五人分の席が用意されており、そこに今、Ave Mujica全員が並んで座っていた。
「それではAve Mujicaの皆様、よろしくお願いします」
進行役のライターの声と共にカメラの赤いランプが点灯した。
インタビューは終始、祥子が主導権を握って進められた。
祥子は完璧で淀みのない洗練された言葉で、近日始まるライブツアーのコンセプトや世界観を語っていく。あの合間合間に、にゃむが言葉を挟み、他メンバーはその補間をしていった。一方、睦はただ俯きながら、時折祥子の顔を伺っていた。
「このライブツアーでいかに、観客をAve Mujicaの世界に引き込めるかが鍵になりそうですね」
ライターの女性が感嘆の声を漏らし、手元の資料に目を落とした。
「ここで、睦さんにもお伺いしたいのですが。ファンの皆さんが最も期待している演奏について、今回のライブツアーでは、どのような演奏をファンの皆さんに届けたいですか? 意気込みをお聞かせください」
スタジオの空気が、一瞬だけ止まったように感じられた。
祥子がわずかに眉をひそめる。睦が今、どれほど精神的に追い詰められているか、誰よりも理解しているのは彼女のはず。彼女が助け船を出そうと唇を開きかけた。
「それは、わたくしたちが――」
「望まれた音を……」
遮るようにして響いたのは低く、しかし驚くほど明瞭な、睦の声だった。
祥子が言葉を失い、目を見開いて隣を見る。カメラのレンズが一斉に、微かに首を持ち上げた睦の顔へとズームしていく。
「……望まれた以上の演奏する」
その言葉は、今朝、睦の家を出る時に私が彼女に向かって言い放った言葉そのものだった。
「『望まれた音を、望まれた以上の演奏する』……! 徹底した世界観の構築、そして観客の期待を一切裏切らないという、モーティスさんの強い覚悟を感じます」
ライターは深く感銘を受けたように声をあげた。
その隣で、祥子の口元が一瞬だけ、安堵したように緩んだのを私は見逃さなかった。
それは私に対する当てつけなのか。それとも、祥子が構築した世界を守るため言葉が思い付かなかったのか。そんなことは、今の私にはどうでもよかった。
サングラスの奥で、私はただ冷ややかにその光景を見つめていた。
「――以上、Ave Mujicaの皆さんでした。ありがとうございました!」
ライターの張りのある声が響き、スタジオを支配していた眩い白光が落とされる。カメラの赤いランプが一斉に消灯すると同時に、私は張り詰めていた息を大きく吐き出した。
サングラスの向こうで、メンバーたちが一斉に席を立つのが見える。睦は首をうつむかせたまま、祥子の後ろを一歩遅れて歩き出していた。
私は彼女たちの視界に入らないよう静かに、しかし迅速に関係者席の暗がりを抜け出した。
「あ、ハルさん。終わりましたか。すみませんがイヤリングを知りませんか?衣装係の者が探していまして……」
廊下の向こうから歩いてきたマネージャーに、私は無言でイヤリングを差し出した。
「すみません、返し忘れていました」
「これです。これ……それで、見学はどうでしたか?」
彼女はイヤリングを受け取りながら、視線を私に投げかける。私はサングラスとマスクを外しながら頷いた。
「とても、勉強になりました。プロとしての、圧倒的な覚悟を見せられた気がします」
「そうですか。いずれハルさんもあの高みへ行きますからね。今日は色々と慣れない事があって、お疲れでしょう。私の車でよければ送りますが?」
「いえ、大丈夫です。少し寄りたい所もあるので、自分の足で帰ります。お疲れ様でした」
マネージャーと別れ、私は出口へと向かうために廊下を歩き出した。だがその時、前方の角から、Ave Mujicaの衣装から私服姿に戻った祥子と、その後ろを歩く睦の姿が現れた。
すれ違う、その瞬間。
二人の視線は、確かに私を捉えていた。しかし、祥子は氷のように冷ややかな一瞥をくれただけで、そのまま素通りしようとした。睦もまた、私の存在など初めから視界に入っていないかのように、虚ろな目を床に落としたまま通り過ぎていく。
スタジオで私の言葉を盗み、それを「モーティスとしての覚悟」に昇華させてみせたあの少女が、今はまた、何も考えていないかのような顔をして祥子の後ろを歩いている。
気づいた時には、身体が動いていた。
「っ……!」
私は通り過ぎる睦の細い腕を、背後から強く掴み取った。
「ハル!? 貴女、何を――」
祥子が驚愕の声をあげて振り返り、制止の声をあげるがそれを無視し、睦の腕を引いたまま、すぐ横にある『Ave Mujica控室』の重い木製の扉を蹴るようにして開けた。
「話があるの。二人だけで」
睦を室内に引き込み、祥子が中に入ってくるより早く、内側から重い扉を大きな音を立てて閉めて鍵を回した。
ガチャン、と虚しい金属音が静まり返った楽屋に響く。
外から祥子が扉を叩き、「開けなさい、ハル!」と鋭く叫ぶ声が聞こえたが、防音性の高い壁の向こうで、その声はすぐに遠い残響へと変わっていった。
広い楽屋には、私と睦の二人だけ。
睦は腕を掴まれたまま、抵抗する風でもなく、ただじっと私を見上げていた。その瞳には恐怖も怒りも、何の感情も宿っていなかった。
「昨日は体調のことを考えて、何も聞かなかったけど、今日は聞かせてもらうよ。どうしてAve Mujicaの事や姉様の事を話してくれなかったの?」
睦はしばらく沈黙を守っていた。やがて、カサカサに乾いた唇が、ゆっくりと機械的に動き出す。
「……祥に、なにも言わないでって、言われたから」
「それは姉様のため?」
睦はゆっくりと、深く頷いた。その表情には、一点の疑いもなかった。
「姉様のため……。睦、貴女はいつもそうね」
私は掴んでいた彼女の細い腕を、突き放すようにして離した。
睦はバランスを崩すこともなく、ただ操り人形のように、その場に静かに佇んでいる。
「祥には……ムジカしかないから……」
突き放された腕をそのままに、睦は消え入りそうな声で、けれど確かな断定を込めて言葉を紡いだ。
「祥からムジカまで奪われたら……祥からは本当になにもかもなくなる。だから、ハルは関わらないで。これ以上、祥の世界に入ってこないで……」
「ふーん。そのAve Mujicaが『長くは続かない』って、この前のインタビューで言ったのは誰?」
私は一歩、睦に詰め寄った。
「壊したくないと言いながら、解散を予告するようなことを言って……。貴女の言葉は、全部矛盾している」
睦はそれ以上口を開かなかった。ただ、貝のように唇を噤み、私の視線から逃れるように視線を床へと落とす。
「それにさっきから話を聞けば、祥、祥……。あの人のことばかり、本当に……あの人の『操り人形』ね。貴女には、自分の意志というものがないの?」
かつて、バイオリンの弓を握らされ、意思のない人形のように奏でていた頃の私が、目の前の睦に重なって見えた。だからこそ、許せなかった。
「私は……壊したくないだけ」
「今の睦からそんな言葉を聞いても、説得力を感じない。ただの言い訳にしか聞こえない」
睦はなおも、床に落とした視線を頑なに上げようとはしなかった。ただ、きつく結ばれた唇が微かに震えている。
「安心して。私は姉様たちの邪魔なんてしないから」
もう、これ以上この少女と問答を続けたところで、何の意味もない。私が扉の鍵へと手を伸ばそうとした、その時だった。
「……違う」
睦の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
それは先ほどまでの、感情を失った機械のようなトーンではなかった。どこか痛々しいほどに人間味を帯びた、震える響き。
足を止め、振り返らずに横目で彼女の様子を伺った。
睦はゆっくりと、自分の細い両手を胸の辺りへと持っていき、布地をきゅっと握りしめた。まるで、自らの胸を、そしてまるで私の『胸の奥』を指し示すかのように。
「私は……祥とハルが、傷つけ合うのを見たくないだけ……それに、ハルのその身体は……もう……」
「余計なお世話よ、睦」
私はゆっくりと身体を反転させ、初めて彼女のその 剥き出しの瞳を 正面から見据えた。
「祥も、ハルも……二人とも、私にとっては大切な、特別だから。……だから、ハルには何も知らずに、ただ、バイオリンだけを弾いていてほしかった……」
睦の大きな瞳の奥に、じわりと、けれど隠しようのない 切実な光が揺れていた。
「ハルがこれ以上、祥の『今』を知ってしまったら……二人は絶対に、元には戻れなくなる。それは、壊れるよりも……ずっと苦しいことだから」
私は奥歯を噛み締め、声を震わせた。
「何も知らないまま、綺麗な世界で守られることが、私にとっての幸せだとでも思った? 私を……あの人と血を分けた私を、そこまで愚かで弱い人間に見立てていたなんて。本当に、心底不愉快、睦」
私は鼻で笑い、彼女に背を向けたまま楽屋の重いドアノブに手をかけ、鍵を解錠した。カチャリ、と金属音が響き、再び外の世界との境界が開く。
「……ハルは、変わった」
背後からぽつりと、どこか諦めを孕んだ睦の声が聞こえた。
「ええ、確かに変わった。あの人が私の枷を壊したから」
私は振り返らずにそう告げると、楽屋を出た。廊下には、壁に背中を預けて立つ祥子の姿があった。彼女は開いた扉から出てきた私を射殺さんばかりの鋭い視線で睨みつける。
「ハル…… 睦に何を――」
「何もしていませんよ、姉様」
私は冷ややかな笑みをその仮面に張り付け、姉の肩をわざと擦るようにして通り過ぎた。
「ただの先輩への激励です。……次回のライブツアー頑張ってください」
背後で祥子が忌々しげに息を呑む気配がした。
彼女が私を追いかけてくることはない。彼女が真っ先に向かうべき場所は、楽屋の中で、今にも崩れ落ちそうに立ち尽くしている、彼女の愛しいお人形の元なのだから。
そう。実の妹ではなく、幼馴染の元へ──